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LGBTで考える人生の練習問題 北丸雄二

第10回

クローゼットな言語

2019.04.26更新

読了時間

メディアで「LGBT」を見聞きする機会が増えています。昨今の多様な生き方を尊重する世界的な流れに乗じて、日本における「LGBT」への理解も少しずつ進んでいるかのようです。しかし、本当にそうなのでしょうか。この連載は、元東京新聞ニューヨーク支局長でジャーナリストの北丸雄二さんによる、「LGBT」のお話です。24年間のニューヨーク生活から見えてきた視点で「LGBT」ブームへの違和感について読み解いていきます。東京レインボープライドとの連動企画です。
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 20代で小説本を出したこともあって、東京で新聞社に勤めていた30代のころから、出版社から頼まれるまま英米文学の翻訳もこっそり続けていました。社会部記者だったので日々終わりのない事件取材から気分転換するにはちょうどいい息抜きだったのです。もっとも、仕事のあいまに続ける作業は遅々として進まず、編集さんにはかなり迷惑をかけ続けでしたが。それからニューヨークに赴任しました。そこではまた日本の演劇ビジネスの方とも知り合って、ひょんなきっかけで日本公演用にブロードウェイの台本翻訳をやってほしいという話にもなりました。小説も戯曲も似たようなものですし、それにそのころはすでに新聞社をやめてフリーランスになっていたものですから、また文学関係の仕事もいいなと思った次第です。
 最初は映画にもなったカルト的ロック・ミュージカル『ヘドウィグ&アングリーインチ』の台本翻訳でした。2000年代半ば、今から15年ほど前のことでした。これはゲイとトランスジェンダーの物語でした。次がミュージカル部門で「ベスト・オフブロードウェイ」賞を獲った『アルターボーイズ』という作品でした。これは日本での初演から10年経った今でもキャストを変えて1~2年ごとに上演され続けている人気舞台です。ここにも実はゲイっぽい人物が登場しています。
 前回、8090年代のブロードウェイでは俳優も製作陣も軒並みエイズに斃れて「存亡の危機」を迎えていた、という話を書きましたが、同時にそこからゲイとエイズをテーマにした不朽の名作も生まれていたとも説明しました。「クローゼットのままではエイズと戦えなかった」からだという第一の動機はさらに敷衍して「Be Visible(目に見える存在になろう)」というスローガンに発展し、世間のゲイ(LGBTQ+)認知度を高めるために使われ始めました。繰り返しになりますが、だからこそ、ブロードウェイの演劇やミュージカルには、いやTVドラマでもハリウッド映画でもニュース報道でも文学でも音楽でも、そしてマーケティングやビジネスや政治でも、いたるところにLGBTQ+の人物が登場するように‟演出“が施される社会になっていたのです。
 アメリカ文化のこの、なんでも言葉にして、徹底して正体を見極めよう、突き詰めようという姿勢はすごいものです。「海外旅行の時には政治や宗教の話は避けましょう」と日本の旅行本などには昔からよく書いてありますが、アメリカ(というと広すぎるか)、ことニューヨークや大都市部のそれなりの知識層においては、極端なことを言えば政治や宗教のことでもなんでも、突っ込んだ話のできない人はバカだと思われてそれなりの対応しかしてくれなくなります。仕事や対人関係でストレスを感じてどうしようもないときに、日本のサラリーマンなら馴染みの小料理屋で女将さんに愚痴を言ってそれで慰めてもらえば済みますが(いや、本当はそんなもんじゃ済まないんでしょうけれど、それでもなんとなくそんな「なあなあ」だからこそ癒されると感じることもあるのですが)、ニューヨークではそんな「なあなあ」では誰も納得せず、とにかく精神科医のところに行って1時間に5万も6万円も払って全部言葉で吐き出すように促されます(あるいはそう自分を促すような規範パターンができています)。
 とにかく言葉なのです。それは私が昔学校で教わった「アメリカは多民族多文化国家なので、日本人みたいに阿吽の呼吸では分かり合えないのだ」というそんな単純な(しかも虚偽の)話ではありません。日本人だってテレパシーが使えるわけでもないのですから、他人のことなど黙っていてわかるはずもないのです。

