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よみものどっとこむ

第12回

愛娘がネットの性犯罪に巻き込まれてしまった家族の、葛藤と崩壊と再生の物語

2016.12.20更新

読了時間

【この連載は…】脚本家、映画監督、スクリプトドクター(脚本のお医者さん)、心理カウンセラー等、多方面で活躍する著者初の映画コラム! 日本における数ある〈劇場未公開映画〉のなかから「これ、なんで劇場公開しなかったんですか?」と思ってしまうほど見応えのある良作を取り上げ紹介。お店ですぐにレンタルできる作品を、洋画中心にセレクトしていきます。


 今回取り上げる作品は『チャット 罠に墜ちた美少女』。

 2010年に制作されたアメリカ映画です。


 タイトルとDVDのジャケット写真(下着姿の少女が〈やや恍惚としているようにもとれる表情〉でベッドに横たわっている姿)を目にすると、おそらくは多くの方が「ああ、ロリコン趣味のエロドラマかエロサスペンスね」と連想されるのではないでしょうか。

 その結果、「そういうことなら是非観たい!」というひとと「そういうことなら絶対に観たくない!」というひととに二分されてしまうかもしれません。


 しかし、前者の方が観ると確実にガッカリするタイプの映画です。

 逆に後者の方は、観なかったことで大切な出会いを失う危険性があります(ようするに第3回の『妹の体温』のときと同じような状況になる、ということです)。


 本作の原題は『TRUST(=信頼)』です。

 文字通り、人と人との「信頼」を軸に、性犯罪が家族関係に与える影響について、驚くほど誠実に描かれたヒューマンドラマの傑作です。

 例によって、ひと知れずビデオ屋さんの棚に埋もれているようなので、この機に是非紹介させてください。

 早速、あらすじから入りましょう。


 アニー・キャメロンはシカゴに暮らす中学生の女の子。親友のブリタニーとともに毎日楽しく学校に通い、部活動のバレーボールに精を出すごくごく普通の14歳です。

 PCやスマホを使ってチャットをするのが趣味のアニーは、最近ネット上で知り合ったある男の子のことが気になっています。


 彼の名はチャーリー・ハイタワー。カリフォルニア在住の高校二年生で、アニーと同じく学校ではバレーボールの選手をしています。

 チャーリーの兄はバークレー校のフットボール特待生です。そんな兄を見習って、チャーリーもまた得意なバレーで大学への推薦を得ようと日々努力を重ねています。

 また彼の母親は自閉症児向けの学校で教員をしており、父親はESPNの局員をしています(※ESPNはディズニー資本のアメリカ最大手のスポーツ専門チャンネル)。


 ようするにチャーリーは「ちゃんとした家庭」で育った「ちゃんとした少年」だということです。

 そんなチャーリーとの「ネット上での交友関係」をアニーの両親は知っており、温かく見守っています。ネットを介した人間関係も「現代的な出会い方」のひとつであると理解していますし、なにより娘のアニーを「信頼」しているからです。


 ところで、住んでいる場所が離れていることもあり、アニーは未だチャーリーと会ったことがありません。それどころか互いに顔も知らないのです。


 しかしアニーからすると、顔を知らないからこそ、日ごろの学校での出来事やクラスメートらとの人間関係のもつれなどについても、チャーリーには素直に話すことができています。

