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よみものどっとこむ

第13回

「夢を諦めきれない中年男」の孤独と苦悩をメロドラマの体裁で描いた秀作

2017.01.05更新

読了時間

【この連載は…】脚本家、映画監督、スクリプトドクター(脚本のお医者さん)、心理カウンセラー等、多方面で活躍する著者初の映画コラム! 日本における数ある〈劇場未公開映画〉のなかから「これ、なんで劇場公開しなかったんですか?」と思ってしまうほど見応えのある良作を取り上げ紹介。お店ですぐにレンタルできる作品を、洋画中心にセレクトしていきます。


 今回取り上げる作品は『あなたとのキスまでの距離』。

 2013年制作のアメリカ映画です。

 内容を「端的」に説明すると、概ね以下のような感じになります。


「妻子持ちの中年男が、自宅にホームステイすることになった女子留学生と不倫関係に陥る話」


 うーん……。

 自分で書いておいてなんですが、この説明には違和感を覚えます。

 大筋は間違っていないものの、一方でまったくそういう話じゃないとも言えるからです。

 なんだか、もったいつけている感じで嫌ですね。

 でも、実はこの点こそが『あなたとのキスまでの距離』という映画のやっかいなところでもあり、また大きな魅力でもあるのです。


 そもそも「中年男が女子学生と不倫関係に陥る」と聞くと、多くのひとは「ああ……古女房に飽きてしまって、若い女の色香にやられちゃったんだな」といった「原因と結果」を想像されるのではないでしょうか。

 もちろんそれは当然のことだと思います。

 しかし、そういったゴシップ的な「バイアス」を前提に観てしまうと、本作独自の魅力を見落とす危険性があります(とはいえ、いざあらすじを説明するとなると、やはり「中年男が女子学生と不倫関係に陥る」になってしまうというジレンマは消えないのですが。苦笑)。


 この映画が興味深いのは「画に描いたような不倫メロドラマの軌道」を敷きながらも、実際には「夢を諦めきれない中年男の孤独と苦悩」を描こうとしている点です。

 言ってみればシルベスター・スタローンの『ロッキー』に近い、より正確には対になるような「ロッキーになり損ねた男」を描いた作品と表現しても良いかもしれません。


 ご存じの通り『ロッキー』はボクシングをモチーフにした映画ですが、実際には「ボクシングの映画」ではありません。

 むしろ「未精算の過去に囚われたままの人生と折り合いを付けるためには、新たな選択と行動を起こす必要がある。そうすれば抱えてきた夢との距離感が相対化され、仮に〈当初思い描いていた夢〉を、そのままの形では実現できなかったとしても、自らを認めることができたり、納得した人生を送ることが可能になるはずだ」という普遍的なメッセージを描いた作品です。

 だからこそ、ボクシング経験のないひとたちにも「まるで自分のことのように感じられる映画」として支持され、長く愛されてきたわけです。


 とりわけ熱狂的に受け入れたのは女性観客ではなく、圧倒的に男性観客でした。

「夢を諦めきれないまま中年期を迎えてしまった」と「感じている男性」がそれだけ世界中に多く存在するということなのでしょう。


 とはいえ、現実は往々にして映画のようにはうまくいかないものです。

 誰もがロッキーのように「諦めきれなかった夢との関係性」を精算できるような、また自らそれこそが正しいと納得できるような「選択や行動」を起こせるとは限りません。

 ましてやすでに妻がいて、子供がいて、すなわち「守らなければならない家庭」を持っている男性にとっては、「夢との関係性の相対化を図るための一歩」を踏み出すこと自体が、極めて難しいことなのではないでしょうか(実際にはそうとは限らないのですが、少なくとも「そのように感じて」苦しい思いをするひとが多いはずです)。

 ロッキー・バルボアの動向に勇気をもらった男性が数多いるのと同様、却って自らの無力感に苛まれた男性も数え上げたら切りがないはずです。


『あなたとのキスまでの距離』は、そんな「ロッキーになり損ねた中年男の孤独と苦悩」を「不倫モノの軌道」を使って昇華させようとしためずらしいメロドラマです。

 また、家庭とは何か? 個人とは何か? 男女とは何か? それらの普遍的な問題を内包しながら、登場人物ひとりひとりの心理を繊細かつ的確に掬い取ったヒューマンドラマの秀作でもあります。