 さて今回は私の翻訳したミュージカル『アルターボーイズ』の話から始めます。
 「アルター」というのは「祭壇」のことで、キリスト教(カトリック教会)においては(パンとワインの)聖体拝領台のことです。その「ボーイズ」ということは、聖体拝領の聖餐式を手伝う教会の少年たちのことを指します。さてこのミュージカルはそんな少年たち5人がカトリックのボーイズバンドを作って、迷える魂を救うため世界中をツアーしているという設定です。そして日本版ではもちろん、彼らが日本にやってきて、そのミュージカル会場で実際の観客たちを相手に「魂の浄化コンサート」を行うという仕掛けです。
 劇中では例によって(あの『コーラスライン』みたいに)バンドのメンバーたちの自分語りのようなエピソードが披露されます。もっとも、こちらはコメディ仕立てなのでオフ・ブロードウェイのオリジナル版は軽く明るいノリで進行します。
 その自分語りをするメンバーの1人「マーク」(これは福音書を書いた「マルコ」を共示します)が、どうもバンドのリーダー「マシュー」(同じく「マタイ」)に恋をしているような、「ゲイ」っぽい設定なのです。やがて、コンサートを続けているのに会場にはまだ「10」人の魂が浄化されないまま残っていると(特殊な計測装置に)掲示される。そのとき「マーク」はその「10」という数字になぜか触発されて、あたかも自分がゲイであるとカミングアウトするかのような語りを始めるのです(なぜカミングアウトかと言うと、原作公演の2005年当時のアメリカでは、全人口に占めるゲイ人口の割合が「10」%だと喧伝されていたからです。オフ・ブロードウェイの観客たちは当然その数字の暗示するところをわかっているわけです)。
 マークはまだ「10」人の迷える観客に向けて話しかけ始めます。「あのね、大きくなるって……なかなか難しいこともあるんだ。とくに、ぼくみたいな男の子にはそうだった。近所の子供たちに、自分は変なやつで、気持ち悪いやつなんだって、自分自身でもそう思うように洗脳されてた。別の教会に通ういじめっ子連中がいたんだ。日曜日に教会に行くときにいつもいじめられた。ぼくのしゃべり方、ぼくの歩き方、ぼくの、細かなことにも気がつくところとか、そういうのをいつもからかわれた。あいつらに押し倒されて、ぼく、髪の毛とか眉毛とか、体中の毛を剃られちゃったことも何度もある」
 いじめられた話は続きます。しかしやがてそのいじめから、あの頃の「マシュー」が救ってくれたと言うのです。そして彼への賞賛と敬意も。一転、希望の輝きを手にした彼は、観客たちに混じるその「10」人の迷える魂に向けて明るい声で語り掛けるのです。「だから、この10人のきみたち、もしきみたちがいまも何か自分で認められない真実を抱えているのだとしても、そしてそれがもしぼくのと同じようなものだとしても、心配いらないよ。それは恥じるべきものでもなんでもない。きみは、ぜったいに、ひとりじゃないんだよ」と。
 そこで歌になります。

「きみの目の奥の/その悲しみを/そのウソをいつまで/隠せるの(でも嫌われたらどうしよう)/(親にも捨てられるかも)/でもこれを言えなきゃ自分じゃない……



 そしてそのカミングアウトの実体は、

「ぼくは……カトリック/周りはみなプロテスタントなのに」


と明かされるのです。

 このドンデン返しがありはしますが、この部分は劇も終盤に入っての、ちょっと感動的で重要なところです。というのも、このバンドのメンバーはみんな世間の主流に属する人間たちではなく、メキシコからの捨て子だったり元不良少年だったりはたまた(カトリックのバンドなのに)ユダヤ人だったりする、つまりはアメリカ社会の宗教的マイノリティの中の、さらに社会的マイノリティでもあるという、アメリカ社会の二重構造を(コメディ仕立てながらも)提示し始めるからです。

