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よみものどっとこむ

第6回

いじめの構造をフェイクドキュメンタリー形式で描いた意欲作

2016.09.27更新

読了時間

【この連載は…】脚本家、映画監督、スクリプトドクター(脚本のお医者さん)、心理カウンセラー等、多方面で活躍する著者初の映画コラム! 日本における数ある〈劇場未公開映画〉のなかから「これ、なんで劇場公開しなかったんですか?」と思ってしまうほど見応えのある良作を取り上げ紹介。お店ですぐにレンタルできる作品を、洋画中心にセレクトしていきます。


 今回取り上げる作品は『ガール・ライク・ハー』という低予算のアメリカ映画です。

 表題の通り、いじめを題材にしたフェイクドキュメンタリーなのですが、これがなかなかの(というか、かなりの)力作でした。本当に劇場未公開にしておくのがもったいない一本です。


 よし、ならば早速観てみよう! と思った方。ちょっとお待ちください!

 実を言うと『ガール・ライク・ハー』は日本ではソフト化されていません。レンタルビデオ店に行っても残念ながらDVDは置いていないのです。

 本作はストリーミング配信の「Netflix」でのみ鑑賞可能な劇場未公開作品です。

 この点については後ほど詳しく触れることにして、まずはあらすじをご紹介します。


 アメリカの田舎町にある公立高校サウス・ブルックデイルは、ある日、国家教育委員会から「良質な高校」として全米十位に選出されます。公立高校でのランキング入りは唯一ということもあり、ドキュメンタリーの映画製作チームによる紹介番組の制作が決定。チームは早速、同校への取材を開始します。


 豊かな自然に囲まれ、就学環境は抜群。教員と生徒たちのコミュニケーションもよく取れており、学内は健やかなムードに包まれています。さすがは全国十位に選ばれただけのことはあります。

 ところが、チームが取材を重ねるうち、最近「ある事件」が学内を賑わせていることが分かってきます。


 二年生の女子生徒ジェシカ・バーンズが自殺を図ったのです。

 鎮痛剤を大量摂取したジェシカは、自宅で倒れているところを母親に発見されました。すぐに緊急救命室に搬送されたものの、一時的に脳への酸素供給が停止。その結果、低酸素症に陥ったジェシカは未だ意識不明の状態が続いており、生死の境を彷徨っています。

 ドキュメンタリーチームはジェシカの父・ジェラルドや母・マーガレット、また妹のガブリエルにも取材を行いますが、彼らは一様に悲観に暮れ、「ジェシカが自殺未遂を起こした原因が分からない」と首をひねるばかりです。

 チームは取材の視点を切り替え、ジェシカの自殺未遂事件を追い始めます。生徒や教員らへのインタビューを重ねるうち、徐々に見えてきたのはジェシカ・バーンズという人物像の輪郭です。

 どうやら学内でのジェシカは比較的「地味」な存在で、いわゆるスクールカーストの上位に入る人物ではなかったようです。とはいえ、ジェシカの悪口を言う人間はひとりもいません。教師、生徒らともに「ジェシカ=誰にでも優しく接する真面目な良い子」という共通認識を持っています。

 ならば何故ジェシカは自殺する必要があったのか?


 やがてドキュメンタリーチームは、生徒のひとりから、ある証言を得ます。

「エイブリーのせいよ。彼女がジェシカを追いつめたんだわ」


 エイブリー・ケラーは美人で明るい学校一の人気者です。

 人一倍お洒落に敏感で、常に最新ファッションに身を包んでいる彼女は、いつも複数の仲間を引き連れて学内を闊歩しています。その様は田舎町の女子高生というより、さながらハリウッドスターのようです。

 スクールカーストの最上位に位置するエイブリーと、そうではないジェシカ。

 まるで接点のなさそうなふたりの間に、いったい何があったのでしょうか?


