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よみものどっとこむ

第8回

幽霊側の視点から描く「止まった心の時間」の進め方

2016.10.25更新

読了時間

【この連載は…】脚本家、映画監督、スクリプトドクター(脚本のお医者さん)、心理カウンセラー等、多方面で活躍する著者初の映画コラム! 日本における数ある〈劇場未公開映画〉のなかから「これ、なんで劇場公開しなかったんですか?」と思ってしまうほど見応えのある良作を取り上げ紹介。お店ですぐにレンタルできる作品を、洋画中心にセレクトしていきます。


 今回ご紹介する劇場未公開映画は『私はゴースト』というタイトルのアメリカ映画です。

 レンタルビデオ屋さんでは「ホラー映画」の棚に置かれているかと思いますが、いわゆる普通のホラー映画とはかなり雰囲気の異なる作品です。


 舞台となるのはひとつの屋敷で、カメラが建物の外に出ることはありません。さらに主な出演者は主人公ただひとり。そこに途中から声だけで登場する人物がひとり。後半に印象的な登場をする人物がもうひとり。という具合に、登場人物は合計で3人しか存在しません。しかも上映時間はエンドロールを入れてもわずか76分という短さです。

 ちょっと変わってますよね?


 実はこの作品、監督もキャストも完全に無名の、超低予算で作られた自主映画なのです。


 自主映画と聞くと、皆さんはどんなイメージを抱かれるでしょうか?

 映像が貧乏くさい、身内受けで学生気分が抜けない世界観、自分探しを中心にした起伏のないストーリーが展開する……等々。

 昔の自主映画(特に8ミリで作られた自主映画)には、そんなイメージがつきまとうかもしれません。

 あるいは近年のデジタル世代による自主映画となると、今度はイメージがまったく逆の可能性もあります。パソコンのソフトで作られたCGなどのエフェクトがやたらと登場し、デジタル一眼レフで撮られた映像は美しくまるでプロのよう。ただし脚本は弱く、カタチだけプロのまねをした表層的なストーリーが展開し、普遍的な人間の心理までは掘り下げられておらず、ドラマ(葛藤)としての見応えがあまりない。

 ひとによっては、そんなマイナスイメージを持たれる方がいるかもしれません。


 『私はゴースト』は、そういった「いわゆる」自主映画のイメージを覆すアイデアがてんこ盛りで、すこぶる面白い作品に仕上がっています。

 また、マーケティングをベースに発想されたヘタな商業娯楽映画をはるかにしのぐ創造性とクオリティが確保されているため、実に見応えがあります。

 というわけで、この機に是非紹介させてください。

 まずはあらすじです。


 主人公のエミリーは「かなり古風な家」で独り暮らしをしている若い女性です。

 普段と変わらぬ様子でベッドで目覚めた彼女は、台所で朝食を作り、それを食べ、家のなかを掃除すると、買い物に出かけ、戻ってきて、読書をし、やがて夕方になるとソファでうたた寝をする……といった具合に、ごくごく普通の日常を過ごしていきます。

 やがて画面は一転。

 さきほどと同様エミリーがベッドで目覚め、台所で朝食を作り、食べ、掃除をし、買い物に出かけ、帰宅し、読書をしていく姿が映されます。


 ……ははぁ、これはきっと「退屈な日常を繰り返す女性の地味な物語」なのだな、と思って観ていくわけですが、それにしてはどうもおかしい。

 エミリーの一挙手一投足は、一度目の日常描写と微塵も変わらないのです。


 つまり、エミリーは退屈な日常を過ごしているどころか、連日まったく同じことをまったく同じ速度と間合いで繰り返しているのです。しかもそのことに対して、当の本人はまるで無自覚なようなのです。

 多くの観客はここで奇妙な感覚に囚われていくでしょう。

 一体、この人物は何者なのか? 何故こんなことをくり返し、またそのことにどうして無自覚でいられるのだろうか?

