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多様性を「生きる」。違いを「楽しむ」。アフリカ人と結婚した文化人類学者が、いま考えること。 鈴木裕之

第7回

ハーフ・アンド・ハーフ

2019.01.07更新

読了時間

文化人類学者であり、国士館大学教授の鈴木裕之先生による新連載が始まります。20年間にわたりアフリカ人の妻と日本で暮らす鈴木先生の日常は、私たちにとって異文化そのものです。しかしこの連載は、いわゆる「国際結婚エッセイ」ではありません。生活を通してナマの異文化を体現してきた血の通った言葉で、現代の「多様性」について読み解いていきます。
「目次」はこちら

ハーフ談義

 「ことば」は大切だ。

 それは意味をのせる乗り物。正しく扱わないと沈没してしまう。

 「ことば」は危険だ。

 それは社会のなかで人の心に直結している。正しく扱わないと爆発してしまう。

 性格がずさんな私は、しばしばことばの取り扱い方に無頓着で、痛い目にあうことがある。

 以前、ある雑誌のエッセイで、「****に刃物」ということわざを不用意に使ってしまい、読者からお叱りのコメントを頂いたことがある。いわゆる、差別用語の問題である。もちろん、すぐに紙面上で陳謝したが、指摘されるまでその問題点に気づきもしなかったのである。

 「ダブル」ということばを聞いた時も、自分の娘が当事者だというのに、あまりピンとこなかった。

 「ハーフ」では「半分」になってしまうので、最近は「ふたつのルーツをもっている」という意味で「ダブル」という言い方が普及しているとのこと。

 でも、それでは「2倍」になってしまうではないか。

 受精の際には男女それぞれの染色体が半減し、それが結合してひとりの人間が誕生するのであるから、やはり「ハーフ・アンド・ハーフ」の方が生物学的にも数学的にも合っているのではないか、などと呑気なことを考えたのだが、こんなことを書くと、きっとまたどこかから「不謹慎だ」などとお叱りをうけるのだろう。

 ことは文化的・社会的問題であるから、理系的思考はそぐわないのかもしれない。

世界が広がる

 「あんた、何人なの?」

 最近、私が娘の友人にかける決まり文句である。

 前回、幼稚園卒業の頃の出来事を紹介したが、その後、娘はすくすくと元気に成長し、めでたく高校卒業となった。

 そのあいだ、とくに目立った問題もなかったようであるが、おもしろかったのは、小・中・高と進学し学校の規模が大きくなるごとに、彼女にとって居心地が良くなっていったことである。

 小学校は2クラス。80人ほどの狭い世界のなかで、けっして彼女は「イイ感じ」には見えなかった。縮れた髪の毛を整えるのが大変なので、髪型はそのまま放っておけるドレッドロックス。肌の色もまわりの子よりはちょっとだけ濃い。イジメられているわけではないが、つねに、どこか「はぶかれている」感が漂っているように私の眼には映った。

 中学校に入って、状況は一変する。5つに増えたクラスに違う小学校の出身者が入り乱れ、「多様性」度がちょっとだけアップする。外見が目立つ彼女は、まずイケテル系の先輩に髪型をイジられ、すぐに仲良くなる。クラスのなかでも「違う」ことが逆に磁力となり、友だちが増え、親友ができる。休み時間、運動会、部活動……いつのまにか、輪の中心にいることがおおくなった。勉強に関してだけは、周辺にとどまったが。

 そして高校。より広い範囲から、さまざまな人間が集まってくる。こうなると、もはや天国である。公立の某「総合高校」に通ったので、進学希望者と就職希望者が肩をならべるフランクな環境。あいかわらず勉強のカミ様とだけは仲良くなれなかったようだが、たくさんの友だちに囲まれ、ダンス部で踊りまくり、先生方による覚えもめでたく、まったくもって、のびのびと過ごしていた。

 ひどいイジメにあうハーフの子もおおいと聞くが、さいわいにもうちの娘はそうした被害にあわずに済んだようである。まずは一安心。

 そして高校を卒業して世界がいっきに広がった頃から、家に連れてくる友だちの「多様性」度がケタ違いにアップした。みんな、ハーフなのだ。

みんな違う

 「あんた、何人なの?」

 フィリピン、コロンビア、ペルー、アメリカ、ロシア、ガーナ、ナイジェリア、トリニダードトバゴ……答えは百花繚乱。

 まるで閉じ込められていた籠から解放された鳥のように、自由に飛びたち、仲間の鳥を次から次へと連れてくる。

 学校時代の友人もたくさんいるが、このハーフ・コネクションはなにかが違う。まるで、それまで別々の場所で孤独に耐えてきたⅩメンたちが、やっと出会えたことを喜んでいるかのような祝祭性に溢れている。

