Facebook
Twitter
RSS
LGBTで考える人生の練習問題 北丸雄二

第19回

「男と女」と「公と私」と(2)

2020.02.28更新

読了時間

メディアで「LGBT」を見聞きする機会が増えています。昨今の多様な生き方を尊重する世界的な流れに乗じて、日本における「LGBT」への理解も少しずつ進んでいるかのようです。しかし、本当にそうなのでしょうか。この連載は、元東京新聞ニューヨーク支局長でジャーナリストの北丸雄二さんによる、「LGBT」のお話です。24年間のニューヨーク生活から見えてきた視点で「LGBT」ブームへの違和感について読み解いていきます。東京レインボープライドとの連動企画です。
「目次」はこちら

 映画『his』は、元々は名古屋テレビで2019年4月から5回にわたって放送された2人の男子高校生「シュン(井川迅)」と「ナギサ(日比野渚)」の恋愛ドラマだったようです。私はその番組を見ていないのですが、映画版は彼ら2人のその後、大学卒業を控えたシュンに、ナギサが「別れよっか」と唐突に切り出すところから始まります。その言葉は平安時代の「後朝(きぬぎぬ)の別れ」を強く示唆して、朝を迎えた2人が互いのセーターを交換する美しいシーンの後に呟かれます。
 もっともそこで別れたままでは映画は終わってしまいます。なので『his』はその後、東京から離れた山間の村でひっそり自給自足の一人暮らしをしているシュンを描きます。のちに会社勤めをしていたころにゲイの噂が立ったシュン自身の辛そうな回想シーンがあることから、そんな噂に生きづらくなった彼が半ば隠遁でもするようにその村に越してきたことが示唆されるのですが、そこにまたまた唐突に、6歳だという娘・ソラ(空)を連れたナギサが訪れて来るのです。しかも「しばらくの間、居候させてほしい」と言って(今回はじゃっかんネタバレが含まれるので、悪しからず)。
 ソラの年齢から考えて、あの「後朝の別れ」から7、8年は経っているはずです。勝手にいなくなって勝手にまた現れて、しかも女と結婚して子供ができて──「何を今更……」、私は宮沢氷魚演じるシュンに「はいダメ、はいダメ、今すぐとっとと追い返せ!」と激しく念を送っていたのですが、もっとも、それでもまた映画はそこで終わってしまいます。
 考えてみれば、未来にではなく、過去のつかの間の幸せの時にしか希望がないように思えた年齢(時代、社会)というものもあるのでしょう。田舎暮らしに引っ込んだシュンはまさにそうだった。だから彼は戸惑いながらもあの「過去」とふたたび暮らすことを自分に認めるのです。たとえそれが思い出の中の幸せ、つまりは「過去形の希望」だったとしても。
 シュンにとっての、そして観客にとってのナギサの身勝手さはソラの天真爛漫さによって相殺されるように見えます。けれどそうした奇妙な3人暮らしは、すでに危うさを含んでいます。ナギサは妻レイナ(玲奈)とソラの親権を巡って離婚調停中の身であることが明かされます。その危うい縺れとそこから裁判へと進む過程が副プロットとして並行します(ここでのレイナの描かれ方もまたナギサの身勝手さを相対化して、いささか可哀想すぎますが)。さらに村では、シュンとナギサの関係が知られることになります。気まずい沈黙と距離感……。
 さてここから物語は「起承転結」の「転」に転じます。シュンを懇意にしてくれていた老漁師の緒方が急逝します。緒方は、ゲイの噂が流れているときにシュンを猟に誘い出し、山の中でふと立ち止まって「誰が誰を好きになろうとその人の勝手やで。好きに生きたらええ」と言ってくれた人でした。
 その通夜の席で、酔いも回った村人がナギサに「あんたら、男同士で付き合ってんのか?」と問い掛けます。彼は「違いますよ」と軽く笑ってごまかしますが、しかし一方で感極まったシュンは立ち上がって「みなさん、話を聞いてもらえますか?」と突然のカミングアウトをするのです。
「ぼくは日比野渚のことを愛しています」

 観客の私はヒヤヒヤします。そこを掬い取るように、根岸季衣演じる婆さんが「この歳になったら男も女も関係ねぇ。どっちでもええわ」と言って、場は笑いの中で2人を受け入れるのです。それだけじゃありません。たしか同じ婆さんが、シュンに「長生きしろ」と励ますセリフもありました。観客の私はしみじみとした思いの中でウルっとしてしまいます。
 これがこの映画の肝の部分です。もう1つ、どちらが親として相応しいかを争うナギサとレイナの離婚裁判でも、ギスギスした弁護士双方の議論を遮るのはナギサの謝罪の言葉でした。こちらも人間としての、私的な、個人の思いがその場を救うのです。