 ドキュメンタリーチームは「人気者ならではの生活を撮影してほしい」という口実で、エイブリーにハンディカメラを一台提供します。

 「リアリティ番組に出演するような軽いノリ」で撮影を引き受けるエイブリー。

 早速、仲間らとの楽しげな日々を撮り始めた彼女は、やがて自宅での家族の姿や、自室で過ごす〈ひとりの時間〉にもカメラを回し始めます。

 次第にエイブリーのカメラは、これまで誰にも見せたことのない、彼女自身の孤独な表情を浮き彫りにしていきます……。


 一方、ひとりの男子生徒がドキュメンタリーチームに接触してきます。ジェシカにとって唯一の友人だったブライアン・スレイターです。

 ブライアンは、いわゆる「ナード(=おたく)」と呼ばれるタイプの男の子。スクールカーストで最下層に位置する彼は、一眼レフカメラでの動画撮影が趣味で、いつも校内で様々なものを撮影しています。

「見せたいものがあるんだ」

 深刻な面持ちでそう言うと、ブライアンはドキュメンタリーチームを自宅へと招きます。そこには謎の撮影データが大量に残されていました。

「これは何の映像なの?」ドキュメンタリーの女性ディレクターが尋ねると、ブライアンは重い口を開きます。

 今から半年前のこと。突如始まったエイブリーからの執拗ないじめに、ジェシカは苦しめられていました。そんなジェシカを救うため、ブライアンはブローチ型の超小型隠しカメラを作成し、彼女の胸元に装着。ジェシカの視点から観た「いじめの実態」をすべて撮影したと言います。

 そして、再生される保存データ。そこにはジェシカが自殺未遂を起こすに至る地獄のような日々が記録されていたのです……。


 いじめを題材にした映画は昔から数多く作られていて、決して珍しいものではありません。

 また、被害者が苦痛に耐えきれず自殺未遂をする、という展開も(言葉は悪いですが)ありがちなものです。

 しかし、この映画が数多の「いじめ映画」と一線を画しているのは、被害者の視点ではなく、加害者の視点を徹底的に掘り下げてゆく点にあります。

 被害者の視点にのみ着目することで「悲劇的な物語」を構築することは、実は簡単です。しかし、そうすることで観客の、ともすれば無責任で安易な同情感覚に訴えかけることにもなりかねず、「いじめの構造」そのものを浮き彫りにすることは難しくなります。被害者の視点のみで描いた場合、観客は映画を観ている最中は被害者に同情し「いじめられて可哀想」という感情を抱くかもしれませんが、大抵の場合、映画を見終わると、いじめについて考える時間を持たなくなります。映画特有の〈同情による共感作用〉のおかげで「自分のことのようには感じられなくなり」他人事としてすぐに忘れてしまうのです。


 『ガール・ライク・ハー』が「いじめ」という題材に対して、フェアかつ慎重な姿勢を貫くことができているのは、フェイクドキュメンタリースタイルを活かしたうえでの、独自の作劇にあります。

 今作は終始、「現在と過去」を描写する、以下の4つの視点をもって展開するのです。


① ブライアンの一眼レフで記録された「彼の目が届く範囲での」ジェシカの様子(過去)。

② ブライアンから手渡されたブローチ型の超小型カメラで撮られた「ブライアンの目が届かない状況下にいる」ジェシカの視点から観た世界(過去)。

③ ジェシカの自殺未遂後に起きる、学内でのエイブリーやブライアン、病院や自宅で過ごすジェシカの家族の様子など、ドキュメンタリーチームが撮影した客観視点(現在)。

④ ドキュメンタリーチームから手渡されたハンディカメラで、エイブリー自身が記録したエイブリーだけの世界(現在)。


 以上の4つの視点は時間軸に囚われず、複眼的に編集されています。

 そのことで観客は、直列的なプロットの展開から生まれがちな「安易な共感」から解放され、普遍的な「いじめの構造」について実感を抱きやすくなるのです。


 ほかにも、本作には作劇上の工夫が多く見られます。個人的にもっとも感心したのは「いじめの原因」と「カメラ目線の芝居」の扱い方です。

 ドキュメンタリーチームが取材を進めるうち、エイブリーとジェシカは「中学時代は親友だったものの、ある時からエイブリーが距離を置き、ジェシカと疎遠になっていったこと」が判明します。その「ある時」の出来事こそが「いじめの原因」です。