 映画がはじまって13分を過ぎたころ、それまでの均衡が突然破かれます。

 「エミリー、聞こえる?」

 誰もいない空間から見知らぬ老婆の声が響くのです。てっきり幽霊か何かだと早合点したエミリーは怯えます。

 シルヴィアと名乗るその声は、エミリーを落ち着かせようと穏やかに話し続けます。


 話を聴いていくと、どうやらシルヴィアには敵意はなさそうなことが分かります。

 しかも、以前にも会ったことがあると言います。ですが、エミリーには心当たりがありません。シルヴィアなる人物についての記憶がないのです。

 「私はあなたを助けたいの」

 「助ける? どういうこと?」

 「落ち着いてエミリー。これから私が言う言葉をくり返し唱えてみてちょうだい」

 「……?」

 不安げなエミリーに対し、シルヴィアの声はこう続けます。

 「私は幽霊、私は幽霊、私は幽霊……」


 実はエミリーはとうの昔に死んでおり、地縛霊としてこの家に留まっていたのです。

 シルヴィアの職業は霊媒師で、エミリーを成仏させるためにこの家にやって来たと言います。実際、これまでにも何度かお祓いを試みたものの、その都度「問題の核心」に迫ろうとすると、エミリー自身が恐れをなして逃げ出してしまう。そんなことが繰り返されたというのです。

 お祓いの最中に逃げだしてしまうことでシルヴィアとのコネクトが外れ、エミリーは「お祓いをしたという記憶」をなくし、自らが死ぬ前の状態の時間へと逆戻りしてしまう。

 その結果、終わらない日常が際限なく繰り返されていく……。

 観客が観てきたエミリーのループした1日は、そんなやりとりの末に起きていたことだったのです。


 目には見えないシルヴィアと言葉を交わすうち、エミリーは次第に「失われていた記憶」を取り戻していきます。

 自分がこの家で「何者か」によって殺害されたこと。

 その記憶が恐ろしすぎるあまり、心の底から忘れ去ろうとしていたこと。それゆえに自らの死をも受け入れられなかったこと……。

 はたしてエミリーの死にはどんな秘密が隠されているのでしょうか? そしてエミリーは無事に成仏することができるのでしょうか?


 『私はゴースト』は、成仏できずに苦しんでいる地縛霊の想いや葛藤を「幽霊側の視点」から描いた、非常に珍しいタイプのホラー作品です。

 劇中で詳細には語られないものの、シルヴィアとのやりとりやエミリーの家の内装、また彼女の服装などから、エミリーが死んだのは相当な昔(おそらくは80年近く前)であることが分かります。それほどの永きにわたって自らの死を(つまり現実を)受け入れられず、終わりなき日常を繰り返してきたエミリー。彼女の孤独を想像すると、恐ろしくも悲しい気持ちになります。


 この奇妙で味わい深い映画を監督したのは、H・P・メンドーサという人物です。

 独特の世界観と眼差しから、てっきりヨーロッパの出身かと思いきや、意外にも彼はカリフォルニア州サンフランシスコ生まれという生粋のアメリカ人でした。

 キャリアの初期は演者側にいたようで、歌って踊れるミュージカル俳優として地元の劇団で活躍したのち、2006年にインディペンデント映画作家のリチャード・ワンが監督した『Colma:The musical』に主演。同作でのメンドーサの演技は、当時のメディアで高く評価されたようです。

 その後は作り手の側にまわり、2009年には処女作の長編『Fruit Fly』を完成させます。

 同作はフィラデルフィアで毎年開催されている「ゲイ&レズビアン映画祭(通称、Qfest)」でのライジングスター賞をはじめ、数々のインディペンデント映画祭で賞を受賞しています。その後、演者の仕事を細々と続けながら、サンフランシスコのリアリティTVの世界で演出家として腕を振るったのち、今作『私はゴースト』を自主制作。世界中の映画祭で高い評価を得ました。


 メンドーサは非常に多彩な人物です。

 本作でも監督のみならず脚本を執筆、また撮影、照明、編集、音響効果、さらには劇中音楽の作曲まで手がけています。

 映像制作の工程に精通している彼ですが、とりわけ音楽方面には強いようで、デビッド・ルイス監督のコメディ映画『ロングホーン』では音楽を、クリスチャン・ケギガル監督のドキュメンタリー映画『Now and at the Hour』では音響効果を担当しています。


 実はこういった器用さは、彼独自のものというよりも、典型的なインディペンデント系作家「ならではのもの」でもあります。そもそもインディペンデントの作り手は潤沢な予算がなく、人手も足りないことがほとんどです。ゆえに、ひとりで色んなことをしないと映画が作れないことが多く、ある程度は器用にならざるを得ない、という実情があります。

 ようするに、ハリウッド系のメジャーなフィールド出身の作り手とは根本的なアプローチが違いますし、違わざるを得ないのです。これはどちらが良い悪いという話ではなく、単なる状況の差と言えるでしょう(もちろん、だからと言ってインディペンデント系の作家陣が皆、メンドーサのような才能を有しているわけではありませんが)。


