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よみものどっとこむ

第14回

交際6年目のカップルがわずかな軋みをきっかけに愛情を取りこぼしてゆく物語

2017.01.17更新

読了時間

【この連載は…】脚本家、映画監督、スクリプトドクター(脚本のお医者さん)、心理カウンセラー等、多方面で活躍する著者初の映画コラム! 日本における数ある〈劇場未公開映画〉のなかから「これ、なんで劇場公開しなかったんですか?」と思ってしまうほど見応えのある良作を取り上げ紹介。お店ですぐにレンタルできる作品を、洋画中心にセレクトしていきます。


 今回取り上げる作品は『6年愛』。

 2015年に制作された低予算のアメリカ映画です。


 とりたてて派手なことは起きませんし、ともすると地味な作品にも見えかねませんが、恋愛経験のあるひとなら誰もが思い当たる「男女のわずかな感情のすれ違いによって、関係性が崩壊していくプロセス」を驚くほど繊細かつリアルに描写した傑作です。

 個人的には、2015年に観た映画の中でダントツに魅力を感じた作品で、雑誌やラジオなどのランキングでは同年のベストワンに選出しました。

 DVDなどのソフト化はされていませんが、Netflixで鑑賞可能です。この機に是非紹介させてください。

 まずは、いつものようにあらすじを確認していきましょう。


 メラニー・クラークとダン・マーサーは、テキサス州オースティンに暮らす交際6年目のカップルです。

 メラニーは現在大学三年生、ダンはひとつ年上の四年生で卒業と就職を控えています。


 現在、半同棲状態のふたりは周囲が羨むほど仲が良く、どこへ行くにも何をするにも常に一緒です。週末にはサイクリングやキャンプをくり返し、夜になると毎日のようにベッドで愛を交わしています。

 まるで「つきあいたてのカップル」のような彼らを見ていると、交際歴6年とはとても思えませんし、このさき関係性が崩壊するなんて想像だにできません。

 しかし残念ながら、軋みは静かに、そして確実に近づいていたのです……。


 軋みの正体は、いわゆるメロドラマに登場しがちな「劇的な出来事」や「事件」の類いではなく、ふたりの関係性そのものにあります。

 長年連れ添ってきた夫婦のように、あまりにも自然体で接してきたが故に生じた「相手に対する思い込み」と「依存」が軋みを生み出していく。

 まずはこの点が『6年愛』という映画が持つリアリティと誠実さです。


 例えば、メラニーは最近、心に思っていることがあります。

 このままダンと交際を続け、26歳までには結婚し、子供を産みたい……。

 愛するひとと交際していれば誰もが考えるであろう、ごくごくありふれた願望ですが、ひとつ問題があります。

 肝心のダンは「そのこと」を知らないのです。

 彼の想像力が欠落しているからではありません。メラニーが伝えていないからです。


 言うと彼が臆してしまうのではないか、逃げられてしまうのではないか、という不安からくる配慮ではありません。

 言わなくても大丈夫、むしろわざわざ言う必要もない。ふたりの関係性はこのまま変わらず、すべては順調に進むだろうとメラニーは考えているのです。

 一見すると、前向きな楽観主義ともとれる彼女のこの思考は、実は極端な主観性によって生み出された「思い込み」であり「依存」です。

 いやいや、そんなの若いんだから仕方ないじゃん! と仰る方もいるでしょう。

 ぼくもそう思います。そう思って見始めるわけですが、映画は徐々に、メラニーの内面に存在する年齢や経験値とは無関係の「思考のクセ」を暴いていきます。


 ひとことで言うと、メラニー・クラークは「変化」を極端に恐れる人物です。

 彼女は、居心地が良い(と感じた)環境や物事に対して、そのままの形での維持や継続を強く望む傾向があります。

 その結果、新しく起きた出来事には「懐疑心」や「不安」を抱きやすく、それを押してまで受け入れたり対応しようとすると、瞬時にストレスを感じ、冷静さを失ってしまう。

 良く言えばピュアですが、悪く言えば少し幼い思考の持ち主なのです。

 そのため、就職を控えたダンが、徐々に「社会性の思考」を持ち始めている(変化を受け入れている)ことに、メラニーは気がついていません。

 ダンが一足先に卒業しようとしているのは大学だけではなく、この6年間メラニーと共有してきた「幼年期の思考」なのです。


 ところで、人間の恋愛感情は3年で期限切れになるそうです。

 なんだか身もフタもないといいますか、少々残念な気もする話ですが、この「賞味期限3年説」はもはや定説として世界中で広く認知されています。


 なぜ恋愛感情には期限切れがあるのでしょう? そもそも恋愛感情とはどのように発生するものなのでしょうか?


