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多様性を「生きる」。違いを「楽しむ」。アフリカ人と結婚した文化人類学者が、いま考えること。 鈴木裕之

第18回

黒人ヒーロー考(2):マルコムX

2019.06.17更新

読了時間

文化人類学者であり、国士館大学教授の鈴木裕之先生による新連載が始まります。20年間にわたりアフリカ人の妻と日本で暮らす鈴木先生の日常は、私たちにとって異文化そのものです。しかしこの連載は、いわゆる「国際結婚エッセイ」ではありません。生活を通してナマの異文化を体現してきた血の通った言葉で、現代の「多様性」について読み解いていきます。
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なんてったってマルコム


 いちばんカッコいい黒人のヒーローは、マルコムXである。

 まず、その名前がイカシテル。

「X」ってなんだよ? よくわからないけど、素敵じゃないか。
 Yではダメ。Zでもダメ。やっぱ、「エックス」でなくちゃ。

 そのルックスがイカシテル。

 人を外見で判断してはいけない、などと学校の先生が言うが、マルコムを一目見たら、そんな能書きは言ってられない。

 あの長身でスリムなボディに、スーツのよく似合うこと。きっと、パリコレのモデルだって務められるだろう。
 面長で角張った顔に、メガネのよく似合うこと。その四角いレンズから、ありあまる知性が溢れでてきそうだ。

 クールかつアグレッシブなポーカーフェイスと、ちょっとはにかんだような輝く笑顔とのギャップが素敵ではないか。

 あの歯に衣着せぬ言葉の連打が素晴らしい。いまどきのラップ・スターもアフリカのグリオも、彼の言語マシンガンには太刀打ちできないだろう。

 そして銃で暗殺されたという、その悲壮な最期。真のヒーローは、畳の上で死ぬことはできないもの(マルコムの場合は、ベッドの上、というのだろうか)。

「もっと真面目に誉めろ!」などと怒らないでいただきたい。

 だって相手はマルコムXなんだから。

 どんなに誉めても、誉めたりない。

 どんな風に讃えても、それは受けいれられる(その心に、愛さえあれば)。

「マルコムや、ああマルコムや、マルコムや」(松尾芭蕉、改作)
「なんてったてマルコム、あなたはマルコム」(小泉今日子、改作)
「マルコムよマルコム、あなたはどうしてマルコムなの」(シェイクスピア、改作)

 彼のことを考えただけで、心のワクワクが止まらない。

映画のメッセージ


 さて、思いの丈を存分に叫ばせていただいたので、そろそろ真面目モードに入ることにしよう。

 私がマルコムXの存在を本格的に知ったのは、おそらくおおくの人とおなじく、スパイク・リー監督の映画『マルコムX』をとおしてである。

 1992年末に公開されたこの映画は、文字どおり世界中で一世を風靡した。当時、私はアビジャンでフィールドワークの真っ最中であったが、あのX印の野球帽とTシャツがあっという間に若者のあいだに浸透していったのをはっきりと覚えている。スパイク・リーのマーケティング戦略は、すくなくともアフリカの大都市まで巻きこんでいったのである。

 ではアビジャンにおいて、映画そのものをみなが見たかというと、そうではなかった。

 かつてアフリカにおいて、映画は娯楽の王様であった。60年代の西部劇から、70年代のブルース・リーを経て、80年代のランボー、ターミネーターにいたるまで、人々は映画館に押し寄せた。しかしビデオの普及とともに、ビデオ映画をブラウン管の画面で上映する割安の「ビデオクラブ」なるものが登場する。これは民家のおおきめの居間などを利用し、街のあちこちで普及していったため、客足は映画館から遠のいていった。

 こうした状況のなか、『マルコムX』は異様なかたちで公開されることになる。

 アビジャンの超高級ホテルに附属する3000人収容のコンサートホールにおいて、まるでガラ・コンサートのようにプレミア上映されたのである。

 その入場料は5万フラン。日本円で約1万円。物価の差を考えたら、日本で10万円払うようなものである。

 アフリカにおいてアメリカ黒人は憧れの対象であり、その文化は最先端の「イケテル」文化にほかならない。

 1989年の映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』で世界にその名を知らしめたスパイク・リーは新進気鋭のアメリカ黒人「文化人」であり、アビジャンの「イケテル」文化人たちにとって注目の的であった。この場合の「イケテル」文化人とは、高等教育を受けたマスコミ関係者、芸能関係者、大学関係者および文化事業などで派遣されてきたフランス人たちである。

 あのスパイク・リーが、アメリカ黒人のヒーローであるマルコムXの映画をつくったのだ。これを一大事と言わずして、なんと言おうか。

 彼ら「持てる者たち」は、その喜びを、高級ホテルの高級ホールという場所と、入場料5万フランというという値段で表現したのである。このスノビズムにより、「持たざる者たち」は、当然のようにしてその空間から排除された。