 一方、全編出ずっぱりの主人公エミリーを演じたアンナ・イシダは、東京生まれのサンフランシスコ育ちという、いわゆるハーフの女優です。

 アメリカで複数のインディペンデント映画に出演した経歴はあるものの、主戦場は映像ではなく、舞台のミュージカルとのこと。とりわけサンフランシスコのベイエリアでの仕事が多いようです。監督のメンドーサとは同郷ということもあり、仕事の人間関係を通じて自然な形での出会いがあったのかもしれませんね。

 ところで、彼女は日本のアイドルグループSKE48の石田安奈さんとはまったくの別人です。「そんなの当たり前だろ!」と言われそうですが、実際に混同されている記事を何度か見かけたことがあります。

 例えば、アメリカの有名映画情報サイトIMDB(Internet Movie Deta Base)のなかで、本作の主演女優アンナ・イシダが『The Saturday Night Child Machine』というテレビのミニシリーズに出演していると紹介されていますが、実際にはこの番組は、2013年に日テレで放送されていた深夜バラエティ『サタデーナイトチャイルドマシーン』のことで、前述のアイドル石田安奈さんが出演していました。

 こういう誤解が生じてしまうのは、アンナ・イシダがいわゆるメジャーでポピュラーな畑での仕事よりも、インディペンデント界隈での活動に拘っているからこそと言えるのではないでしょうか。


 インディペンデント畑出身者だからと言って、本作での彼女の仕事ぶりに見応えがないわけではありません。

 そもそも「自意識に囚われた地縛霊」というのはとても難しい役柄です。

 しかも物語の途中から、エミリーは生前とある精神疾患を患っていたことが判明するのですが、そのことで演技のアプローチを若干シフトせざるを得なくなります。これまで映像の仕事はあまりしたことがないようですが、観たところ、役柄の精神状態に繊細なレベルで的確にフォーカスできているようです。メソッド演技法の下地ができているのでしょう。冒頭からラストに至るまで「カタチではないキモチの演技」が堪能できます。


 この辺りは、低予算のプロジェクトであるが故に、舞台をひとつの建物内に絞ったことが功を奏した可能性があります。

 舞台を中心に仕事をしてきた俳優のなかには(とりわけ映像の仕事をあまり経験したことがない俳優の場合は)、撮影現場で「役柄の気持ち」をフィジカルなレベルで腑に落とすのが苦手なひとがいます。

 映画は必ずしも脚本通りの順番で撮影されるわけではありませんし、ひとつひとつのカットも(照明のセッティングやロケ場所のスケジュールなどの都合で)バラバラな順序で撮られるのが普通です。

 また、個々のカットのフレームサイズに合わせた芝居が求められるため、舞台での表現とは異なり、心情的には違和感のある高さに手や足を配置したり、表情や顔の向きのバランスを「カットの狙い」に合わせたものにしていかなくてはなりません。

 映像演技の経験があまりない場合、こういった状況下に身を置くことで、芝居が形骸化してしまうケースがあります。

 なかでも問題になるのが、物語の展開上、撮影場所(ロケ場所)を次々と移動することになったり、シーンの内容に合わせて美術スタッフの部屋の作り込みを変更せざるを得なくなることです(もちろん、そのこと自体は仕方のないことなのですが)。

 その結果、俳優が役柄に素早くフォーカスし、その精神状態を高いレベルで維持するのが難しくなることはままあります(なるべく早くキャリアを積んで慣れる〈経験値を増やす〉しか解決策はないのですが)。

 その点『私はゴースト』では、主人公のエミリーが「死を受け入れられない地縛霊」であり、「だからこそ、同じ場所をぐるぐると行き来せざるを得ない」という設定を作ったことで、予算的にも無駄が省けただけでなく、経験の浅いアンナ・イシダにとっても、役柄へのフォーカス感覚が維持しやすかったのではないかと思います。

 これは間違いなくH・P・メンドーサの作戦勝ちですし、脚本も執筆しているからこその極めて的確な判断だったと言えるでしょう。


 ちなみに、霊媒師のシルヴィア役として声のみの出演をしているジーニー・バロガ、物語の後半に登場する「極めて印象的な唯一の男性」を演じたリック・バーカートともに、インディペンデント映画界で監督も務める無名の俳優です。

 メンドーサ自身のキャリアのせいもあるのでしょうが、演者各人が「映画づくりの役職に垣根は存在しない」とばかりに柔軟な対応をしている点も、観ていて実に頼もしく感じられました。


 ところで、本作で描かれているようなことは実際に起こりうるのでしょうか?