 自分の経験も交えながら、そのつど真摯にアドバイスをしてくれるチャーリーは、少し年上の「信頼」できるソウルメイトなのです。


 チャットのやりとりを重ねるうち、ふたりは恋心を育み、互いに性愛を求め始めます。

 若い十代のふたりにとって、それはごくごく自然なことでした。


 ある日、チャーリーの頼みに応えるためにと、アニーは自らの写真を送ります。

「私はずば抜けた美少女ではない」と自覚しているアニーにとって、それはちょっとした勇気の要る行為です。

 彼がガッカリしてしまうのではないか……そんな心配を胸に送信ボタンを押すアニー。

 チャーリーはすぐに返信をくれました。

「写真を送ってくれてありがとう。思ってたとおりだ。君は最高に美しいよ!」

 アニーは嬉しくて仕方ありません。


 ところが、チャーリーは気になる書き込みをしてきます。

「実は君に黙ってたことがあるんだ……」

 何事かと身構えるアニー。

「ぼくは高校生じゃない。本当は20歳の大学2年生なんだ」

 思わぬ告白にアニーは驚きを隠せません。

 どうしてウソをついてたの? と訊ねると、彼は「バレーの話で先輩面したくなかった」と返信してきます。


「嫌われちゃったかな……」

 心配そうなチャーリーの書き込みに、どう返信すべきか迷うアニー。

 たしかにビックリしたのは事実です。アニーはこれまで、チャーリーにウソをついたことがなかったからです。

 しばし思案したのち、アニーは「大丈夫よ。私に合わせてくれたのね」と返信します。

 感謝の言葉を述べてチャーリーはログアウトします。

 去り際に届いたチャーリーの顔写真。初めて目にする彼の姿は、爽やかな好青年そのものでした。

 6歳くらいの年の差なんてたいしたことない。

 そう思い、アニーはますますチャーリーのことを好きになっていきます。


 ある日、アニーと親友のブリタニーは、学校のヒエラルキーでトップに君臨するセリーナたちからホームパーティーへと誘われます。

 ネット上のチャーリーは容姿を褒めてくれたものの、リアルな生活では自分に自信が持てずにいるアニー。

 いつもお洒落でモテモテの、いわゆる「リア充」なセリーナらにはどうしても気後れしてしまいます。アニーはパーティー行きを断るべきなのでしょうか……?

 しかし、セリーナに嫌われてしまったら学校で生きてはいけません。大袈裟に感じられるかも知れませんが、実家と学校が「世界のすべて」である現在のアニーにとっては、ヒエラルキーのトップ集団と関われるか否かは死活問題なのです。

 結局、アニーはブリタニーと共に、背伸びしたファッションでパーティーに出かけます。

 しかし、結果は散々。居心地も悪く、ふたりは早々に退散します。


 帰宅後。アニーは学校での振る舞い方などについて父親に相談しようとしますが、あいにく仕事中だった父は「悪気もなく」軽くあしらってしまいます。

 セリーナのパーティーで失敗したアニーは、自宅でも居場所をなくしたと感じてしまうのです。


 寝室に籠もった彼女はチャットを開始。

「私の理解者はあなただけ」とチャーリーに伝えます。

「僕も同じ気持ち。君こそ僕の理解者だよ」

 チャーリーの言葉にアニーは救われる想いです。

「君に会いたい」

 彼の書き込みに、「私も」と返すアニー。


 それからしばらくして、遠方の大学に進学する兄を送るため、両親が家を留守にすることになりました。

 アニーはそのことをチャーリーに伝えます。

「だったら、ふたりで会わない?」

 チャーリーからの突然の申し出にドキッとするアニーでしたが、それよりも彼に会いたい気持ちが勝ちました。


 初デートの当日。頑張っていつもよりお洒落をしたアニーは、ワクワクしながら待ち合わせ場所に到着。

 やがて念願のチャーリーが姿を現したとき、アニーは思わず言葉を失います。

 目の前に立っていたのは、写真で知っていた爽やかな好青年とは似ても似つかぬ、見知らぬ中年男だったからです。

 ショックで泣き出してしまうアニーを〈本物のチャーリー〉である中年男は懸命に慰めます。

「ウソをついていたことは謝る。本当にごめん。でも、君に嫌われたくなかったんだ」

 どう返していいか分からないアニーに男は続けます。

「君がチャットで話してきたのはこの僕だ。それは事実だよ。僕たちはソウルメイトだろ? これまで何ヶ月もの間、一緒に色んなことを話して、共有してきたじゃないか……」


 確かにそうなのです。

 アニーは周囲にいる誰よりもチャーリーを「信頼」し、すべてを打ち明けてきました。彼女の心を救ってくれていたのは、両親でも教員でも学友でもなく、実際には会ったことすらなかったチャーリーなのです。

