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LGBTで考える人生の練習問題 北丸雄二

第17回

アイデンティティの獲得(1)

2019.12.27更新

読了時間

メディアで「LGBT」を見聞きする機会が増えています。昨今の多様な生き方を尊重する世界的な流れに乗じて、日本における「LGBT」への理解も少しずつ進んでいるかのようです。しかし、本当にそうなのでしょうか。この連載は、元東京新聞ニューヨーク支局長でジャーナリストの北丸雄二さんによる、「LGBT」のお話です。24年間のニューヨーク生活から見えてきた視点で「LGBT」ブームへの違和感について読み解いていきます。東京レインボープライドとの連動企画です。
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 では、「ホモセクシュアル」はどんなアイデンティティを獲得できるのでしょうか?
 おそらく多くの国や文化で、「ホモセクシュアル」という言葉が(トランスジェンダーの“発見”にまで至らぬ前近代的な世界で)表象するものは、例えば日本では三島由紀夫の時代くらいまでは「隠花植物」とか「薄化粧」とか、あるいは「なよなよした」とか「女々しい」(レズビアンは多くの場合、顕在していませんでした)とか、はたまた「派手派手しい」「ケバケバしい」いったもので、だからこそ三島はその範疇で特別な存在として異彩を放つ「南悠一」なる美青年を『禁色』で造形したりもしたのでしょう(とはいえそれもペロポンネソス的男性美の移し替えでしたが)。
 それは驚くほどに万国共通のステレオタイプで、フランク・シナトラの『刑事』のハッテン場はおどろおどろしく異様で、『真夜中のパーティー』にはけたたましく“オンナ”のエモリーが必要で、トーマス・マンの描く『ヴェニスに死す』のアッシェンバッハも薄化粧をして老醜の上塗りをするよう演出されます。

 いや、薄化粧をして何が悪い、“オンナ”の意匠を選択してどこが問題だ、ハッテン場の欲動の本質を見つめよ、という議論は尤もです。ですがそれもそこへは一足跳びには行けませんでした。一回そのステレオタイプを別の(より大衆受けする)肖像によって相対化する作業を経ないと、なかなかその境地には達せなかった。大衆としてのゲイ文化を底上げするには、その別の肖像(という別のステレオタイプ)をゲイ・コミュニティとして再発見する(同時に、ストレート社会に発見させる)必要がありました。それはそして、やがてはその両方のステレオタイプを脱構築することになるわけです。
 その別の肖像が、前回のコラムで触れた「オール・アメリカン・ボーイ」(アメリカの理想の男性像)でした。いや事はアメリカに限った話ではありません。「オール・ブリティッシュ・ボーイ」でも「オール日本男児」でもよい。とにかく「隠花植物」とは真逆の、陽の光の下での「健全」な生き物たちの姿が必要だった──。
「健全さ」の権化といえば、アメリカではまずはスポーツとボーイスカウトでした。そこで、エイズ禍を戦い生き延びる90年代に、「健康」で「溌剌」たるスポーツ選手のカミングアウトがメディアによって取り上げられます。
 ところがなかなかうまく行きません。「健全さ」は、ジェンダー規範が大きな土台になっていたからです。ジェンダー規範とは、この場合は、異性愛が規範である(heteronormativity)という考え方に基づきます。異性愛規範によって「男らしさ」「女らしさ」の醸成が奨励されるのですが、スポーツ文化はそこの「男らしさ」に拠って立って発展してきました。オリンピックが始まった古代ギリシャはもちろんのこと、いわゆる文明社会一般で女性は長いことスポーツには不向きとされ、スポーツというものに参加したのは19世紀末が初めてのことだったのです。それも乗馬、アーチェリー、ゴルフ、テニス、スキー、スケートなど限られた分野に上流社会の女性だけが勤しんでいたわけです。
 西洋社会を追随した日本における女性のスポーツ排除も長く続きました。宮藤官九郎が見事な台本を書いたNHK大河ドラマ『いだてん』でもしっかりと触れられていましたが、1920年代になってやっと教育界を中心に女性のスポーツ参加が認められ、テニスや水泳、その後に陸上やバレーボールなどに広がっていったのでした。世界的にも、いまでは名物になっている女性のマラソンだってつい最近まで認められていませんでした。女子マラソンがオリンピック競技として正式に採用されたのは、1984年のロサンゼルス大会が最初だったのです。
 そんなスポーツ社会ですから、女性以上に「男らしさ」の対極にある(とされた)ホモセクシュアル男性たちへの嫌悪感は大変なものでした。中でもチーム・スポーツ、コンタクト・スポーツ界における(その両方に当てはまるアメリカン・フットボールでは特に)ホモフォビア(同性愛嫌悪)は高校生たちの間で顕著でした。それは選手間だけでなく、ゲイやレズビアンのコーチ(日本でいう顧問の先生や部長、監督に相当します)にも向かいます。
 その理由は想像がつきます。チーム・スポーツであることによるピア・プレッシャー(同調圧力)と、コンタクト・スポーツとして肉体的接触があることへの、ピューリタニズム的な忌避です。それでも、そんな高校フットボール界でカミングアウトの先鞭をつけた若者がいました。
 マサチューセッツ州のマスコノメット高校フットボール・チームのラインバッカーだったコーリー・ジョンソン Corey Johnson は、今から20年前、1999年の春にチームメートにカムアウトしました。翌2000年4月30日付のニューヨーク・タイムズが彼を大きく取り上げます。
 書き出しの数段落を紹介しましょう。

