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よみものどっとこむ

第11回

80年代スラッシャー映画の世界に入り込んでしまった現代女子高生の大活躍!

2016.12.06更新

読了時間

【この連載は…】脚本家、映画監督、スクリプトドクター(脚本のお医者さん)、心理カウンセラー等、多方面で活躍する著者初の映画コラム! 日本における数ある〈劇場未公開映画〉のなかから「これ、なんで劇場公開しなかったんですか?」と思ってしまうほど見応えのある良作を取り上げ紹介。お店ですぐにレンタルできる作品を、洋画中心にセレクトしていきます。


 ホラー映画は不動のジャンルだと言われています。

 映画創生期に発明されて以降、手を変え品を変えしながらも、つねに若年層の観客を中心に一定の人気を博しており、決してなくなることがないとされているからです。


 そんなホラー映画の、更に細分化された一ジャンルに「スラッシャー映画」と呼ばれる作品群があります。

 スラッシャー映画の多くは「キャンプ場などに集った若者たちが謎の殺人鬼によって次々と殺されていく」という平坦で単調なストーリーを軸に展開していきます。

 1980年代に生み出され(原典は60年代まで遡りますが)、加速度的に普及しつつも瞬く間に収縮していったこの「特殊ジャンル」は、映画史的に顧みられることがほとんどなく、またその価値もないとされてきました。

 ドラマ性が希薄で、若い女性の裸と殺戮シーンを彩る残虐な特殊メイク以外に、これといった見所がないからです。


 実際、無名の若手俳優が演じる無個性なキャラクターたちが、他愛ない(展開上さして意味のない)会話をくり返し、仲間同士で悪ふざけをしていたり、木陰でセックスに興じたりしているといきなり殺されてしまうという定型構造は、「人物の葛藤や成長物語」が入り込む隙を与えません。

 希にわずかばかりのキャラクタードラマが描かれることはあっても、大抵の場合、中途半端なまま斧や鉈で頭を叩き割られて終了です。

 要するにいつどこから始まっても、またいつどこで終わっても良さそうな、実に締まりのない構造を有しているのがスラッシャー映画なのです。


 しかし、そんなスラッシャー映画を結末に導くために欠かせない存在がいます。

 それが「ファイナルガール」と呼ばれる、このジャンル特有の主人公です。


 仲間たちが次々と殺されるなか生き残り、たったひとりで殺人鬼と戦い、最終的に駆逐するという、それなりに重要な役割を担うファイナルガール。

 大抵の場合、品行方正で処女性が高く、誰からも好かれるような性格である一方、とりたてて個性のない、言ってみればちょっとつまらない人物として設定されています。

 もちろん主人公だからといって、ファイナルガールだけが特別に「明確なドラマや成長物語」を与えられることはまずありません。

 スラッシャー映画はどこまで行ってもスラッシャー映画なのです。


 今回取り上げる劇場未公開映画『ファイナル・ガールズ 惨劇のシナリオ』は、その名の通りファイナルガールを主軸に据えた珍しい作品です。

 80年代スラッシャー映画への偏愛と敬意に満ちているだけでなく、意外なほどしっかりとしたドラマ性があり、たくさん笑えてちょっぴり泣けるお得なホラーコメディに仕上がっています。

 ビデオ屋さんの棚に埋もれさせておくのはあまりに勿体ないので、この機に是非紹介させてください。

 まずはあらすじです。


 アメリカの田舎町に暮らす女子中学生マックス・カートライトには悩みがありました。

 家庭は貧しく生活は困窮。滞納中の電気代を支払うには、なんとか家計をやりくりし、お金を捻出しなければなりません。

 いたいけな中学生がこんなに悩んでいるというのに、親は何をしているのでしょうか?


