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多様性を「生きる」。違いを「楽しむ」。アフリカ人と結婚した文化人類学者が、いま考えること。 鈴木裕之

第17回

黒人ヒーロー考(1):ボブ・マーリー

2019.06.03更新

読了時間

文化人類学者であり、国士館大学教授の鈴木裕之先生による新連載が始まります。20年間にわたりアフリカ人の妻と日本で暮らす鈴木先生の日常は、私たちにとって異文化そのものです。しかしこの連載は、いわゆる「国際結婚エッセイ」ではありません。生活を通してナマの異文化を体現してきた血の通った言葉で、現代の「多様性」について読み解いていきます。
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私のヒーロー

 これまで、国際結婚の現場とフィールドワークの現場からインスピレーションを受けて多様性について考えたことを、あれこれと綴ってきた。

 最初の4~5回は頭のなかにある言葉をそのまま書きつけてゆけば形になってくれたが、その後は頭のあちこちに散らばっている言葉を捕まえ、うまい具合に組みあわせるのに骨が折れ、さらにはそれも尽きてしまうと、心の奥底に燻ぶっている「何か」の断片を掘りおこし、それに言葉という形を与えてゆかなければならなかったので、結構大変であった。

 ここでちょっと趣向を変え、私のヒーローについて語ることをお許しいただきたい。

 人は誰でも心にヒーローを持つ。

 私の幼い頃のヒーローは、スナフキンと木枯し紋次郎であった。

 ムーミン谷には個性豊かな人々(ほんとうは人ではないが)が住むが、彼らは基本的に定住民である。

 そこにどこからともなく、流浪の民、スナフキンがやってくる。

 彼の眼光鋭いが優しさに溢れた眼も、つば広帽子にマントにギターというファッションも大好きだったが、なによりの魅力は、旅で得た幅広い知識と柔軟な知性をとおして、ややもすると淀みがちな谷の空気に、爽やかで新鮮な風をもたらしてくれる彼の「浮遊する存在感」であった。

「あっしには関わりのねえことでござんす」でお馴染みの木枯し紋次郎の場合は、その長い楊枝とヨレヨレに擦り切れた渡世人の風采のみならず、けっして一か所にとどまらず、つねに社会のしがらみから逃れようとする「孤高の存在感」に、小学生の私はなぜだかどうしようもなく惹きつけられた。

 このふたりへのあこがれは、受験勉強期には心の奥底に封印されたが、大学生になるとふたたび目を覚まし、私をインド旅行へと誘った。

 さらに、大学生になった私の目の前には、ブルースやレゲエなどの音楽をとおしてあたらしい世界が開けてきた。

「黒人」という世界が。

 そして、この世界には数多くの黒人ヒーローが存在することを知った。

ヒーロー・ナンバー・ワン


 アフリカで驚かされたのは、マイケル・ジャクソンの圧倒的人気である。

 ミシシッピやシカゴの「濃いめ」のブルースを愛聴していた私は、マイケル・ジャクソンなど、その漂白された肌の色とおなじく、「黒人度」を薄めたポップシンガーに過ぎないと思っていた。

 ところがアフリカにゆくと、マイケルは文字どおりすべての人から愛され、崇め奉られていた。その理由は、圧倒的な歌唱力とダンス力である。

 彼の売り出し方とか、ファッションとか、スキャンダルとか、肌の色とか、そんなことには惑わされず、アフリカの人々は歌とダンスという「本質」を見極め、評価する。ゴチャゴチャ文句言うのは、白人や日本人の批評家たちである。

 アフリカにおいて、マイケルが「キング」であることに疑問の余地はなく、その態度はいつのまにか私にも伝染し、マイケルの歌を聴き踊りを見ることに快感を覚えるようになっていった。

 だが、それ以上に私の心を躍らせる黒人ヒーローといえば、言わずと知れたボブ・マーリーである。

 アフリカにおいて、その人気でマイケル・ジャクソンと肩を並べられるのは、ボブ・マーリーしかいない。子供からお年寄りまで、首都から電気の通っていない村まで、その名はあまねく知れわたっている。

 ジャマイカの小さな村で生まれ、首都キングストンのゲットーで育ち、頑固なストリート・ボーイとして名を馳せ、レゲエの発展と普及に尽力したスーパースター。その飾り気のない風貌と音楽性は、おおくのアフリカ人の琴線に触れるようだ。

 世界でもっともレコードが売れたアーティストはビートルズだそうだが、もしアフリカの人々がレコードを買うだけの経済力を持っていたなら、その地位はボブ・マーリーにとって代わられるにちがいない。

ハーフな黒人


 ボブ・マーリーは黒人の声を代弁するアーティストとみなされ、黒人の誇りやアフリカ統一への希求を声高に歌いあげていたが、じつはイギリス人を父に持つハーフであることを知ったときには、ちょっとしたショックを受けた。