 社会的な様々な逆境を描きつつ、それを声高に訴えたり批判したりするのではなく、淡々と静かに個々の観客の心に滲み入るように印象づけていく。そのために、映画表現の中では様々な逆境が個々人の登場人物の善意によって報われたり救われたり労わられたりする。悲劇や困難は、私的な領域の中で個人の善意によって回収されていくのです。

『his 』
2020年1月24日(金)より新宿武蔵野館ほか全国ロードショー
配給:ファントム・ フィルム
©2020映画「his」製作委員会


 そう考えたとき、私にはもう1つの日本映画が思い出されました。河瀬直美監督の『あん』(2016年)という映画です。永瀬正敏演じる訳ありのどら焼き屋さんに(なかなか美味しい餡が作れなくて売れないのです)、樹木希林演じるお婆さんが仕事を求めて訪れて、絶品の餡作りを伝授する、というお話です。

 美しい桜の景色から始まる物語は淡々と、けれど着実に進んで行きます。なるほどよくあるグルメ映画かと思うころに、最初に描かれたお婆さんの手指の変形という伏線が顔を出してきます。彼女はそう遠からぬ所にある「らい病」つまりハンセン病患者の施設(旧・隔離施設)から通っていることが明らかになるわけです。そしてその噂によって客足が遠のくことになる──。
 これもまた心に滲みる佳作です。客が来なくなったことで、お婆さんはその店でのアルバイトを辞して「園」に戻ります。映画は「世間」の偏見と無理解とに直接対峙するわけではありません。店主の無言の悔しげな表情と、そして店の常連だった女子中学生と2人しての「園」訪問と再会とが、かろうじてこの病気を取り巻く「差別」と「やるせなさ」の回収に機能します。そして『his』と同様、『あん』は観客の心に何らかの種子をそっと置いて終わるのです。

 そこで1つ、なんとはなしの疑問が浮かびます──1人ひとりの心の底にひっそりと置かれるその「種子」が、「私」の土壌から芽吹くのはいつのことでしょうか。その私的領域での善意が、社会という公的領域での意志に発展することはあるのでしょうか?
 もっと言えば、「この歳になったら男も女も関係ねぇ。どっちでもええわ」と言ってくれる心やさしい人びとが、例えばシュンとナギサが同性婚を求めるようになったら、そこでも一緒に署名運動なりデモなり裁判なりに立ち上がってくれるのだろうか? 樹木希林たちの無念を晴らすべく、ハンセン病患者差別の解消に動いてくれるのだろうか?
 あの映画『フィラデルフィア』で、痩せ細ったトム・ハンクスがデンゼル・ワシントンとともにそれでもとことん裁判で争い、勝利を勝ち取ったのは、あの悲劇が私的領域における個人的な善意では回収できない種類のものだったからです。だから私たち観客はあの勝利に快哉を叫んだ。ではその私たちの快哉と、『his』や『あん』におけるしみじみした感動とは、何がどう違っているのでしょうか? 同性愛差別もハンセン病差別も、私的領域における個人的な善意で回収できる種類のものだということでしょうか? いや、個人的な善意で回収できる部分と、回収できない部分があるということでしょうか? 日本映画は前者を得意とし、ハリウッドは後者を描くということでしょうか?

 私はこの差を、「私」の領域と「公」の領域との間の回路の有無の差だと思っています。ひょっとすると、というか多分に、25年近くをニューヨークで暮らしてきたせいで、私はそうしたアメリカナイズされた方法論に感化されてしまっているかもしれません。それでもそれは、時にとても美しい行為であることは確かだと思われるのです。そしてその種の行為は、日本ではほとんど目にすることができない。

 今年2月6日、アンディ・バーナブ Andi Bernabeは18歳の誕生日を迎えました。その日、登校した彼は友人の1人に合唱室に連れて行かれます。そこにはクラスメートが待っていて、サプライズの「ハッピーバースデー」が歌われました。それだけではなく、29人から寄付された計300ドルが手渡されたのです。それは2年前にトランスジェンダー(ftm=女性から男性)であるとカムアウトした彼の、正式な名前変更の手続きに必要なテキサス州での申請費用でした。18歳で成人となった彼は、この日、その申請が可能になるのです。クラスメートからは、その申請が通った暁の、新しい名前の29人の署名入り証明書の手作りのダミーも手渡されました。アンディは喜びのあまりにその場に泣き崩れました。

 クラスメートたちは日頃から彼に対するいたわりや思いやりを見せていたのかもしれません。でも、それだけでは十分ではないと感じた彼ら彼女らのその思いの源は何なのでしょう? 習慣でしょうか? 教育でしょうか?
 何れにしても、個人的な善意や思いやり、敬意を、それだけにとどめずに集団の善意や思いやり、敬意として表現し直す。それは「私」から「公」への転位です。そういうのは例えばヒーローを顕彰する頻繁さにも表れます。