 例によって、あなたの家の近所のビデオ屋さんの棚の一番下の段で埃を被っている可能性が高いので、この機に是非紹介させてください。

 それではいつものように、まずはあらすじを辿っていきましょう。


 キース・レイノルズはニューヨーク郊外に住む40代の白人男性。地元の高校で音楽教師を務めています。

 妻のメーガン、高校生の娘・ローレンとの生活は平穏そのものです。


 今日はレイノルズ家が年に一度の行事としてきた「家族写真」の撮影日。

 近所の写真屋さんにお願いし、庭で仲むつまじく過ごす家族の姿をスナップ風に次々と撮ってもらいます。

 ところが、メーガンとローレンが心底楽しそうに笑顔を見せるなか、キースはどこか満たされない表情を浮かべています。実は彼には「長年我慢していること」があるのですが、そのことを妻も娘も知らないのです……。


 その夜、書斎でひとり封書を開けるキース。

 勤め先の高校から来期の授業内容を記した時間割が届いたのです。キースはため息をつきながら、机の引き出しを開け、古い写真群を取り出します。

 それは仲むつまじい家族写真……ではなく、若かりし日のキースが仲間と共にバンドを組み、ライブをしていたときの様子を捉えたものでした。

 ギターを奏でるキースの表情は、現在とはまるで別人のように活き活きとしています。

 キースは「音楽を教える人生」ではなく、「音楽で食べていく人生」を望んでいたのです。叶えられなかったその想いは未だ健在で、彼の心の奥底に燻ったままです。

 そんな父の情動に気づくことなく、「お腹が空いたからサンドイッチ作って」と無邪気に注文する娘のローレン。

 バンドマンだったころの写真を隠すように、キースは慌てて笑顔を作ります。


 一方、妻のメーガンには気になっていることがありました。

 近々、イギリスからの交換留学生がホームステイに来るのです。

 留学生は女性で年齢は18歳。ローレンの少し年上の高校生とのこと。几帳面で家庭的なメーガンは留学生を迎える準備に余念がありません。せっせと家中を掃除し、ベッドのシーツを交換し、家具のレイアウトを整えていきます。

 そんな中、ホームステイにあまり気乗りしていない様子のキース。

 彼は音楽教師の傍ら、週末だけ地元の小さなオーケストラで臨時のチェロ奏者をしているのですが、近々オーディションが開催されるのです。

 もしもオーディションに合格したら、正式な楽団員になれるかもしれない。

 キースは掃除を手伝いながら「オーディションが近いからちゃんと練習したいんだけど……」と伝えますが、メーガンは素知らぬ様子です。

「留学生が来たって、べつに練習はできるでしょ?」とキースの顔も見ずに返答します。

 キースは何か言いたげですが、閉口するという選択をします。

 どうせ言ってもムダ。またバカにされるだけ……。内心そう感じているキース。

 実の娘に想いを隠し、妻にも自己開示できないまま過ごす生活が、どれだけストレスを溜めることになるか……。

 想像するだけでも胸が痛みます。


 そんな夫の様子に気づくことなく、メーガンは昼間に撮影した家族写真を大量にプリントアウトし、何やら作業を開始します。

『レイノルズ家より、残暑見舞い』と記された大量の封筒に件の写真を丁寧に折り込んでいくメーガン。そんな彼女の行動から、メーガンの几帳面さと「家庭的であること」への拘りが垣間見えます。


 数日後、あいにくの雨が降るなか、レイノルズ家の面々はキースが運転する車で空港へと向かいます。

 その後、空港ロビーで件の交換留学生ソフィーと出会い、和やかに挨拶を交わす一行。


 いつしか雨は止み、帰りの車中。ひとしきり自己紹介を終えたソフィーが、レイノルズ家の面々へと質問をしていきます。

 ピアノを得意とするソフィーはキースが勤める高校に転校することが決まっています。当然、彼が音楽教師なのは知っていましたが、地元のオーケストラに臨時で参加していることまでは知りませんでした。

