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LGBTで考える人生の練習問題 北丸雄二

第16回

アイデンティティの誕生

2019.11.29更新

読了時間

メディアで「LGBT」を見聞きする機会が増えています。昨今の多様な生き方を尊重する世界的な流れに乗じて、日本における「LGBT」への理解も少しずつ進んでいるかのようです。しかし、本当にそうなのでしょうか。この連載は、元東京新聞ニューヨーク支局長でジャーナリストの北丸雄二さんによる、「LGBT」のお話です。24年間のニューヨーク生活から見えてきた視点で「LGBT」ブームへの違和感について読み解いていきます。東京レインボープライドとの連動企画です。
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 1950年代から顕著になってきたアメリカの黒人解放運動に、第二次世界大戦が深く影響しています。大戦当時、当然のことながらアメリカ軍は本土を離れ、戦場であるヨーロッパ戦線に出向いて戦います。奴隷制度こそ廃止されて久しかったけれど、それは次に「人種隔離」政策という公の差別制度としてアメリカに残っていました。当然のことに米軍もまた白人部隊と黒人部隊に分かれています。しかも黒人部隊は主要部隊として戦闘に関わる以上にここでも塹壕の設営などの下働きを担わされていました。
 ところが派遣されたイギリスなどでは黒人兵は白人兵とともに部隊を構成しています。人種隔離政策はなく、白人と黒人がともに対等に戦闘に加わる姿をアメリカの黒人たちは初めて目の当たりにするわけです。
 そればかりか彼らはイギリスで、単なるレンガ運びの工兵ではなく共にファシズムと戦う仲間として歓迎された──本土アメリカで直面する現実とは別の現実がそこにはありました。
 いやそれ以上に、あの『1984』の英作家ジョージ・オーウェルはエッセーの中で、「oversexed, overpaid and over here(頭はセックスのことばかりで、給料ももらいすぎでここにやってきた)」と疎んじられた傲慢なアメリカ兵の中で、唯一「the only American soldiers with decent manners are Negroes.(行儀よく振る舞うのは黒人兵だけ)」とさえ書いています。

 米軍が駐屯した英国イングランドのバンバー・ブリッジという町で、ある黒人兵は次のような思い出も語っています。

At that time the Jitterbug was in and the blacks would get a buggin’ and the English just loved that. We would go into a dance hall and just take over the place because everybody wanted to learn how to do that American dance, the Jitterbug. They went wild over that.
あの頃はジルバが流行っていて、黒人兵たちがジルバを踊るとイギリス人が熱狂してね。俺たちがダンスホールに行くとたちまち我らが独壇場だ。誰もがアメリカのダンス、ジルバの踊り方を知りたがったから。みんな大喜びだったよ。


 あるパブでは女性バーテンダーが、当然のように自分たちが優遇されるべきだと信じている白人米兵たちをまるで犬のように「待て」と諭して、これ見よがしに先に黒人兵たちに酒を振る舞いました。
 もう一人の有名な英作家アンソニー・バージェスもたまたまこの町に滞在していました。そんなバンバー・ブリッジのパブでもアメリカ軍当局はやがて人種隔離をするよう求めたと記しています。そうじゃなきゃ「アメリカ」軍としての示しがつかない。パブの店主たちはそれに応じます。「Black Troops Only(黒人兵以外入店お断り)」という、逆の「人種隔離」ルールで。
https://www.amazon.co.uk/Overpaid-Oversexed-over-Here-American/dp/1558594086
https://www.bulldozia.com/jim-crow/documents-1942-45/

