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よみものどっとこむ

第15回

自己開示できない男性性の弱さを切実かつチャーミングに描いた正義の映画

2017.01.31更新

読了時間

【この連載は…】脚本家、映画監督、スクリプトドクター(脚本のお医者さん)、心理カウンセラー等、多方面で活躍する著者初の映画コラム! 日本における数ある〈劇場未公開映画〉のなかから「これ、なんで劇場公開しなかったんですか?」と思ってしまうほど見応えのある良作を取り上げ紹介。お店ですぐにレンタルできる作品を、洋画中心にセレクトしていきます。


 皆さん、こんにちは。

 これまで本コラムをお読みいただき、本当にありがとうございました。

 突然ですが、『これ、なんで劇場公開しなかったんですか?』は今回をもちまして終了となります。


 特になにか問題が起こったとか、そういったことではありません。急にやめることになったわけでもありません。

 ただ単に開始当初から全15回と決まっていたのでした。

 まだまだ皆さんにご紹介したい作品は山のようにあるのですが、残念ながら致し方ありません。いつかどこかでまたお会いできたら、と思っております。


 というわけで、最後の一本です。

 今回取り上げる作品は『人生はローリングストーン』というアメリカ映画です。

 2016年に見た映画の中ではダントツに面白かった作品で、各所で個人的な年間ベストワンに挙げています。

 例によってあまり注目されていないようなので、この機に是非紹介させてください。

 では、早速あらすじを確認していきましょう。


 と、その前に、今回の『人生はローリングストーン』は実話ベースの作品なので、先に概要をざっくりとご説明したいと思います。


 2008年9月12日、アメリカでひとりの作家が自殺しました。

 彼の名はデビッド・フォスター・ウォレス。享年46歳。

 他作で知られるウィリアム・T・ボルマンと並んで、トマス・ピンチョン以降のポストモダン文学の旗手と呼ばれていた小説家です。


 ウォレスは1987年、処女長編小説『ヴィドゲンシュタインの箒』でデビュー。

 その2年後、アンソロジーの一篇『奇妙な髪の少女』を発表したのち、ノンフィクション作品を数編経て、千ページを超える大作『Infinit jest』(1996年刊。未訳)を発表。

 本国アメリカを中心にウォレスは一躍有名になります。

 偏屈な性格で知られた彼は、実際には青年期に発症した鬱病に長年悩まされ、苦しんでいただけでなく、才能の枯渇を恐れヘロインを過剰摂取していたというような「黒い噂」もあるひとでした。

 そんななかでの、突然の自死。

 希有な才能として本国では今なお語り継がれているウォレスですが、作品のほとんどが未訳のため、日本での知名度が低いのは残念な限りです。


 そんな孤高の作家デビッド・フォスター・ウォレスのひととなりを知るための絶好の書と言われているのが、彼の自殺後に発表された回想録『Although Of Course You End Up Becoming Yourself: A Road Trip with David Foster Wallace』です。

 執筆したのはアメリカの作家デビッド・リプスキー。

 96年に、ウォレスが『Infinit jest』の書店ツアーで全米を回っていた頃、5日間に渡って同行取材をしたのがリプスキーでした。

 そのとき過ごした「ふたりきりの時間」を振り返るように書かれたのが、前述の回想録です。


 当時リプスキーは30歳。

 処女長編小説『The Art Fair』を出版したばかりの新人作家でした。

 残念ながら『The Art Fair』は、当時あまり話題にならず、批評家からも注目されなかったそうです。

 小説家としてまだまだ食べてはいけなかったリプスキーは、音楽や政治、大衆文化を扱うことで知られる雑誌『ローリングストーン』の契約記者を生業に、細々と生活するしかありませんでした。

 そんな境遇のリプスキーにとって、自らの処女作と同年に発表され、批評家から大絶賛を浴びた『Infinit jest』の作者であるウォレスは、憧憬と嫉妬という愛憎の感情が入り乱れる特別な存在だったに違いありません。