 興味を持ったソフィーに対して、メーガンは言います。

「でも、ただの趣味だから。そうよね、あなた?」

 キースの表情が曇ります。

「仕事だよ。ちゃんとギャラももらってるんだし」

 メーガンはあまりピンと来ていないようで、話題を変えてしまいます。

 夫が「趣味ではなく、仕事だ」とわざわざ言い直したことへの「矜持」も「趣味と仕事には大きな差異があると彼が感じていること」にも興味がないようなのです。

 もしかしたら、そもそもキースの音楽への情熱自体に、メーガンは重きを置いていないのかもしれません。


 一方、初対面ながらソフィーは、キースの感情の変化に素早く気づき、話題を戻します。

「オーケストラでは何の楽器を担当しているんですか?」

 ソフィーが興味を持ってくれたことが嬉しく、キースは正直に伝えます。

「チェロだよ。今度のオーディションで正式な楽団員になれるかもしれないんだ」

「じゃあ、受かったら教師は辞めちゃうんですか?」とソフィー。

「そうだよ」と即答するキースに対して、メーガンは瞬時に否定します。

「ダメダメ、そんなの。何言ってんの」

「……」

 キースはまたも閉口します。

 その瞬間ソフィーは、妻ですら感じ取ることのできないキースの感情の変化と、日々溜め込んできたであろう想いの蓄積を敏感に感じとってしまうのです。

 人一倍想像力と共感力が高いソフィーは、黙して運転をつづけるキースの背中を後部座席からじっと見つめます。その眼差しにキースはまだ気がついていません。

 無理解な妻への苛立ちを抑えるだけでなく、自分自身の燻った想いへの凝視が強いため、新たな救いが目と鼻の先に近づいていることに心を向けるゆとりがないのです。


 ここまででおよそ10分弱。

 キースの情動に対し、気づきと着目を開始したソフィーの眼差しによって、物語にはメロドラマとしての「予兆」が立ち上がりました。

 この「予兆」は、本コラムでたびたび触れてきた女性神話の軌道の始まりです。


 日々抑圧を感じながらも依存せざるを得ない、服従せざるを得ない世界に暮らす主人公に対して、外部に存在していた新たな世界が光を灯す瞬間。

 それは主人公が、本来の「ありのままの姿」で輝けるようになるための「チャンス」が到来した瞬間でもあります。

 キースは中年男性ですが、紛れもなく女性神話の主人公そのものです。


 元来、女性神話は「結婚」の暗喩として機能する物語構造です。

 例えば、母親が与えたり望んだりする「理想」に触れながら成長してきた娘が、やがて女性としての、また個人としての自我に目覚め始めると、「理想」は重圧や抑圧へと変化し始めます。

 だったら逃げ出せばいいじゃないか、と思われるかも知れませんが、母親の「理想」こそが唯一の正義だと信じて疑わない、或いは正義だと信じることでしか生きられないと思い込んできた娘にとって、自分の感情に従うという選択を「悪事」だと感じ、気づかぬうちに自らを追い込んでしまうことは多々あります。

 その結果、娘は次第に闇を纏うようになり、窮屈な人生を歩まざるを得なくなります。

 これは現実の世界でも度々起こることです。


 女性神話が「おとぎ話」として描かれる場合、娘の闇に光りを灯すのは、いわゆる王子様の役割です。

 母親にあてがわれた服装や化粧に窮屈さを覚えている娘に対し、彼女自らが気に入っている装飾や、素の状態でいることそのものに「彼女ならでの魅力があること」を指摘し、勇気づける王子様。

 母親とは異なる価値感を持った外世界の住人(王子様)に承認されたことで、暗く絶望そのものだった「世界」に光が差し、娘は次第に自信を得ていき、本来の自分らしさを取り戻し、「ありのままの」姿で輝き出します。

 その結果、王子様の住む世界へと旅立ち、幸せを勝ち取る、というのが「結婚」の暗喩として機能する女性神話を流用した典型的な「おとぎ話」の構造です。


 ちなみに、いまは娘や母親、また王子様というキーワードで説明しましたが、この構造自体は主人公のセクシャリティー(男性か女性か)とは何の関係もないため、あらゆるジャンルの物語に転用が可能です。

 例えば、ジェームズ・キャロメンのSFアクション映画『アバター』では、不慮の事故により車椅子生活を余儀なくされていた主人公(男性)が、遠隔操作のキャラクター(アバター)として、未開の惑星パンドラでの生活を謳歌していきます。この流れは典型的な「女性神話」の流用と言えるでしょう。


