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「ブス」の自信の持ち方 山崎ナオコーラ

第19回

新聞様(3) カテゴライズ

2018.10.15更新

読了時間

現代は多様性の時代と言われます。しかし社会には、まだまだ画一的な一面が強くあるのではないでしょうか。この連載で取り上げるのは「ブス」。みなさんはこの言葉から何を感じますか? 山崎ナオコーラさんと一緒に、「ブス」をとりまく様々なモノゴトを考えていきます。
「目次」はこちら

 先日、カレー屋さんでテイクアウトの注文をして、ナンを焼いたりカレーをかき混ぜたりしてくれるのを見ながら家族でできあがりを待っていた。すると、2歳の子どもが、
「お兄さんがパンを作っているね」
 と言った。
「そうだねえ」
 2歳児向けにナンの説明をするのは難しく感じられて適当に返事しつつ、「お兄さん」という呼び方に内心ハッとした。たぶん、私はそう呼ばない。それで、自分も毒されているな、と気がついた。直接に呼びかけるときは、「すみません」「お店の方」といった遠回しの言い方をして、その人がいない場所で他の誰かに向かってこのカレー屋さんについてお喋りしたり説明したりするとしたら、「ネパール人の方」と言うだろう。国をまったく意識せずにカレー屋さんを表現することはまずない。
 語彙が少ないせいだが、2歳の子どもは人を表現するときに、「ネパール人」だとか、「外国人」だとかは一切使わない。もう少し年齢が上がったら、逆にそういうところを気にし始めたり、無遠慮なことを大声で言ったりして困ることも出てくるのかもしれないが、2歳だと、国の違いや顔立ちの違いはまったく気にならないみたいだ。

 少し前、旅館で夕食をとったとき、70代くらいの方が給仕してくれた。2歳の子どもは、
「お姉さんがお水を持ってきてくれたー」
 と言った。間違ってはいないし、おばあさんと呼ぶよりは失礼でないかもしれない。
 普段も、2歳の子どもは、3歳の子のこともお姉さんと呼び、スーパーのレジなどで会う50代、60代の人のこともお姉さんと呼ぶ。お姉さんは、3歳から70代までと、かなり幅広い。
 それを夫と笑い合ったのだが、よく考えると、可笑しがる自分の感覚の方が、毒されていて変なのではないか。

 ほんの数ヶ月前までは、お兄さん、お姉さん、という性別の違いも知らなかったようで、女の子たちが水に足を浸して遊んでいるのを見て、
「お兄さんたち、川遊びしてる」
 と2歳の子どもは言っていた。
 その後、お兄さん、お姉さん、という呼び方の違いは、保育園で少しずつ習得したのだと思う。
 毒されるのも少しずつ始まっている。

 生き続けるうちに、その国における「他人の見方」が染み付いていく。

 私は、他人のことを話すとき、なんとなく、まず、国籍を気にして表現し、性別を気にして表現し、年齢を気にして表現してしまう。
「国やら性別やら年齢やら見た目やらで人を判断しないでひとりひとりを見ることはできないのだろうか?」といった内容のエッセイや小説を私は書いている。だが、それでも、よく知らない人に会ったときに、国も性別も年齢も見た目もまったく気にしないでその人を純粋に見るということはできない。
 だから、私が書きたいのは、決して「国やら性別やら年齢やら見た目やらで人を判断しないでひとりひとりを純粋に見よう」というスローガンではなくて、「どうして、カテゴライズを止められないのだろう」「国や性別や年齢や見た目から逃れられないのだとしたら、どうやって生きていこうか」という、人間の迷いなのだと思う。

 正直なところ、私は今、国や性別や年齢や見た目に関するえぐい表現を見たときに、若かったとき程には気分が悪くならない。「あー、こういう表現よくあるよね」「まあ、仕方ないかなあ」と、あまり心が乱されないまま、自分を保ってスルーしてしまうことも多い。
 でも、多くの人がそうだと思うのだが、17歳の頃は、潔癖だった。
 新聞で人が紹介されるときに必ず性別と年齢が添えられていることが気になって、「この社会はおかしい」と憤った。周りの人に、「なぜ、そうなのか?」と聞いてまわったこともある。
 被害者も加害者も偉業を成し遂げた人も、性別と年齢が書かれないことがない。
 性別と年齢がわかれば、その人を8割ぐらい表現できたかのような書きぶりだ。
 新聞がこれでは、社会はものすごく汚いものに違いない。どんなシーンでも、性別と年齢が問われてしまう。

