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よみものどっとこむ

第7回

精神感応をモチーフにした異色ラブストーリー

2016.10.11更新

読了時間

【この連載は…】脚本家、映画監督、スクリプトドクター(脚本のお医者さん)、心理カウンセラー等、多方面で活躍する著者初の映画コラム! 日本における数ある〈劇場未公開映画〉のなかから「これ、なんで劇場公開しなかったんですか?」と思ってしまうほど見応えのある良作を取り上げ紹介。お店ですぐにレンタルできる作品を、洋画中心にセレクトしていきます。


 恋愛映画には大きく分けてふたつのタイプがあります。

 カップルの出会いから蜜月期までを扱うものと、交際から一定期間を経たカップルに訪れる倦怠期を扱うものです。

 前者は観客に「自分も恋(恋愛ではなく、あくまで恋)がしたいなぁ」と思わせることを目的として制作されるケースが多く、「恋愛ファンタジー映画」と呼ばれています。

 一方、後者は観客に「人間関係としての〈恋愛〉について深く考えさせる(場合によっては恋愛なんてしたくないなぁ、と感じさせてしまう)」タイプが多いため、「恋愛リアリズム映画」と呼ばれることがあります。


 具体的な作劇面でも両者には大きな違いが見られます。

 恋愛ファンタジー映画では、「ひとが恋に落ちている最中」の美しく楽しい側面が強調されるため、幾分フィクショナルになる傾向が強く、コメディや文字通りのファンタジー、あるいはメロドラマの要素が取り込まれるなど、必然的に劇性が増していきます。片や恋愛リアリズム映画は、倦怠期を扱うことで〈相手に対する恋心が冷めたときの感情〉が強調されるため、物語の世界観やテイストは重くならざるを得ず、劇性も低下しがちです。

 もちろん倦怠期自体を俯瞰的な観点で捉えることで、コメディとして物語を進めることも可能ですし、実際そういったアプローチで成功した過去作は多く存在します。

 ですが、倦怠期を迎えた登場人物の視点に入り込み、リアルな物語を進める場合は、ほぼ間違いなくシリアスな風合いが呼び込まれます。


 いずれにせよ、「恋愛ファンタジー」と「恋愛リアリズム」を同時に描くことはほぼ不可能です。双方が目指す「映画としての着地点」があまりにも異なるため、そもそも両立するはずがないからです(物語世界の時間軸を数十年のスパンで描く場合、「恋に落ちている最中」と「倦怠期に陥った状態」の両方を描くことは可能ですが、その手の映画のモチーフは「恋愛」ではなく「人生そのもの」であるケースが多いので、厳密には両立しているとは言えません)。


 今回取り上げる『イン・ユア・アイズ 近くて遠い恋人たち』は「赤い糸で結ばれた運命の恋人同士」を描く物語で、ストーリーラインだけを辿れば、典型的な恋愛ファンタジー映画に属するものです。

 しかしながら、「恋」という、ともすると主観的になりがちな感情を越えた、普遍的な「愛」に関する観点も取り込むことに成功し、結果として極めて見応えのある1本に仕上がっています。これはなかなか出来そうで出来ないことなので、この機に是非紹介させてください。

 まずはあらすじです。


 主人公はメキシコ国境近くの小さな街に住む青年、ディラン・カーショウです。

 子供のころは学校の成績も良く、将来の可能性も無限にあった彼ですが、現在は保護観察官の監視の下、仮釈放中の身です。紹介された仕事はどれも長続きせず、トレイラーハウスで冴えないひとり暮らしをしています。

 ディランが刑務所に入ることになったのは、小さな判断ミスがきっかけでした。

 手先の器用なディランは、悪友ボーとライルに頼まれ、それが窃盗であるとは知らずに民家の鍵を開けてしまったのです。警報器が作動し、ボーとライルはすぐさま逃亡。逃げ遅れたディランだけが逮捕されました。その後、ディランは警察にボーとライルの名を伝えなかったため、単独犯とみなされ投獄。