 彼らをつなげているのは、アフリカ系とか、アジア系とか、南米系とか、そういったことではない。画一的な日本人とは「違う」ということだ。

 多勢に無勢のなかで気を張ってきた者どうしのあいだで、通じあえるなにかがある、安心できるなにかがある。それは意識のレベルか、無意識のレベルか、あるいはDNAに組みこまれたより根源的なレベルなのか……

 その姿を見ていると、「ハーフかダブルか」などという議論の白々しさをヒシヒシと感じる。

 とりあえずは日本語でコミュニケーション。外国生活が長かった者どうしは英語での会話がおおくなる。うちの娘は日本語、アフリカのマンデ語、そしてフランス語が少々という「バイ・アンド・ハーフ(2.5)」リンガルなのだが、ハーフ仲間には通じないので、むしろ彼らの会話に鍛えられてすこし英会話を覚えはじめる。

 ある者はアメリカで育ち、高校から日本に来た。ある者は外国人の父親が「クソッタレ」で、日本の母子家庭で育った。ある者はパリピで、日本人の友人もおおい。ある者は友だちができず、日本社会のなかで疎外感を感じている。

 両親の文化を均等に受け継ぐのか、どちらかに偏るのか、どちらも受け継がずうち捨てられるのか、自分の力であたらしい文化をつくりだすのか……それぞれが個別的で、じつにおもしろい。

 まさに金子みすゞの詩のごとく、「みんなちがって、みんないい」。

偽善のことば

 ヒトは、分けて、群れて、安心する動物である。

 なかには孤独を好む者もいるが、基本的には社会的動物である。

 人間以外にも群れる動物はおおい。だが彼らは本能にしたがって群れる。どの範囲で、どの個体が、どのように群れるのか、もちろん環境の圧力による変異はあるが、基本的には遺伝情報によってそのパターンは決まっている。

 だが、人間は脳が発達しすぎてしまったため、「群れて、安心する」という本能に先立つ「分けて」の部分がずいぶんと複雑化してしまったようである。

 ルーツをおなじくしながらも、数万年のあいだに姿かたちを変え、異なる文化を発達させてきたホモ・サピエンスたちが、たがいに異なる起源をもつかのような神話をつくりだし、肌の色が連続的なグラデーションであることを忘れて、白と黒を絶対的な違いとして序列化し、人種とか、民族とか、国家といったカテゴリーを編みだし、その枠内にすべての人間を閉じこめようとする。

 こうして一度できてしまった枠のなかで安心する人々にとって、それを越境し、混じりあうような行為は、反秩序である。そのような人間の存在は、混乱の種である。

 日本におけるハーフの問題とは、このようなものである。

 規制の枠組みに収まりきらない。

 安定した秩序に馴染まない。

 では、彼らを一括して「ハーフ」というカテゴリーに押しこめ、おなじものとして扱おう。

 いや、「ハーフ」という呼称はイマイチなので、「ダブル」にしよう。

 だが、どちらにしても、おなじ穴の狢。

 結局、あんたは純粋日本人、彼らは特殊な日本人。

 呼び方を変えたところで、線は線、枠は枠。

 その距離が縮まることはない。

 呼び方が「2倍」になったからといって、生活の質が倍増するわけではない。

 現実的に保障されない理想をことばの上だけで押しつけて、自分は義務を果たしたような顔をして、「ハイ、さようなら」を決めこむ。

 これこそ、究極の偽善である。

日本の歴史

 枠がなければ、外も、内も、境界もない。

 だが、分けて、群れて、安心するのは人間の性。

 ではどこで、どのように分ければいいのか。

 そもそも、日本人という枠は、なんなのか?

 国民? 民族? 部族? それとも臣民?

 いつの頃からか、現在我々が「日本列島」と呼ぶ地域に、大陸からホモ・サピエンスが渡ってきた。ある者は北方から、ある者は南方から。

 やがて採集狩猟に基づく縄文文化が形成され、みごとな美意識に支えられた土器を残した。

 ある時期、北九州に大陸からやってきた人々が上陸し、稲作を伝えながら列島各地に広がり、先住民と混血しながら弥生文化をつくりあげた。

 時とともにクニが生まれ、中央政府が誕生し、国家となり、日本となった。

 これが現在、一般的に認められた学術的な説明であろう。

 だとすれば、日本人というのは、あきらかに「いろいろ混じった」過去をもつ。最初からそこにいた者たちではなく、時期を違えて順次やってきた者たちが混血しながら、大勢の「ハーフ」を生みだしながら、今の我々につながってきた。そしてその歴史の過程で、集団の分け方が村レベルから地方レベルを経て国家レベルにまで至った。