 いずれにせよ、『あなたとのキスまでの距離』は、ひときわ繊細な感情を抱えた中年男性のキースと、ひときわ共感能力の高いソフィーが出会ったことによって、停滞していたキースの心の時間が加速度的に回転を始める物語です。

 ただし、ソフィーが若く美しい女性で、キースが妻子持ちの男性であったことから、本人たちにとっては純度の高い「救いの物語」でも、周囲から見ると「単なる不倫関係」に見えてしまう。

 この点こそが本作を一筋縄には行かない物語(メロドラマ風のヒューマンドラマ)に仕立て上げている最大のポイントでもあるのです。


 いずれにせよ本作では、さきに提示した車内のシーンのように「登場人物が別の登場人物へと眼差しを向ける瞬間」が度々訪れます。

 個々のキャラクターは決して多くを語ろうとはしませんが、彼らひとりひとりの想いに観客が気づくたび、まるで観客の想いを代行するかのように、別のキャラクターが対象の人物へと眼差しを向けていく。

 そのタイミングと表現がおどろくほど繊細でさりげないため、ぼんやり観ていると見逃してしまうかもしれません。

 ですが、キャラクターたちの情動に着目し、言葉(バーバルメッセージ)や表情(ノンバーバルメッセージ)に傾聴しながら観てゆくと、まるで手に取るように想いが理解できる的確さを備えています。

 静かに進行する(ともすると地味な)物語であるにも関わらず、常にスリリングでサスペンスフルな空気感を醸造しているのは、ひとえにこの「眼差し」の扱いによるものです。


 本作を演出したのは、アメリカの映画監督ドレイク・ドレマス。

 脚本を執筆したのはドレマス自身とベン・ヨーク・ジョーンズのふたりです。

 このコンビは、ドレマスのデビュー作『今日、キミに会えたら』でも共同脚本を担当しています。

「眼差しの交錯」で描かれる個々のキャラクターの情動のもつれは、当時からすでに発揮されていました。


『今日、キミに会えたら』は、出会ってすぐに一目惚れし、互いに恋に落ちたふたりの大学生が主人公の物語です。

 彼らはアメリカ人の青年とイギリスからの女子留学生によるカップルなのですが、彼女が(彼を愛するあまり)ビザが切れてもアメリカに滞在していたことから、ある日イギリスに強制送還させられてしまいます。それを機に遠距離恋愛になったふたりが次第にすれ違いながらも、愛を全うしようと格闘する姿を丁寧に描いた傑作です。

 デジタル一眼レフで撮られた低予算の作品にもかかわらず、サンダンス映画祭でグランプリと審査員特別賞をダブル受賞しました。


 ちなみに審査員特別賞を受賞したのは監督や脚本家ではなく、留学生役を演じた女優、フェリシティ・ジョーンズです。

 彼女はそのまま、同じ監督・脚本コンビの次作である『あなたとのキスまでの距離』でもヒロイン役を務めています。つまりソフィーの役ですね。


 ドレイク・ドレマスとベン・ヨーク・ジョーンズがアメリカ映画界に果たした最大の貢献は、当時はまだ無名の端役女優だったフェリシティ・ジョーンズに光を当て、二本の映画に連続主演させただけでなく、彼女の魅力を最大限に引き出し、多くの観客の目に届けたことでしょう。


 ご存じの通り、その後フェリシティ・ジョーンズはハリウッドで押しも押されぬ大スターになりました。

 今回の『あなたとのキスまでの距離』のあと、彼女は『博士と彼女のセオリー』に大抜擢されホーキング博士の妻という大役を演じ、アカデミー賞にノミネートされます。

 そして、『ダヴィンチ・コード』シリーズの第3作目にあたる『インフェルノ』ではトム・ハンクスと共演し、その後、『ローグ・ワン/スターウォーズ・ストーリー』でメジャー作品での初主演を果たします。

 長い下積み期間を経て、本来の実力を発揮し、輝きを手に入れたフェリシティ・ジョーンズ。彼女にとっての女性神話は、ドレイク・ドレマスとベン・ヨーク・ジョーンズによる低予算映画に出演したことで動き始めたのです。