 そう言われてみれば、肌は褐色で、鼻は高く、彫りも深い。たしかに、いわゆるアフリカ系ではない。アフリカに長居をした今の私の眼には一目瞭然だが、日本にいてレコードを聴いていただけの当時、黒人の容貌の細かなニュアンスまで見分ける認識力など、あろうはずもなかった。

 父親はイギリス人だが、生まれてからずっと母親のもと、つまり低所得者層の黒人社会で育った。

 アフリカではハーフの家族は金持ちか中産階級の場合がおおいので、つきあいも白人社会や黒人上流社会にかぎられることがおおいが、ボブ・マーリーは文字どおり底辺の出身で、おおくのハーフが精神的にアンビバレントになるのにたいし、貧しい黒人の代表としての態度が揺らぐことはなかった。

 だがしばしば、彼がハーフであったがゆえに、世界に受け容れられたと言われることがある。

 たとえば、レゲエがまだローカルでマイナーなエスニック・ポップスだと思われていた70年代初め、ボブ・マーリーの属するバンド、ザ・ウェイラーズを国際マーケットに売りだしたのは、イギリスでロックのアルバムを発売していたアイランド・レコードであるが、その社長クリス・ブラックウェルはジャマイカ生まれの白人であった。

 ブラックウェルはやがてボブ・マーリーをバンドのメインに据え、「ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ」として売りだそうとする。それに怒った他の2人のヴォーカル(本来はトリオ・ヴォーカル・グループだった)は脱退してしまい、結果的にボブ・マーリーのソロ活動が開始されることとなり、彼の活躍をとおしてレゲエが世界に広がっていった。

 ブラックウェルはなぜボブ・マーリーを選んだのか?

「奴がハーフだからさ。おなじ<白人>同士、気が合ったんだろう」

 こうした意見を、ドキュメンタリーものの本や映像で見かけることがある。

 本当だろうか。あるいは、たんなるやっかみであろうか。

 これに対する正当な反論は、「いやいや、優秀なプロデューサーとして、その音楽性が国際的に通用することを見抜いたのさ」というものである。

 たしかに、その判断の正しさは、証明済みである。

黒い音楽


 では、なぜボブ・マーリーの音楽は、他の優秀なレゲエ・シンガーたちを差し置いて、世界の人々に受け容れられたのだろう?

 ある時、アビジャンで、ガーナ人の友人からこう言われたことがある。

「ボブ・マーリーはハーフだから、サウンドが不安定で、揺らいでいる。いっぽう、ピーター・トッシュは生粋の黒人だから、そのサウンドは安定し、アフリカ的なビートを保っている」

 ピーター・トッシュとはザ・ウェイラーズの創立メンバーで、ボブ・マーリーとともにヴォーカル、コーラス、ギターを担当していた。かつてともに音楽の研さんに励み、バンドの人気を支えてきた仲間であるが、白人プロデューサーがボブを優遇するなかでバンドを脱退し、ソロとして活躍するようになった。その攻撃的な政治姿勢と高い音楽性で、アフリカにもおおくのファンを持つ。

 私の友人は生粋のレゲエ・ミュージシャンで、タンガラ・スピード・ゴダのバンドでパーカッションを担当しており、レゲエに関してはたしかな耳を持っていた。

 彼の言葉は、どちらの方が良い、という評価ではなく、こういう違いがある、という説明であり、じっさい彼はふたりのどちらをも信奉していた。

 私は悩んでしまった。

 そう言われてみると、たしかにボブ・マーリーのサウンドにはフォークソングに通ずるような「揺らぎ」があるような気がする。中心にあるのは彼の愁いを帯びた歌声であり、それを引き立てるように楽器がまわりを取り巻いてゆく。彼の感情の揺らぎがそのままバンドに伝染し、音のニュアンスが刻一刻と変化してゆく。

 いっぽうピーター・トッシュの方は、アフリカで優秀な太鼓の合奏を聴くときに感じるような安定したビート感がサウンド全体を支配し、そこに野太い歌声がなんの迷いもなく乗ってゆく。大地の響きが確固とした地場を築き、その音による舞台の上で歌のドラマが展開する。

 私たちがアフリカ音楽を聴くときに感じる困難さは、その反復するリズムである。

 肉感的でありながら、じつに正確なパルスがリズムを紡ぎだし、どんなに長時間演奏してもリズムが乱れることはない。むしろノリはよりタイトになり、サウンドの密度はどんどん濃くなってゆく。

 だが、アフリカ以外の人々にとって、それはときに過剰となる。

 おなじパターンの繰り返しのなかで、曲のニュアンスがつかみきれなくなる。

 起源はひとつの人類であるが、万年単位の枝分かれによる分離は、それぞれに異なる音楽的センスを骨の髄まで染みこませてしまったようだ。

 あまりにも「黒い」サウンドは、白人やアジア人には負担が大きすぎる。

 白人の「凝った工夫」への性向や、アジア人の「情感的」なニュアンスが欲しくなる。

 レゲエを含むいわゆる「黒人音楽」とは、アメリカやカリブ海で黒人のセンスと白人の音楽が出会ってできたもの。

 私の友人が指摘したのは、「黒人度」と「白人度」の混ざり具合がボブとピーターとでは異なるということであるが、もしかしたらそのことが世界への受容度の違いにつながったのかもしれない。