 マックスは母子家庭で、母親のアマンダは売れない女優をしています。

 美人でセクシーで気立ての良いアマンダですが、残念ながら女優としての才能はなく、オーディションは落選つづき。

 生活費はパートで手にした僅かな賃金で賄うしかありません。


 アマンダが「それなりの役」を演じたのは1980年代のこと。今や遙か昔です。

 しかも、その「それなりの役」というのは、『血まみれキャンプ場』というタイトルのスラッシャー映画で演じたファイナルガール……ではなく、ファイナルガールにすらなれない「3番手の殺され役」ナンシーです。


 そんな頼りない母親のアマンダですが、娘のマックスのことは心から愛しており、母子関係は良好です。よく親友同士のような母子という表現がありますが、彼女たちの場合はまるで姉妹です。

 といっても、頼りない母アマンダが妹で、しっかり者の娘マックスが姉といった感じですが……。


 そんなある日、突然の悲劇が母娘を襲います。

 ふたりで車を走らせていた最中、マックスのふとしたミスがきっかけで交通事故が発生。彼女は軽いケガで済みましたが、運転していた母・アマンダが帰らぬ人となったのです。


 それから3年の月日が流れ、マックスは高校生になりました。

 親戚の資金援助もあり滞りない学園生活を送っていましたが、ひとつ問題がありました。

 マックスは成績が悪いのです。このままでは落第は免れず、卒業も危ぶまれる状況です。


 勉強に身が入らないのは彼女が不真面目だからではありません。

 3年前の事故のことが忘れられないのです。


 母親を死なせてしまったのは自分なのではないか。

 あのとき、自分がミスを起こさなければ母親は死なずに済んだのではないか。


 そんな想いがマックスの生活から光りを奪っていきます。

 奇しくも今日は母の命日。いつにも増してマックスは心を曇らせます。


 そんなとき、悪友のひとりで映画オタクのダンカンが、思いがけない話を持ち込んできました。

 地元の映画館で旧作ホラー映画のオールナイトが開催されることになり、亡き母アマンダが出演した『血まみれキャンプ場』も上映されるというのです。

 ダンカンは「出演者の娘」が知り合いとあって、映画館側と勝手に交渉。マックスをゲストに連れて行く、と宣言してしまったと言います。


 もちろんマックスは気乗りしません。

 よりにもよって命日に、自らの過失で命を落とした(と感じている)母の姿を大スクリーンで見つめつづけるだなんて……。

 ところが狡猾な面のあるダンカンは、マックスの弱点を突いてきます。

「授業のレポートは僕が全部肩代わりしてあげる。学校を卒業したいと思わない?」


 アマンダはダンカンの申し出に乗るしかありませんでした。


 その夜。満員の映画館で、『血まみれキャンプ場』の上映がスタート。

 いかにも80年代的な「ダサくて大袈裟で大らかな」スラッシャー映画の展開に、若い観客たちは大盛り上がりです。

 片や、客席で静かにスクリーンを見つめていたマックスは、居心地の悪い想いをしていました。こんなところにいたくない。一刻も早くこの場から立ち去りたい。そんな感情がマックスの胸中を支配していきます。


 ところが、画面にひとりの少女が映し出された瞬間、マックスの表情が変わります。

 若き日の母・アマンダが演じたナンシーが登場したのです。


 ファイナルガールにすらなれない「3番手の殺され役」であるナンシーは、明るく元気で少しトロい感じのする女の子。

 このさき殺人鬼に殺されるとは夢にも思わず、キラキラと瞳を輝かせています。


 現実の世界では死んでしまったお母さんが、映画の中では生きている……。

 スクリーンを見つめていたマックスにも、自然と笑みがこぼれます。


 ところが次の瞬間、思いがけない事態が!

 マナーの悪い観客のせいで火災が発生したのです。炎は瞬く間に広がり、観客席は火の海と化してしまいます。


 観客たちは大パニック。もはや映画どころではありません。

 マックスも、ダンカンやほかの友人らとともに逃げようとしますが、炎に阻まれてうまく脱出できません。阿鼻叫喚のなか上映がつづく『血まみれキャンプ場』は明らかに場違いです。


 スクリーンの向こう側にある非常口からであれば逃げられるかもしれない!