 作劇の構造上、原因は伝聞という形でのみ観客に提示されます。これは本作が通常の劇映画スタイルでないため、「いじめが発生するに至った原因の場面」を撮影することができないからです。

 伝聞によって見えてくる「原因」のエピソードは、中学時代のテスト中にエイブリーが隣席のジェシカのテスト用紙を見てカンニングをしようとしたらジェシカが肘で隠した、というもの。

 エイブリーは頑なに「ジェシカが隠した」と弁明しますが、実際にはどうだったのかは分からずじまいです。ドキュメンタリーチームが取材を開始したときには、すでにジェシカは意識不明になっているためジェシカに取材することができないからです。この点も実にフェアです。

 そもそも「テスト用紙をのぞき込もうとしたら肘で隠された」という出来事は、はたから見ると、幼稚で「他愛ないこと」のようにも感じられます。

 しかし、ここで重要なのは「ジェシカが本当に隠したか否か」ではなく、「ジェシカに隠されたとエイブリーは感じていて」そのエイブリーの感情自体は「事実である」という点です。


 元来、人間の記憶というものは出来事を正確に認識することができません。

 何らかの出来事が発生した際、ひとはその出来事を、その場でわき起こった自らの情動とともに記憶するからです。そしてその記憶は、当人が思い出すたびに情動とセットで強化されていきます。

 例えば、恐ろしい(と感じる)経験をしたひとは、その経験を思い出すたび「恐ろしいと感じる気持ち(=情動)」をくり返し抱くため、必然的に「経験そのもの」が「実際の経験(=出来事)」以上に「恐ろしい記憶(=出来事)」として認識されてしまうのです。

 初恋の相手に、年老いてから再会すると大抵ガッカリしてしまう、というのも実は同じメカニズムです。この感覚は、初恋という情動が相手の容姿への認識を不正確かつ、過度に美化されたものにしてしまうために発生します。

 劇中、ドキュメンタリーチームの取材に応えた生徒のひとりがこんなことを口にします。「エイブリーはみんなが羨むような〈すべて〉を手に入れているのに、どうしてジェシカを赦すことができないんだろう」

 さりげなく挿入されていますが、実に鋭い台詞です。他人からはそう見えても、エイブリー自身が〈すべて〉を手に入れたと「感じているかどうか」は別の話だからです。


 一方、過去の時制の、ブライアンが一眼レフで撮影した映像のなかで、ジェシカがぽつりとつぶやく台詞があります。

 「どうしてエイブリーがこんなひどいことをするのか分からない。私には原因に思い当たるフシがないのよ……」

 これは、さきのエイブリーの伝聞と対になるとても重要な台詞です。実際、テスト用紙を肘で隠したという事実はないのかもしれませんし、仮にそれが実際にあったことだとしても、ジェシカにとっては「それがいじめの原因になるほど重要なこと」だとは認識できていないのです。


 エイブリーが〈そのとき〉ジェシカに抱いた情動を素直に伝えることができていなかった以上、元々ふたりの間には深い部分でのコミュニケーションが不足していた可能性があります。

 また、見方を変えれば、テストの一件はエイブリー自身のジェシカへのコンプレックスが呼び覚まされた瞬間だった可能性もあります。どんなにお洒落をしても、どんなに社交性を磨いても、エイブリーはジェシカが〈生来の心根として持っている美しさ〉を手に入れることはできない。少なくともエイブリーはそう「感じている」。この点について立ち止まり、深く思考することができないエイブリーの若さが哀れでなりません。

 もちろん、だからといって、いじめを正当化する理由にはなりませんし、自殺未遂するまで追い込まれたジェシカには何の落ち度もないのは事実です。そんなふたりに対して、ただただもどかしいという感情を観客に抱かせる。このアプローチこそが本作の正義であり、重要な独自性だと思います。いずれにせよ、「いじめ映画」のなかで「いじめの原因」をここまでフェアに扱った例をぼくは知りません。