 大人になるに従って鈍感になり、イライラしなくなってきたが、知識は増えて、「本来は、国も性別も年齢も書くべきではない」ということには確信を持った。ただ、「書くべきではないが、きれいごとだけで社会をまわすのは至難のわざだ」とも思うようになった。
 それでも、変なところでは立ち止まり、どうしてカテゴライズしないと社会をまわせないのかなあ? と考えるようにはしていきたいと思う。

 性別にはグラデーションがあって、はっきりと二つに分けることはできないはずだ。しかし、新聞に載るすべての人に性別がふられる。どちらの性かはっきりしない人もいるが、その場合はその旨が記事に書かれる。まるで性別を公表することが社会人の義務であるかのようだ。
 また、犯罪者のことは「男」「女」と書き、それ以外に人のことは「男性」「女性」と表現するのにも違和感がある。人をけなしたり尊重したりするために性別を利用しているようで、私は馴染めない。

 年齢に関しては、そこまでピリピリしている人はいないかもしれない。とはいえ、「できたら公にしたくない」「年齢で接し方を変えられるのが好きじゃない」という人は結構いるだろう。だが、新聞には必ず書かれる。以前、旅先で喫茶店に入ったところ、店主とその奥さんが新聞取材を受けたときの記事が誇らしげに店先に飾ってあった。ただ、奥さんの名前の後にあるカッコ内は修正ペンで白く塗りつぶされていた。きれいな人だったし、年を出したくなかったのかもしれない。でも、旦那さんの方のカッコの中には70歳ぐらいの年齢が書いてあったので、奥さんもその近辺だろうと推察はできた。まあ、これは微笑ましい話だが、とにかく、年齢はそんなに大事なものではないのに、公のシーンに出ると、なかなか省略できない。その人の年齢がどうしても知りたい、という読者はそんなにいないと思うので、おかしなことだ。

 そして、「○○人」「外国人」「同じ国の人」という表現も、なくすべきなのだと思う。
 現代では、複数のルーツを持つ人が増えてきており、「ルーツをひとつに絞って自分のアイデンティティを作る」という考え方は馴染まなくなってきている。
 犯罪者の報道の際には、「どの国の法律を適用するか?」という問題として国籍を報道すべきかもしれない。
 だが、国籍を報道する必要などまったくない事柄なのに、国籍や、ルーツや、親がどこどこ系か、見た目が○○人か、といったことをなんとなく報道しているものもよく見かける。スポーツや芸術の場面で国籍を問題にする記事も見かけるが、本来、国を超えたところに価値を見出すのがスポーツや芸術ではなかったか。
 外国人力士が増えたことを嘆かわしく書いたりだとか、ノーベル文学賞を受賞したイギリス人を日本人として報道したがったりだとか、変なことがいっぱい起こる。
 下世話な媒体が面白おかしく書くなら仕方ないとも思えるが、新聞がそういうことをすると「そういう風に人を分ける社会を肯定している」と見えてしまう。若い人が絶望したり、毒されたりしてしまうだろう。

 つい先日も、グランドスラム初優勝を遂げたテニス選手の大坂なおみさんが、テニスに関する事柄ではなく、日本人のアイデンティティに関する事柄や、食べ物やファッションに関する事柄ばかりが日本の報道で取り上げられ、世間で大問題になった。

 大坂選手本人はそれほど気にしていないようだったが、私もやはり、「日本人としてどう思うか」といったことばかりを質問するのはテニス選手に対して失礼だと思う。大坂選手は、「私は私」と言っていて、深くは考えないようにしているらしかった。ファンだって、日本人だから応援するのではなく、大坂選手だから応援しているのではないか。もちろん、長いインタビューや、ざっくばらんな媒体でのインタビューでは、家族や国や食べ物やファッションの話を入れた方が面白くなるに決まっているが、そのためにテニスの話がおろそかになったら本末転倒なわけで、新聞などの報道や短いインタビューではテニスの理論や意識を聞く方が良いのではないか。
 こういった日本の報道の傾向に対して「まるでアイドルみたいな扱い」「アイドルへの質問と同じものが出ている」といった指摘をしている人がいたが、まさにそうだと思う。