 欧州戦線はナチス・ドイツのファシズムと戦う場所でした。それは民主主義を守るための戦争でした。その民主主義の戦士たちが、人種隔離部隊の存在をどうしたら擁護できるのか。それはナチス・ドイツと同じ優生思想でした。ヨーロッパはそんな差別主義と戦うために戦争していたのです。
 詳細はもっと複雑で米軍憲兵と黒人兵の間で発砲を伴う数多くの衝突も起きたようです。しかしとにかくアメリカの黒人兵たちはここで初めて、自分たちが「同じ人間である」ことに気づく。それが彼らにとってどんなに覚醒的な経験だったかは、日本で今を生きる私たちには容易に想像できるものではありません。
 そんな大戦は民主主義勢力の勝利で終わり、やがて黒人兵たちが大量にアメリカ本土に帰還してきます。そこにはまだ人種隔離政策に裏打ちされた公認の人種差別が蔓延していました。南部ではクー・クラックス・クランKKK)が跋扈していました。
 ヨーロッパで曲がりなりにも「平等」を経験してしまった黒人たちに、もう後戻りはできませんでした。人種差別に対抗する者たちが頻出し始めます。中にはそのせいで軍服姿のままでリンチで殺される黒人犠牲者も出ました。
 2013年に制作されたドキュメンタリー映画『Choc’late Soldiers from the USA』(チョコレート色の米兵たち)で、退役兵の一人が次のように語っています。

I think the impact these soldiers had by volunteering was the initiation of the Civil Rights movement, ’cos these soldiers were never going back to be discriminated against again. None of us were.
そうした志願兵たちが受けた衝撃が公民権運動の始まりだったと思う。そうした兵士たちはもう二度と再び差別される対象に立ち戻ることはなかったから。私たちの誰一人として、だ。


 そしてそれは散発的な個人の抗議から、「黒人」としてのアイデンティティを共有する者たちの集団的かつ体系的な抗議へと発展してゆくのです。ローザ・パークスモンゴメリー・バス・ボイコット事件1955年)、「私には夢がある I Have a dream」という言葉で知られるマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の演説(1963年)、そして選挙権の否定に抗議したセルマの「血の日曜日事件」と大行進(1965年)──黒人公民権運動は、ヨーロッパ戦線における黒人たちのアイデンティティの覚醒(本当のところはそういう社会的アイデンティティの創造)が発端だったのでした。

***

「LGBTの練習問題」なのに、長々と黒人解放運動の始まりについて書いたのには理由があります。アメリカにおけるLGBT解放運動が、先行した黒人解放運動、女性解放運動の2つに多くを学んだことはすでに触れました。同時に、LGBT解放運動の契機の1つもまた、黒人公民権運動と同様に第二次世界大戦だったからです。
 こちらも少々長くなりますが、前回で紹介した『LGBTヒストリーブック』から引用します。

 他のどんな出来事と比べても、第二次世界大戦がアメリカにおける現代ゲイ人権運動のきっかけになったことは否めません。この戦争の間に男性は1,600 万人が、女性は35万人が米軍に従事しました。ほとんどの兵士たちにとってそれは故郷を離れる初めての体験でした。これが多くのゲイやレズビアンの兵士たちに自分と同じ他者と出会う機会と、彼ら同士が共有する感情に向き合う自由とを与えたのです。
 開戦前、「アメリカ心理学会 American Psychological Association」(APA)は軍部に 新兵の同性愛テストを行うよう進言していました。ところが当時の陸軍省はゲイであろうがなかろうがとにかく兵士を求めていた。なので入隊者は単に「女子は好きか? Do you like girls?」と質問されるだけでした。これにはゲイであろうがストレートであろうがだいたいは「イエス」と答えても嘘ではなかったわけです(女性兵に関しては同様のふるい分けは行われませんでした)。
 戦争の5年間で入隊を阻まれたゲイ男性は5,000人に満ちませんでした。「とんでもない数のゲイたちを知っていたが、誰も、例外が1人いたけど、ゲイは兵士になるな、なんて考えてるやつはいなかった」と思い返すのは陸軍にいたチャック・ロウランドです。
「国家が重大な危機にあるっていうのに、ゲイだからどうだとかそんなバカみたいな規則のせいで、俺たちが国に尽くす特権を奪おうとかいうの、そういうのはまるでなかったよ」。ヒトラーによるゲイ弾圧を知ったゲイたちは、逆に自分もゲイだからこそという理由で入隊を志願しもしたのです。アメリカ国内では一方で、200万人の女性たちが産業労働力に参入しました。航空機を作ったり船舶や爆弾やジープも組み立てていました。そうした工場労働では髪の毛が長いのは危険なので、女性たちが髪を短くしたりスラックスを履いたりしても誰も問題にはしなくなりました。1930年代だったら異端視されて嫌がらせされてもおかしくなかったことです。こうして港湾都市や工業都市ではレズビアン・バーが隆盛を迎えたのです。
 やがて戦争が終わってゲイやレズビアンの軍人たちが、新しいモノの見方とともにアメリカに帰ってきました。多くの者たちにとって帰還して軍務を離れた港はサンフランシスコやニューヨーク、ロサンゼルス、サンディエゴなどです。彼らはそこにそのまま住み着こうと決めます。ある者にとっては、悲しいことに、それ以外に選択肢はなかったのでした。
(P41〜42)