 一方で彼らコンビにとっても、フェリシティ・ジョーンズはミューズだったのだろうと思います。

 実際、『今日、キミに会えたら』『あなたとのキスまでの距離』ともに、明らかに脚本をアテ書き(具体的な俳優をイメージし、彼や彼女の特性を脚本のキャラクター造型にそのまま活かして執筆する方法)しているのは、観ていれば分かりますし、完成した映画にもその効果は確実に出ているからです。


 そんなフェリシティ・ジョーンズが演じたソフィーの相手役、つまりこの物語の主人公であるキースを演じたのは、イギリス出身の俳優ガイ・ピアースです。

 3人のドラッグ・クイーンによる旅を描いた魅力的なロードムービー『プリシラ』で注目されたのち、『LAコンフィデンシャル』で頭角を現した彼は、ハリウッドの大作から作家性の強い低予算のソフトストーリーまで多彩にこなす、職人肌の演技派です。

 今作でも監督・脚本コンビのカラーに合わせ、徹底的にストイックな内的演技を追求し、観る者を圧倒します。

 とりわけフェリシティ・ジョーンズとの「視線の交錯による感情表現」では実力を遺憾なく発揮、具体的なエピソードとしては表出してこないキースのバックストーリーを的確に描写することに成功しています。

 リドリー・スコットがエグゼクティブ・プロデューサーを担当したドレイク・ドレマスの新作『ロスト・エモーション』(日本では今年リリース予定)でもキーパーソンとして出演しているところをみると、本作の仕事ぶりでドレマスからの圧倒的な信頼を得たのかもしれませんね。


 さて、物語のなかでキースとソフィーの関係はどのように変化していくのか。

 もちろんご想像の通り、ふたりは次第に惹かれ合っていきます。

 キースがそうであったように、ソフィーにも当然バックストーリーが存在し、彼女自身もまた闇の中で苦しんでいることが判明します。そして、そのことが観客の心を静かに、かつ確実に掴んでいきます。


 例えば、ピアノが得意で、だからこそ交換留学をしたはずの彼女が、他人の前ではなかなかピアノを弾こうとはしない。

 そんな彼女がキースの前で初めてピアノを弾いてみせる場面は出色です。

 といっても、フェリシティ・ジョーンズが、実際にピアノが得意な女優というわけではないので、弾くという行為自体が映像的な見せ場になっているのではありません。

 むしろ、彼女の弾いている様を見つめるキースの眼差しが素晴らしいのです。


 これはさきに触れた車内でのソフィーからキースへの眼差しと対になる描写でもあります。

 他の誰もが分からなくても、互いの心の苦しさに気づいてしまった者同士が、静かに想いを馳せる眼差しの交差は、凡百の台詞を交わすよりも雄弁な、実に見事な芝居場となっています。


 キースの娘ローレンとソフィーとの間で生じる葛藤も見応えがあります。

 ともするとおせっかいで、コントロールフリークのきらいがあり、ついつい何事もひとりでやってしまおうとする母・メーガンの育て方の影響もあるのでしょう。娘のローレンは依存心が強く、他人と群れていないと不安で、常に物事の楽な方を選択しがちな少女です。

 孤独に強くストイックな面のあるソフィーとは正反対なローレンは、ソフィーの知性と想像力の高さに対し、次第に嫉妬心を抱き始めます。

 そして、そのことが物語の中間部で大きな転換点を作り出すことになるのです。


 ローレン役のマッケンジー・デイビスは、この当時まだ新人で、お世辞にも芝居が巧いとは言えません。演技自体もシーンによって不安定さが拭えませんし、なによりデイビス自身が映画撮影そのものに緊張しているのが見てとれるのは致命的です。

 ただし、こういったことは、前回取り上げた『チャット 罠に墜ちた美少女』のリアナ・リベラトのケースと同じで、経験値の少ない新人俳優の場合、大なり小なり避けられないことでもあります。

 とはいえ、ドレイク・ドレマスもまた俳優の生理を重視し、決してリザルト演出をしない監督なので、デイビスが棒立ち状態に陥っているわけではありません。

 むしろ中盤から後半に掛けて、ローレンが物語を大きく展開させていく流れでは、デイビス自身の緊張している感覚を逆手にとって、うまく役柄とリンクさせることに成功しています。