「もし、嫌じゃなかったらでいいんだけど、お茶だけでもしない?」

 思い描いてきたチャーリーとは別人ですが、目の前にいる中年男はとても誠実そうに見えます。

 アニーは中年男のチャーリーとカフェに入ることにします。


 ふたりでアイスクリームを食べながら、次第に打ち解けていくアニー。

 いざ話をしてみれば、見た目こそ違えど、そこには「あのチャーリー」がいたからです。

 アニーの話に熱心に耳を傾けていたチャーリーは、こう口にします。

「君はとても知的で繊細で、心の中身が大人なんだね。本当に感心したよ」

 アニーは大人であるチャーリーから承認されていくことに心地よさを覚え始めます。


 そんなふたりのやりとりをたまたま親友のブリタニーが目撃していました。

 どうしてあんな中年男といっしょに……? 訝しげに見つめるブリタニーの視線にアニーは気づきません。


 やがて、アニーはチャーリーに誘われるままモーテルへ向かいます。

 ふたりだけの室内で、チャーリーがプレゼントしてくれた赤い上下の下着を身につけるアニー。

 体型にコンプレックスがある彼女は恥じらいますが、チャーリーは「そんなことない。君は美しいよ」と褒め称えます。

 当初は抵抗を感じていたはずのアニーでしたが、何度も求められるうち、ついにはチャーリーに身を任せてしまうのです……。


 翌日、事態は一変します。

 チャーリーと連絡が取れなくなったのです。電話を掛けても、チャットに書き込んでも応答がありません。

 彼に会いたい、チャーリーに会いたい……アニーは焦り始めます。


 親友のブリタニーはそんなアニーの様子を心配し、問い詰めます。

「あのあとふたりでどこに行ったの? なんであんな中年男といっしょにいたの?」

「年齢なんか関係ないでしょ! 彼は私を愛してくれてるし、私だって彼を愛してるんだから!」

 もはやすっかりチャーリーに感化されてしまったアニーは、そう言い放ちます。


 アニーはあの中年男から性的暴行を受けたんだ。そうに違いない……。

 事態を重く見たブリタニーは教員に相談。すぐさま警察が到着し、アニーは全校生徒の視線を浴びながらパトカーで病院に連れて行かれます。


 レイプキットを使い、次から次へと検査をされるアニー。

 病院に呼び出された両親は、「愛娘がレイプされた」という警察の報告にパニックを起こします。

 一方、アニーのメンタル面を支えるためにと女性の心理カウンセラーがつけられます。

 さらにFBIの捜査官が到着し、矢継ぎ早にアニーに質問していきます。

 親友の通報により事態は急転、一気に複雑化していきました。

 右往左往する大人たちを尻目に、どこか冷めていたアニーはぽつりと呟きます。

「みんな何騒いでるの? あれはレイプなんかじゃない。私たちは愛し合ってるんだから」


 この辺りで物語は三分の一を経過。第一幕の終了です。

 思春期の少女アニーの視点で描かれてきた『チャット 罠に墜ちた美少女』は、ここから一気に俯瞰的になり、様々な立場の人間の視点で複合的に物語られていきます。

 なかでも比重が置かれるのは「自分を愛してくれた救世主(チャーリー)を信じようとする」アニーと、「愛娘を陵辱した悪魔のようなレイプ犯(チャーリー)を殺そうとする」父親ウィルの眼差しの対立です。