 一行は壇上に駆け上がります。

 仲間のひとりがナイフでスクリーンを切り裂き、マックスらは次々と、まるで『血まみれキャンプ場』の画面に吸い込まれるように、分け入っていきます。


 次の瞬間、マックスたちに異変が起こります。

 今の今まで暗闇の映画館にいたはずなのに、どういうわけか昼間の森の中にいるのです。

 辺りを見回すと、まるでそこはキャンプ場……これってまさか!?

 そう、マックスたちは『血まみれキャンプ場』の「映画の中の世界」に迷い込んでしまったのです!


 途方に暮れるマックスたちの目の前に、やがて『血まみれキャンプ場』の登場人物たちが現れます。

 目の前にいるナンシーは若き日の母そのものです。

 もう二度と会えないと思っていたお母さんが目の前にいる……。

 感動の再会に、マックスはこみ上げる涙を押さえることができませんでした。

 しかし、彼女は重要なことを見落としています。

 そこが「映画の世界」である以上、殺人鬼もまた近くに潜んでいるということを……。


 ここまででおよそ22分。映画の第一ターニングポイントにあたるエピソードです。

 その後、殺人鬼も同じ世界にいることを知ったマックスらは、なんとかして生き延びようと画策しはじめます。

 しかし、ここは映画の中の世界。あらゆる出来事はシナリオ通りに進んでいきます。

 案の定、『血まみれキャンプ場』の登場人物たちは、定められたストーリーに沿って殺害されていきます。ナンシーが殺されるのも時間の問題です。

「もう二度とお母さんを死なせたくない……!」

 そう考えたマックスは「あるアイデア」を思いつきます。


 もしも、決められたシナリオとは違う展開を起こせたとしたら、

 つまり、私がここでナンシーの命を救うことができたとしたら、

 彼女は「3番手の殺され役」から「ファイナルガール(殺人鬼を倒し、生き延びる存在)」へと昇格できるかもしれない!?


 意を決したマックスは、亡き母の化身であるナンシーに「すべて」を打ち明けます。

 果たして彼女はどんな反応を見せるのでしょうか?

 そして、マックスとナンシーは「80年代スラッシャー映画の世界」で生き延びることができるのでしょうか?


 当初はスラッシャー映画についての「メタ的でやや批評的でもある物語」として展開していた本作は「映画の中に入る」というフィクショナルなアイデアを用いたことで、劇的なジャンルシフトを起こします。

 結果、物語は大きく転換し、タイムスリップ物のような「運命を変える物語」としての軌道を獲得。

 クライマックスに向けて一気に加速していきます。


 脚本を担当したのは、M・A・フォーティンとジョシュア・ジョン・ミラーのコンビです。

 彼らは、『スクリーム』や『プラネット・テラー』で知られる女優、ローズ・マッゴーワンが2014年に監督した短編映画『Dawn』で共同脚本を務めたのち、映画会社に『ファイナル・ガールズ 惨劇のシナリオ』の企画を持ち込み、見事映像化を実現させました。

 そのためふたりは本作で脚本を担当しただけでなく、制作総指揮も兼ねています。


 ところで、ジョシュア・ジョン・ミラーという名前を目にして「あれ、どっかで見たことあるぞ」と感じた方は、相当な80年代ホラーマニアかもしれません。


 彼は基本的には俳優です。

 のちにアカデミー賞監督にまで上り詰める女流監督、キャスリン・ビグローのデビュー作『ニア・ダーク/月夜の出来事』で、印象深い「生意気な子供のバンパイア」を演じたのがジョシュア・ジョン・ミラーでした。

 その後も『処刑教室』の続編『クラス・オブ・1999』やジャン・クロード・ヴァンダム主演のアクション映画『ブルージーンコップ』など、数多くのジャンル映画に出演しています。


 ちなみに彼のお父さんは『エクソシスト』でダミアン・カラス神父を演じたジェイソン・ミラーです。そして異母兄にあたるのが、『レッドアフガン』や『スピード2』の主演で知られるジェイソン・パトリック。