 映画『人生はローリングストーン』は、さきの回想録を原作に、リプスキーとウォレスという「ふたりのデビッドの5日間の旅」を描いたロードムービーです。

 全編ほぼ「会話劇」という作りのため、ハイコンセプト好きの方からすると、退屈で地味な映画という印象を抱いてしまうかも知れません。

 実際、映像的なケレン味や劇的な展開は皆無ですし、終始セリフの応酬がつづきます。


 でも、そこが良いのです。

 正直、ちょっとどうかと思うほどに良い。


『人生はローリングストーン』は、単に台詞が多いというだけではなく、「言葉」そのものを大切にした映画です。

 言葉を交わすという行為自体に着目し、ひととひととが会話をする、あるいは対話を繰り返すとはどういうことなのか? いったい何をどれだけ話せば、ひとは解り合えるのか、あるいは解り合えないのか?

 そういった人間関係の根底に鎮座する「バーバルメッセージを通じた相互理解」の重要性と可能性を、作家という「言葉とともに生きている」ふたりの人物を軸に据えながら、ときにシビアにときにユーモラスに描いていきます。


 この映画が大量の言葉を通じて明確化させるのは、自己開示が苦手な生き物である「男性性」の特質です。


 リプスキーはインタビューをくり返しながらも、孤高の作家として高みを追求していくウォレスの才能に嫉妬するあまり、なかなか心を開くことができません。

 片やウォレスはインタビューを受けながら、有名雑誌の記者として社会とのバランスを構築するリプスキーの才能に嫉妬し、心を閉ざします。

 互いにないものねだりをくり返し、あるものさがしからは目をそらしてしまうふたりのデビッド。

 自らを開示したくても、なかなかできない。

 それ故に苦しみもがき続ける彼らは、立場や出自は違えど実は似た者同士なのです。


 興味深いのは、映画の中で描かれる彼らの姿が決して特別なものではなく、世の男性の多くが我が身のように感じるであろう「弱さ」を内包している点です。

 つまりは、極めて「男性的」である。

 いわゆるマッチョイズムとは極北にありながら、リプスキーとウォレスの一挙手一投足から見えてくるのは、まさに男性性の弱さ以外の何者でもありません。

 それらを徹底的に切実、かつチャーミングに魅せていく本作は、劇場未公開作品にしておくのが本当にもったいないほどの素晴らしい出来映えです。


 それにしても何故、男性は自己開示が苦手なのでしょうか?


 通常、男性はシステム化能力に優れ、女性は共感能力に長けていると言われています。

 一時期、『地図を読めない女、話を聞かない男』という本が大ヒットしましたが、あそこで触れられているのはまさにこの問題です。


 システム化能力と共感能力の優劣は、性による差別ではなく、単なる区別です。

 元来それぞれの性が持つ脳の仕組みには構造上の差異が存在し、良いも悪いもなく「男性脳」と「女性脳」という、ふたつの特質に分かれてしまうのです。

 もちろん、男性でも「女性脳」の特質(共感能力)が高いひともいますし、女性でも「男性脳」の特質(システム化能力)が優れているひともいます。

 ですが大抵の場合、「システム化は優れているが共感性は劣っている」という傾向が、男性に、より多く見られるのは疑いようのない事実です。


 また、共感性に劣る男性の多くは、女性が得意とする「ノンバーバルメッセージによる心理表現」を読み解くのが苦手で、論理性や情報を重視した「バーバルメッセージによる心理表現」にこそ重きを置いているとも言われます。

 例えば、女性が一生懸命「感情を優先した話題」を口にしているとき、男性は「で、オチは?」などと、個々の話題に「情報としての法則性」を求めてしまう。

 これこそが典型的なシステム化の発想ですし、実際、こういった思考の男性は決して珍しくはありません。


『人生はローリングストーン』にも、システム化思考を象徴とする興味深いシーンが出てきます。

 すでに取材を開始し、表面上は意気投合しているリプスキーとウォレスが、女性ふたりと共に映画館に向かう場面です。

 1996年の冬、すでにシネコンが普及している当時のアメリカでは、数々の話題作が上映されていました。

 一行は「さて、何を観ようか」という話になるのですが、女性ふたりの背後には、かのジェイン・オースティン原作による『いつか晴れた日に』のポスターがデカデカと貼られているにも関わらず、ウォレスもリプスキーもまるで目もくれようとしません。