***

(チームメーツにカムアウトしたとき、)他2人の先発ラインバッカーの反応は特徴的だった。大柄で落ち着いたデイヴ・メリルはショックを静かに押し隠し、それからカミングアウトがチームの分断を呼ぶかどうか心配した。メリルは、これは乗り越えるべき課題だと考えることにすると話した。ジョンソンとメリルはチームの共同キャプテンだった。その2人の資格へのテストであり、ジョンソン個人の人格へのテストなのだ、と。もう1人のジム・ホィーランはジョンソンの目を見て彼が助けを求めていることを見て取った。彼はすぐにこう言った。「チームメートとか以上に、おれたちは友だちだ。おまえが今も変わらずおまえであることは知ってるから」
 2人の反応は、この、危険で見取り図もない、細心に計画された作戦にとってとても重要だった。どんどん閉所恐怖症がつのる彼のクローゼットから、アメリカの象徴たる正真正銘のフットボール・ヒーローを連れ出してやるのだ。計画にはジョンソンの両親、先生たち、コーチたち、それとゲイの教育支援機関など、長く多様性訓練を積んできた学校当局が後押しする全ての関係者が関わっていた。それらが何をなし得たかは、今年(2000年)、この日曜(4月30日)にワシントンで開かれる「平等を求めるミレニアム大行進 Millennium March for Equality」で、金曜(4月28日)で18歳になり6月には高校を卒業するジョンソンが、どうスピーチをするかでわかるだろう。
 ステレオタイプを打破しようとするゲイ活動家にとって、ジョンソンは貴重な発見だ。レスリングやラクロスや野球もできてフットボールでは3度の優勝選手表彰も受けた彼は、聡明で優しく手近な模範例だ。スポーツ選手はしばしば選手を操縦しようとするコーチに影響されてホモフォビアもまた身につけてしまう。けれどジョンソンはその呪縛を解くシンボルだ。さらに多様性や寛容さとスポーツ文化といった複雑な問題に苦悩する学校システムにとっても、彼の物語は希望に満ちたモデルである。
「いつの日か、ぼくは『あのゲイのフットボール・キャプテン』というものを乗り越えたい」とジョンソンは言う。「でも今は外に出て行って、学校で我が物顔のマッチョなスポーツ選手たちに、ゲイだからといって大げさに騒ぐわけでもドラム打ち鳴らして吹聴してるわけでもないんだって教えてやりたい。連中とまったく違わないやつだっているんだって」


***

 この記事がきっかけでコーリー・ジョンソンはABCテレビの報道特集「20/20」でも取り上げられ、全米の様々なニュース媒体で紹介されました。高校を卒業してからはニューヨークに移ってLGBTの人権活動家になり、ジョージ・ワシントン大学を中退後にはニューヨークの区議から2013年に市議に選出され、2018年からは市会議長を務めています。