 そして第二幕からは、扇情的なタイトルとDVDパッケージからは想像も付かなかった物語が動き始めます。

 性犯罪を軸にした家族の崩壊と再生に向けた物語です。


 分裂した父と娘の視点に寄り添うのは、立ち位置の異なるふたりのヘルパー(協力者)。

 ひとりはFBIのテイト捜査官(男性)。

 そして、もうひとりは心理カウンセラーのゲイル(女性)です。

 ふたりとも事態を改善するために動いているという意味では共通した役割を持っているのですが、それぞれの立場の違いから「改善のための角度」に大きな差異が生じてきます。


 懸命に捜査を続けるテイトは、合理的にレイプ犯を発見、逮捕するためにとあらゆる手を尽くします。

 しかし、皮肉にもそのことが父と娘の「眼差しのズレ」を明確化させてしまうのです。


 例えば、連絡が取れなくなったチャーリーの居場所を探るため、テイト捜査官はアニーにチャーリーへの電話を掛けさせようとします。

 しかし、アニーは拒みます。チャーリーを犯罪者にしたくないからです。

 かつて、チャット上のチャーリーは自閉症児童の教員である母が癌に冒されているという話をしていました。

 そのことを引き金にテイト捜査官はアニーに依頼します。

「私の叔父がガンで亡くなった過去があるから、あなたのお母さんのことが心配だ、という理由で電話をしてみてくれ」

 それでもアニーは拒絶します。「彼にウソをつきたくない」と言うのです。

 この発言に父親のウィルが反発します。

「彼に、だと? そもそも彼がお前にウソをついたんだぞ。お前はだまされたんだ!」

 父の思いがけなく強い言葉にアニーは消沈します。

「……え、じゃあ、私……遊ばれてたってこと……?」

「そうだ!」とウィルは間髪入れずに断言します。

 さらに「甘い言葉も全部ウソだ。だまされてたんだよ、お前は!」と追い打ちを掛けるのです。

 チャーリーにではなく、父親であるウィルの言葉によってアニーは傷つけられます。

 なんてことを言うんだ、という顔で夫を見る母。傍らのテイト捜査官も唖然とするばかりです。

 ところが、当のウィル本人は「何だよ? 俺の何が間違ってる、って言うんだ?」といった素振りです。どうやら彼らの気持ちがウィルには分からないようです。

 このくだりが本作独自の極めて重要なポイントです。


『チャット 罠に墜ちた美少女』は、あらすじだけを追うと「愛娘をレイプされた父親が復讐のために立ち上がる」という、いわゆるレイプリベンジムービーの軌道と大差なく見えます。

 ここでいうレイプリベンジムービーというのは、70年代のウーマンリブ以降大量に制作された「レイプの被害者である女性が自力で犯人に復讐を果たすタイプの物語」ではなく、『狼よさらば』の原作者として知られるブライアン・ガーフィールドが得意とする「被害者の家族や遺族が犯人に報復することでカタルシスを得られるタイプの物語」を指します。

 しかし、一見同じ軌道を辿っているようでいて、『チャット 罠に墜ちた美少女』はそれらの映画とはまったく異なる軌道を呼び込んでいきます。

 企画として大切にしているものが根本的に違うからです。


 父親のウィルは娘のアニーを愛している(少なくとも本人はそのように自覚している)のですが、実際には彼女の言葉や想いに耳を傾けようとはしません。

 ウィル自身に悪気は全くないのですが、彼はアニーを「個としての人格」とは見なしておらず、彼女の想いを承認しようとはしない(というよりも、できない)のです。

 我が子の「気持ち」よりも、我が子に起きた「出来事」のほうに関心が向いてしまう。こういった心理の流れは「我が子が娘であるか否か」や「性犯罪に巻き込まれ……云々」とは関係なく、男親の内面に発生しがちです。

 実際、事件が発覚してからというもの、ウィルはアニーがレイプされた場面を逐一「想像」しがちになり、そのつど激しい怒りに身を震わせる時間が増えていきます。

 そして、自分がその場に駆けつけられなかったこと(出来事そのものを知らなかったのですから、到底不可能なことです)、また娘を助けられなかったこと(出来事の最中にアニーは救助を求めてはいなかったにも関わらず)を悔いていきます。

 しかし、そもそもウィルが想像している「レイプ場面」は、観客が事前に目撃した「実際にアニーがモーテルでチャーリーに身を任せた場面」とはかけ離れています。

 いかにも変質者然としたレイプ犯が、泣き叫ぶアニーを押し倒し、性具を用いて陵辱する場面をウィルはくり返し、くり返し想像してしまいます。

 もちろん、そんな人間についていくほどアニーは愚かではありませんし、そんな出来事を経験していたら「彼のことを愛している」とか「あれはレイプじゃなかった」という発言が出てくるはずもありません。

 問題は何故、アニーがチャーリーと会うことを選択し、実際には中年男だったチャーリーと、そのことを知ってもなおモーテルへと同行するという行動を取ってしまったのか、です。

 この点にウィルが着目することも、関心を持つこともできないのは、事件が起こる以前からアニーの想いや言葉への傾聴をせず、心から向きあおうとはしてこなかったからなのです。

 もちろん、ウィルが犯人捜しを始めるのも、また復讐心をたぎらせるのも「娘への愛」や「正義」のためなのは事実ですが、実際にはアニーのためにはなっておらず、むしろ自分自身のためでしかありません。

 すべてはウィルの自己凝視によるものなのです。


 捜査が続くにつれ、チャーリーに関する様々なことが分かってきます。

 アニーとの連絡に用いていた携帯電話は、足跡がつきにくいプリペイド式であったこと。

 それも現金払いで購入していたこと(これも足跡がつきにくいということです)。

 また、チャーリー・ハイタワーという名前は同世代では全米に7名存在していたものの、該当者はゼロで、カリフォルニア在住という話も怪しいということ。

 さらにはチャットに使用されていたIPアドレスは、送信元がチェコだったという事実も判明します。これは擬装用プログラムかソフトウェアを使って、IPを世界中のサーバーに経由させていることを示しています。