 どうですか? まるで同じでしょう? さらにもう1つの共通点は、帰還したゲイやレズビアンの兵士たちが、黒人帰還兵と同じようにアメリカ本土での「差別」に直面したことでした。戦時こそ兵員が必要だったペンタゴン(国防総省)でしたが、平時には兵士の過剰供給が生じます。そこに同性愛者であることが都合良い除隊理由として用いられたのです。彼/彼女らは不要になります。1万人近い兵士たちがゲイやレズビアンであるという「不適格除隊」で追放されました。
「不適格除隊」になると、復員兵援護法の恩恵が受けられません。住宅融資や復学のための学生ローンも受けられません。そればかりか戦時負傷も退役軍人病院での無料治療対象にはならなくなるのです。たとえ五体満足で帰還しても、「不適格除隊」だと知れると就職先で門前払いされるのがオチでした。しかもペンタゴンはその情報を企業や商店などの雇用主向けに公表していたのでした。

 そこで「作用と反作用」の物理法則が顕現します。黒人兵たちは「黒人」であることに、しかも民主主義のために戦った「兵士」であることの矜持(プライド)とともに自らをカテゴライズします。同性愛者たちもまた自分が同性愛者であることを引き受け始めます。なぜなら、そうしない限りペンタゴンに「差別をやめろ」「平等に扱え」と主張できないからです。カミングアウトは戦うためには必然だったのです。それはちょうどエイズ危機に際して、多くの患者感染者がカミングアウトしなければならなかったのと同じ論理です。
 そうやって、「アイデンティティの政治」が登場してきます。その当時、「アイデンティティの政治」の弊害を唱えるものは1人もいませんでした。それからの黒人やLGBTの公民権運動の進み具合を見れば、「アイデンティティの政治」はそこのその時点ではとても必要だったということは否めません。エイズ危機を思い出してください。あの時もまた患者感染者のアイデンティティ、当事者であるという引き受けが必要でした。それ以外にエイズ禍と戦う術はなかったのです。
「アイデンティティの政治」が問題視されるのは、「アイデンティティの政治」がまるで普遍的で本質的なものであるかのように力を持ってきたからです。そしてそれはまた、個人の「アイデンティティ」が不変の、自分に固有で本質的、かつ全体的なものであるという思い込みによって生じる問題でもあります。
 ゲイで、かつエイズで亡くなったミシェル・フーコーが言っています。

「主体性、アイデンティティ、個性といったものは、60年代以降、ある重要な政治的問題を構成していると思われます。アイデンティティと主体性を、政治的、社会的要因によって左右されることのないような本質的で自然な要素とみなすのは、私の考えでは危険なものです」(『国家理性を問う』)