 通常、ひとが恋に落ちると、脳内にフェニルエチルアミン(以下、PEA)というホルモンが分泌され、互いに「ときめきを感じるようになる」と言われています。

 ところが、時が経つにつれPEAの分泌量は徐々に低下、出会いから3年を経過するころには、ほとんど分泌されなくなります。

 その結果、付き合って3年以上経ったカップルは、互いの存在に「異性としての魅力」を感じなくなる。

 つまりは、恋愛対象者として「飽きてしまう」のです。


 一方で3年が経過すると、新たなホルモン(βエンドルフィンとセロトニン)が発生すると言われています。

 これらのホルモンには、安心感や安定感、或いは穏やかさや居心地の良さなど、いわゆる「幸福感」を感じさせる効果があります。

 初期段階には存在した「ときめき」を感じられなくなるかわりに、一緒にいてリラックスできる相手という認識を得られるようになる。

 つまりは「変化」が生じるわけです。

 この変化はカップルが次の段階へと進む試練であり、むしろ喜んで受け入るべきものなのかもしれません。

 一方で、過ぎ去った〈ときめき〉に執着してしまった場合、いとも簡単に倦怠期に陥ってしまうという危険信号でもあります。

 これらの点を踏まえ、話を物語に戻しましょう。


 ある日、ダンとメラニーは友人のパーティーに参加します。

 気の置けない仲間たちとの宴席は大いに盛り上がり、ふたりとも充分に楽しんでいます。

 やがてダンはメラニーを残し、一足先にアパートへと帰ることになりました。

 ここ一年近く、地元のインディーズ専門のレコード会社でインターンとして働いてきたダン。明日は出勤日で朝が早いのです。


 一方、メラニーはひとしきりパーティーを楽しんだあと、酩酊状態のまま女友だちを車で送り、帰宅します。

 すでに眠っていたダンは目を覚まし、楽しげなメラニーを微笑ましく受け入れます。


 ところが、メラニーが飲酒運転で帰宅したことを知るや、ダンは激昂するのです。

「どうしてぼくを起こさなかったんだ! 電話してくれれば迎えに行ったのに!」

 思いがけず(この〈思いがけない〉ところがメラニーの幼さでもあります)強い言葉を浴びせられたメラニーはショックを受けます。

「だって……寝ているあなたを起こすのは悪いと思ったから」

 心に思っていたことを素直に話すメラニー。彼女からすると、飲酒運転をしたのはダンに対する気遣いの結果なのです。

 しかし、ダンは納得がいきません。

 そんな水くさい気遣いをされるよりも、心配させられることのほうがよほど負担を感じるからです。

 もちろんそれはダンがメラニーを愛しているが故のことです。


 一方、楽しかったパーティーの記憶を台無しにされた……そう感じたメラニーは、一気に不機嫌になります。

「もういい。今日は帰る。自分で運転して自分のアパートに帰るから」

 当然ダンは止めますが、メラニーは抵抗します。挙げ句、酔った勢いもあってメラニーは力任せにダンを突き飛ばしてしまいます。

 転倒したダンはチェストに後頭部を強打し、出血。

 我に返ったメラニーは謝罪し、大慌てで救急車を呼ぶのです。


 病院で治療を済ませたあと、彼らはナースから「事件」の状況を尋ねられます。

 ダンは「事件性」を否定し、自ら転んで頭を打った、と説明します。

 彼の〈大人な対応〉に、メラニーは自分の幼さを改めて気づかされたようで、バツの悪い思いを抱きます。


 翌日、ダンは職場のレコード会社に毛糸の帽子を被って出勤します。もちろん頭の傷を隠すためです。

 先輩の女性社員アマンダから「どうしたの? 真夏なのに帽子なんか被って」と訊かれるダン。

 病院では隠していたにも関わらず、ダンは「同棲相手のメラニーと喧嘩になり、突き飛ばされて頭をぶつけた」と正直に話します。


 この場面は危険な瞬間です。

 男性が「パートナーのミスを話すことができる異性」というのは要注意人物だからです。

 アマンダに対し、ダンがいかに心を開いているかが分かるだけでなく、彼がメラニーを愛してはいるものの、彼女の〈性分〉に関しては「もうすでにかなり前から」やや嫌気が差していることも伺わせるこの描写は、さりげなくもとても恐ろしいシーンで、映画に不穏な気配を漂わせはじめます。