 結局、ウォレスが選んだ映画は、香港出身の監督ジョン・ウーによるアクション映画『ブロークン・アロー』。

 ともすると抽象的に見えなくもない女性心理を扱ったオースティンの映画ではなく、明確な法則性に則って作られているであろうことが期待できる、つまりは鑑賞時にシステム化がしやすいアクション映画を選んでしまうウォレス。

 リプスキーは「それはもう観た」とウォレスに伝えますが、取材対象者である彼に遠慮して「でも、また観てもいい」と伝えます。

 一見すると、ウォレスよりも社会的バランスに長けたリプスキーが、同行している女性たちに配慮したかのように見えますが、公開がスタートしたばかりの『ブロークン・アロー』を「すでに観終わっている」時点で、やはり似た者同士であるのは間違いありません。

 ここのくだりは、映画の上映中ならびに上映後の男性陣と女性陣の反応の違いも巧みに描き分けられていて、実にユーモラスな場面です。


 余談ですが、その昔メグ・ライアンが主演した映画『めぐり逢えたら』のなかで、やはり男女4人組が「映画の好み」について意見が真っ二つに分かれてしまう場面が出てきて、とても面白かったことを覚えています。

 脚本と監督を務めたノーラ・エフロンは女性ですが、とある雑誌のインタビューで「あのシーンはウチで夫と交わした会話を書き出しただけよ」と答えていました。

 ご存じの通り、彼女は『恋人たちの予感』や『ユー・ガット・メール』などの作り手で、典型的な共感性の高いタイプの作家です。

 一方で、件の夫君である脚本家ニコラス・ピレッジ氏の映画企画にスクリプトドクターとして参加したことがあるのですが、彼の脚本のなかで描かれている世界観や登場人物の台詞の質は奥さんのノーラさんとは違い、あまりにもシステマチックで驚きました。

 ちなみにピレッジ氏の代表作はマーティン・スコセッシ監督の『グッド・フェローズ』や『カジノ』、リドリー・スコット監督の『アメリカン・ギャングスター』などです。

 まるで水と油のように異なるふたりの仕事ぶりに「ああ……この夫婦なら家の中で『めぐり逢えたら』のあの会話をしていてもおかしくないなぁ」と、思わず笑ってしまいました。