 やがて模範囚として仮釈放されたものの、彼の生活はすっかり様変わりしてしまったのです。

 出所後、ディランは人生を自らコントロールすることができなくなり(少なくとも本人はそう思い込んでしまい)他者とのコミュニケーションにも自信が持てなくなりました。

 可能性は充分にあったにも関わらず、結果として街から出ることがなかったディランは狭い世界しか知らず、自らの可能性からも目をそらしてばかりいます。


 一方、もうひとりの主人公レベッカ・ポーターは、遠く離れたニューハンプシャー州に住んでいます。夫のフィリップは市議への立候補を打診されるほどの高名な医師で、将来は病院長の跡を継ぐとの噂もあります。当然、金銭的にもゆとりがあり、妻であるレベッカの生活は何不自由ない贅沢な暮らしです。

 ところが、レベッカの心は満たされません。フィリップとは精神的に距離があり、レベッカは自らの想いを口にする機会を失いがちです。何かを思いついても、聞き入れてはもらえないと感じ、言葉を飲み込む日々を送っています。結婚当初、生活の変化に対する緊張から不安定になったレベッカをフィリップは精神疾患と見なし、入院させた過去があります。そのことがレベッカの心に、今なお重いしこりとなって残されているのです。


 そんなある日、ふとしたことがきっかけでディランとレベッカは「精神感応」を起こします。遠く離れているにも関わらず、互いの目に見えるものや耳から聞こえるものが、まるで自分の感覚であるかのように繋がってしまったのです。

 当然ふたりはパニックに陥りますが、落ち着いて声に出してみると互いの声が聞こえ、話しかけることが可能だと分かります。あたかも長距離電話で話すかのように、ふたりは徐々にコミュニケーションを図り始めます。

 互いがどこに暮らし、どんな人物で、今は何をして過ごしているのか……等々を話すうち、次第に打ち解けてゆくディランとレベッカ。

 ところが、周囲の人間には「独り言を話しているように」しか見えません。ふたりはやがて「精神感応」のスイッチのオンオフを身につけ、連絡を取り合う時間を決めると、毎夜毎晩、ふたりだけの会話を愉しむようになります。


 ある日、ディランはふと子供時代に起こった不思議な出来事を思い出し、レベッカに伝えます。

 「小さい頃に、ソリで遊んでいて大ケガをしたことない?」

 思わずハッとなったレベッカは、子供時代にソリ遊びで大木と衝突、頭部を強打し、生死の境を彷徨った経験を伝えます。実はそのとき、子供だったディランはすでにレベッカと「精神感応」を起こし、自らも意識不明の重体に陥っていたのです。

 ふたりの「繋がり」は今に始まったことではなく、はるか以前から、まるで運命のように結ばれていたのです。

 ディランとレベッカは、これまでに幾度も「精神感応」を繰り返してきたことを思い出します。ディランが刑務所で過ごしていたときの孤独をレベッカも感じていたこと。レベッカが学生時代に母を亡くし、孤独に苦しんでいたことをディランも感じていたこと……。


 やがてふたりは、互いに惹かれ合っていることに気づきます。しかし、それは単なる恋心ではなく、真の意味での共感でした。どんなに近くにいても、気づくひとなどひとりもいなかった互いの心の痛みを、ふたりは「自分のこととして感じることで」無意識に共有していたからです。それまで孤独を感じていたディランとレベッカは、いつしか誰よりも信頼し合える関係になっていきます。

 そんな矢先、レベッカの夫フィリップは、妻が夜中に「ひとりで」楽しそうに話している姿を目にしてしまいます。かつての精神疾患が再発したのでは、と疑った彼は、統合失調症の専門医メイナードに相談し、妻を隔離すべく準備を開始するのです……。


 この映画は、ジャンルで言うとファンタジーにあたりますが、構造的には「女性神話」を辿る物語です。ディランもレベッカも、自らが置かれた現状に抑圧されていることには充分気づきつつも、その現状に依存しなければ生きてはいけない。

 少なくともふたりともそう思い込んでいます。


 ところが、あることがきっかけで(この映画では「精神感応」が起こったことがきっかけで)自らの内面に「輝くことができる可能性」を発見、現状とは異なる「秘密の世界」を手に入れます。