ユニヴァ―サル・マインド


 レゲエは30年代にジャマイカで生まれたラスタファリ運動と60年代に首都キングストンで流行っていたポップスが出会って生まれた。

 ラスタファリ運動とはいわゆるブラック・メシアニズムで、エチオピアの皇帝ハイレ・セラシエをキリストの生まれ変わりたる救世主とみなす。

 なぜハイレ・セラシエがメシアとなるのか、その詳細をここで説明することはできないが、奴隷貿易の被害者である黒人が、自分たちを支配する道具として白人が悪用してきたキリスト教の「嘘」を告発し、悪を正すため、あらたにアフリカの黒人の王が神によって救世主として遣わされた、と考えるわけである。

 この信仰に沿った宗教・文化・社会運動をラスタファリ運動と呼び、その信奉者をラスタと呼ぶ。

 この運動は強烈な黒人意識を育み、ラスタの言動は「黒/白」の二元論に陥りやすくなる。

 やがてレゲエが誕生し、ラスタの思想は音楽をとおして世界に紹介されていった。

 その時、神はひとりの男をこの世に遣わされた。

 それがボブ・マーリーである。

「俺には偏見などない。
 父が白人で母が黒人の俺は<ハーフ>と呼ばれる。
 だが俺は、どちらか一方に肩入れするつもりはない。
 この俺を黒人と白人とのあいだに生まれるよう定めた
 神だけを信じている」(ボブ・マーリー)


 歴史の不幸をたんなる肌の色に還元することはできない。むしろ、差別や格差を生みだす政治・経済システムの正体を突きとめ、告発すべきであろう。

 ラスタだってそんなことは分かっており、このシステムを旧約聖書に登場する悪の都の名を借りて「バビロン・システム」と呼び、告発しつづけている。

 だがやはり、資本主義経済を興し、奴隷貿易をはじめ、世界中を植民地化してバビロン・システムを築きあげた主体が白人であったという歴史的事実が、どうしても物事を肌の色で説明させてしまう。悪いのは白人であると……

「俺の音楽は正義を擁護する。
 たとえ黒人でも、悪い奴は悪い。
 たとえ白人でも、悪い奴は悪い。
 たとえインド人でも、悪い奴は悪い。
 これはユニヴァーサルなことだ」(ボブ・マーリー)


 分けて、群れて、安心する動物である人間は、どうしても物事をカテゴリーに分類し、単純化し、そしていがみ合うという落し穴に陥りがちである。だがそれではなにも解決しない。

 そこでひとりのカリスマが現れ、物事の本質を述べ伝えはじめた。

「神はけっして黒、白、青、ピンク、グリーンなどと区別しない。
 人間は人間だろ。
 それが、俺たちが伝えようとしているメッセージなんだ」(ボブ・マーリー)


 私にとって、ボブ・マーリーとはこのような存在である。

 彼が黒人と白人のハーフであったことも、揺らぐサウンドを紡ぎだしたことも、レゲエ創成から拡大期における中心人物であったことも、成るべくして成った出来事であった。

 ある者はそれを神の意志と呼び、別の者は歴史の必然と呼ぶ。

 死後38年の歳月が流れ、音楽ソフトとして、あるいはTシャツやポスターとして、今ではすっかり資本主義経済=バビロン・システム内を流通する商品の定番となってしまったボブ・マーリーであるが、耳を澄ませばその商品の向こうから、彼のユニヴァーサル・マインドを伝える声を聴きとることができるにちがいない。

 この世には、何者にも負けることのない声があるのだ。


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著者

鈴木 裕之

慶應義塾大学出身。国士舘大学教授。文化人類学者。専門はアフリカ音楽。著書に『ストリートの歌―現代アフリカの若者文化』(世界思想社/2000年/渋沢・クローデル賞現代フランス・エッセイ賞受賞)、『恋する文化人類学者』(世界思想社/2015年)ほか多数。1989年~1994年まで4年間、コートジボワールの大都市アビジャンでフィールドワークを実施。その際にひとりのアフリカ人女性と知り合う。約7年間の恋人期間を経て1996年に現地にて結婚。彼女が有名な歌手になっていたことで結婚式は注目され、現地の複数の新聞・雑誌でとりあげられた。2015年、この結婚の顛末を題材にした文化人類学の入門書『恋する文化人類学者』を出版。朝日新聞、週刊新潮、ダ・ヴィンチなどの書評、TBSラジオ、文化放送などのラジオ番組でとりあげられ、大学入試問題にも採用された。

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