 彼の時代から高校や大学でカムアウトするスポーツ選手が徐々に増えてきたのは確かです。ところがそんなトレンドもプロ・スポーツ界にはなかなか波及しないでいます。アメリカの4大スポーツとされるMLB(野球)、NFL(フットボール)、NBA(バスケットボール)、NHL(アイスホッケー)で、現役選手としてカムアウトしたのは、20135月のNBAジェイソン・コリンズのみにとどまっています。さらに引退後のカミングアウトもこれまでにわずか計9人(201912月時点)。NFLがデイヴ・コペイ Dave Kopay1975年)ら6人で一番多く、MLBはグレン・バーク Glenn Burke1994年)とビリー・ビーン Billy Bean1999年)と2人、そしてNBAジョン・アミーチ John Amaechi2008年)だけです。2017年にはNFLで現役の複数の選手たちが同時にカムアウトする、という情報が一斉に広がりましたが、けっきょく誰も名乗り出ることはありませんでした。
 この傾向は他国も似たようなもので、イギリスでは2010年にプロ・サッカー協会(PFA)がホモフォビアに反対する広告キャンペーンを企画したのですが、プロ選手の誰もこの企画に名前を連ねることを望まず失敗したのでした。
 背景には、プロ・スポーツのお金の問題もありましょう。西側諸国がいかにLGBTフレンドリーになっているとはいえ、スポーツはその中でも保守的かつ男性主義的なファン層に多く支えられています。そんなファンたちにゲイであることが発覚したら、試合会場はブーイングの渦に包まれることも予想されます。ビジネスとして、それは避けたいというのが人情でしょう。

 一方で、女性たちのスポーツ界では男性に先行してカムアウトが相次ぎます。また男性たちも、個人スポーツではカムアウトする選手たちが増えてきました。

 その中でも社会に大きな影響を与えた1人はチェコ出身のプロ・テニス選手マルティナ・ナヴラチロワ Martina Navrátilová でしょう。ウィキペディアの記述を借りれば「ウィンブルドン選手権の大会史上最多優勝記録(9勝)、WTAツアーの最多優勝記録(シングルス167勝、ダブルス177勝)など、数々の歴史的な記録を樹立した名選手」です。もっとも、1981年の彼女のバイセクシュアリティ公表は《ニューヨーク・デイリー・ニューズ》紙に掲載されたインタビュー記事によるアウティング(意に反して同性愛を暴露されること)でした。彼女はインタビューアーに、著名なレズビアン作家リタ・メイ・ブラウン  Rita Mae Brown と交際していたことを話したのですが、それは当時、彼女が申請していた米国の市民権獲得に障害になるかもしれないと考えて記事にはしないように頼んだのです。けれど同紙はそれを載せてしまう。以来、1985年に出した自伝『Martina in the U.S. and Being Myself in the rest of the world』でレズビアンであることを明言してからはさらに、彼女は積極的に講演活動や政治的発言を行ってLGBTQ+の若者たちを支援し続けています。彼女は2014年9月6日、USオープンの会場で長年のガールフレンド、ジュリア・レミゴヴァ Julia Lemigova にプロポーズし、同年12月15日、ニューヨークで結婚しました。
 女性たちが、セクシュアリティに関して男性たちより柔軟な態度を見せるのはなぜなのでしょうね。
(続く)

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著者

北丸 雄二

ジャーナリスト、コラムニスト、作家、翻訳家。元々は毎日新聞から東京新聞(中日新聞東京本社)に転社した社会部畑の新聞社記者で、クリントンが大統領に就任した1993年にニューヨーク支局長に着任。3年半後の96年夏に帰任を命じられたのを機に退社し、独立。その後もニューヨーク在住のまま、大統領がG.W.ブッシュ~オバマ~トランプと変わった2017年まで、計24年間、現地で9.11テロや選挙ルポなど米国政治・社会・文化、日米及び国際関係の分野でジャーナリズム活動を続ける。18年、実母の老齢化のために拠点を日本に移し、現在は主にトランプ・ウォッチャーとしてTBSラジオやFM TOKYO、大阪MBS及びネットTVなどで米国関連ニュースを解説。一方で、英米文学、ブロードウェイ・ミュージカルや戯曲の翻訳も多く、「世界」「現代思想」「ユリイカ」などで国際情勢から映画、音楽、文芸まで各種評論も行っている。 LGBTQ+関連では90年に米国ゲイ文学の金字塔と言われる『ザ・フロント・ランナー』を翻訳刊行したのを機に、新聞業務と並行するライフワークとしてエイズ問題や刻々と拡大する人権状況を取材執筆開始。ニューヨークでは日本人コミュニティ向けにHIV/AIDSの電話相談の開設・運営にも尽力する一方、97年から、日本のゲイ月刊誌『Badi』に米国を中心としたゲイ関連ニュースコラムを連載。同年6月に青土社から刊行の『ゲイ・スタディーズ』(キース・ヴィンセント他著)でも全面的な監修を担当し、ほかにLGBTQ+関連のニュースを報じるプロフェッショナルが誰もいなかった当時、「AERA」で「日本に向けて性的マイノリティに関する正しい情報を発信するゲイのジャーナリスト」という紹介記事も掲載された。現在、十年来の同性パートナーと5歳の黒猫とともに東京に暮らす。Twitterは@quitamarco。 

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