 ふたりは「精神感応」の時間を繰り返すことで「秘密の世界」の尊さを実感し、魅了され、次第に元の世界(現状)とのバランスを保てなくなります。

 『アナと雪の女王』での「ありのままで♪」と同じく、自らが自ららしく過ごせる場所を手に入れたことで、大きく変化するチャンスを手に入れるのです。

 しかし、そのチャンスを活かすためにはリスクを伴います。

 ふたつの世界での暮らしをいつまでも繰り返すわけにはいきません。それは現実から目を背けているだけだからです。いつか必ず、どちらか一方を「自らの選択と行動」によって、選出しなければならない日がやってきます。

 ひとは誰しも、意図せずとも「楽なほう」を選択し、「考えなくて済むほう」の行動をとってしまいがちです。結果、日々の暮らしはルーティン化し、いつのまにか「自分の限界値はここ」と決めてしまうのです。

 これまでとは違った「選択と行動」をとるには勇気が要ります。自分でこしらえた「殻」を破らなくてはならないからです。

 本作でもディランとレベッカが「自らの殻を破る瞬間」がクライマックスで魅力的に描かれます。その結果、ふたりの身に何が起こるのか、ふたりの未来はどうなるのか……それは実際に映画をご覧になってみてください。


 ところで、本作はその特殊な設定ゆえに、主人公ふたりが共演することができません。しかし、観客は共に画面に登場することができないディランとレベッカに感情移入し、物語を追っていきます。

 必然的に本作の成功の鍵を握るのは、ふたりの演者の力量ということになります。


 ディランを演じるのは『クローバーフィールド/HAKAISHA』に主演したマイケル・スタール=デイビッド。やや線が細く、決して強烈な印象を残すタイプの俳優ではありませんが、繊細でリアルな演技が持ち味です。本作の特殊な設定を活かした展開には、彼のチャームが確実に活きています。


 しかし、彼以上にこの映画の中軸を支えているのはレベッカ役のゾーイ・カザンです。

 名作『欲望という名の電車』の監督として知られるエリア・カザンを祖父に持ち、『ロンリー・ブラッド』や『悪魔を哀れむ歌』の脚本家として知られるニコラス・カザンを父に、また『SAYURI』の脚本や『ジェーン・オースティンの読書会』の監督兼脚本家でもあるロビン・スウィコードを母に持つ彼女。

 幼い頃から家族による映画づくりや脚本執筆作業を目の当たりにして育ったためか、ゾーイ・カザンもまた、自ら脚本を執筆し、主演も兼ねた映画『ルビー・スパークス』で一躍有名になりました。それまでにも『フラクチャー』や『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』などの映画に出演してはいましたが、やや個性的な美貌のためか(特に鼻筋はお祖父さんにそっくり!)残念ながら、あまり彼女の魅力を引き出せるような役柄や作品には恵まれていませんでした。

 自分自身でアテ書き(具体的な俳優をイメージして脚本を書くこと)をした『ルビー・スパークス』以降は、多くのクリエイターを刺激し(皆、ゾーイ・カザンという女優をどう使えばいいのかを掴んだのでしょう)、『もしも君に恋したら。』『プリティ・ワン たったひとつの恋とウソ。』『選挙の勝ち方教えます』といった魅力的なインディペンデント作品に多く出演するようになりました。

 残念なのは、それらが皆日本では劇場公開されず、DVDストレートになってしまっていることです。日本で彼女の人気が今ひとつ盛り上がらないのはそのためかもしれません。


 いずれにせよ、本作に於けるゾーイ・カザンは極めて魅力的です。

 おそらく現場では、スクリプター(記録係)か代役の俳優がディランの台詞を読み上げるという方法を選択しているのではないかと思います。ディラン役のマイケル・スタール=デイビッドと共演できないまま撮影を続けなければならないのは精神的には相当な負担だったろうと推察できますが、それを微塵も感じさせない見事な表現が随所に見られます。

 イエール大学の演劇科を卒業し、数多くの舞台経験を積んだ彼女は、スタニスラフキー・システムをベースにした、いわゆる「メソッド演技法」の実力者でもあります。この辺りのキャリアは、祖父のエリア・カザンがアクターズ・スタジオの創設者のひとりでもあることを考えると実に興味深いところです。