 幼い頃から映画づくりや俳優の仕事に触れる機会が多かったからこそ、ジョシュア・ジョン・ミラーもまた、演者としても脚本家としても優れた能力を身につけられたのかもしれません。


 監督はトッド・ストラウス=シュルソン。

 アメリカでは比較的少数派だった韓国系とインド系移民のアメリカ人青年コンビを主人公にして大ヒットしたコメディ映画『ハロルド&クマー』シリーズの第三弾『ハロルド&クマー クリスマスは大騒ぎ!?』が唯一日本で紹介された作品(といっても劇場未公開なうえに未ソフト化で、WOWOWでのオンエアのみ)ですが、決して新人ではありません。

 本国では大量のテレビムービーを手がけ、すでに一定の地位を確立している「コメディを得意とする監督」です。

 本作でも、ホラーと活劇とコメディの三要素を絶妙なバランス感覚で捌いていきます。


 主人公マックスを演じたのはタイッサ・ファーミガ。

 彼女は『マイレージ・マイ・ライフ』などで知られる実力派女優ヴェラ・ファーミガの妹で、ハリウッド期待の若手女優です。

 2014年に公開された『記憶探偵と鍵のかかった少女』で演じた拒食症の少女役は、日本でもかなり話題になったので、彼女の特性は「大人を翻弄する無垢な妖艶さ」にある、と感じているひとが多いかもしれません。

 しかし、ああいったテイストの演技は「巧まざるもの」でしかありません。

 撮影時に彼女がまだ十七歳だったのと、女優としての経験値が少ないが故に生まれた「奇跡」のようなものです。

 『記憶探偵と鍵のかかった少女』での彼女は、演技力という意味では、未知数という印象が拭えませんでした。


 一方、本作のマックスという役柄はまったく逆です。

 ファーミガの実年齢に近い、年相応の「現実感のあるリアルな感情」をベースに、シリアスとコメディの振り幅を「シーン毎に設定された的確なサイズ」に収めていくことが、今回の彼女に求められた「演技の質」と言えます。


 これは一見簡単そうで実は意外と難しいタイプの役柄です。

 キャラクターの内面を掴み、本人の感情でカバーするというよりも、演者としての的確な技術が求められる芝居だからです。

 まだ経験の浅いファーミガにとっては、とても大きな挑戦だったことでしょう。

 実際、見ていて若干不安を感じる場面(芝居が覚束ない場面)があるのは、残念ながら事実です。特に独りのシーンになると芝居が持たず、やや手持ちぶさたになってしまっている印象は拭えません。

 そこで重要になってくるのが、共演者との掛け合いです。

 相手のリアクションが得られることで、さらなるアクションやリアクションのヒントが手に入りやすくなるからです。


 今回、ファーミガの不慣れさをカバーするだけでなく、的確にポテンシャルを引き出しているのは、同世代の共演者たちではなく、母親のアマンダと劇中劇のナンシーの二役を演じたマリン・アッカーマンです。

 彼女は『ウォッチメン』のシルク・スペクター役で有名ですが、元々はモデルで雑誌やCMの経験を多く積んだのち女優に転向しました。

 2008年の『幸せになるための27のドレス』で、キャサリン・ハイグルの妹役を演じたことで一気に注目され、その後はラブコメ、メロドラマ、スリラー、アクションなど多方面の作品で活躍しています。


 前半の、アマンダとして演じた「車中での会話シーン」はもちろんのこと、中間部でのナンシーとして演じた「マックスとの距離が7センチ分縮まるシーン」は、ほとんど何もしていないように見えながら、実際は驚くほど的確にファーミガの芝居を引き出すことに成功しています。


 とはいえ、今作でのアッカーマンの白眉は、クライマックス直前に登場する「マックスとの距離がいよいよ7センチに縮まるシーン」での「ある動作を交えた視線の芝居」でしょう。