 もうひとつの特徴として、さきほども申し上げたとおり、「カメラ目線の芝居」のうまさがあります。

 なかでも、ブライアンから譲り受けたブローチ型の隠しカメラを身につけたジェシカによって撮影された一連のいじめの場面。カメラが胸元に付けられている以上、観客は傷つけられているジェシカの姿を見ることはできず、ジェシカ(=カメラ)を執拗に罵倒し傷つけるエイブリーの姿を見ることになります。これは本来であれば、作劇上かなりのリスクを伴う手法です。


 映画は元来、同情のメディアだと言われています。

 第3回の『妹の体温』の際にも触れましたが、俳優が役柄の心と同化してさえいれば、人物の心は画面に映ります。俳優の感情表現を目の当たりにすることで、観客は「登場人物に対し、同情的に感情移入」します。ここが主観的な感情を描写できる小説と、客観的にしか内面を描くことのできない映画との決定的なちがいです。

 一連のいじめの場面で、実際の撮影現場ではジェシカ役の女優は相当傷ついた表情を浮かべていたはずですが、カメラが彼女の胸元に付けられたブローチである以上、主観ショット的にならざるを得ず、傷ついているジェシカの様子は画面には映りません。

 つまり、被害者であるジェシカへの同情心は、観客の胸中にはあまり発生しないのです。むしろ、カメラ目線に近いエイブリー役の女優の芝居に対し、観客は恐怖し、苛立ち、悲しみを覚える、という作用が呼び込まれてしまうのは避けられません。

 プロット上は主人公としてのジェシカの視点からスタートし、徐々に敵対者としてのエイブリーを掘り下げてゆくという流れであるにも関わらず、映画的には終始エイブリーが映し出され、その様を捉えざるを得ない。こういったアプローチを選択した時点で、本作のドラマの肝は、被害者のではなく、加害者の変化・成長を追う工程からは絶対に逃れられないのです。

 しかし、この点も「いじめ」という題材を扱ううえでは、実にフェアな姿勢だと言えるでしょう。


 ところで、いじめはどうすれば防ぐことができるのか、という議論は昔から頻繁に交わされてきました。

 もし仮に加害者が、相手の視点(被害者の視点)に立つことができたとしたら、未然に防げるのでしょうか? 相手の気持ち(被害者の気持ち)を心の底から理解できたり、同調することが可能になれば、またその方法が実際にあるとしたら、どうなるのでしょうか?

 この映画は後半、いよいよその領域に踏み込みます。


 いじめの事実を断固として認めようとしないエイブリーに対し、ドキュメンタリーチームは「ブローチ型隠しカメラ」による「半年間の記録」の存在を伝えるのです。

 逃げ場を失ったエイブリーは動画を観ることを決意、いよいよ「いじめの瞬間」と向きあいます。


 ここで興味深いのは、先ほども申し上げた通り、ブライアンがジェシカに提供したブローチ型カメラは、常にジェシカの襟元に取り付けられているため、いじめられているジェシカの姿は映されていない、という点です。

 つまり、カメラが捉えた「いじめの瞬間の数々」は、いじめられているジェシカを、ではなく、いじめているエイブリーの姿のみが映っているのです。

 だからこそ観客は、いじめられているジェシカへの安易な同情心ではなく、エイブリーに対する恐怖心や不快感として「いじめの構造」を認識してきました。

 必然的に、エイブリーが目の当たりにする映像もまた、被害者であるジェシカの姿ではなく、加害者である自分自身の姿になります。

 このことが作劇上どういう効果を生むのかは、実際にこの映画をご覧になっていただくほうが良いと思うので、ここでは触れないようにします。


 ただ、通常の倫理観でいけば、加害者を反省させたり、改心させたりしようとした場合、被害者が苦しんでいる姿を見せる方法を選択しがちです。ところが、本作では「被害者が苦しんでいる瞬間」が主観ショットで捉えられているが故に、そもそもその選択肢は存在しないわけです。