「じゃあ、たまには息抜きしなきゃね」

 アマンダは邪気のない笑顔で、ダンを地元バンドのライブへと誘います。


 一方、メラニーは小学校に赴き、教育実習生として子供たちと楽しく過ごします。

 現在大学三年生の彼女は、将来小学校の教諭を目指しているのです。

 無邪気な子供たちと過ごすことで「昨夜の不快情動」を忘れていくメラニー。その表情には、これまで見せたことがないような安心感が溢れています。


 ダンが「将来のために」と接しているのは、音楽業界で生計を立てている自立した大人たち。片や、メラニーが「将来のために」と接しているのは、まだ社会とは接点を持っていない子供たちです。

 ふたつのシーンを対比して見せられたことで、観客はダンとメラニーが見つめている世界観の差を明確に知ることになります。

 ここまでで約11分が経過。映画『6年愛』のセットアップが完了しました。


 多くの観客が予測を立てるとおり、物語はこのあと「アマンダと一線を越えるダン」と「その事実を知ってしまったメラニー」とが、6年という時間を掛けて育んできた愛を取りこぼしていく様を描いていきます。

 これはネタバレではありません。

 実際、この映画には「ストーリー上は」それ以上のことは起きませんし、大きく予想を覆すような出来事も発生しないからです。

 だからといって『6年愛』が退屈でつまらない映画に墜ちることは一切ありません。

 本作の魅力は、ふたりの男女の心のすれ違いと、そこから派生する関係性の崩壊プロセスを徹頭徹尾冷静に見つめ続ける点にこそあるからです。


 脚本と演出を手がけたのは、アメリカ人の女性監督ハンナ・フィデルです。

 個人的には、2010年代にデビューした映画作家のなかでは「最重要人物」だと考えているのですが、日本ではあまり注目されていないようで、とても残念です。

 ちなみに現在、日本で観ることができるフィデルの作品は、今回の『6年愛』と、すでにDVDでリリースされ、Amazonプライムにもリストアップされている『女教師』の二本です。


 フィデル作品の大きな特徴と魅力は、恋愛や性愛を軸に発生する普遍的な男女の心情のズレと、その結果動き始める「女性心理の無垢な不安定さ」を、やや病的なほどに繊細なエピソードと描写で紡いでゆく点にあります。

 とりわけ「女性心理の無垢な不安定さ」に関しては、作家としての眼差しが際立っていて圧倒されます。


 ところで、女性作家による小説作品や女性エッセイストによるエッセイの類いでは頻繁にとりあげられる「恋愛を軸にした女性の内面描写」は、通常、映画では割愛されがちです。

 人間の内面に発生する感情自体が、映画という媒体ではそもそも表現しづらいものだとされているからです。ましてや「細やかな女性心理」を扱う場合は、なお難しいとされています。

 ところが、フィデルの映画は「それ」を平然と映し出してしまう。この点が彼女の映画が持つ類い希な魅力であり、特徴です。


 納得できないと感じる方もいるかもしれません。

 観てみたけど、ちっとも映し出されてなんかいなかったぞ、と。


 実際、フィデルの2作品に関するネット上の映画ファンのレビューには「退屈だった」とか「何も起きていなかった」という書き込みがいくつか見られます。

 退屈だったと感じるのは、そもそもがフィデル映画の「企画の眼差し(扱っている題材とモチーフ、またそこから呼び込まれたストーリーライン)」に起因するものでしょうから、「映画に何を求めるか」によっては否定的に捉えられてしまうのも致し方ないと思います。

 しかしながら、「何も起きていなかった」という意見に関しては、さすがに少々乱暴なのではないか、と感じます。

 というのも、フィデルのアプローチは単に超がつくほど現実的で、いわゆる「映画的」とされている構築方法とは異なるだけだからです。


 例えば、ヒッチコックの諸作や初期スピルバーグが得意としていた、カメラワークやカット割り、編集や音楽効果によって生み出される映画的高揚感とは無縁ですし、かといって演劇的な俳優の身体表現や台詞によるドラマツルギーとも異なります。