 で、2009年の日本版初演の時、この「マーク」役の日本の若い男性俳優が、上演後の観客向けアフタートークの舞台で、「オレ、こういうオカマっぽい役、ほんとはイヤなんだよね」と口にしたのでした。
 彼は(男たちがオトコらしいとされる)広島県の出身で、自分でもその事実を誇りに思っている青年でした。観客には彼のファンも多く、おそらくそのコメントは彼のいつものごく普通の態度として、ほぼ笑いの中で受け流されました。10年前のその当時の日本は、世間で普通に「オカマ」という揶揄語が流通し、それが差別語であるという認識も多く共有されてはいなかった時代です。「オカマ」はそうやってからかうべき第二級の生き物でした。
 しかし、彼らのステージを観るためにアメリカから帰国していた私にとって、それは違いました。エイズ禍における性的少数者たちの命がけの言葉の戦いは、ここにはまったく届いていない。そう思うとなんだかすごく悲しくなりました。届いていないという事実だけでなく、その事実を知らないままでいるこの青年たちのことも。彼らは世界で何が起きているのかをほとんど知らない。日本で流通している日本語だけの情報で満ち足りて、そこから出ることも、その外に世界が存在することも考えていない。日本の世間は日本語によって護られているつもりで、その実、その日本語によって世界から見事に疎外されているのだと思いました。
 その夜、私は彼に手紙を書きました──『アルターボーイズ』の観客の中に、きみを好きなファンの中に、「オカマっぽい」人がいるかもしれない。その人たちがきみのあの言葉を聞いたらとても傷つくと思う。ちょうど、きみが演じたマークのように、傷つく。きみはマークを演じたいのか、それともマークをいじめる連中の方を演じたいのか、と──『グット・ウィル・ハンティング/旅立ち』という映画でアカデミー脚本賞を受賞した俳優のマット・デイモンは、そこでも共演していた幼馴染の俳優ベン・アフレックといつもツルんでいることを揶揄され、記者会見で「あなたたちはゲイではないかという噂がありますが、実際、どうなんですか?」と冗談交じりに訊かれたことがあります。そのときマット・デイモンは「もし僕が今それを否定したら、ゲイであるということが何か悪いことのように受け取られるかもしれません。だからその質問にはお答えしませんし、ゲイだと噂されても僕にはまったく問題はありません」と応じました。シェイクスピア俳優としても名高い名優パトリック・スチュワートは、映画『ジェフリー』でゲイの役をやることが発表になって周囲の人たちに名声に傷がつくのではないかと心配されます。そのとき彼は「不思議なことに私が殺人犯の役をやった時には誰もそんな心配はしてくれなかった。私にはゲイの友人がたくさんいる。いま私が心配すべきことは、このゲイの役をそんな友人たちに恥ずかしくないよう立派に演じることだ」とコメントしました。せっかく「マーク」の役をやるのだから、私はきみに、こういうことを言える役者になってもらいたいと思っています、と。
 ──彼の名誉のために書き添えれば、マネジャーを通してその手紙を受け取った翌日、彼の演技はまるで別人のように変わりました。セリフだけでなく、その変身自体が感動的なほどに。
 そのとき思ったのは、彼らには単にそうした思考回路が与えられていなかっただけなのだ、ということでした。日本語の思考回路に、ほんのちょっと別のところへと通じる回路を添えてやれば、彼らだってすぐにいろんなところに行けるのです。なのにそんな新たな何かへと通じるチャンスを、「外界」の影響を受けない日本語(だけの)環境は与えることがない、いつまでも他の可能性に気づかないで過ごしてしまう。いや、過ごせてしまう。そしてそのことを、不埒だとも思わない……。