 その後、映画館やビデオクラブで『マルコムX』が上映されたのかもしれないが、すくなくとも当時私が調査していたストリート・ボーイのあいだでこの映画が話題にのぼることはなかった。

 映画はというと、3時間以上にわたり、スパイク・リーが得意のユーモアをあちこちにちりばめながらも、マルコムXの一生を忠実に描こうとした誠意と愛情にあふれた秀作であったと思う。

 だが、すくなくともアビジャンの「持たざる者」たちのあいだにおいて、野球帽とTシャツはおおいに流行ったが、映像によるメッセージはほとんど伝わらなかったようである。

 もっとも必要な人々に、必要なメッセージが届かないとは、なんたる皮肉であろうか。

直感を信じて


 スパイク・リーの映画公開以前、日本語によるマルコムX関連の書籍は皆無に近かったと思う。

 かつて、アメリカの公民権運動が注目され、民族解放というキーワードが日本のマスコミや知識人のあいだでもてはやされていた時代、マルコムXに関する著作も何冊か出版されていたが、それらもすでに絶版となり、古本屋でお目にかかることも稀となっていた。

 それでも、根強い人気のあるキング牧師関連の書籍やアメリカ黒人文化を扱った論集などのページをめくってみると、あちこちに「マルコムX」の名が登場する。これはいったい、いかなる人物なのか。くわしいことは分からないが、重要人物らしいな、そしてなんだか「怖そう」だなと、直感的に感じたことを今でも覚えている。

 その後、スパイク・リーの映画を見た私は、ショックを受けた。

 主役を務めるデンゼル・ワシントンの演技はすばらしく、いつのまにかドラマに引きずりこまれていった。

 そして映画の最期、マルコムX暗殺の場面のあと、本人の写真が映しだされ、彼に捧げる詩が朗読される。

 デンゼル・ワシントンには申し訳ないが、本物のマルコムXの存在感は、圧倒的であった。

 白黒で映しだされた写真の数々。

 そこから溢れでてくる圧倒的なオーラ。

 かつて、たしかにこの人がこの世に存在したのだという事実が骨の髄まで染みこんできて、私は身震いした。

 その瞬間から、私はマルコムXの信奉者となった。

 もっとわかりやすくいうと、ファンになったのである。

 これは理屈ではなく、直感であり、運命である。

 そんなものは偉大なるヒーローに対する、一凡人の片思いだ。たしかにそうであろう。

 だが、この図式は、私たちが世界について、人類について、歴史について、理解を深めてゆく際に、もっとも有効な手段を提供してくれるものであると私は信じている。

 この世には、学校教育の場や、政治家の演説や、テレビのニュース解説ではすくいとることのできない「なにか」がある。世界はこの「なにか」で満ちあふれているのだが、公の場における言説ではなぜかそれらが覆い隠されている。

 そしてときに、この「なにか」が起きている現場から声をあげる個人が登場する。彼は、彼女は、自身の体験からこの「なにか」に具体的な言葉を与え、私たちの目の前に提示してくれる。

 しかし、状況に対する解釈は個人によって異なるため、おなじ状況に対し、複数の人物から異なる説明が主張されることも多々ある。さらにエスタブリッシュメントの側から、個人の声を否定する声明も出されるので、相矛盾する主張が世間を飛び交うことになり、われわれ凡人は混乱し、いったいなにを信じていいのかわからなくなる。

 そんなときは、「この人だ!」と直感的に感じられる人がいたら、彼/彼女の言動に焦点をあわせ、自分の進むべき道の指針がそこにあると信じてみることだ。

 ここで理性的思考や合理的な辻褄合わせに足を引っぱられてはならない。なぜなら我々凡人の思考力などたかが知れたものであり、これまで生きてきた数十年の知識や経験の積み重ねによる判断力しか持ちあわせていないのだから。そんなミニチュアな自我が固執している理屈なんかで偉大な人格を裁くことなどできるわけがない。

 だが直感というのは、けっこう信頼できるものである。自分の中のなにかが彼/彼女に惹かれる。そこには言葉にはならないが、なんらかの理由があるはずである。

 とりあえずはそれを信用し、自分を預けてみよう。

 もちろん、そこには麻原彰晃に心酔したオウム真理教信者のようになる危険性もあるが、それでも自分の直感を信じ、真のヒーローを見つけてみよう。

 きっと彼/彼女の言動をとおして、あなたはより広い視野を、より高次な視点を獲得し、あなたの中のなにかがこのヒーローと共鳴することで、より深い生を感じることができるにちがいない。

不都合な真実


 私は『ルーツ』の原作者として有名なアレックス・ヘイリーの手による『マルコムX自伝』を読み、彼の演説集に目をとおし、スパイク・リーの映画をきっかけに出版された彼に関するさまざまな著作を読み漁った。まるで乾いたスポンジが水を吸収するかのように、私はその内容を自分の生のなかにとり込んでいった。