 大坂選手の報道では、国籍や「○○人」と紹介することの是非だけでなく、「若い女性」の扱いについても考えさせられた。

 日本はアイドル大国で、どんな分野にせよ、有名になった「若い女性」のことは、アイドルと同じ扱いをして良いとする空気がある。

 大坂選手だけでなく、10代20代で偉業を成し遂げる人はたくさんいて、新聞も報道をする。その多くが、ちょっと変だ。
 スポーツ選手や芸術家や研究者などの仕事の紹介記事で、オフの日にはお化粧をして買い物に行く、髪型にはこだわりがある、といった話を引き出して文字数をスポーツや芸術の話よりも多く使い、最後に、「普段は、おしゃれに興味がある普通の二十一歳」といった具合に文章を締める記事をしょっちゅう見かける。
 あとは、「お母さんに憧れて」「お姉さんに憧れて」「家事や育児を支えてくれる夫のおかげで」……偉業を成し遂げられました、といった、家族への感謝をしつこく書く記事も多い。

 友人の作家が若い頃に受けた、とある新聞の著者インタビューは、「〜と言った○○さんのおだんごが揺れた。」と記事の文章が締められていたらしい。
 すごく変な記事ではないかもしれないが、私はやっぱり、「どうなんだろう?」と首を傾げてしまう。
 この引っかかる感じがわからない方は、スポーツ選手や作家のどなたかを想像し、男性の記事だと想定して考えてみて欲しい。その記事が「〜と言った○○さんの前髪が揺れた。」という文章で終わっていたとき、「あれ?なんでこんな風に文章を締めたんだろう?その競技(あるいは、作品や仕事内容)についての文章で締めた方が自然な気がするけどなあ」とは思わないだろうか。

 この連載では、「若い女性」に関することを書きがちになってしまっているが、他の層にも性別や年齢でラベリングされて困っている人がいるに違いない。
 すぐに「おじさん」とカテゴライズされて、おじさんとしての側面ばかり報道されて困る、という人も世の中にいると思うのだが、私がその方面に疎くてあまり取り上げることができておらず、申し訳ない。
 ハゲの人にハゲのエピソードばかりを求めるなど、ひどい空気は世間に溢れている。
 ただ、新聞に限っていえば、新聞に載る人は「おじさん」が圧倒的に多く、「おじさん」の多様性は認められているのではないか、という気もする。被害者にせよ政治家にせよ実業家にせよスポーツ選手にせよ芸術家にせよ、それぞれの事情や仕事内容をきちんと書いてあることが多く、「ステレオタイプなおじさん像」が求められているシーンは稀だ。
 仕事のインタビューの際に、家族やファッションの話を執拗に求められているのはあまり見かけない。仕事内容よりも見た目やファッションに文字数が割かれていることはほとんどない。「普段は、おしゃれに興味がある普通の四十八歳」と書いてあるのは見たことがない。

 いや、べつに、家族の話やファッションの話はNGだと言いたいわけではないのだ。四角四面な文章は面白くないし、インタビュー記事に人間味を求める読者が多いのは事実だ。家族だって、ファッションだって、社会を作る大事な要素だし、その人の仕事のどこかしらに関係する事柄かもしれない。だが、相手が「若い女性」という理由だけで、なんとなく家族やファッションの話を本来聞くべき事柄以上にクローズアップしてしまい、仕事に関する理論や意識を聞かずに済ませてしまっていることはないだろうか。