 これを歴史の必然と捉え、日本人であることをかたくなに守りたい者あり、

 これをたんなる偶然と考え、扉を広げて世界とつながりたい者あり、

 そして「純粋日本人」たちのそんな思惑とは関係なく、生物学的レベルで枠を越えてこの世に生を受けた者あり。

 この最後の者たちを、ある者はハーフと呼び、またある者はダブルと呼ぶ(「ミックス」というのもあるそうだ)。

生きた問いかけ

 「あんた、何人なの?」

 普通の日本人が、いきなりハーフの人にこんな質問をしたら、憤慨され、嫌われてしまうことだろう。

 だが私の質問には、みなニコニコしながら答えてくれる。

 「アメリカです」

 「でかいねー」(男子の場合、大柄の子がおおい)

 「コロンビアです」

 「このあいだ日本に負けだじゃん」(FIFAワールドカップ2018ネタ)

 「ガーナです」

 「隣じゃん」(コートジボワールと。「チョコ、ちょうだい」というのもある)

 「トリニダードトバゴです」

 「スチールドラム叩いてよ」(ベタなネタである)

 すべてがシャレになる。なぜか。それは、私が当事者だからである。

 もちろん私はハーフではないが、妻がアフリカ人で、娘がハーフで、毎年アフリカに通い、家のなかでは複数の言語が飛び交うという、ハーフ的状況を生きているという意味で当事者である。

 であるから、私の質問は具体的状況から発せられた具体的な質問である。国により、民族により、習慣や社会的状況が異なる。

 「おなじハーフ・ワールドの住人として、お宅の状況をすこし教えてくれないかい」

 彼らはそんな私の質問のニュアンスをすぐに感じとり、「ハーフあるある」的な私の冗談にも、内輪のシャレとして気を悪くせずつきあってくれる。まあ、ちょっと私のネタは下品すぎるかもしれないが。

 「普通」の日本人からおなじ質問が発せられた場合、それは「カテゴリー」の問題となってしまう。

 「彼/彼女はハーフである。ということは、片親が外国人である。何人だろうか?」

 この思考のプロセスのあいだに、「純粋日本人<対>ハーフ」というカテゴライズがおこなわれ、つぎに「複数外国のうちのどれか」というカテゴリーへの問いかけがつづく。

 これはシミュレーション的思考である。そこにあるのは、壁の向こうにいる者たちを分類する視点である。その瞬間、彼/彼女は「調査」の対象となる。そうした意味において、これは「冷たい」ことば、「死んだ」質問である。

 いっぽう、私の質問は、文句もおなじで、思考のプロセスもおなじように見えるが、根本的な発想が異なっている。壁のこちら側にいる者どうしの「血の通った」ことば、「生きた」問いかけである。

 ことばが生きているところにはユーモアが生まれ、シャレが成りたち、笑顔が共有される。

ことばを操る

 問)ハーフかダブルか?

 答)そんなものは、どっちでもいい。

 ことばの定義は大事だが、ことばに支配されてはならない。

 たしかに人間はことばを通して世界を理解し、その枠のなかでしか生きてゆくことはできない。

 だが、ことばによって世界を構築するということは、自分の意志でことばを操る能力をもっているということでもある。

 心臓が脈打つ人間がそこにいる。

 彼/彼女をハーフと呼ぶか、ダブルと呼ぶかは、ケース・バイ・ケースでよい。

 そんなカテゴリーを気にするまえに、その人を見よ、その人を感じよ。

 遠慮することはない、気が合わなかったら喧嘩せよ、気が合ったらおおいに笑え。

 見かけが違っても、振る舞いが異なっても、けっして恐れることはない。

 なぜなら、我々はみな、ホモ・サピエンスという純粋種の一員なのだから。

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著者

鈴木 裕之

慶應義塾大学出身。国士舘大学教授。文化人類学者。専門はアフリカ音楽。著書に『ストリートの歌―現代アフリカの若者文化』(世界思想社/2000年/渋沢・クローデル賞現代フランス・エッセイ賞受賞)、『恋する文化人類学者』(世界思想社/2015年)ほか多数。1989年~1994年まで4年間、コートジボワールの大都市アビジャンでフィールドワークを実施。その際にひとりのアフリカ人女性と知り合う。約7年間の恋人期間を経て1996年に現地にて結婚。彼女が有名な歌手になっていたことで結婚式は注目され、現地の複数の新聞・雑誌でとりあげられた。2015年、この結婚の顛末を題材にした文化人類学の入門書『恋する文化人類学者』を出版。朝日新聞、週刊新潮、ダ・ヴィンチなどの書評、TBSラジオ、文化放送などのラジオ番組でとりあげられ、大学入試問題にも採用された。

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