 詳しくはネタバレになるので避けますが、「あの場面」は、芝居の技術に乏しいファーミガが自身の感情を使って役に入り込みすぎてしまった場合、シナリオの意図とズレた重すぎるシーンにもなりかねない、という非常に難しい局面です。

 そのためシーンの正否は、ファーミガ自身ではなく、共演者であるアッカーマンの〈芝居の質〉に掛かってきます。


 あの場面で彼女が表現した「ある動作」自体は、実はいくらでも誇張が可能なもので、シーンを軽くすることは充分可能です。

 かといって、その面白味のみを追求すると「カタチの芝居」になってしまいます。

 片や誇張を抑え、芝居を引き算しすぎると、ファーミガのリアクションがシリアスに傾きすぎる危険性がある。


 最終的にアッカーマンは、驚くほど的確なバランスで「両方の要素」をブレンドすることに成功。さらには「立ち位置の距離感」を活かした「視線の芝居」でファーミガを主人公として引き立てていきます。

 この場面のふたりの「眼差しのカットバック」は本当に素晴らしく、その後につづくクライマックスへの高揚感を高めています。

 是非DVDなどで直接ご覧になり、ご確認ください。


 ところで、この映画の本質的な魅力は何なのか?

 そもそもの企画の着眼点と、スラッシャー映画に対する眼差しの誠実さだと思います。


 一部のマニアにしか分からないような「偏狭な小ネタ」に固執することなく、かといって物語を都合良く進めるための「単なる借り物」としてスラッシャーの要素を使うでもなく、むしろ、スラッシャー映画という、もはや消え去ってしまった文化がそもそも持ち得ていた「内外の2つの要素」をドラマに活かしていく。

 その点こそが本作最大のオリジナリティであり、チャームです。


 具体的には「どんな登場人物でも生きた人間である」ということ。

 そして「どんなにつまらない役柄でも、その役を演じているのは生きた俳優である」という二点です。


 前者の「どんな登場人物でも生きた人間である」ということについては、本コラムの第二回目で『ザ・サンド』を取りあげた際にも触れましたが、これは本当に重要なことです。

 とりわけ人物の内面よりもストーリー構造の「型」が重視されがちなジャンル映画でこそ、作り手は意識的に向きあうべき要素だと、個人的には考えています。


 今回の前半で申し上げた通り、スラッシャー映画というのは「登場人物の気持ち」に寄り添って見ようとすると、構造上の無理が生じやすくなるジャンルです。

 また、スラッシャー映画の作り手は、そもそも意図的に「登場人物の気持ちに寄り添いづらく」作劇を構築するよう迫られる、という特性もあります。


 というのも、よくスラッシャー映画に対して、「登場人物が〈こいつはバカ〉〈こいつはエロ〉〈こいつはドジ〉などと記号的に描かれていて、人間としてのリアリティがない」という批判を耳にしますよね。

 ですが、実は多くの場合、あれは作り手がワザとそうしているだけなのです。


 思い出していただきたいのですが、スラッシャー映画の典型的なストーリーラインは「キャンプ場などに集った若者たちが謎の殺人鬼によって次々と殺されていく」という平坦で単調なものです。

 そして多くの場合、このジャンルに求められている要素は「若い女性の裸と殺戮シーンを彩る残虐な特殊メイク」です。

 つまり、セックスをしたり、殺されたりする場面こそが出演俳優にとっても、役柄である登場人物にとっても「見せ場」になるわけです。


 主観的に人物の内面を描くことができる小説とは違い、映画は客観的に人物を見せることで、彼らの内面を類推し、共感させようとする表現媒体です。

 つまり映画作品の場合、感情移入が発生する経緯は「視覚を通じて発生する同情」をベースに組み立てていくしか手がないということです。


 そんななか、本来は形骸化されているはずのスラッシャーの登場人物たちが、観客にとって「過度に共感できる人物」として構築され、ごく普通に「同情からの共感」を得てしまうと、何が起きてしまうのか?