 閑話休題。


 さて、物語が進むにつれ、当初は心の距離が埋められなかったリプスキーとウォレスは、徐々に気を許し、自己開示をしながら親密になっていきます。

 互いに小説家であるふたりの距離を縮めた話題は、いわゆる「作家としての技術論や創作論」ではなく、女性とのセックスについてです。


 例えば、こんなやりとりがあります。

 アルコールを口にしないふたりが、ダイナーでジャンクフードを食べながら交わす会話です。久々に日本語吹き替え版から再録してみましょう。


ウォレス 「ツアーに出ると、いつも思うんだ。たまにはアッチも楽しみたいってね」

リプスキー「ああ、うん」

ウォレス 「女たちがすり寄ってくるんだよ。まるで……(何か口にしようとするが、言い淀み)でも、こっちからは仕掛けたくない」

リプスキー「仕掛ける?」

ウォレス 「俺からは誘いたくない。部屋に来ないか、ってね。それより「あなたの部屋へ行きたい」と言わせたい」

リプスキー「(思わず笑い)……」

ウォレス 「ホテルはどこ? ってな」

リプスキー「うんうん、その方が都合がいい」

ウォレス 「女と見たら誘うような男とは思われたくない。実際にはそうでもね」

リプスキー「(聴いている)……」

ウォレス 「(過去の出来事を思い出し)いま思えばやめておいて正解だった」

リプスキー「どうして?」

ウォレス 「さみしくなるだけだ。だろ?」

リプスキー「さみしい? なぜ?」

ウォレス 「相手は〈俺〉を知らない。つられたのさ、俺の……(何か口にしようとするが、言い淀む)」

リプスキー「名声に?」

ウォレス 「(照れ笑いし)いや、まぁ、そうかな……」

リプスキー「事実だ。言えばいい」

ウォレス 「(照れ笑いし)やめろよ」

リプスキー「有名人だ、って」

ウォレス 「……まぁ、そうかな」

リプスキー「だけど、あなたの小説を読めばあなたが分かる。それで気に入ったなら、」

ウォレス 「(聴いている)……」

リプスキー「あなたを好き、ってことだ」

ウォレス 「……」

リプスキー「でしょ?」

ウォレス 「……素晴らしい」

リプスキー「どうも」

ウォレス 「君がしゃべった方がいいんじゃないか? その方が絶対に良い記事が書ける」

リプスキー「(照れ笑い)……」


 このやりとりは自己開示の始まりであると同時に、ウォレスとリプスキーそれぞれの屈折ぶりが垣間見える特別なシーンです。

 ウォレスは極めて優れた作家であり、孤高の芸術家でもあります。

 しかし、実際の彼はジョン・ウーのアクション映画をこよなく愛し、ジャンクフードに目がなく、女性とセックスするのが大好きなのに残念ながらモテないという、どこにでもいるごくごく普通の男性でもあるのです。

 一方で彼は人一倍自尊心が強く、自意識過剰で、自らが単なる俗物に墜ちてしまう可能性に嫌悪を抱くことで、社会に対する恐怖と懸命に闘っている。

 それが前述の会話シーンに二度登場する「何かを口にしかけるが、言い淀む」という行動にハッキリと現れています。


 ところが、先のシーンでリプスキーは、まだそのことに気がついていません。

 記者であり、ウォレスのインタビューをしている最中にも関わらず何故? と思われる方もいるでしょう。

 実はこのシーン、リプスキーは作家としてはウォレスのように認められていない代わりに『ローリングストーン』誌に契約記者として雇われていることで、ウォレスが手に入れられずにいる社会とのバランスを取る才覚を実践していることに自負心を抱いているのです。

 セックスに関するやりとりのなかでウォレスの心のブレを察知したリプスキーは、自らが矜持として抱いているバランス感覚を敏感に刺激されます。結果、わずかにウォレスの上に立つゆとりを手に入れてしまうのです。

 自信を得たリプスキーは、気の利いた言葉でウォレスの自尊心をくすぐるという、屈折した社交性を発揮。

 実際には自己開示でもなんでもない、カタチとしての心の距離を縮める。これこそが「現時点での」リプスキーという人間の優位性であり、限界点でもあります。


 ウォレスが社会性を手に入れることができない過剰な自意識の持ち主であると同時に、リプスキーが作家として心の殻を破ることができずにいることをも同時に見せてしまう巧妙な作劇。

 わずか1分にも満たないシーンですが、あまりのクオリティの高さに舌を巻きました。


 このシーンを筆頭に、本作には「ふたりのデビッド」が無自覚に互いをマウンティングする瞬間が何度も訪れます。

 こうしてユーモアというベールで覆われた不気味な牽制の連続に、観客は終始独特な緊張感へと誘われていくのです。


 リプスキーを演じているのはジェシー・アイゼンバーグ。

 ゼロ年代ソフトストーリー派作家の代表格であるノア・バームバック監督の『イカとクジラ』での演技で頭角を現した彼は、『ハンティング・パーティー』や『ゾンビランド』といった高バジェットのハイコンセプト作品に立て続けに出演したのち、デビッド・フィンチャーの意欲作『ソーシャル・ネットワーク』でキャリアの方向性を決定づけます。

 その後も次から次へと話題作に出演、今やハリウッドきっての実力派スターへと上り詰めました。

 繊細さとふてぶてしさが拮抗する独特の演技スタイルは今作でも遺憾なく発揮され、リプスキーという「男性性」の「簡単には相対化されない変化・成長」を見事に表現しています。