 そんな「日本語環境」の例をもう少し挙げましょう。
 「地球の歩き方」という、若い旅行者向けの自由なガイドブックがあります(今でもあるのかしら?)。その「ニューヨーク」版では90年代をほぼ通して、グリニッチ・ヴィレッジの項目の最初に「(ヴィレッジは)ゲイの存在がクローズ・アップされる昨今、クリストファー通りを中心にゲイの居住区として有名になってしまった。このあたり、夕方になるとゲイのカップルがどこからともなく集まり、ちょっと異様な雰囲気となる」と書かれていました。
 一世を風靡した「ブルータス」という雑誌の95年のニューヨーク特集では、チェルシー地区にあった「スプラッシュ」という当時の大人気ゲイバーについて「目張りを入れた眼でその夜の相手を物色する客が立錐の余地なく詰まった店で、彼ら(バーテンダーたちのことです)の異様なまでの明るい目つきが、明るすぎてナンでした」とあります。
 同年初めの「モノ・マガジン」の「TREND EYES」のページには、渋谷パルコでの男性ヌード写真展の紹介があったのですが、ここには「・らお・といっても(中略)・裸男・と表記する。つまり男のヌード。(中略)男の裸など見たくもないと思う向きもいるだろうが」と書いてありました。
 いずれにしても今から読むとひどい書きようです。そういえば「野茂はお尻を向けて投げるが、ホモはお尻を向けて誘う」といったラジオ投稿の小ネタを集めた『野茂とホモの見分け方』なるお笑い本が出版されたのも96年でした。そしてこれらの言説が、以来(というか、そのはるかずっと前から)ついこの前まで延々と続いていたわけです。憶えているでしょう? 「LGBT」なんて言葉が新聞やテレビなどのマスメディアで頻繁に登場するようになる以前のことを。あるいは登場するようになってからもしばらくは(あるいはいまもまだ)そういう物言いが続いていることを。

 日本語の「閉鎖性」について非難がましいことを言いたいわけではありません。手許にある集英社の国語辞典の末尾に、早稲田大学の中村明先生が「日本語の表現」と題する簡潔にまとまった日本語概論を載せています(現在の版ではどうなのでしょう?)。その中に、日本では口数の多いことは慎みのないことで、寡黙の言語習慣が育った、とあります。「その背景には、ことばのむなしさ、口にした瞬間に真情が漏れてしまう、ことばは本来通じないもの、そういった言語に対する不信感が存在したかもしれない」「本格的な長編小説よりは(中略)身辺雑記風の短編が好まれ、俳句が国民の文学となったのも、そのことと無関係ではない」として、「全部言い尽くすことは避けようとする」日本語の特性を、尾崎一雄や永井龍男、井伏や谷崎や芥川まで例を引きながら活写しているのです。
 中村先生が示唆するように、これは日本語の美質です。しかし問題は、この美しさが他者を想定しない、あるいは他者は勝手に憶測しろという美しさであるということです。
 徹底した省略と含意とが行き着くところは、「おい、あれ」と言われて即座にお茶とかビールとか風呂とか夕食の支度を始める老妻とその夫との会話のような、他人の入り込めない「身内」「仲間内」の言語であるということです。それは、その中にいる限り心地よく面倒もなく、それに関しては他人がとやかく言えるような筋合いのものではありません。ところがこの「身内・仲間内の言語」が、老夫婦の会話にとどまっていないところがいまの日本語の特質なのです。日本語では、そうした内輪の言葉が重用される代わりに、パブリック(公的)な、誰にでも通じる言説が蔑ろにされている……。