 いざ「その人物」が殺人鬼に惨殺される場面が来たとき、観客はまちがいなく心痛を覚えるはずです。

 その結果、スラッシャー映画を娯楽として楽しめなくなります。

 ところが、その心痛を覚えかねない「登場人物が惨殺される場面」こそがエンタメとしてのスラッシャー映画にとって最大の売りなのです。


 ここには大きな矛盾が横たわっています。

 観客は、登場人物が「すでに感情移入してしまっている〈=よく知っているひとになってしまっている〉」と、その後の展開に対する集中力や洞察力が上がりますから、本来的に考えれば「人物の葛藤や成長物語」が呼び込まれやすくなるので好都合です。

 ところが、「すでに感情移入してしまっている〈よく知っているひと〉に彼らをしてしまうと」ジャンルとしての構造も、理想とされる感情作用(=登場人物の惨殺シーンを表層的に楽しむ)も成り立たなくなってしまうわけです。

 やはりどう考えても矛盾ですよね。


 その矛盾を解消するため、また鑑賞中に観客の心痛や後ろめたさ、殺人鬼に対する過度な怒りや苛立ちなどの不快情動が発生しないようにするために、と仕組まれるのが「登場人物を記号として意図的に描くこと」です。

 こいつはエロ、こいつはバカ、こいつはドジなどと誇張し、意図的に浅く紹介することで、観客に共感意識を芽生えさせないようにする。

 これこそがスラッシャー映画独自の「人間の描き方」なのです。

 映画史的に見ても、非常にクセのある独特なもので、一般の観客はおろか、プロの作り手のなかにも、なかなか面白味が伝わりづらい考え方ですよね。


 次に「どんなにつまらない役柄でも、その役を演じているのは生きた俳優である」という点についてです。

 実在するスラッシャー映画群を例に考えてみましょう。

 スラッシャー映画の代表格でもある『13日の金曜日』に先駆けること2年、ジョン・カーペンターが1979年に発表した映画『ハロウィン』でファイナルガールを演じたジェイミー・リー・カーティスは、のちに大スターになりました。

 また、80年代を代表するもうひとつのホラーシリーズ『エルム街の悪夢』の三作目『エルム街の悪夢3/惨劇の館』のファイナルガールは、これまたのちにスター女優になるパトリシア・アークエットが演じていました。

 ほかにも『悪魔のいけにえ』の事実上のリメイクでもある四作目『悪魔のいけにえ/レジェンド・オブ・レザーフェイス』でファイナルガールを演じていたのは『ブリジット・ジョーンズの日記』シリーズでおなじみのレニー・ゼルウィガーです。


 そう考えると現実のスラッシャー映画に登場したファイナルガールは、演じる女優たちにとって比較的出世率が高そうにも思えてきます。

 しかし、本当にそうでしょうか?