 つまりアニーが出会った中年男は「常習犯」だった、ということです。


 怒りに拍車が掛かったウィルは、行動をエスカレートさせていき、次第に「想像する場面」も「アニーがレイプされる瞬間」ではなく、「自らが犯人を殺害する場面」へと変貌していきます。こうしてウィルの眼差しはアニーの気持ちから益々離れていく……。結果、父と娘の間にあった「信頼」は崩れるばかりで、完全に負のスパイラルです。


 一方、周囲の大人がチャーリーを悪者扱いすればするほど、アニーはかたくなに彼を信じようとします。しかし、前述のFBIからの提示を受け、さすがのアニーも混乱し始めるのです。

 そんな中、テイト捜査官とは角度の違うヘルパーである女性カウンセラー、ゲイルとの面会中、アニーはこう言われます。

「時として、人は体の自由を奪われたり、恐怖を感じると、心だけでも抜け出て肉体から離れようとする。そうやって自分を守る」のだ、と。

 モーテルでのチャーリーとの時間を思い出し、アニーは複雑な思いに駆られていきます。


 この映画は常に登場人物が、光に救いを求めると影に誘惑され、影に救いを求めると光が出現し、その人物を導くという流れをくり返していきます。

 この展開が終始一貫しているため、性犯罪という題材を扱いながらも、安易な善悪二元論に落ちることがありません。

 むしろ、正義とは何か? 悪とは何か? 救いとは何か? そういった普遍的な疑問に向かって突き進んでいきます。


 この静かで力強く誠実な脚本を担当したのは、舞台俳優として知られるアンディ・ベリンと、監督としても知られるロバート・フェスティンガーのふたりです。

 元々はベリンが、本作の監督も務めるデビッド・シュワイマーと共に舞台劇として執筆した戯曲版の『TRUST』が原型です。同作は演劇界では有名な賞「ジョセフ・ジェファーソンアワード」の最優秀戯曲賞にノミネートされています。

 受賞こそ逃しましたが、戯曲の出来が良かったためにシュワイマーがベリンを誘い、映画化に向けて動き出したようです。映画的な脚色を施すために雇われたのがフェスティンガーで、何度かのリライトで行き来をくり返し、最終的に共同脚本という形に落ち着いたようですね。


 監督のシュワイマーは演出家である以前に、俳優としてかなり有名な人物です。

 日本で最も知られているのはテレビシリーズ『フレンズ』でのロス・ゲラー役ではないでしょうか。CGアニメ映画『マダガスカル』シリーズでの気の弱いキリン、メルマン役も当たり役です。


 ところで、俳優が監督をする場合の最大の利点は、出演者とのコミュニケーション濃度が高くなることです。

 とりわけ本作のようなソフトストーリーの場合、繊細で丁寧な芝居をすくい取りやすく、リザルト演出に走ることがまずないという点は重要です。


 リザルト演出というのは、監督が撮影前に脳内でイメージした「リザルト(結果)」に拘りすぎるあまり、「いま」「ここ」で「実際に向きあっている俳優」から良い結果を引き出せなくなる演出法です。


 例えば、女優がセクシーなシーンを演じる場面があったとします。

 そのうえで女優が提示した演技に対し、「何か違う」と監督が感じたとします。そのこと自体は問題ではないので、監督は女優と何らかの演出上のコミュニケーションを取りながら、より良い結果へと導いていけば良いのですが、このコミュニケーションの取り方を間違えると悲惨な結果に繋がります。

 リザルト演出の最悪な例は「もっとセクシーに見えるように演じて」と伝えてしまうことです。

 監督がイメージしていたセクシーさを体現できていなかったとしても、そもそも当の女優は彼女が考えるセクシーさを最大限披露しているはずです。

 つまり、彼女のなかには「もっとセクシー」という「のりしろ」は残されていないわけです。

 そういう時は、「もっと」という質量の大きさや増加を求めるのではなく、「違う角度のセクシーさ」を追求しなければなりません。

 ところが、「今のでは足りない」だから「もっと」という伝達をしてしまう。

 この時点で、女優は当初披露した「自らが信じているセクシーさの表現」に「ウソを上乗せして」演技し始めます。つまり、カリカチュアされた過剰な表現になるのです。

 ということは、彼女の心の中では、シーン内の役柄の気持ちにフォーカスした「セクシーな気分」はどんどん遠のいてしまい、女優本人が感じている撮影現場でのプレッシャー(もっとセクシーに見せなきゃ)に意識がフォーカスしてしまう危険性が高まります。