 メソッド演技法は、役作りのために俳優が自らの内面を掘り下げるアプローチのため、俳優自身の精神に過大な負荷が掛かることや、演技の即興性が強いために表現にメリハリが欠け、不明瞭なものになりがちだというマイナス面がありますが、本作のように「共演者が不在」の状態で、でも同時に、「彼は私の内面に存在する」という難しい役柄を演じる際は、間違いなくプラスの効果を生むアプローチと言えるでしょう。


 そういう意味でも、主人公ふたりの間に芽生える「精神感応」という要素は、この映画を支えるもうひとつのキーポイントです。

 一度も会ったことがないばかりか、遠く離れた場所に住んでいるにも関わらず、ディランとレベッカは互いの見るもの、聞くもの、そして感じるものを共有していきます。

 この独特の感覚は、映画的に誇張して表現されてはいるものの、実はまったくの絵空事とも言えない感覚です。


 精神医学のトピックのひとつに「共感覚」と呼ばれる現象があります。

 共感覚は、ある外的な刺激に対して通常の感覚だけではなく、別種の感覚をも同時に発生させる現象です。例えば、視覚的な刺激を受けたときに同時に聴覚の刺激も受けてしまう、あるいは聴覚的な刺激を受けた際に視覚的な刺激を伴う、というようなことです。

 例えば、フランスの詩人アルチュール・ランボーやロシア生まれの作家ウラジミール・ナボコフは、文字に「色」が見えると発言し、共感覚者だったのではないかと言われています。またアメリカの盲目の歌手スティービー・ワンダーや、ロシアの作曲家アレクサンドル・スクリャービンは音に対して色を感じていたとされています。

 これらの感覚は、典型的な共感覚と言えるでしょう。


 一方で、共感覚の一種として「ミラータッチ共感覚」と呼ばれる現象が存在します。

 こちらは自分ではない他人が物やひとに触れた際、触れたひととまったく同じ触覚が生じたり、触れられたひとと同じ触覚が生じるというものです。もちろん、誰の身にも起こる現象ではありませんが、世界中の報告例を見る限り、単なる誤認識や勘違いとして片付けるのも難しいという、実に興味深い現象です。

 おそらく本作は、このミラータッチ共感覚から着想を得たのではないかと思われます。

 夫の留守中に飲酒し酩酊状態になったレベッカが、実際には遠く離れた場所にいるディランと性愛を交わすシーンは独特かつとても美しく描かれています。ミラータッチ共感覚のベッドシーンをここまでロマンチックに描いた映画はおそらく史上初なのではないでしょうか。


 ところでこの映画はいわゆる「恋愛ファンタジー」のため、あらすじだけを辿ると「ある種の甘さ」が印象に残ってしまい、面白さが伝わりにくいかもしれません。むしろ、「心が通じ合うから相思相愛だなんて、三十歳近い男女の恋愛感情としてはあまりにもウブすぎるんじゃないの?」と否定的に感じるひともいるでしょう。

 しかし、実際に本作をご覧いただくとお分かりになるかと思いますが、『イン・ユア・アイズ 近くて遠い恋人たち』は、その問題を易々とクリアしています。

 そもそも「精神感応」というモチーフをスイートな恋愛感情の道具としては使っていないのです。


 まず、主人公たちの身に起きる「精神感応」がいわゆるテレパシーとは異なり、相手の心の内側までは理解できないという設定にした点が秀逸です。

 互いの見たものや聞いたものは共有できるものの、その都度何をどう感じたかは共有できないのです。この「きちんと言葉で想いを伝えない限り、相手には伝わらない」というアイデアは実にフェアですし、作劇上も極めて効果的です。

 また、ディランとレベッカは「互いの存在に救われたと感じていること」でこそ惹かれ合い、その原因は「子供時代のことをすら互いに理解しているため」だと「認識して」います。つまり、彼らは相手の身に起きた出来事を「常に自分のこととして認識してきた」のです。この共感性の強さは表層的な色恋の感情とは決定的に異なります。

 劇中、レベッカの印象的な台詞があります。

 ディランが、かつて刑務所で過ごしていたころ、いかに孤独を噛みしめていたかを伝えると、レベッカはこう言います。


 「でも、独りじゃなかったよ。私もいたから」


 この台詞はディランにとって、深い部分での「恋に落ちる瞬間」でもあるわけですが、物語の設定上主人公たちが共演できない(同時に体験する出来事を描くことができない)というカセがあるからこそ、それが本作特有の作劇として機能し、「決定的な共感のエピソード」を生んだドラマチックな瞬間でもあります。