 一方、ウォレスを演じたのはコメディを得意とする俳優ジェイソン・シーゲルです。

 2005年からスタートした人気TVシリーズ『ママと恋に落ちるまで』のレギュラーキャラクター、マーシャル・エリクソン役で注目された彼は、2008年、R18指定を受けた毒のあるラブコメ映画『寝取られ男のラブ♂バカンス』で、主演のみならず脚本も執筆。キャリアの方向性に変化を生み出します。

 2011年には『セサミストリート』のキャラクターたちが大量に登場する映画『ザ・マペッツ』で主演、脚本、制作総指揮まで担当。他にも未公開映画の良作『憧れのウエディング・ベル』や倦怠期夫婦のセックス動画がネット流出してしまうコメディ『SEXテープ』などで主演兼脚本家として活躍しています。

 本作では十八番の、ややナーバスなコメディ演技を封印し、恐ろしいほどリアルで繊細な表現で実在のウォレスの完全コピーに成功。観客の心に強烈な印象を残します。


 その後も、淡々と積み重ねられる数々のエピソードを経て、ふたりのデビッドの関係性は転がり続けます。

 ある瞬間は生涯の友に、次の瞬間には人生をかけて闘うべき宿敵にもなってしまうウォレスとリプスキー。

 邦題の『人生はローリングストーン』とは言い得て妙だと感じます。


 この映画は、ラストの瞬間に至るまで胸に突き刺さるような台詞が連続する作品です。

 どの台詞も決して難解であったり、過度に哲学的であったりするものではありません。むしろ、使われている言葉自体は平易で身もフタもなく、俗っぽいものばかりです。

 しかし、それ故に映画を見終わったあとも、彼らの言霊がくり返しくり返し心の中を浮遊し続けるのです。

 ご視聴の際は、是非日本語吹き替え版でご覧ください。

 翻訳、声優の芝居ともに抜群ですのでお薦めです。


 では最後に、本作でぼくが最も印象に残ったウォレスの台詞を書き起こします。


ウォレス 「鬱の原因は脳内物質の乱れや酒とかじゃなくて、極めてアメリカ的な暮らしがそうさせたんだと思う。アメリカ社会には、ひとつひとつクリアしていけば人生はうまくいくって考えがあるだろ? あの本にも書いたが……ビル火災が起きると飛び降りてしまうひとがいるだろ。彼らは恐怖を感じてないわけじゃない。他に考えられる選択肢が悲惨で、このまま炎に焼かれて死ぬくらいだったら、飛び降りる方がまだマシだと思ってしまうんだ。……君が何を見てきたかは知らないが、精神的な傷の方がタチが悪い。……昔は魂の危機なんて言われていたかもな。これまで信じてきたものが、すべて偽りのように思えてくるのさ。自分は無価値で……すべてが幻想に思えてくる。自分が他人より優れていると思っていたのは、ただ幻想で、実は何もできない役立たずだと感じる。それは……恐怖だよ。ひとは簡単には変われない。俺にはまだ弱い部分が残ってる。そいつに主導権を握られないよう、今も抵抗してる。……分かるか?」


 このウォレスの長台詞には、心底ゾッとしました。

 幼少時から終始一貫して自己評価が低いぼくにとっては、到底他人事とは思えなかったからです。

 皆さんはどのようにお感じになりましたか?


 さて、冒頭でもお伝えしました通り、このコラムは今回で終了です。

 長い間、本当にありがとうございました。

 毎回拙い上に長々とした文章で、さぞや読みにくかったのではないかと思います。

 なんとも申し訳ない限りです。


 実はこれまで、映画評論や批評の類いの仕事は、極力引き受けずにやってきました。

 本業が作り手であるということも理由のひとつですが、自分自身の映画の見方に、他人様に読んでいただくような価値がない、と感じていたことが最大の理由です。


 にもかかわらず、今回この仕事をお引き受けしたのは、本コラムのサイトも運営されている誠文堂新光社の編集者・渡会拓哉さんが「三宅さんの映画の見方そのままで書いてほしい」と言ってくださったからです。

