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LGBTで考える人生の練習問題 北丸雄二

第11回

クローゼットな言語 その(2)──「私」から「公」へのカム・アウト

2019.05.10更新

読了時間

メディアで「LGBT」を見聞きする機会が増えています。昨今の多様な生き方を尊重する世界的な流れに乗じて、日本における「LGBT」への理解も少しずつ進んでいるかのようです。しかし、本当にそうなのでしょうか。この連載は、元東京新聞ニューヨーク支局長でジャーナリストの北丸雄二さんによる、「LGBT」のお話です。24年間のニューヨーク生活から見えてきた視点で「LGBT」ブームへの違和感について読み解いていきます。東京レインボープライドとの連動企画です。
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前編からの続き
 日本語という言語がどうしても身内・仲間内の言葉に重きを置いていて、誰とでも通じるパブリック(公的)な言説が蔑ろにされているという前回の指摘に対して、外の世界と相互交通できるような双方向に風通しの良い言語は、ではどうしたら獲得できるのかという質問をもらいました。
 それに関してはもう20年以上考えてきているのですが、有効な答えはまだ一つしか見つかっていません。それは、電車やバスの中で、お年寄りや身重の方、困っている人に「座りますか?」と声をかけて席を譲ることです。あるいは通りや駅や何かの施設ででもとにかく公共の空間で、助けが必要な人に声をかけて手を貸すことです。この場合、まず「声をかける」という行為が大切です。

 これはニューヨークから東京に戻るたびに感じていたことですが、パブリックな空間では、東京で出歩いている人たちはほとんど誰も声を出さないんですね。携帯電話が普及し始めたころ、私は電車やバスや地下鉄で繰り返される「車内での携帯電話は周りの人の迷惑になるのでご遠慮下さい」というアナウンスに、この執拗さ、慇懃(いんぎん)さは何なんだろうと考えていました。そりゃ電話口では人はつい普段より大声になってしまうし、それをうるさいと思う人もいることはいるでしょう。けれど私にははっきり言ってこのアナウンスの方がうるさかった。言葉は丁寧だがその実ひとを子供扱いしているようなこの無礼な命令は、いったい何なんだろう、と、とても不快だったのです。
 気づけばアメリカ、特にニューヨークなどの都会では、街角でもビルの中でもスーパーの中でも、他人に声を掛けることにあまり抵抗がないようです。他人にぶつかりそうだったら「エクスキューズ・ミー」と言うし、ぶつかっちゃったら「ソーリー」と言う。言わない人には敢えて振り向きざまに「エクスキューズ・ユー!」と、「ミー」を「ユー」に替えて、代わりにわざとこちらから「謝りの言葉」を聞こえよがしに‟代弁”してやったりもするのです。とにかく発語することに躊躇しない。
 バスでも地下鉄でもよく「その服、最高、どこで買ったの?」とか、見知らぬ人同士でさえ朗々と会話をしています。降車時にバスの運転手に「サンキュー」と声をかければ「ハヴ・ア・グッド・ワン(良い日を)!」と返されます。高齢者に席を譲ったら譲ったで、譲ったあとでもけっこう長々となにかをしゃべったりしたりします。
 映画館でも同じ。数年前、久しぶりに日本で母親といっしょに映画を見に行ったとき、おかしな場面で私が大声で笑うものだから、見終わったあとで母親に「あんた、アメリカ人みたいね」と言われて軽くショックを受けたことがありました。そういえば日本じゃ他人に囲まれている映画館で1人で大声で笑ったりはしません。すっかりニューヨーク生活に馴染んでしまっていた私は、まるで抵抗なく笑ったり拍手したりため息をついたり感嘆の発声をしたり、気づかぬうちになんともまあ“アメリカかぶれ”してしまっていたのです。

 こういうのはパーティーでも差が出ます。日本人の私は当初、ぜんぜん見ず知らずのひとたちに何を話してよいものか、いやそもそも話し掛けて失礼に当たらないか、なんてことを考えて時間が経ってしまっていました。それがアメリカ人たちはじつに自然にというか懸命にというかアレコレと話題を振って、なんでこんなに話すことがあるんだろうと思うくらい会話を続けるのです。
 逆に、アメリカ人のけっして口にしないことが、日本ではよく言葉になることがあります。いろんなおしゃべりをしながらも、アメリカ人はその相手のプライベートな部分に立ち入ることは微妙に回避しているのです。たとえば、結婚しているのかどうか、恋人はいるのかいないのか、子供はいるのか、などの身元調査みたいな質問はよほど親しくならなければ、というか、それが自分に関わっていることでもない限り訊いてはきません。日本人ならそういうのはよく話のきっかけのつもりで、何の他意もなく普通に訊きますよね。「ご家族は?」「カノジョ、いるの?」「おいくつ?」──べつにその質問の答えがほんとうに聞きたいというわけでもない。では何かと言うと、これは前回の話と繋がってきますが、こういう私生活、プライベートな部分に立ち入ることで、その相手と「身内」のような関係性を擬似的に創り上げるためのものです。それが私たちにとっての仲良しになるための普通の道──。