 つまり、幽霊が「自分が死んだことに気がつかず、同じ時間を延々と彷徨いつづけてしまうという状況」はあり得るのか、ということです。

 それ以前に幽霊はいるのか? という問題がありますが……。

 とりあえず、「幽霊の存在を科学的に証明できるか否か」という観点での議論は、ちょっと脇に置いておいて考えてみたいと思います。


 まず、ぼくの持論として、いわゆる幽霊と呼ばれる存在は「究極の鬱状態」にある人物であるという解釈を、通常からよくしています(まがりなりにもカウンセラーである以上、「鬱病」と断言はしません。あくまでも「鬱状態」と解釈してください)。

 そのうえで次の観点です。

 エミリーに限らず、いわゆる「成仏できない状態の幽霊」は、我々のような「生きているひと」とは異なり、肉体を持っていません。

 我々「生きているひと」は、日常生活のなかで何か嫌なことがあったり、悩むことが起きたりして鬱状態になった場合(しつこいようですが、正式な「鬱病」のレベルの話ではありません。あくまで「鬱状態」です)、個々人で苦しみの大小はあるにせよ、肉体が「時間」を先に進めるためのヒントを与えてくれるはずです。

 例えば、お腹がすいたり、眠くなったり、セックスをしたくなったり……。

 つまり、「新しいフィジカルな体験」を得られるように、止まった時間の上書きをできるようにと、肉体が「現状の変化」を促してくれるわけです。


 ところが、いわゆる幽霊と呼ばれている存在には肉体がありません。

 彼らの場合、ただ漠然と精神のみが存在しています。

 必然的に「新しいフィジカルな体験」をするための「きっかけ」が起こらず、未来の経験が得られない。そのことが原因となって、過去の経験に囚われ続けてしまう可能性があるのではないか、と思うのです。


 いわゆる実話怪談の類いで頻繁に耳にするのは、幽霊が「うらめしや」といった類いの言葉を口にするという事例です。

 上司と不倫した末に捨てられ、自殺してしまった女性の霊が「どうして私が捨てられなきゃならないの……」とつぶやいたり、突然の事故に巻き込まれこの世を去った若者の霊が「どうして自分だけがこんな目に遭わなきゃならないんだ……」と口にしたといった話は、よく聞きます。

 つまり、幽霊と呼ばれる存在は、「心の時間が止まったままの状態」に身を(というか精神を)置かれてしまい、肉体的な時間を(肉体がないので)前に進めることができずに苦しんでいる。

 こういった状態が続くと、当然ながら自己内省的にならざるを得ず(自らの「辛い感情」に浸らざるを得ず)、鬱状態を引き起こすのではないか。しかも、肉体が存在しないために、我々とは比較にならないほどの「重度の鬱状態」の「悪化」が発生してしまうのではないか、と思うのです。


 こうしている間も、世界中のあらゆる場所で、人知れず「止まった心の時間を前に進められないまま(またそのこと自体にも無自覚なループを続けて)苦しんでいる幽霊」が大勢いるのではないか。ぼくはついついそんな風に考えてしまうのです。


 一方でよく考えるのは、そんな「心の時間が止まったままの幽霊」の存在に気づくことができてしまうひとがいたとして、その「気づいた」ということが、幽霊側に「気づかれてしまった」場合、気づいてしまったひとに対して幽霊は「重度の鬱状態」の反転として「重度の依存状態」を引き起こすのではないか、とも感じます。


 自分の苦しみに気づいてくれるひとがいた。

 話を聴いてくれるひとが現れた。理解してくれるひとが現れた。

 ……逃がすわけにはいかない。


 そんな具合に幽霊が考えたとしたら、重度の依存がさらなる執着を生み、「幽霊に気づくことができるひと」を苦しませることになるかもしれません。

 その結果、「気づいたひと」が幽霊に依存され(つまり、取り憑かれ)、重度の鬱状態が転移してしまい、そのひと自身は生きているにも関わらず「心の時間が停止してしまう」というスパイラルが起きてしまうのではないか……。


 そんなことを考えていくと、よくある幽霊を題材にしたホラー映画の中で不用意に霊とコンタクトをとるひとが出てくる場面を観ると、どうにもリアリティ(というか切迫感)が足りないようにも思えてきます。