 正直、半信半疑でしたし、何より驚きました。そして、とても嬉しかった。

 連載が終了した現在、実際にお読みいただいた皆さんにとって、このコラムがわずかでも何らかのお役に立てていたとしたら、これ以上嬉しいことはありません。


 ところで、昔から「映画は誰の物なのか?」という議論が頻繁に繰り返されてきました。

 やれ監督の物だ、脚本家の物だ、プロデューサーの物だ、スタッフの物だ、いやいや主演俳優の物だ……等々。

 色々な意見があるとは思いますが、ぼくは観客の物だと思っています。


 これは作り手のひとりとしても深く実感していることなのですが、企画を立ち上げ、脚本を書き上げ、撮影をし、仕上げをし、公開する。

 この流れ自体はどの映画も同じです。実際、ぼくたち作り手は日ごろ同じ工程をくり返しくり返し続けてきています。

 そういう意味では、映画は「生み出された当初に関して」は、広義に於ける作り手の物である、というのは間違いないでしょう。


 しかし、どんな映画も、劇場で公開されたり、ビデオグラムとして市販・レンタルされたり、と観客の目に届いた瞬間から、作り手の思い通りにはいかなくなります。

 どんな事情があり、どんな想いがあって作られたとしても、観るひとひとりひとりの人生経験と記憶のうえに映写、再生された瞬間から、映画は皆、「その映画をそのときに観た、そのひとの物」に変わるのです。


 そして、映画は見始めた途端、みるみるうちに過去の記憶になり、観客ひとりひとりの心に溶け込んでいきます。

 すべてを見終えたのち、個々人の価値感に裏付けられた記憶に加わった瞬間から、映画は初めて映画になるとぼくは思っています。

 そういう意味では映画は概念であり、観たひとの心そのものと言えるかもしれません。


 このコラムで記してきた個々の映画たちへの想いも、すでに三宅隆太の心の中に溶け込んだ映画たちへの想いでしかありません。

 仮に同じ映画をご覧になったとしても、皆さんの心の中にはまた違った映画として溶け込んでいくはずです。

 ぼくの見方が正しいわけでも何でもありませんが、一方で間違っているわけでもないという不思議。

 今日を境に、皆さんも是非「あなたの映画の見方と出会う旅」をスタートさせてみてください。


 では、いつかまたどこかでお会いしましょう。


■『人生はローリングストーン』

■原題 The End of the Tour

■製作年 2015年

■製作国 アメリカ

■上映時間 105分

■監督 ジェームズ・ポンソルト

■製作 デビッド・カンター
マット・デロス
ジェームズ・ダール
マーク・マニュエル

■脚本 ドナルド・マーグリーズ

■撮影 ヤコブ・イーレ

■キャスト ジェシー・アイゼンバーグ

ジェイソン・シーゲル

アンナ・クラムスキー

ジョーン・キューザック ほか


『人生はローリングストーン』を観る!


【書籍化決定!】この連載が本になります。3月7日発売予定!

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著者

三宅 隆太

1972年生まれ。若松プロダクション助監督を経て、フリーの撮影・照明スタッフとなり、映画、テレビドラマ等の現場に多数参加。 その後、ミュージックビデオの監督を経由し、脚本家・監督に。 日本では数少ないスクリプトドクター(脚本のお医者さん)として、ハリウッド作品を含む国内外の映画やテレビドラマの脚本開発やリライトにも多く参加している。 主な作品は、映画『劇場霊』『クロユリ団地』『七つまでは神のうち』など。テレビドラマ『劇場霊からの招待状』『クロユリ団地~序章』『世にも奇妙な物語』『時々迷々』『古代少女ドグちゃん』『女子大生会計士の事件簿』『恋する日曜日』ほか多数。著書に『スクリプトドクターの脚本教室・初級篇』『スクリプトドクターの脚本教室・中級篇』(ともに新書館)などがある。

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