 ところで、私はTBSの「噂の!東京マガジン」という番組が大嫌いで、特に「平成の常識・やって!TRY」というコーナーは廃止し、これまでの出演者に謝罪すべきだと思っている。
 このコーナーでは、道端ではっている番組制作スタッフが通りすがりの「若い女性」に声をかけ、「天ぷら」など料理名だけをいきなり伝え、レシピを見せずに料理を作ってもらい、録画する。そして、それをスタジオで高齢男性が鑑賞し、「若い女性」たちの失敗する様を、「常識がない」「親のしつけがなっていない」と嘲笑する。
 おそらく、鑑賞者である高齢男性も料理は作れない。それなのに、どうして人の失敗を笑えるのか。自分は「性別が違う」「年齢が違う」ので、別の場所にいて良いと思っているのではないか。
「若い女性」を、自身の娘や孫と同じように、指導をしたり、笑ったりしてい良い存在だと捉えている。
 昔は、他人のことを、性別や年齢によって、ステレオタイプな家族像に合わせて認識することが主流だったのだろう。自分の家族と重ね合わせて他人を捉える。「若い女性」なら娘のように扱うのが不自然ではなかった。テレビのロケで、素人の方に出くわしたとき、子どもがいる人かどうかもわからないのに「お母さん」と呼びかけたり、独身っぽい人なのに「お父さん」と声をかけたりしていた。
 だが、現代の人間関係は多様化しており、家族の形も様々だ。「若い女性」も仕事をしていることが多く、娘扱いは馴染まない。むしろ、よく知らない「若い女性」のことは、取引先の仕事相手を想像しながら接した方が無難だろう。
 今の時代に、相手の性別や年齢によって態度を変えることは合わない。
 昔だったら、「若い女性」に贈り物をするときはケーキを、「年上の男性」に贈り物をするならお酒を、といった感覚があったが、今は、相手の性別や年齢によって贈り物の内容を変えるのではなく、誰にでも喜ばれるような無難な贈り物を渡す方が良い、性別や年齢によって相手のイメージを作るのは失礼である、といったことがマナー本に書いてある。

 新聞の話からちょっと離れてしまったが、「『若い女性』のインタビュー記事に、家族や食べ物やファッションの話が入っていると嬉しい」という人は、「娘のように、あるいは妻のように思えて安心できるから嬉しい」のではないか、と私は思ったのだ。
 区分けを良しとする人は、自分とは違うカテゴリーにいる人に対して常に恐怖を抱いているものだ。
 昔のアメリカの人種差別主義者も、いつ反逆されるかとびくびくして、差別をさらに強めていた。
「若い女性」を自分とは違う存在として捉える人は、「若い女性」を下に見ながらも、いつ反逆されるかと「若い女性」を怖がっている。
 自分の娘や妻と同じように扱って良い存在だと思うことができれば恐怖が薄らぐが、まったく違う存在として仕事の話を堂々されると怖くなってしまう。
 だから、「偉業を成し遂げていても、普段は普通の人だ」と捉えたいのではないか。家族や食べ物やファッションの話をされると、ホッとするのではないか。失敗を見ると、安心できるのではないか。
「ああ、自分がよく知っている人と似た、『普通の若い女性』だ」と思うのではないか。

 私は自分も毒されているので大きなことは言えない。
 ただ、「カテゴライズが止まらないのは、どうしてなんだろうなあ?」「新聞でさえも、カテゴリーなしで人を表現できないんだなあ?」というのは、考えていきたい。

「目次」はこちら

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著者

山崎ナオコーラ

1978年、福岡県生まれ。2004年、会社員をしながら執筆した『人のセックスを笑うな』(河出書房新社)で第41回文藝賞を受賞し、作家活動を始める。2017年、『美しい距離』(文藝春秋)で第23回島清恋愛文学賞受賞。小説に『ニキの屈辱』、『ネンレイズム/開かれた食器棚』(ともに河出書房新社)、『ボーイ ミーツ ガールの極端なもの』(イースト・プレス)、『偽姉妹』(中央公論新社)他多数。エッセイ集に『指先からソーダ』(河出文庫)、『かわいい夫』(夏葉社)、『母ではなくて、親になる』(河出書房新社)など。絵本に『かわいいおとうさん』(絵 ささめやゆき)(こぐま社)がある。モットーは、「フェミニンな男性を肯定したい」。目標は、「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」。

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