 前回触れた、日本の政治家の失言の話を繰り返せば、彼らの話す場所には、みんな「身内しか集まっていない」「身内であるはずだ」という仮想の私的空間が幻出しています。そこでは「身内」以外はみんな「政敵」か「赤の他人」です。そして「赤の他人」はときには人間ですらない。

 ここで再び電車の話に戻ります。東京の満員電車、その中でギューギュー詰めになっているときに、それを不快だと思わずにいられる方法は、身体を密着させている他人が人間だと思わないことです。「芋洗い状態」と言われるように、ジャガイモかなんかだと思えば耐えられる──日本ではそれが直近の「他者」との接し方なのかもしれません。
 なるほどだからそんな「ジャガイモ」が、不意に隣で携帯電話で話をしだして人間の顔に戻ったら、それは「困惑」しますし「迷惑」だし「気持ち悪い」。なぜなら私たちは、「身内」以外の他者とのうまい付き合い方を知らないからです。「身内」以外はみんな「赤の他人」、つまり「存在しない存在」だからです(もっとも、日本社会の人間関係にはこの「身内」と「赤の他人」とは別に「お客さん」という次元があるのですが、それはまた別の機会に)。

 それがあの神経症的な車内アナウンスの反復の理由なのではなかったか? 電車の中では、映画館でもエレベーターの中でも、公共の空間ほとんどで私たちは友だち同士でもないかぎり、人間ではないフリをしてじっと存在を消しています。それが日本社会の身の処し方なのではないか? 極論を言えばつまり、「公共」に、「人間」はいないのです。だから逆に平気で電車の中で化粧もできるし、車にはねられて道路に倒れた人にお構いなく歩き過ぎる人たちの姿がYouTube動画の中に捉えられていたりします。

 ところがこれは例えば「大阪では違う」と言われました。「大阪では街なかでも知らん人とようけ喋りおるで」と(この大阪弁、合ってるかしら?)。それはおそらく日本各地の田舎でもそうでしょう。でもそれは「公」がそこに在るというより、「私」的空間の領域が、「私」同士の人情の行き来が、いろんな他人が全国から集まっている東京よりも広く滲み出している、という結果のような気がします。そういう自然な「私」は東京ではもう失われてしまって不可能かもしれません。だから最初に、そういう場で「『声をかける』という行為が大切」と書きました。自然にではなく、人情に頼れるわけでもなく、敢えて意識してそう努める、敢えてわざとそういう行為を築き上げる、そういう努力によってでしか私たちはもう「公の空間」に行き渡る言語を持ち得ないのではないか……。

 いささかモデル化しすぎのきらいはありますが、まるで取り憑かれたかのように懸命に話すアメリカ型社会だって、これは自然にそうなったわけではありません。日本のように「お上」が存在せず、すべて自分たちで決めて作り上げていかなければならなかった建国の時代からの長きにわたって、アメリカ社会がプライベートとパブリックの並立に向かったのは偶然でも必然でもなく、そこになんらかのコミュニティへの意志が介入していたからでした。「私」と「公」の間を個人が行き来し、だからこそ公的な空間でも簡単に他者に声も掛けるし発言もするし、コミュニティに対する不正にはすぐ抗議できもする。自分は、個人でありながら同時にコミュニティの一員でもあらねばならなかったわけです(もっともその長い過程にあっては、「自分」とは多く「白人」の「男性」に限られていましたが)。

 そう考えると、民主制度が過渡期の時代、社会的不均衡が偏在する時代に、ここから各種の公的な運動=社会運動の言葉(言説)が生まれるのは必然だったと思います──公の空間での言葉を育てる。声を掛け合う。公の空間でも人間同士でいる。声を挙げる。