 さらには、ヌーベルヴァーグと称される一連のヨーロッパ作品にあるような、強烈な哲学に根ざした強固な構造や作家性を想起させるほどのクセも、一見すると存在しません。


 あくまでも「いま、ここ」に「ある心情を抱えた生きた人間がいる」という状況を作り上げ、役柄と完璧なまでに同調した俳優の「顔」を的確な位置から撮影することで「内的に発生している感情」を観客に類推・記憶させることで共感的に物語を紡いでいく、というのがハンナ・フィデルのスタイルです。

 これは現実世界での人間関係の再現に近いアプローチともいえます。


 例えば、男女間のトラブルとしてよく取り上げられる、デート中に発生するいくつかの事件。

 喧嘩の最中に交際相手の女性が「もういい! 話したくない!」と口にしたとして、男性側がその言葉を鵜呑みにしてだんまりを決め込むと、今度は「なんで黙ってんのよ!」と怒られる。その結果、「だって、話したくない、って言ったじゃん」と男性が返すと、「女心が分かってない!」と、さらに怒られてしまう。

 このとき、目の前の女性は「もういい!」と言いながら、内心では「全然よくない!」と考えているということが、きちんと共感性をもって感じとろうとすれば充分分かるはずなのですが、残念ながら分からない男性はたくさんいます。


 ここで重要なのは、目の前の女性の「顔」には、その内心の動きが「映し出されていないのか」と言われれば、実は「ハッキリと映し出されている」はずだ、ということです。


 あるいはデート中、やはり目の前の女性が「今日こんなことがあってさ……」と職場での愚痴をこぼし始めたとします。

 やがて、ものの数分もしないうちに男性側が話を遮り、「ああ、それならこうするべきだったよ」とか「いや、分かるけど、キミもそのひとに対して厳しすぎるんじゃない? そういうとこ直したほうが人間関係はスムーズになるんじゃないかな」などと「解決策」を提示してしまう。その結果、女性に怒られるか、女性が不機嫌になり帰ってしまうというケースは多々あるのではないでしょうか。

 この場合も「大変だったね、と言って欲しいだけなのに……」とか「説教されたいんじゃなくて、ただ愚痴を聴いて欲しいだけなのに……」という、目の前の女性の内心の動きは、実は「顔」に「映し出されている」はずです。


 これらの「見ようと思えば見えるはずなのに、見ようとしなければちっとも見えない」という女性の内面の動きを平然と映画に取り込んでしまうのが、フィデル映画のフィデル映画たる所以なのです。


 必然的に問われるのが俳優の力量です。

 今回の『6年愛』では、メラニー役がとりわけ重要になってきます。

 メラニーを演じたのはタイッサ・ファーミガ。第11回目で取り上げた『ファイナル・ガールズ 惨劇のシナリオ』で主人公マックスを演じていた若手女優です。

 ご承知の通り、あの映画はフィクション性が高く、ある程度カリカチュアされた芝居が求められる内容だったので、演技面でも「カタチを全うすること」が最重要課題でした。

 しかし、今回はまったく異なる質の演技が要求されます。

 メラニーという人物を「あたかも現実に存在している生きた人間」と見紛うほどに「なりきって魅せる」必要があるからです。


 実際、本作でのファーミガは『ファイナル・ガールズ 惨劇のシナリオ』での彼女とは別人です。髪型やメイクはほぼ変わらないのですが、表情や発声、佇まいは、まるで別世界の人間であるかのように異なります。

 ファーミガの「未開発の領域」をフィデルが見事に引き出すことに成功したと言えるでしょう。


 撮影現場に於ける、監督がすべき仕事の最重要事項のひとつは、俳優が役柄の気持ちにスムーズにフォーカスを合わせられるようにすることです。そのためには、これまでも度々お伝えしてきたように、リザルト演出をしないように心がけなければなりません。

 つまり、監督が事前に脳内で組み上げた「結果(リザルト)」にこだわりすぎてしまうと、イメージの枠組みに俳優をはめ込もうとしてしまいがちです。その結果、ともすると俳優の自意識ばかりを刺激してしまい、芝居に集中できなくなり、役柄から遠のいた状態が映し出されてしまう。

 フィデルの現場を観たことがないので、100%事実だとは言えませんが、彼女の描く世界観の繊細さや現実感を鑑みるに、おそらくは俳優とも相当綿密なコミュニケーションを図っているはずです。