 そんな感情の流れから出てきた表現が、監督が求めていた「もっとセクシーに見えるようなもの」になっている可能性は極めて低く、むしろ的外れなものになっていきます。

 その結果、「ちがう」「もっと」が繰り返されるわけですが、女優の自意識は肥大化し、ただただ焦る一方で、時間ばかりが経過し、スタッフも苛立ち始め、監督もしびれを切らし……という具合に負のスパイラルに陥ります。


 撮影現場で監督が俳優に対してしなければならない仕事の大部分は、その俳優が「役柄の気持ちにフォーカスできるよう援助したり、導いたりすること」です。

 リザルト演出は、それとはまったく逆の効果を生んでしまう危険な演出スタイルと言えるでしょう。


 ぼくの知るかぎり、リザルト演出をしてしまう監督は日本にも大勢います。

 そういう監督の最大の問題は、技術力の不足ではなく、想像力の欠如です。

 ひとは皆、ひとりひとり異なる個性を持った存在だということが、本質的に理解できていないのでしょう。

 絵コンテやイメージボードなどの再現に囚われ、俳優の内面に発生した感情に共感せずに演出してしまうタイプの監督に多く見られる傾向があります。


 では本作の場合はどうか、というと、実に見事に俳優が各自の役柄にフォーカスできています。これは間違いなく、シュワイマーが本来俳優であり、目の前の俳優たちの気持ちをすくい取ることができ、その結果、彼らもまた役柄の気持ちにフォーカスしやすかったからだと思います。


 最たる例はアニー役を演じたリアナ・リベラトの演技演出です。

 彼女は、本作ののち2011年に制作された心理サスペンス『ブレイクアウト』でニコラス・ケイジ、ニコール・キッドマンと共演し、翌2012年制作のスリラー『陰謀のスプレマシー』ではアーロン・エッカートとも共演を果たしています。

 そういったベテラン俳優が演じる主人公の「娘役」をそつなくこなしたことで、着実にキャリアも実力も付けています。

 最近では劇場未公開作として日本でDVDスルーとなった『マックス&エリー 15歳、ニューヨークへ行く!』でイザベル・ファーマンとダブル主演を果たしました(ちなみにイザベル・ファーマンは養子ホラーの傑作『エスター』でタイトルロールのエスター役を演じていた元子役です)。


 いずれにせよ『チャット 罠に墜ちた美少女』撮影時のリベラトは、役柄のアニーと同年齢の14歳だったわけですから、撮影の際には相当な配慮が必要だったはずです。

 実際、モーテルのくだりでのリベラトは役柄として芝居ではなく、当の本人自身が相当緊張しているのが観ていて分かります。彼女自身が感じている不安や恐怖心があまりに強いため、観ていて痛々しさを覚えるほどです。

 プロの女優としてはいかがなものかと思いますが、率直に言って無理もないことだとも思います。俳優としても人間としてもまだまだ経験が少ない14歳という年齢で、大勢のスタッフが観ている中、全裸に近い下着姿のまま中年男(チャーリー)に覆い被されるわけですから、緊張するなというのが無理な話です。

 監督はもちろんのこと、チャーリー役のクリス・ヘンリー・コフィもおそらくは最大限に配慮しながらリベラトへの愛撫シーンに臨んだでしょうし、撮影現場にはリベラトのメンタル面に配慮して、カウンセラーが別途スタンバイしていたはずです。


 一方で、経験値が少ないからこその「役柄との感情的同化(演者自らの感情を流用する方法)」が効いている場面もあります。

 中間部に登場する「アニーが父親ウィルに対して泣きながら怒鳴り散らす場面」では、リベラトの感情が高ぶりすぎてしまったのでしょう。本来の芝居の定位置から身を乗り出してしまい、レンズのフォーカスが甘くなってしまっています。共演者の父親役クライヴ・オーウェンにストレートな感情をぶつけすぎて、ピントの合う範囲を越えてしまっているのです。不慣れなリベラトにとって二度撮れる芝居ではないのは明らかなので、監督はOKを出さざるを得なかったのでしょうが、シーンとしての迫真度が高いので、技術的な綻びはさほど気になりません。