 いや、断定は避けましょう。どんな言語にも「仲間内の符丁」なるものは存在し、内向しようとするベクトルは人間の心象そのものの一要素なのですから、多かれ少なかれこの種の傾向はどの社会でも見られることです。けれど「日本語環境」の例として挙げた「地球の歩き方」などのテクスト(「出版する」ことを「パブリッシュ」と言います。この「パブ pub-」は「パブリック(公の)」の「パブ」と同じ意味です。「パブリッシュ」とは「公にする」という意味なのです)のいずれもが、それぞれの筆者の幻想する「私たち」だけを軸に(つまり「パブリッシュ」の何たるかを捨て去って、プライヴェート(私的)な文体で)書かれたことは(自覚しているか否かは別にして)確かなことのように思われます。
 「ゲイの居住区として有名になってしまった」と記すときの残念そうな素振りが示すものは、この筆者が思う‟私たちの中に、すなわちこの「地球の歩き方」の読者たちの中に「ゲイは存在しないのだ」という根拠のない思い込みです。「異様なまでの明るい目つきが、明るすぎてナンでした」と記すときの「ナンでした」という省略は、「あなたも当然わかるよね」という、(ゲイは存在しない‟はずの)読者への共感の強制と寄り掛かりです。「男の裸など見たくもないと思う向きもいるだろうが」という‟お断り”は、さて、何だったのでしょう? ここではゲイだけでなく、女性と、女性の欲望をも無視して憚らないヘテロセクシュアルの男性ライターの(異性愛男性主義的)視野狭窄が示されるだけです。
 内向する日本語の‟美質が、こういうときには見事に他者への排除として機能しています。それは他の世界を拒絶して閉じ籠る、マジョリティたちの逆クローゼットの砦のように映ります。「おい、あれ」の二人だけの閨房物語です。「他の連中にとやかく言われる筋合いはない」という、「身内」だけの予定調和です。

 そう考えるといろんなことがわかってきます。例えば、日本の政治家たちはどうして何度も何度も「失言」を繰り返すのか?──政治家たちは、有権者・支持者たちにパブリックな「政治」を語るより「ぶっちゃけた話」をした方がウケるということを知っています。なのでよく「ここだけの話」をします。なぜなら、聴衆の有権者たちを自分の「身内」だと仮想して「ぶっちゃけた話」をするうちに、その論理がひっくり返って「ぶっちゃけた話」をしているのだから「身内」なのだというふうに思い込ませる。だからこそあなたたちは私の身内=支持者なのだ、というふうに取り込むわけです(その戦術を、自覚しているか否かはすでに関係ないほどに身に付いた政治家商売の自明として)。
 かくしてそこでは自動的に「他では話せない」「ぶっちゃけた」際どい本音が語られます。──「女性は産む機械」「私、すごく物わかりがいいんです。すぐ忖度します(笑)」「(岩手の)復興を協力していただければありがたい。そして復興以上に大事なのは(岩手選出で再選を狙う)高橋さん」そして「生産性のないLGBTのために税金を投入することは理解が得られない」……。
 それらは優れて「身内の言葉」なので、「身内の言葉」が通じない「外の世界」ではほとんど‟誤解されます。その‟誤解が「失言」として問題化するわけです──「そんなつもりはなかったのに、どうしてそういうふうに受け取るんだろう?」と納得などまったくしていないながらも、彼らはそこでしかし形だけの謝罪に追い込まれる。納得していないからそれは繰り返される。
 「外の世界」とは公的な言語空間のことです。にも関わらずそこで敢えて「身内の言葉」を話す方が「ウケる」と奨励される社会。つまりそれは、昔からある「本音」と「建前」の二枚舌の話につながります。
 そう思えば『アルターボーイズ』のあの若手俳優も、自分の「ぶっちゃけた話=本音」を、上演後の「アフタートーク」という擬似的私的空間(と装いながらも本当は公的な空間)で披瀝することに意味がありました。私たちはそのギャップに感応するのです。
 「私」=「身内の言語=本音」を旨とする日本社会では、あのマット・デイモンやパトリック・スチュワートのような「公の言語=建前」を語れる人はなかなか育ちません。「ぶっちゃけた話」が得意な政治家は、オバマのような感動的かつ格言的ですらある「公の言語=建前」の演説をすることはほとんどできません。せいぜい、どこかのスピーチ集から拾ってきた聞き飽きたような‟警句”‟箴言”の類いを結婚式で披露するくらいです。
 ちなみにその点、トランプはオバマとは真逆の「身内・支持者だけに通じる言語=彼なりの本音」でしか話をすることがありません。それは前述したようにすなわち、他者を排除する言語なのです。「アメリカの分断」はこの、トランプによる「身内の言語」によって焚きつけられています。