 とりわけ、投げかける言葉に関しては慎重に慎重を期して伝達し、傾聴し、共感しながらポテンシャルを引き出す工夫をしているのではないか、と推察します。


 実際、本作でのファーミガの(ありきたりな表現ですが)「自然さの魅力」は、昨今のアメリカ映画に於ける若手女優の芝居のなかでは群を抜いています。

 例えば、前述のシーンと対になるように酔っ払って帰宅した恋人・ダンとキスをする場面で、彼が何の気なしに「あれ、また煙草吸ったの?」と口にした際のファーミガのリアクションの細かなリアルさには舌を巻きます。

 その後、就寝前にふたりで洗面所へ行き、並んで歯を磨くくだりでは、ダンに気づかれないように煙草の臭いを消そうと一瞬舌を磨くのですが、その動きと表情のさりげなさはカメラがあることを全く意識させない見事さです。

 ほかにも中盤で、ダンに誘われたメラニーがレコード会社の面々によるホームパーティーに参加した際の「気後れしてしまい、居心地の悪さを感じていること」を「感じとられないようにしている」芝居や、冒頭のパーティーシーンと対になるように、今度はメラニーが「明日が早いから」とダンを残して会場を去る場面での「本当はダンに跡を追ってきてほしいのに……」と想いながら振り返る芝居などは、あまりにも繊細かつ的確な表現で驚かされます。


 ファーミガの芝居と呼応するかのように、ダン役のベン・ローゼンフィールドも自身のキャリア史上最高の演技を見せています。

 とあるシーンのなかで、年上の女性上司アマンダとキスをしてしまったあと、うしろめたさを感じ、メラニーの朝食用にとベーグルと青汁を買って帰宅するくだりなどは、表情と仕草が実に細かく、感心させられます。


 さらに、まさかアマンダとキスしてきたとは夢にも思っていないメラニーからキスを求められる場面。

 唇を合わせた刹那、敏感に違和感を感じとり、不安げな顔をしたメラニーの気持ちを誤魔化そうと極力さりげなくセックスにもつれこもうとするダンの焦りの表現など、ローゼンフィールドの絶妙な芝居が随所に見られます。

 主演ふたりの芝居合戦は一見地味ですが、この映画の大きな見所のひとつなので、是非細かい部分まで共感しながらご覧になってみてください。


 ところで、冒頭にお伝えしたように、ぼくはフィデルを昨今の映画作家のなかでは「最重要人物」だと思っているのですが、一方で彼女が現時点で今ひとつブレイクし切れずにいるのは止むなしだとも感じています。

 というのも、フィデルの「登場人物の内面感情への度を超した着目具合」は、彼女の最大の持ち味でもあると同時にちょっとした弱点にもなっていると思うからです。

 とりわけ脚本の組み立て方に関しては、少なからず危なっかしさを感じます。

 簡単に言うと、「登場人物の心の中で起きている感情」に「頼りすぎ」な場面が散見されるのです。


 今回は主人公カップルの感情が「ズレていくこと、そのもの」を物語の軌道として設定しているため、メラニーとダン双方の個別シーンをカットバックしながら対比していく作劇が功を奏しています。

 しかし、これは『6年愛』という映画の「企画の眼差し」から呼び込まれる「大きなアイデア」と、その大きなアイデアを肯定したうえでの「細かいレベルでの(つまりシーン単位での)作劇」が合致した幸福な事例に過ぎません。

 今後もっと登場人物が増える作品を担当することになった際には、様々なキャラクターの多様な価値観が入り乱れるドラマや、内的思考の強い人物が外側の世界によってつき動かされるストーリーを描く力量が問われるはずです。

 その場合、演出上の眼差しは現状のまま活かせるにしても、脚本に関しては明らかにアプローチの異なる作劇術が必要になります。

 その点、現段階でのハンナ・フィデルの脚本能力には、やや不安が残ります。


 簡単に言うと、『女教師』と『6年愛』を観る限り、フィデルの作劇の発想は「やや直列的すぎる」のです。

 超現実感を追求したいが故かもしれませんが、常にメインの登場人物と直接関わりを持つ人物か出来事が「直前に起こしたことに反応するかたちでしか」物語が前に進んでいかない。