 このくだりは拙さが故のドキュメンタリックな迫真性があり、観ている多くのひとが、かなりの緊張を強いられるでしょう。

 おそらくは監督に対するゆるぎない信頼感があり、その結果、現場でも無理なく自己開示ができていたのだろうと思います。

 というのも、デイビスはニューヨークの小劇場で無名の演劇に出演していたところをドレイク・ドレマスに発見され、今作のローレン役に引き抜かれたという経緯があるのです。

 父親役のピアースや名バイプレイヤーである母親役のエイミー・ライアン、また天才肌のフェリシティ・ジョーンズらと共演したことで多くの学びを得たのではないでしょうか。

 その後、リドリー・スコットの『オデッセイ』への出演を経て、2015年制作の劇場未公開映画の傑作『フリークス・シティ』(日本では今年DVDがリリース予定)では、見事主演を勝ち取りました。ぼくは輸入盤のブルーレイで随分前に観たのですが、そこでのデイビスは、本作とは打って変わったコメディエンヌぶりも発揮していて、とても見応えがありました。


 さて、物語に話を戻しましょう。

 その後、キースとソフィーの距離感が縮めば縮むほど、緊張の糸を強く張っていくような展開になります。

 ひとつ屋根の下に、妻と娘がいるなかで惹かれ合っていくわけですから、主人公ふたりの背徳感や葛藤の足枷は並の不倫ドラマの比ではありません。


 しかしながら、ふと気になってくるのです。

 古今東西、不倫メロドラマを作る際には「鉄則」とされている要素があるのですが、この映画では中間部を越えても「それ」をやる気配がまったく見えてこないのです。


 その鉄則とは、「不倫の足枷になる存在(妻や夫)は、必ず善良なひととして描くべし」というものです。

 映画に於いては、古くはメロドラマの巨匠ダグラス・サークの作品群、書籍ではハーレクインロマンスに代表されるロマンス小説などでも、この鉄則は必ず守られてきましたし、実際、歴史に残る数多くの名作不倫ドラマでは、カップルの恋の邪魔になる存在(妻や夫)は「良いひと」として描くのが定石とされてきました。


 なんのためか、と問われれば答えは簡単です。

 その方が恋に落ちた主人公たちの葛藤が増すからです。


 例えば、暴力夫に苦しめられている妻が優しい男と不倫する話を観ても、 「うん、そりゃそうだ。早く逃げた方がいい」と思うだけです。

 これでは極めて倫理的な行為にしかならず、本質的には不倫ではないとさえ言えるでしょう。


 一方、優しくて家庭的で文句の付けようがない妻や夫がいる人物が、それでも運命的に出会った異性にどうしようもなく惹かれてしまう。

 このように描くほうが、不倫メロドラマの主人公としては、確実に「心が揺れる(葛藤する)」のです。

 こんなに素晴らしい夫(あるいは妻)がいるのに……でも、どうしても逢いたい! そういって主人公やヒロインが夫(や妻)にウソをついてこっそり外出してみたり、不倫相手との待ち合わせ場所に駆け込んでみたりする場面を、映画やテレビドラマでご覧になったことがおありかと思います。

 それはその方が確実に面白くなるからなのです。


 この法則に照らして考えた場合、本来ならばキースの妻メーガンは、夫に対して理解があり、音楽家として食べていくという彼の夢を(家計を支えるためにわざわざパートでもしながら)一緒になって追うような妻として描くはずです。

 そうしないとキースのなかでソフィーへの想いに「罪悪感」が芽生えづらくなり、メロドラマとしても葛藤が弱くなります。


 ところが、この映画ではすでに何度もお伝えしてきたように、メーガンはむしろキースの想いをないがしろにし、それどころか初対面のソフィーがその場にいるにも関わらず、彼の面子を潰すような発言をします。

 そして、何よりキースが最も大切にしている音楽自体を軽視するような発言や態度を何度も何度も繰り返していきます。


 これはジャンル映画としては明らかに定石違反ですし、普通なら失敗とされてしまう作劇です。

 ところが、実際にこの映画をご覧いただくとお分かりになるかと思いますが、どう考えても失敗ではないのです。

 それどころか、妻の態度が定石違反であることが、むしろこの映画を面白くしていると言っても過言ではありません。

 そこでぼくは冒頭に述べたように、「これは不倫メロドラマのフリをしているだけで、実際にやりたいことはまったく別のものなのではないか」と感じるのです。


 実はキースとソフィーがしていることが不倫かどうかなんてことは本当はどうでも良く、それどころかふたりの恋の行く末がどうなるかにすら作り手はさほど興味もなく、むしろこの話は、一見妻を悪者に設定することで、また娘を想像力のない少女として描くことで、単に優柔不断で自己憐憫の強い「夢を諦めきれない中年男」が「男性性の弱さにかまけて自己開示できない心持ち」をひたすら追いつめていくことそのものが目的なんじゃないのか、という気がしてくるのです。