 また今回の作品は内容が内容ですし、演技経験の未熟な(そして実年齢が役柄と同じく幼い)リベラトの心理を考慮して、ある程度は順撮りをしているはずです。

 つまり、脚本に描かれた「役柄の心情が変化する流れ」に沿うように撮影されているのではないか、と思うのです(普通、こういった座組の場合はその点を重視するようにとスケジューリングを配慮していくものです)。

 そのうえで、さきの場面での反省を踏まえたのだと思いますが、物語の重要なターニングポイントとなる「アニーが、カウンセラーの前でついに自らがレイプされていたことを自覚する場面」では、固定カメラではなく、手持ちカメラに切り替えて撮影されています。

 このシーンの描き方はとてもリアルなだけでなく、非常に真摯で胸を打たれます。チャーリーへの「信頼」が崩れ去るか否かの大切な瞬間だからです。

 おそらくは、事前に細かな立ち位置や動線は決めず、本番でのリベラトの感情の変化に任せ、彼女がどう動いても良いようにとセットアップされている(つまり、1カ所にピントを固定するのではなく、ドキュメンタリックに芝居を追っていくという選択をした)のだと思います。


 本作では、物語が幼いアニーを中心に周回する大人たちを描くのと同様、経験値の浅いリベラトをベテラン俳優たちがサポートしていきます。

 彼らの演技合戦もこの映画の大きな見所です。


 娘のアニーを心から愛しているにも関わらず、図らずも対立することになる父親ウィル役を演じたのは、イギリス出身の名優クライヴ・オーウェンです。

 母国で数多くの映画やテレビドラマに出演し、名実ともに評価されたのちハリウッドに進出したオーウェンは、『グリーンフィンガーズ』『ゴスフォード・パーク』『ボーン・アイデンティティー』などへの出演を経て、“アーサー王と円卓の騎士”を題材にした超大作『キング・アーサー』に主演。その後、マイク・ニコルズ監督の『クローサー』でアカデミー賞の助演男優賞にノミネートされました。

 以降、大作への出演が続く一方で低予算の良質なソフトストーリー作品にも多数出演し、最近では日本の紀里谷和明さんが『忠臣蔵』をモチーフに描いた『ラストナイツ』で、大石内蔵助に値する主人公の騎士ライデンを演じていました。


 また、母親役を演じたキャサリン・キーナーは『マルコヴィッチの穴』と『カポーティ』で二度アカデミー賞にノミネートされている実力派です。シリアスからコメディまでなんでもこなせる器用さがあり、作品の狙いによって印象の残し方(印象を強く残さないという印象づけも含め)にも自在な力を発揮するのが彼女の大きな特徴です。

 個人的にはインディーズ映画の撮影現場で起きるドタバタを描いた佳作『リビング・イン・オブリビオン/悪夢の撮影日誌』でのストレスフルな演技が印象深く残っています。


 アニーのカウンセリングを担当するゲイル役を演じたのは、黒人女優のヴィオラ・デイビスです。デイビスはスティーブン・ソダーバーグ組の常連として有名ですが、元々はジュリアード音楽院出身の舞台女優。映像作品では脇役が多く、決して強い印象を与えるわけではありませんが、実力はとても高く、メリル・ストリープ主演の『ダウト 〜あるカトリック学校で』の演技ではアカデミー賞助演女優賞にノミネートされました。


 ゲイルと対になるヘルパーとして登場するFBI捜査官テイトを演じたのは、ジェイソン・クラークです。比較的若手のバイプレイヤーで、クセのある特徴的な顔立ちを活かして悪役を演じることも多々あります。

 未公開映画の良作『愛人契約』などの主演作もありつつ、最近では『ターミネーター:新起動/ジェネシス』でジョン・コナー役(可哀想なくらい難しい役でした)を演じていましたね。

 低予算の(ともすると地味な)作品である本作に、これだけの実力派俳優を集めることができたのは、監督のシュワイマーの「俳優としてのキャリア」の賜だと思います。


 最後に、この映画最大の個性であり、且つ物語に対する評価や判断を複雑にしている要素についてお話しします。

 それは、そもそもアニーがチャーリーにされたことは「レイプか否か」ということです。


 以前、とあるベテラン脚本家が本作について「あれはレイプじゃないよね。和姦だよ」と口にしているのを見て、ぼくは愕然としてしまいました。

 もちろん色んな考え方や意見があること自体は良いと思うのですが、彼が「モーテルのシーン」でのリベラトの「ある芝居」を忘れている(というより、そもそも見落としている)のは明らかに問題です。