 ただ、私としては、順番を考えたいと思っています。「私」というものが何かそれだけで成立できるような、本質的な何かを存在の基盤にしていると考えることは本質主義的な考え方(essentialism)と言います。一方で、「私」というものもまた、いろいろなものが重なり合いかぶさり合い、様々に作用し合って作り上げられたものだというのを構成主義、または構築主義constructionism)と呼びます。
「ゲイ」あるいは「レズビアン」が本質的なものか、それとも構築的なものか。それは第二次大戦時の「黒人」がアメリカ本土とヨーロッパ戦線で(その中でもイギリスとドイツではまた)同じ存在ではなかったことを考えれば、「ゲイ」という概念も同じくまた江戸時代の日本や古代ギリシャなどで、それぞれに異なる概念であったと気づくはずです。つまりそれもまた構築されるものなのだと。
 ただ、今の日本で、自分がゲイであることは、なんとなく本質的な何か、「自分」の内側にあるとても重要な何かとどうしたってつながっているような気がする。それは拭い去れない宿命的なものにさえ感じる──「自分」に気づくときには多く、まずそういうふうに感じ、考えがちです。そこから「自分」というもののアイデンティティを確立して行きます。ただし、この「どうしたって」ということ自体も構築された感覚なのかもしれません。
 そうやって人々は本質主義を考え尽くしてから構築主義へと移行してゆきました。本質主義をハナからすっ飛ばしてすぐに構築主義に軸をおける人はとても頭がいい人だと思います。
 順番と言いましたが、それは私たちはまず、アイデンティティを確立しない限り、アイデンティティの政治を批評的に止揚できない、ということではないかと思っているのです。
 それはちょうど、「ポリティカリー・コレクト(政治的に正しい)=PC」と半ば鼻で笑われ揶揄されながらも、まずはそこに「コレクトネス(正しさ)」を確立されていなければ、「PC」とは揶揄にも値しないということに似ています。
PC棒」と批判の声が挙がるたびに、私は果たして日本で一度だって「政治的な正しさ」が社会の潮流になったことがあったかと考えてしまいます。「正しさ」が「棒」になるほどの権力を得たことがあったか? 権力も纏っていないひ弱な「正しさ」が、「政治的な正しさ」だと先取りされて揶揄され批判される社会。
 同じく「アイデンティティの政治」がそもそも力を持ったためしがないような社会で、頭の良い人たちが「アイデンティティの政治」の危険性、欺瞞性に先取りして警鐘を鳴らす。
 そうして「正しさ」も「アイデンティティ」も、芽を伸ばす先に摘み取られてしまう社会に、ニヒリズム以外のどういう未来が待っているのか、私にはそれがわからないです。まずは順番だというのはそういうことです。もちろん、私たちはすでにその先に落とし穴があることを知っている、という意味での、「正しさ」と「アイデンティティ」の獲得です。
(続く)

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著者

北丸 雄二

ジャーナリスト、コラムニスト、作家、翻訳家。元々は毎日新聞から東京新聞(中日新聞東京本社)に転社した社会部畑の新聞社記者で、クリントンが大統領に就任した1993年にニューヨーク支局長に着任。3年半後の96年夏に帰任を命じられたのを機に退社し、独立。その後もニューヨーク在住のまま、大統領がG.W.ブッシュ~オバマ~トランプと変わった2017年まで、計24年間、現地で9.11テロや選挙ルポなど米国政治・社会・文化、日米及び国際関係の分野でジャーナリズム活動を続ける。18年、実母の老齢化のために拠点を日本に移し、現在は主にトランプ・ウォッチャーとしてTBSラジオやFM TOKYO、大阪MBS及びネットTVなどで米国関連ニュースを解説。一方で、英米文学、ブロードウェイ・ミュージカルや戯曲の翻訳も多く、「世界」「現代思想」「ユリイカ」などで国際情勢から映画、音楽、文芸まで各種評論も行っている。 LGBTQ+関連では90年に米国ゲイ文学の金字塔と言われる『ザ・フロント・ランナー』を翻訳刊行したのを機に、新聞業務と並行するライフワークとしてエイズ問題や刻々と拡大する人権状況を取材執筆開始。ニューヨークでは日本人コミュニティ向けにHIV/AIDSの電話相談の開設・運営にも尽力する一方、97年から、日本のゲイ月刊誌『Badi』に米国を中心としたゲイ関連ニュースコラムを連載。同年6月に青土社から刊行の『ゲイ・スタディーズ』(キース・ヴィンセント他著)でも全面的な監修を担当し、ほかにLGBTQ+関連のニュースを報じるプロフェッショナルが誰もいなかった当時、「AERA」で「日本に向けて性的マイノリティに関する正しい情報を発信するゲイのジャーナリスト」という紹介記事も掲載された。現在、十年来の同性パートナーと5歳の黒猫とともに東京に暮らす。Twitterは@quitamarco。 

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