 もちろんキースが感じている「心の苦しみ」自体はたしかに気の毒ですし、多くのひとが共感するものだとも思います。

 実際、ぼくもとても共感し、家庭内で孤立していた彼にとって、ついに理解者となるソフィーが現れたことや、彼女とキースが相思相愛になっていく過程そのものには大きな救いも感じました。


 しかし、キースが本当に本気で音楽家として生きていきたいのであれば、またそのことが現状のありとあらゆることと比べても譲れないことなのだとしたら、たとえ妻や娘が無理解だとしても、すべてを投げ打ってでも家を飛び出して勝負に出ているのではないか、と思うのです。

 つまり、「殻」を破る行動に出るはずなのではないか、と。


 以下は具体的なエピソードとしては表出してこない要素なので、あくまで想像に過ぎませんが、おそらくは今から17、8年前、メーガンがローリンを妊娠したとき、キースとメーガンはまだ籍を入れていなかったのではないかと思うのです。

 つまり、ふたりはでき婚だったのではないか。

 もし仮にそうではなかったとしても、ローリンが生まれた時期と前後して、キースは生活のために音楽家の道を諦め、音楽教師という職を選んだはずです。

 その当時、メーガンはキースの選択に対して申し訳なさを感じたかも知れませんが、おそらくはそれ以上に感謝し、喜んだことでしょう。

 彼女のために、彼女を愛しているがゆえに、そして彼女とこれから生まれる子供とともに家庭を作るために、とキースが「腹をくくった上」で選択した行動だと、信じたはずだからです。


 というのも、前半部を観るだけでも、メーガンが「家庭的であろうとすること」への拘りをいかに強く抱いているかが分かります。

 良妻賢母として夫に尽くし、娘を可愛がり、近隣の住民や親戚らとの関係性を強化してゆくこと、そしてそれらを守り続けること等が、彼女にとっていかに重要かつ特別なことかというのは後半部に至るまでまったくブレることなく貫かれています。


 それらがメーガンの母親から伝授されたものなのか、あるいは逆に母親への反発から来るものなのか、さらには父親との何らかの関係性によるものなのか等は分かりませんが、いずれにせよ、ここまで強い信念で行動する人物である以上、メーガンは独身時代から「その素振り」を絶対にキースにも見せていたはずです。

 そして、自分が家庭というものにいかに重きを置いているかということを、当時は恋人であったキースに対し、数多くの言葉や行動を通じて、くり返しくり返し伝えてきたはずなのです。

 もしも「いやいや、こんなはずじゃなかったんだ。メーガンが家庭を大事にすることに拘っているだなんて、結婚してみるまでぼくはまったく知らなかったんだよ」とキースが言うのであれば、問題はさらに深刻です。

 キースは最愛のメーガンが言うことを、彼女がこの世で最も大切にしていることを、実はまったく聴いてこなかったということになるからです。


 残念ながら、この可能性は否定できません。

 というのも、実は劇中に何度かキースがボーッと意識が外れる瞬間があります。

 いわゆる「ねぇ、私の話聴いてる? と女性から言われてしまう男状態」に陥ってしまうのです。


 もしかしたら、この映画のなかでメーガンが必要以上にキースに辛く当たっているようにみえるのは、あらゆる面でキースの行動に覚悟がなく(メーガンの妊娠が不用意な出来事だった可能性はあります)、かといって変化を受け入れる気もなく(過去に、音楽活動を諦めるとメーガンに伝えてしまっているのは明らかです)、その上で他者への関心が低く(メーガンとの会話はすべて表層的です)、いつまでも過去に囚われ(どうせ言ったところで伝わらないだろう、と閉口してしまうことは一度や二度ではありません)、自己憐憫に陥り(こっそりとバンドマン時代の写真を隠し持ち、ひとりで眺めつつ、見つかりそうになるとは隠してしまう)、尚かつ自己開示をしないで想いを溜め込む(メーガンの発言に言い返すことは可能なはずなのですが、それをしようともしない)から、なのではないでしょうか。


 果たしてキースは本当に「音楽で食べていく覚悟」があるのでしょうか?