 数え切れないほど大量に制作されたスラッシャー映画群のなかで、のちに大成した女優たちはごくごく少数です。

 事実上の主人公であるファイナルガールを演じはしたものの、その映画一本でキャリアが止まってしまった女優は星の数ほどいます。

 というよりも、ほぼすべての女優が「たった一度のファイナルガール体験」を終えると仕事がなくなるのです。

 ファイナルガールですらそうなのですから、本作のなかでマックスの母親のアマンダが演じたような「3番手の殺され役」を演じた女優たちのその後は、推して知るべしです。

 たとえ世界中のスクリーンで上映され、その当時の若者たちを熱狂させたとしても、今となっては誰ひとり、彼女たちの顔も名前も覚えていない。

 そんな「現実世界のアマンダ」は大勢存在します。


 きちんとした劇場公開作品に出演したにも関わらず、そんなことになってしまうのは何故なのか? 不思議に思われる方もいるでしょう。

 簡単に言うと、本作のナンシーのような「3番手の殺され役」には、これといった「芝居場」が与えられていないのです。

 だからこそ、役柄の感情の変化が描かれず、観客の感情の変化にも繋がらない。

 感情の変化を実感しなければ、ひとは目の前の出来事や対象物の造型を忘れていくものです。

 スラッシャー映画を観た観客の記憶のなかで、多くのファイナルガールや3番手の殺され役を演じた女優たちは、「生きた人間」としては刻まれません。

 単なるセックス描写の記号、惨殺シーンの記号として消費されていき、挙げ句存在していたことすら「なかったこと」にされてしまう。

 とはいえ、「どんなにつまらない役柄でも、その役を演じているのは生きた俳優である」のは紛れもない事実です。


 そういう意味で、この映画は絶妙なポイントを突いたと言えます。

 二十年以上前のスラッシャー映画に登場したナンシーという役柄は、世界中のほとんどのひとにとっては無価値な小さな存在でしかありません。

 ところが、現代のアメリカの田舎町に住む無名の女子高生マックスにとっては重要な価値があり、やがてとてつもなく大きな存在になっていきます。


 単なる「3番手の殺され役」が、記号から脱却し、「生きた人間」へと昇格していく。


 モチーフが80年代のスラッシャー映画だというだけで、本作が描こうとしているのは、「他人の存在価値を反射的に決めつけてしまう思考」に「疑いを持つことの重要性とそこから生まれる可能性について」なのかもしれません。

 機会がありましたら、是非レンタル店で手に取ってみてください。


 最後に、実在するスラッシャー映画で「ファイナルガール」や「3番手の殺され役」を演じた女優たちのインタビューが聴ける映画をご紹介します。

『HIS NAME WAS JASON〜「13日の金曜日」30年の軌跡』というドキュメンタリーです。

 こちらも劇場未公開のDVDスルー作品ですが、内容はとても充実しています。

 特にメモリアルエディションは密度が濃く、彼女たちのインタビューが6時間にもわたって続きます。


 細々と女優を続けているひともいれば、女優業は引退し、今やすっかり肝っ玉お母さんと化したひともいます。

 時に忘れられ、ひとに忘れられた「ファイナルガール」や「3番手の殺され役」たちの現在の様子には、感慨深いものがあります。


 マックスが追い求めた亡き母の記憶と同様、80年代の若き日に大きな夢を抱いていた名もない女優たちが、どんな風に月日を過ごしてきたのか。

 彼女たちの言霊に想いを馳せながら観てみるのも一興かもしれません。


 では、次回またお会いしましょう。



■『ファイナル・ガールズ 惨劇のシナリオ』

■原題 The Final Girls

■製作年 2015年

■製作国 アメリカ

■上映時間 91分

■監督 トッド・ストラウス=シュルソン

■製作総指揮 ダーレン・M・デメトレ

■製作 マイケル・ロンドン

ジャニス・ウィリアムズ

■脚本 M・A・フォーティン

ジョシュア・ジョン・ミラー

■撮影 エリー・スモルキン

■編集 デビー・バーマン

■キャスト タイッサ・ファーミガ

マリン・アッカーマン

アダム・ディバイン

トーマス・ミドルディッチ

アリア・ショウカット

アレクサンダー・ルドウィグ

ニーナ・ドブレフ ほか


『ファイナル・ガールズ 惨劇のシナリオ』のDVDを見る!



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著者

三宅 隆太

1972年生まれ。若松プロダクション助監督を経て、フリーの撮影・照明スタッフとなり、映画、テレビドラマ等の現場に多数参加。 その後、ミュージックビデオの監督を経由し、脚本家・監督に。 日本では数少ないスクリプトドクター(脚本のお医者さん)として、ハリウッド作品を含む国内外の映画やテレビドラマの脚本開発やリライトにも多く参加している。 主な作品は、映画『劇場霊』『クロユリ団地』『七つまでは神のうち』など。テレビドラマ『劇場霊からの招待状』『クロユリ団地~序章』『世にも奇妙な物語』『時々迷々』『古代少女ドグちゃん』『女子大生会計士の事件簿』『恋する日曜日』ほか多数。著書に『スクリプトドクターの脚本教室・初級篇』『スクリプトドクターの脚本教室・中級篇』(ともに新書館)などがある。

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