 「本音と建前と、どっちがいい?」と訊かれたら、ほとんどの人はおそらく「それは本音だよ」と無条件に答えるでしょう。十代のころの私もそうでした。でも、そこには本当は「私的空間」と「公的空間」の前提条件が最初に提示されなくてはならなかったのです。
 「私的空間=身内」ではもちろん「本音」の付き合いが第一です。けれど「公的空間=世間」では、それぞれが様々に方向性の違う勝手な「本音」を求め合っていたらグチャグチャになります。だからそこでは本来、何らかの最大公約数が必要です。誰もがみな一様に幸せになれるわけはないけれど、少なくとも個人個人の誰もが幸せになれるような何かを志向する、その見果てぬ姿勢のことを「建前」として(身内以外も全て含んだ)みんなで支える。それが民主制度であり、民主社会の「規範」(共同幻想)のはずなのです。そしてその「建前」のことを、「政治的な正しさ(PC)」という意識的な共同幻想として再構築しようとしたのが1980年代からのアメリカ社会でした。その「建前」によって、個々人の「本音」の深層もまたやがて試される、鍛えられる、変容する、という意味での。

 初演から10年経って、『アルターボーイズ』の「マーク」役は今、「オカマっぽくてイヤな」役ではなく「ゲイっぽくてオイシイ」役に変わっています。今の若い役者たちはこの「マーク」を実に楽しそうに、生き生きと、そしてとても共感的に思いを込めて演じています。彼らは日本でも肯定的に捉えられ始めたLGBTという言葉を、さらにはその実体を、かつての世代よりはよく知っている若者たちです。「LGBTだって人間だ」という今更ながらの、けれど「建前」として流通させなければならなかった「政治的正しさ」が、個人の「本音」の部分までをも変えてきた、日本で最初の世代かもしれません。日本語は、こうしてクローゼットから出て新鮮な空気を吸うことができるのです。

続く。次回は5月8日(水)更新予定

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著者

北丸 雄二

ジャーナリスト、コラムニスト、作家、翻訳家。元々は毎日新聞から東京新聞(中日新聞東京本社)に転社した社会部畑の新聞社記者で、クリントンが大統領に就任した1993年にニューヨーク支局長に着任。3年半後の96年夏に帰任を命じられたのを機に退社し、独立。その後もニューヨーク在住のまま、大統領がG.W.ブッシュ~オバマ~トランプと変わった2017年まで、計24年間、現地で9.11テロや選挙ルポなど米国政治・社会・文化、日米及び国際関係の分野でジャーナリズム活動を続ける。18年、実母の老齢化のために拠点を日本に移し、現在は主にトランプ・ウォッチャーとしてTBSラジオやFM TOKYO、大阪MBS及びネットTVなどで米国関連ニュースを解説。一方で、英米文学、ブロードウェイ・ミュージカルや戯曲の翻訳も多く、「世界」「現代思想」「ユリイカ」などで国際情勢から映画、音楽、文芸まで各種評論も行っている。 LGBTQ+関連では90年に米国ゲイ文学の金字塔と言われる『ザ・フロント・ランナー』を翻訳刊行したのを機に、新聞業務と並行するライフワークとしてエイズ問題や刻々と拡大する人権状況を取材執筆開始。ニューヨークでは日本人コミュニティ向けにHIV/AIDSの電話相談の開設・運営にも尽力する一方、97年から、日本のゲイ月刊誌『Badi』に米国を中心としたゲイ関連ニュースコラムを連載。同年6月に青土社から刊行の『ゲイ・スタディーズ』(キース・ヴィンセント他著)でも全面的な監修を担当し、ほかにLGBTQ+関連のニュースを報じるプロフェッショナルが誰もいなかった当時、「AERA」で「日本に向けて性的マイノリティに関する正しい情報を発信するゲイのジャーナリスト」という紹介記事も掲載された。現在、十年来の同性パートナーと5歳の黒猫とともに東京に暮らす。Twitterは@quitamarco。 

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