「公民権」という言葉があります。英語の Civil Rights に当たる翻訳語です。「公民」とは citizen(市民)であり、「公」の場に参加できる国民のことです。そしてこの「公」とは政治のことです。つまり参政権を持つ者=有権者のことです。なので「公民権運動」とは、第一義的には参政権運動のことです。
「参政権」とは投票権だけではありません。投票される権利つまり被選挙権、公職に就く権利もそうですし、国民投票や国民罷免などの権利も含まれます。つまり、自分が主体となって政治・社会にコミットする権利です。社会の構成員であり主人公である権利であり、民主主義の基盤にある概念です。それらは歴史的にいって(現在の形の民主主義が比較的新しい発明であるように)国民一人一人に自然に与えられたものではもちろんなかった。公民権運動とはまさに「私」が「公」へとカム・アウトする努力の運動でした。

 ここでまた、今度はバスの話になります。
 1955年12月1日、木曜日の夕刻、米南部のアラバマ州モンゴメリーで、42歳の小柄な黒人女性ローザ・パークスはモンゴメリー・フェア百貨店での長い裁縫仕事の1日を終えて帰宅のために市営バスに乗りました。
 当時の米南部州では「ジム・クロウ法」と呼ばれる人種隔離法が施行され、様々な公共空間で非白人(黒人)は白人と分離された場所取りを強制されていました。黒人は黒人専用の(劣悪な)学校にしか通えませんでしたし、水飲み場でも「colored(色付きの=有色人種の)」と指定された蛇口からしか水を飲めませんでした。図書館も黒人用が指定されていました。
 モンゴメリーの市営バスは利用者の7割が黒人でしたが、「Negroes-in-Back(黒人は後部座席)」という条例がありました。バスの運転士には黒人客に対して白人客に席を譲るように言う権威は与えられていましたが、それはだんだんとそういう慣習になっていたということであって、1900年の市条例では「人種隔離は執行されねばならない」とする一方で、(ほとんど知られていませんでしたが)「ほかに席が空いていない場合は、誰も(白人でも黒人でも)今の自分の席を譲るよう要請されない」とも書かれていたのです。
 とはいえ、経路の途中でローザ・パークスの乗ったバスは混み始め前部の白人席は埋まってしまいます。そこでバスの運転士は、彼女など後部黒人席の一列目に座っていた黒人4人に対して、立って白人客に席を譲るよう命じたのでした。つまり黒人席を1列削って白人席を増やすという措置でした。3人はその指示に従いましたが、ローザ・パークスは席を立ちませんでした。
「みんな私が疲れていたから席を譲らなかったと言っていたけれど、それは間違い」とパークスはのちの自伝(『Rosa Parks: My Story』1992年)に書いています。

「I was not tired physically, or no more tired than I usually was at the end of a working day. I was not old, although some people have an image of me as being old then. I was forty-two. No, the only tired I was, was tired of giving in.」
 体が疲れていたというのではなかった。1日の仕事が終わって疲れているという以上の疲れではなかった。私が年寄りだったから(だから席を譲らなかった)と思った人たちもいたけれど、私は年寄りではなく、42歳だった。違う、私が疲れていたのはただ、屈服することに疲れていただけなのだ。


 結局、「立て」「立ちません」のすったもんだで発車しないバスに警官2人がやってきて事情を聴き、パークスは市条例違反で逮捕されたのです。これが黒人たちの公民権運動のきっかけになります。
 モンゴメリーには当時、バプティスト教会に着任したばかりの26歳の若き牧師、あのマーティン・ルーサー・キング・ジュニアがいました。彼を中心にした呼びかけで、パークスの逮捕は黒人によるモンゴメリー市営バス乗車ボイコット運動に発展しました。70%以上の乗客が黒人だったことで、市バス経営は大打撃を受けます。最高裁まで争われた彼女の裁判で、56年11月、モンゴメリー市のバス内人種隔離条例は違憲判断を受け、381日にわたって続いたバスのボイコット運動は終結を迎えます。
 キングはこの運動の勝利を契機として公民権運動を全米各地に広めます。1963年8月28日には25万人を集めたあの歴史的な抗議集会「ワシントン大行進」を組織します。人種平等を求めるこの大きなうねりに、アメリカは1964年に公民権法を成立させます。
 もっとも、法律ができたといって人種差別がなくなるわけではありません。1965年3月7日、せっかく獲得した公民権にも関わらず、選挙の有権者登録を妨害された、またまたアラバマ州のセルマという町の黒人たちは、州都モンゴメリーまで行進することで抗議の示威行動を起こそうとします。そこに、なんとしてでもデモを阻止せよと知事に命じられた州兵や保安官たちが待ち構えました。そして、全米から集まった報道陣の目の前、黒人たちがたった6ブロック歩き始めたところで、丸腰の彼らに向けて重装備の州兵部隊が棍棒や鞭、催涙ガスなどの暴力を浴びせたのです。ガスの立ち込める中を血だらけで倒れ逃げ惑う黒人たちと棍棒を振り下ろす州兵や保安官たちの残忍な姿がテレビで報道されます。世界中のニュースメディアがその写真を新聞や雑誌で報道しました。これが「セルマの血の日曜日事件」です。世論がそこからどう動いたかは誰でも想像がつくでしょう。もっとも、真の人種平等は現在のアメリカで、世界で、永遠に続く「運動」の形でしか在り得ないのかもしれませんが。