 恋をモチーフとしながらも、実際にはもっと深い部分に存在しうる利他性としての愛について考えさせる映画は、多くの作り手がそれを目指しながらも、なかなか達成できない領域です。

 その点、本作は脚本のクオリティが極めて高いと言えるでしょう。


 ところで、脚本という表現物は、その性質上必ず「穴」があくものです。つまり、「矛盾」が発生してしまう。この矛盾というのは、多くの場合大きく2種類に分けられます。

 設定の論理的な矛盾と登場人物の行動に関する心理的な矛盾です。

 小説の場合、設定の論理的な矛盾を埋めるための説明が数十ページ分書かれていたとしても、読み手はそれほど違和感を覚えず、むしろ書き方によってはとても楽しめる時間になることがありますが、これは小説に於けるページ数が、時間として換算されない「読み物」だからです。

 片や脚本は、そもそも映画にするために書かれるものなので、ページ数は時間に換算されますし、事実上「読み物」としても機能しません。数十ページに及ぶ設定の説明に時間を割くということは、その場面は「ただ俳優が説明台詞をしゃべっているだけの時間」になってしまうため、劇性は低下し、物語も一時停止してしまうのです。これは映画表現としては御法度です。

 しかし、それでも設定の矛盾は必ず生じます。特に今回のような「精神感応」が題材の場合、主人公たちはいったいどこまで互いの経験をシェアしているのか? そもそも刑務所や母の死んだ日のことを覚えているなら、その他の大量の記憶も共有しているのか? 等々、SF的な設定の細かい部分を気にしだしたらキリがありません。

 通常、このように設定上の矛盾が発生した場合、脚本家の仕事は「登場人物の情動」を発生させることで物語を展開し、「観客の情動」を設定の矛盾に、ではなく、登場人物の心の動きにフォーカスさせることです。

 その点でも本作は「矛盾」を巧みに捌くことに成功しています。


 脚本を執筆したジョス・ウェドンは、1992年、日本人プロデューサーの葛井克亮さんが製作したアメリカ映画『バッフィ/ザ・バンパイアキラー』で脚本家としてデビュー。その後、ピクサーの長編映画第一作『トイ・ストーリー』に脚本チームの一員として参加したことで有名です(ちなみに、多くのメディアで映画評論家や映画ライターの方たちがウェドンの、脚本家としての代表作として『トイ・ストーリー』を挙げているようですが、同作はクレジット上で4名、ノンクレジットで最低でも8名以上の脚本家が参加した作品です。従って「純粋な意味でウェドンの作品として扱う」には、本来であれば、もっとデリケートな姿勢が必要になると、ぼくは考えています)。


 また近年では監督と脚本を兼任した『キャビン』や『アベンジャーズ』など、一貫して「SF、アクション、ホラー」などの「ジャンルに特化したクリエイター」としても有名です。

 本作は、そんな彼がデビュー時と前後して、まだ20代だった頃に書いた脚本を映画化したものです。

 もちろん、20代という若さで書かれたが故の荒さもないわけではありませんが、それは同時に現在の彼には書けないであろうピュアさが効いている証拠でもあります。

 前述したようにゾーイ・カザンの好演もあって、大変見応えがあります。本当に劇場未公開にしておくのがもったいない1本です。


 お近くのレンタルビデオ店に行かれる際は、是非お手にとってみてください(ちなみに本作はNetflixでも配信されています)。

 それでは次回またお会いしましょう。



 ※ところで、『イン・ユア・アイズ 近くて遠い恋人たち』は、2015年に新宿の映画館シネマカリテで開催された『カリテ・ファンタスティック! シネマコレクション2015』(以下、『カリコレ2015』)にて、同年5月31日、6月8日、6月19日の各日に一度ずつ、計3度スクリーンで上映されています。一般の映画館で、なおかつ入場料金を設定したうえで上映されたことがある作品を「劇場公開作品」としてカウントすべきなのか、あるいは「劇場未公開作品」として扱うべきなのかについては、正直ずいぶんと悩みました。