 ハスラーとして犯罪に手を染め、刑務所にぶち込まれ、そこで黒人のイスラム教団<ネイション・オブ・イスラム>を知り、獄中でイスラム教徒に改宗し、奴隷制時代にご主人様から引き継いだ名字を未知なる真の名字=「X」と改め、出所後は教団の広告塔として活躍し、「非暴力と社会的統合」を説いたキング牧師と正反対の「黒人による抵抗と分離」を声高に叫び、もっとも過激な黒人活動家として危険視されていた……などということは、いまさら私がここで説明する必要もないだろう。

 ここで「多様性」との関連で、ある興味深いエピソードを紹介させていただこう。

 スパイク・リーの映画でのマルコムX暗殺の場面。

 演説会の壇上において散弾銃で撃たれたマルコムⅩが仰向けに倒れると、すかさず最前列に座っていた妻ベティが駆けつけ、瀕死の夫の頭を両手で支えながら、泣き叫ぶ。同情の涙を誘う、感動的な場面である。

 だがこれは史実と異なっている。

 あの場面でマルコムⅩの頭を支えていたのは、じつは日系アメリカ人女性、ユリ・コウチヤマであった。彼女は日系二世の人権活動家で、当時ハーレムにおける社会活動をとおしてマルコムXと知りあい、活動を共にしていたのだ。

 しかしスパイク・リーはその役割を黒人の妻に差し替え、その場から黒人以外の存在を抹殺してしまった。

 彼がこの事実を知らなかったということは考えられない。ユリ・コウチヤマがマルコムⅩの頭を支えている写真は、その暗殺を報じたライフ誌におおきく掲載されているのだから。

 おそらく彼にとって、「黒人のヒーロー」神話としてのマルコムX物語を完成させるためには、「不純物」を排除する必要があったのであろう。

 だがその排除されたものは、マルコムⅩ本人にとっても「不純物」であったのだろうか?

人種を超えて


 ネイション・オブ・イスラムは黒人の優位を説き、白人を悪魔であると規定する、黒人限定のイスラム教である。ゆえにその信者は「ブラック・モスリム」と呼ばれる。

 だが通常イスラム教では、被造物たる人間は神の前においてすべて平等で、人種や民族による差別は認められない。つまり、ネイション・オブ・イスラムの教義は「異端」としか言いようのないものである。

 しかしアメリカにおける人種差別という文脈のなかで、「黒人イスラム教」というコンセプトは有効に働き、重要な役割を果たしてきたのであるから、正統派の立場から一方的に彼らの活動を断罪することは差し控えるべきであろう。

 マルコムXは、ネイション・オブ・イスラムの導師エライジャ・ムハンマドが複数の若い女性信者を妊娠させたことをきっかけに教団と仲たがいし、メッカ巡礼を経て「真のイスラム教」に目覚め、名をエル・ハジ・マリク・エル・シャバズと改名した。

 つまり、彼の具体的活動は最後までアメリカ黒人の解放を目指すブラック・ナショナリズムという形をとったにせよ、すくなくともその理念は肌の色による束縛から自由になったのである。

 こうして黒人のヒーローの心は、私たち非黒人に対しても開かれることとなった。

 そしてマルコムXは黒人以外の者も同志と認め、共闘を展開しようとした矢先に、暗殺されてしまったのである。

 マルコムXの頭を日系アメリカ人女性が支えているライフ誌の写真は、これから多様性へと開かれた活動に向かおうとした、彼の遺言である。

 自身の映画をブラック・ムーヴメントの色彩で統一しようとしたスパイク・リーの意図を批判するつもりはない。

 マルコムXをアメリカのブラック・ナショナリズムの最強のリーダーとして心の拠り所とする人々にいちゃもんをつけるつもりは毛頭ない。

 だが彼の意識がすでにそのレベルを超越していたのはあきらかである。

 マルコムXは黒人のヒーローであり、

 イスラム教徒のヒーローであり、

 そして人類のヒーローなのである。

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著者

鈴木 裕之

慶應義塾大学出身。国士舘大学教授。文化人類学者。専門はアフリカ音楽。著書に『ストリートの歌―現代アフリカの若者文化』(世界思想社/2000年/渋沢・クローデル賞現代フランス・エッセイ賞受賞)、『恋する文化人類学者』(世界思想社/2015年)ほか多数。1989年~1994年まで4年間、コートジボワールの大都市アビジャンでフィールドワークを実施。その際にひとりのアフリカ人女性と知り合う。約7年間の恋人期間を経て1996年に現地にて結婚。彼女が有名な歌手になっていたことで結婚式は注目され、現地の複数の新聞・雑誌でとりあげられた。2015年、この結婚の顛末を題材にした文化人類学の入門書『恋する文化人類学者』を出版。朝日新聞、週刊新潮、ダ・ヴィンチなどの書評、TBSラジオ、文化放送などのラジオ番組でとりあげられ、大学入試問題にも採用された。

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