 件の場面では、チャーリーが自ら服を脱ぎだした際、アニーは彼を見ることをやめ、モーテルの壁紙の模様に意識を集中するような仕草を見せます。

 そしてシーンは彼女が目にした壁紙の模様(しかも周辺光量を落とし、まるで黒い枠組みの中に模様が浮かび上がっているかのような、いわゆる視野狭窄に陥った心情表現として描写されている)で終了しています。


 そのうえで、のちのゲイル(カウンセラー)とのやりとりのなかで、さきほどもご紹介したとても重要な台詞が出てきます。

「時として、人は体の自由を奪われたり、恐怖を感じると、心だけでも抜け出て肉体から離れようとする。そうやって自分を守るの」という台詞です。

 アニーは明らかにモーテルでの時間を思い出し、まだ面談の時間が10分も残っているというのに、動揺したように部屋を出て行きます。

 薄々感じていながらも明確に言語化できず、またそう考えることがそもそも悪いことであるかのように感じていたからこそ、彼女はその場を去ったのではないでしょうか。


 つまり、これはれっきとしたレイプなのです。

 表層的に解釈しているひとは「レイプは物理的な暴力行為」であり、「そのこと自体が問題だ」と誤認しがちです。

 しかし、それではレイプという犯罪の本質を見逃します。

 アニーが性愛の対象者であるチャーリーから自らの意識を外したということは、アニーは「ことの最中」に「相手と同じ場所にはいないこと」を選択し、その時間を「自らの存在として味わうこと」をも「放棄した」ということです。

 ようするに彼女は、アニー・キャメロンという「ひとりの生きている人間」としての自由意志を自ら抹殺したわけです。

 そんな状態で行われた性行為をどうして「和姦だ」などと言えるのでしょうか。

 とんでもない話です。和姦というのは、相手と共にその時間を感じようとする、そのための共感と共有意識(いたわりや思いやりと言い換えても良いですが)を持って臨むことを指すはずです。

 アニーがモーテルで経験したことは、むしろレイプそのものだ、とぼくは思うのです。

 皆さんはどのようにお感じになりますか?


 今回取り上げた『チャット 罠に墜ちた美少女』は、Netflixでも観ることができます。お近くのレンタル店に置いてない場合は、是非アクセスしてみてください。


 では、次回またお会いしましょう。


■『チャット 罠に堕ちた美少女』

■原題 Trust

■製作年 2010年

■製作国 アメリカ

■上映時間 106分

■監督 デビッド・シュワイマー

■製作総指揮 アヴィ・ラーナー
ダニー・ディムボート
トレヴァー・ショート
ボアズ・デヴィッドソン
ジョン・トンプソン

■製作 デヴィッド・シュワイマー

ロバート・グリーンハット

ハイディ・ジョー・マーケル

トム・ホッジス

エド・カテル三世

デイナ・ゴロム

■脚本 アンディ・ベリン

ロバート・フェスティンガー

■撮影 ダグラス・クライズ

■編集 デビー・バーマン

■キャスト クライヴ・オーウェン

キャサリン・キーナー

リアナ・リベラト

ヴァイオラ・デイヴィス

ジェイソン・クラーク

クリス・ヘンリー・コフィ

ジョー・シコラ

スペンサー・カーナット

ノア・エメリッヒ ほか


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著者

三宅 隆太

1972年生まれ。若松プロダクション助監督を経て、フリーの撮影・照明スタッフとなり、映画、テレビドラマ等の現場に多数参加。 その後、ミュージックビデオの監督を経由し、脚本家・監督に。 日本では数少ないスクリプトドクター(脚本のお医者さん)として、ハリウッド作品を含む国内外の映画やテレビドラマの脚本開発やリライトにも多く参加している。 主な作品は、映画『劇場霊』『クロユリ団地』『七つまでは神のうち』など。テレビドラマ『劇場霊からの招待状』『クロユリ団地~序章』『世にも奇妙な物語』『時々迷々』『古代少女ドグちゃん』『女子大生会計士の事件簿』『恋する日曜日』ほか多数。著書に『スクリプトドクターの脚本教室・初級篇』『スクリプトドクターの脚本教室・中級篇』(ともに新書館)などがある。

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