 同じころ、もう一つの巨大な社会構成層で、かつマイノリティでもある「女性」たちの社会運動も再び蠢き始めます。彼女たちは19世紀後半から始まる女性の参政権運動を経て、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」というシモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』(1949)に触発された人たちでした。

 2015年に公開された映画『Suffragette サフラジェット』(邦題は『未来を花束にして』という、なんともバカにしたものに変えられています。そういう大昔の少女漫画風なタイトルこそ、この映画が最も排除したかったものだというのに)は、今から100年以上前、1910年代のイギリスで女性参政権を求めて激しく闘った女性たちの姿を描いています。「サフラジェット」とは、その女性たちのことを指す呼び名です。
 冒頭、女性たちに参政権が与えられない理由を、男性政治家たちがとうとうと演説している声が流れます。曰く、「気分屋で、冷静さに欠ける女性たちの頭脳は政治行動には向かない」「女性たちに参政権を与えることは現在の社会構造の崩壊を招く」「女性たちの権利は父親や夫たちが代表してくれている」「ひとたび参政権を認めれば、次は議員だ、大臣だと要求は拡大するだろう」

 聞いたことのある“論理”です。同じことは黒人たちの公民権運動にも向けられていました。黒人たちは白人より知能に劣るから政治行動には向かない。奴隷制度の廃止は現在の社会構造、経済構造に壊滅的な打撃を与える。黒人奴隷の権利は農園主が代表している。ひとたび公民権を認めれば次は……云々くんぬん。

 ──先に、今のような、全員がコミュニティの一員となれるような、とはいえまだ全てが実現しているわけではない長い歴史過程において、以前は「自分」とは多く「白人」の「男性」に限られていた、と書きました。
 その「白人」の部分に黒人の公民権運動が言挙げをしました。そして「男性」の部分に女性解放運動がかぶさってくるのです。さらに続ければ、その次に白人の男性の「異性愛者」の部分に非異性愛者(LGBTQ+)の人権運動が襲い掛かります。次回はその話を辿っていきましょう。

続く。次回は5月22日(水)更新予定

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著者

北丸 雄二

ジャーナリスト、コラムニスト、作家、翻訳家。元々は毎日新聞から東京新聞(中日新聞東京本社)に転社した社会部畑の新聞社記者で、クリントンが大統領に就任した1993年にニューヨーク支局長に着任。3年半後の96年夏に帰任を命じられたのを機に退社し、独立。その後もニューヨーク在住のまま、大統領がG.W.ブッシュ~オバマ~トランプと変わった2017年まで、計24年間、現地で9.11テロや選挙ルポなど米国政治・社会・文化、日米及び国際関係の分野でジャーナリズム活動を続ける。18年、実母の老齢化のために拠点を日本に移し、現在は主にトランプ・ウォッチャーとしてTBSラジオやFM TOKYO、大阪MBS及びネットTVなどで米国関連ニュースを解説。一方で、英米文学、ブロードウェイ・ミュージカルや戯曲の翻訳も多く、「世界」「現代思想」「ユリイカ」などで国際情勢から映画、音楽、文芸まで各種評論も行っている。 LGBTQ+関連では90年に米国ゲイ文学の金字塔と言われる『ザ・フロント・ランナー』を翻訳刊行したのを機に、新聞業務と並行するライフワークとしてエイズ問題や刻々と拡大する人権状況を取材執筆開始。ニューヨークでは日本人コミュニティ向けにHIV/AIDSの電話相談の開設・運営にも尽力する一方、97年から、日本のゲイ月刊誌『Badi』に米国を中心としたゲイ関連ニュースコラムを連載。同年6月に青土社から刊行の『ゲイ・スタディーズ』(キース・ヴィンセント他著)でも全面的な監修を担当し、ほかにLGBTQ+関連のニュースを報じるプロフェッショナルが誰もいなかった当時、「AERA」で「日本に向けて性的マイノリティに関する正しい情報を発信するゲイのジャーナリスト」という紹介記事も掲載された。現在、十年来の同性パートナーと5歳の黒猫とともに東京に暮らす。Twitterは@quitamarco。 

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