 そういう意味では、生きているひとの「止まった心の時間」を動かす(鬱状態から解放させ、健全な日常を取り戻させる)ための援助者がカウンセラーや精神科医で、生きていないひと(幽霊)の「止まった心の時間」を動かす(成仏させる)のが霊媒師の仕事と言えるのかもしれません。


 本作の興味深い点は、いま挙げたような要素に関しても、とても誠実なアプローチが見られるところです。

 最後まで声のみしか聞くことのできない霊媒師シルヴィアは、ハリウッドのゴーストストーリーにありがちな「安易で不用意な解決策」や「事態を解決させる道具」をエミリーに手渡すようなことはしません。

 問題を解決するには、つまりエミリーが「過去に囚われず、時間を前に進ませる」ことで「成仏できる」唯一の方法は、エミリー自身が「考え方を変える」ことだということを、シルヴィアは提示していきます。


 ひとつの思考に囚われてしまったが故に、自らの死も、またその原因もしっかりと認識できないエミリー。心の時間を停止させ、地縛霊として現実から逃げ続けてきたエミリーにとって、事態を打開できるのは他人ではなく、彼女自身でしかないのです。

 とはいえ、彼女が抱える問題は大きく、その闇も深いため、無事に成仏するためには多大な苦しみを伴います。


 この苦しみにエミリーがどう立ち向かうのか、はたまたエミリーの死の真相には一体どんな秘密が隠されているのか?

 そこには彼女が「死の瞬間」から80年という永きにわたって地縛霊として「止まった刻」を彷徨わざるを得なかった深い心の闇が横たわっています。


 『私はゴースト』は「幽霊側の視点から描く」という、その奇抜なアイデアゆえに、その点ばかりが注目されがちです。しかし、物語が進むにつれ、ひとが生きていようが死んでいようが変わらない「普遍的な心の問題」に深く踏み込んでいきます。

 いわゆる「ホラーとしての怖さ」を期待して見始めると、「思ってたのと違った」と感じるひとが多いかもしれません。

 たしかに「思ってたのとは違うタイプ」の映画なのは事実ですが、「思ってたのと違う」と感じるときというのは、新たな価値観や視点を手にするチャンスでもあります。

 「観客への投げかけ」というスタイルを選択したエンディングも含め、普段なかなか得られないタイプの映画体験が可能な1本です。

 是非、ニュートラルな気持ちでご覧になってみてください(なお本作はレンタルでのリリースのほかに、Amazonプライムでもレンタル&セル視聴が可能です)。


 それでは、次回またお会いしましょう。


 ※ちなみに『私はゴースト』はDVDの発売に併せて、未公開映画の祭典としてよく知られる「未体験ゾーンの映画たち 2016」(会場はヒューマントラストシネマ渋谷)で上映されたことがありますが、いわゆるロードショーという興行形態とは異なるため、前回の『イン・ユア・アイズ 近くと遠い恋人たち』と同様、一般的な意味での劇場未公開作品として紹介いたしました。

 その点、何卒ご了承ください。



■『私はゴースト』

■原題 I Am a Ghost

■製作年 2012年

■製作国 アメリカ

■上映時間 76分

■監督 H・P・メンドーサ

■製作 マーク・デル・リマ

H・P・メンドーサ

■脚本 H・P・メンドーサ

■撮影 H・P・メンドーサ

■編集 H・P・メンドーサ

■キャスト アンナ・イシダ

ジーニー・バロガ

リック・バーカート


『私はゴースト』のDVDを見る!



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著者

三宅 隆太

1972年生まれ。若松プロダクション助監督を経て、フリーの撮影・照明スタッフとなり、映画、テレビドラマ等の現場に多数参加。 その後、ミュージックビデオの監督を経由し、脚本家・監督に。 日本では数少ないスクリプトドクター(脚本のお医者さん)として、ハリウッド作品を含む国内外の映画やテレビドラマの脚本開発やリライトにも多く参加している。 主な作品は、映画『劇場霊』『クロユリ団地』『七つまでは神のうち』など。テレビドラマ『劇場霊からの招待状』『クロユリ団地~序章』『世にも奇妙な物語』『時々迷々』『古代少女ドグちゃん』『女子大生会計士の事件簿』『恋する日曜日』ほか多数。著書に『スクリプトドクターの脚本教室・初級篇』『スクリプトドクターの脚本教室・中級篇』(ともに新書館)などがある。

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