 しかし、ぼくが愛してやまない多くの過去作、例えばイギリス製の不条理ミステリー『コールド・ルーム』やアメリカ製の低予算映画『SFゾーン・トゥルーパーズ』、また旧ソ連軍によるアフガン侵攻を描いたアメリカ製のアクション映画『レッド・アフガン』などは、それぞれ1985年、86年、89年の東京国際ファンタスティック映画祭で上映されたにも関わらず、一般的にも業界的にも、すべて「劇場未公開作品」として扱われています。

 また、近年でもポーランド映画史上最大のヒット作として知られる『リベリオン ワルシャワ大攻防戦』は角川シネマ新宿で開催された「ポーランド映画祭2015」にて合計3回スクリーン上映されていますが、こちらもやはり「劇場未公開作品」として扱われています。

 これらの事例に従って、『イン・ユア・アイズ 近くて遠い恋人たち』の『カリコレ2015』での3回の上映は「劇場公開ではない」と判断し、今回の掲載に踏み切りました。

 『カリコレ2015』の関係者の皆さま、並びにファンの皆さまのなかには、ぼくの今回の判断に不快感を覚える方もいらっしゃるかと思います。


 ですが、どうか誤解なさらないでいただきたいのですが、ぼくは決して『カリコレ2015』を「映画祭として軽視している」わけではありません。

 「映画祭での上映」を「劇場公開」としてカウントしないことが重要なのではないか、と考えているだけです。


 本コラムの目的は、ネットを通じてひとりでも多くの方に、1本でも多くの良質な劇場未公開映画を紹介することにあり、それを機に読者の皆さんがご自分に見合った劇場未公開作品を発見する愉しみを身につけていただくことにあります。映画祭での上映を劇場公開としてカウントしてしまうと、その機を逃すことにもなりかねません。

 ただでさえ、劇場未公開作品は、新作としてリリースされた時期を逃すと紹介の機会を失いがちです。その結果、再評価のタイミングを逸するばかりか、良質な作品がことごとくビデオ屋の棚の片隅に追いやられ、PPTの期限を過ぎればメーカーに返還され、人知れず消えていき、まるでその映画が「なかったことにされてしまう」ことも多々あります。こういった現状は、一映画ファンとしても一作り手としてもあまりに忍びないと感じるのです。


 以上の理由から、今後も本コラムで取り上げる作品のなかには通常の興行は打っていないものの、映画祭やイベントで上映されたことがある作品が「劇場未公開映画として」登場するかと思います。

 何卒ご理解ご了承くださいますよう、よろしくお願いいたします。



■『イン・ユア・アイズ 近くて遠い恋人たち』

■原題 In Your Eyes

■製作年 2014年

■製作国 アメリカ

■上映時間 105分

■監督 ブリン・ヒル

■製作 マイケル・ロイフ

カイ・コール

■製作総指揮 ジョス・ウェドン

■脚本 ジョス・ウェドン

■撮影 エリシャ・クリスチャン

■キャスト ゾーイ・カザン

マイケル・スタール=デビッド

ニッキー・リード

スティーブ・ハリス

マーク・フォイアスタイン

スティーブ・ハウィー

ジェニファー・グレイ ほか


『イン・ユア・アイズ 近くて遠い恋人たち』のDVDを見る!



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著者

三宅 隆太

1972年生まれ。若松プロダクション助監督を経て、フリーの撮影・照明スタッフとなり、映画、テレビドラマ等の現場に多数参加。 その後、ミュージックビデオの監督を経由し、脚本家・監督に。 日本では数少ないスクリプトドクター(脚本のお医者さん)として、ハリウッド作品を含む国内外の映画やテレビドラマの脚本開発やリライトにも多く参加している。 主な作品は、映画『劇場霊』『クロユリ団地』『七つまでは神のうち』など。テレビドラマ『劇場霊からの招待状』『クロユリ団地~序章』『世にも奇妙な物語』『時々迷々』『古代少女ドグちゃん』『女子大生会計士の事件簿』『恋する日曜日』ほか多数。著書に『スクリプトドクターの脚本教室・初級篇』『スクリプトドクターの脚本教室・中級篇』(ともに新書館)などがある。

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