 この点については、やや問題があると言わざるを得ません。

 結果、フィデルは物語世界を複眼的に捉えたり、その感覚をストーリーラインにブレイクダウンすることができずにいるのではないか、と感じます。


 これはまったくの想像ですが、もしかしたら彼女は「自分ひとりで脚本を書くこと」に拘りすぎなのかもしれません。

 もちろん、フィデルの映画作家としての感性は本当に素晴らしく、他の追随を許さないほど個性派として抜きんでていると思います。

 しかし、そういった独特で繊細な眼差しを持っている監督というのは、総じて「個々の描写」は長けていたとしても、ストーリーテラーとしてはやや視野が狭くなりがちです。

 現時点で日本で紹介されている彼女の2作品が、どちらも70分台という不自然なランニングタイムに落ち着いているのは、企画の発想がそもそも中編的で、長編映画としてのポテンシャルが足りていないためだと思います。

 やや強い言葉を用いれば、物語の世界が小さいのです。


 誤解をしないでいただきたいのですが、物語の世界を大きくするために「ハリウッドの大作のようなストーリーライン」を辿るべきだと言っているのではありません。

 大衆受けする要素、例えば宇宙人やロボットやモンスターなどを出したりすべきだと言っているのでもありません。

 ただ単に、まっとうな長編作品になり得る、少なくともアメリカ映画の平均上映時間である98分というランニングタイムを成立させる「葛藤のうねり」を呼び込む必要があるのでは、と思うのです。


 この点では、前回取り上げた『あなたとのキスまでの距離』のドレイク・ドレマスに、明らかに水をあけられていると言わざるを得ません。

 率直に言って、彼の感性とフィデルの感性には共通している点があると思います。

 実際、ドレマスのデビュー作『今日、キミに会えたら』と今回の『6年愛』は、アメリカ製インディー映画のファンから(好意的な意味で)比較されたり、類似点を指摘されることが多いようです。

 しかし、ドレマスの作品の方が「より多くの、より多様な価値感の観客たち」に支持されている事実は(余計なお世話かも知れませんが)、簡単に無視してはいけないものなのではないか、と思うのです。


 その差が生まれている理由を、ぼくはズバリ、共同脚本家がいるかいないかの違いだと感じています。

 ご承知の通り、ドレマスは『今日、キミに会えたら』と『あなたとのキスまでの距離』の脚本をベン・ヨーク・ジョーンズとふたりで執筆していました。


 フィデルの類い希なる才能をさらに世に広めるためには、そういった「基本的な価値感を共有できている他人」との共同作業が必要なのではないか。

 似て非なる眼差しを「発想の味方」につけることが大切なのではないか。

 まったくもって余計なお世話だとは認識しつつも、そんな風に思えてならないのです。

 皆さんはどのようにお感じになりますか?


 それでは次回、またお会いしましょう。


■『6年愛』

■原題 6 Years

■製作年 2015年

■製作国 アメリカ

■上映時間 79分

■監督 ハンナ・フィデル

■製作総指揮 ジェイ・デュプラス
マーク・デュプラス

■脚本 ハンナ・フィデル

■撮影 アンドリュー・ドロス・パレルモ

■キャスト タイッサ・ファーミガ

ベン・ローゼンフィールド

リンジー・バージ

ジョシュア・レナード

ジェニファー・ラフルール

ピーター・ヴァック

ダナ・ウィーラー=ニコルソン

モリー・マクマイケル

ジェイソン・ニューマン


『6年愛』を観る!


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著者

三宅 隆太

1972年生まれ。若松プロダクション助監督を経て、フリーの撮影・照明スタッフとなり、映画、テレビドラマ等の現場に多数参加。 その後、ミュージックビデオの監督を経由し、脚本家・監督に。 日本では数少ないスクリプトドクター(脚本のお医者さん)として、ハリウッド作品を含む国内外の映画やテレビドラマの脚本開発やリライトにも多く参加している。 主な作品は、映画『劇場霊』『クロユリ団地』『七つまでは神のうち』など。テレビドラマ『劇場霊からの招待状』『クロユリ団地~序章』『世にも奇妙な物語』『時々迷々』『古代少女ドグちゃん』『女子大生会計士の事件簿』『恋する日曜日』ほか多数。著書に『スクリプトドクターの脚本教室・初級篇』『スクリプトドクターの脚本教室・中級篇』(ともに新書館)などがある。

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