 むしろ、動画を観ると決意した段階でのエイブリーは、自らの「いじめという行為」に対して反省の心を持ち得ていないため、もし仮に被害者が苦しんでいる姿を見せることが可能だったとしても、火に油を注ぐようなことにしかならず、むしろ悪意を増長させてしまう危険性があります(ブローチ型隠しカメラの映像には直接映っていないが故に多くの観客が意識しないかもしれませんが、実際のいじめの瞬間に、エイブリーは「苦しんでいるジェシカの姿」をくり返し何度も見ているはずです。それでも平気だったり、むしろ悪意を助長させてきたからこそエイブリーはいじめをやめることができなかったわけです)。


 いずれにせよ、この映画の場合、「被害者のいじめの記録映像=加害者のカメラ目線の芝居が捉えられている」という作りにしたことが、クライマックスに最大限の効果を発揮します。そして、加害者であるエイブリーをナルシストに設定したアイデアにも相乗効果が発生するように組まれています。この点、実に見事というほかありません。


 ネタバレになるので詳しくは言えませんが、この映画には、たった一度だけ、絶対にカメラが入り込めるはずもない位置から撮られた映像が登場します。

 これはフェイクドキュメンタリースタイルのルール上も、また一般常識の倫理上も絶対にその位置にカメラを置くことは叶わない、というポジションなのですが、その際、エイブリーのカメラ目線から一転、今度はジェシカ役の女優が重要なカメラ目線の芝居を見せることになり、実に効果的です。

 本作の狙いが「観客への問いかけ」にあることが明確化される瞬間でもあり、大変感動的です。

 是非、直接ご覧になってご確認ください。


 さて、冒頭で申し上げたとおり、『ガール・ライク・ハー』は日本ではソフト化されていませんが、「Netflix」で観ることができます。

 近年、こういったネット配信型のリリースが増えてきました。登録手続きもシンプルで値段も安く、いつでもどこでも何度でも映画を観ることができるのは、配信システムの大きな魅力です。各社とも、メジャーなタイトルがラインナップの前面に躍り出てしまう傾向はありますが、今回の作品のように劇場未公開作品の良作も多数確保されています。

 とりわけ「Netflix」は、オリジナルコンテンツの制作にかなり力を注いでいます。長編映画に限らず、連続ドラマ、ドキュメンタリー作品など、ソフト化されていない作品も大量に存在するようです(あまりに多すぎてチェックしきれていないのですが。笑)。


 いずれにせよ、ネット配信システムは、劇場未公開映画の愉しみ方として一歩先をリードする存在なのは間違いありません。

 ご興味おありの方は、是非一度アクセスしてみてはいかがでしょうか。


 では、また次回お会いしましょう。



■『ガール・ライク・ハー』

■原題 A Girl Like Her

■製作年 2015年

■製作国 アメリカ

■上映時間 91分

■監督 エイミー・S・ウェバー

■脚本 エイミー・S・ウェバー

■キャスト レクシー・エインスワース

ヘイリー・キング

ジミー・ベネット

トッド・ジェンセン

リンダ・ボストン ほか


『ガール・ライク・ハー』を観る!


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著者

三宅 隆太

1972年生まれ。若松プロダクション助監督を経て、フリーの撮影・照明スタッフとなり、映画、テレビドラマ等の現場に多数参加。 その後、ミュージックビデオの監督を経由し、脚本家・監督に。 日本では数少ないスクリプトドクター(脚本のお医者さん)として、ハリウッド作品を含む国内外の映画やテレビドラマの脚本開発やリライトにも多く参加している。 主な作品は、映画『劇場霊』『クロユリ団地』『七つまでは神のうち』など。テレビドラマ『劇場霊からの招待状』『クロユリ団地~序章』『世にも奇妙な物語』『時々迷々』『古代少女ドグちゃん』『女子大生会計士の事件簿』『恋する日曜日』ほか多数。著書に『スクリプトドクターの脚本教室・初級篇』『スクリプトドクターの脚本教室・中級篇』(ともに新書館)などがある。

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