 本当は「音楽で食べていく覚悟があったのに、それが叶わなかった俺」という過ぎ去った時間を隠れ蓑にして逃げているだけなのではないでしょうか?

 もしそうだとしたら、このさきソフィーとの関係はうまくいくのでしょうか?

 自分が救われたというだけではなく、ソフィーのことをきちんと救うことはできるのでしょうか?


 冒頭でぼくは、この映画のことを「ロッキーになり損ねた男の話」と申し上げました。

 たしかにそうなのです。キース・レイノルズは現実的で、臆病で、諦めがちな男です。

 そういう意味で、今のままではロッキー・バルボアにはなれない男かもしれません。

 ですが、実はいつだって、どの瞬間にだって、キースがロッキーになれる可能性はあるはずなのです。

 ロッキーを変えたのは、チャンピオンのアポロではなく、セコンドのミッキーでもなく、恋人のエイドリアンでもありません。

 ロッキーを変えたのはロッキー自身です。

 キースを変えることができるのも妻のメーガンでも、娘のローリンでも、不倫相手のソフィーでもなく、キース自身なのです。

 そのことに気づいたとき、キースは「ロッキーになりそこねた男」ではなくなり、彼自身の人生を彼らしく生きられるようになるはずです。

 実際にキースがどのような選択をし、どのような行動に出るのかは、是非映画をご覧になってご確認ください。


 いずれにせよ、この映画を通じて、監督のドレイク・ドレマスはキースという人物を徹底的に追いつめていきます。

 その追いつめ方は一見静かで繊細ですが、実はとても熾烈で過酷です。殆ど憎しみを抱いているのではないかと感じるほどです。

 ですが、ラストシーンに至ってぼくは、ドレマスはそうやってずっとキースを追いつめながら、実は彼のことを応援していたのだと気がつきました。

 ひと知れずキースのことを誰よりも心配し、誰よりもしっかりと見つめていたからこそ、この映画は「眼差しの交錯」という演出方法を大切にしてきたのではないか。

 もしかしたら、ドレマスがキースに向けた眼差しは、世界中にいる「ロッキーになり損ねた男たち」に向けた、ちょっと(というか、かなり)厳しめの餞別なのかもしれない。

 ラストシーンに登場する「あるショット」を観て、ぼくはそのように感じたのです。

 皆さんはどのようにお感じになりましたか?

 それでは、次回またお会いしましょう。

■『あなたとのキスまでの距離』

■原題 Breathe In

■製作年 2013年

■製作国 アメリカ

■上映時間 97分

■監督 ドレイク・ドレマス

■製作 ジョナサン・シュワルツ

アンドレア・スパーリング

スティーブン・レイルズ

マーク・ロイバル

■脚本 ドレイク・ドレマス

ベン・ヨーク・ジョーンズ

■撮影 ジョン・ガレセリアン

■編集 ジョナサン・アルバーツ

■キャスト ガイ・ピアース

フェリシティ・ジョーンズ

エイミー・ライアン

マッケンジー・デイビス ほか


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著者

三宅 隆太

1972年生まれ。若松プロダクション助監督を経て、フリーの撮影・照明スタッフとなり、映画、テレビドラマ等の現場に多数参加。 その後、ミュージックビデオの監督を経由し、脚本家・監督に。 日本では数少ないスクリプトドクター(脚本のお医者さん)として、ハリウッド作品を含む国内外の映画やテレビドラマの脚本開発やリライトにも多く参加している。 主な作品は、映画『劇場霊』『クロユリ団地』『七つまでは神のうち』など。テレビドラマ『劇場霊からの招待状』『クロユリ団地~序章』『世にも奇妙な物語』『時々迷々』『古代少女ドグちゃん』『女子大生会計士の事件簿』『恋する日曜日』ほか多数。著書に『スクリプトドクターの脚本教室・初級篇』『スクリプトドクターの脚本教室・中級篇』(ともに新書館)などがある。

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