 アメリカの街には、個人の功績を称えて場所や通りや橋の名前などがその人の名前に変えられることが数多あります。ニューヨークだけでもジョン・F・ケネディ空港然り、マルコムX大通り然り、9.11テロの第1号犠牲者の同性愛者の司祭の名を冠したマイカル・ジャッジ神父通り Father Mychal F. Judge street というのもあります。日本ではあまり聞かない習慣です。個人名を冠した公的な存在は、文学賞とか、個人財団の基金とかくらいでしょうか。
 もっとさりげない仕草で、「私」を「公」に転移させる表現もあります。日本でも放送されているアメリカの長寿番組に『Law & Order:性犯罪特捜班』というシリーズがあります。その第19シーズンの第18話に『兵士の掟』(原題は Service)というエピソードがあります。アメリカでは2018年8月に放送されたこの回は、売春婦をレイプし瀕死の重傷を負わせたとして起訴される3人の兵士の話です。
 1人は若く童貞で、それをからかわれるのが嫌だという理由だけで当初は自分がレイプしたと供述します。ところが当の被害売春婦の証言から、実際の犯人は3人で最もランクの高い二等軍曹であることがわかります。けれど、その証言を補強する目撃者であるはずの3人目の軍曹が、上官である二等軍曹の犯行を証言することを頑なに拒むのです。なぜなら、その場で上官とともにレイプに加わらなかったのは、自分がトランスジェンダーの男性であるからということも同時に証言しなくてはならなくなるからでした。
 そこで原題の「Service」という言葉がカギになってきます。これは「軍務」とか「兵役」という意味ですが、もちろん「奉仕、奉公」の意味もあります。時はオバマ時代です。トランスジェンダーの兵士も診断書を提出して軍務に就けました。彼もそうして嘘偽りなく軍曹になっていました。国に奉仕するためです。ところが同僚や部下たちにはトランスジェンダーであることを知らせてはいない。それで、証言によって同僚や部下たちの信頼を失い、自分で「天職」と信じる「サーヴィス」ができなくなることを何よりも恐れていたわけです。
 捜査官は、それでも彼に、正義を為すことが国民への「サーヴィス」なのだと訴えかけます。果たして彼は、証言台から自分がトランスジェンダーであることを明かし、上官の二等軍曹の犯行を証言するのです。
 ここまでは徹底してこの軍曹の「私」的な葛藤と正義への思いを描いてきたドラマですが、最後にそれが「公」へと昇華する場面があります。勇気と正義を示して証言した軍曹が法廷を立ち去る際に、裁判の行方を見守っていた部下の兵士たちが同時に傍聴席から立ち上がり、歩を進める彼に向けて一斉に敬礼を送るのです。

 敬礼とは、兵士にとって最も公的な行為の1つです。公の兵士は軍を象徴しています。すなわち、国がそこにいるです。彼ら兵士と同時に、国家が、彼に敬礼をしたのです。
 一瞬で全てを掬い上げる、この美しい転位の演出は見事としか言いようがありません。

 そもそもバックグラウンドが違う私たち日本人には、こんな芸当はなかなか難しい。アンディくんのクラスメートによるあのサプライズ企画のような発想も、日々の学校生活において果たしてすんなり出てくるでしょうか。出てきたとしても通るでしょうか。そもそもそんなことを誰がどのように発案、提案するのか。ホームルームで? あるいは放課後の秘密の打ち合わせで?
 アメリカではそうです。そういう発想、そうやって自分の思いを公に表出しようという意思は、かなり頻繁に出てきます。日常生活においてそうやって子どものころから公の議論が奨励されるのですから、大人になってからの彼我の差、米日の差はもっと大きくなりましょう。
「公の議論」といってもそう大げさなものではありません。その素地は、公の空間で声を出すこと、程度のことです。クラスルームで手を挙げて発言すること。もちろんそれが不得手な子も少なからずいます。勉強ができないので答えを言えない子もいます。けれど何をどう思うかを聞けば、結構な割合の子たちがまるで大人顔負けで滔々と話し始めたりするのです(こんな子たちが大人になり、そこであまり話してこなかった日本の新人大人たちとグローバル化のビジネスで渡り合うわけです。余程じゃないと日本人は勝てないと思います。そのギャップが今の日米外交や通商交渉の現状を反映しているのです)。
 クラスルームに限りません。通りや駅や地下鉄で、すなわち公的空間で、赤の他人がひょっとしたきっかけで声を出します。ぶつかって「あ、失礼!」。「すいません、通ります!」なんかも当然のこと。相手は芋洗いのイモじゃありません。「そのバッグ、かっこいいね。どこで買ったの?」とかもよく聞かれる会話です。前にも触れましたが、東京のノリより大阪のノリに近い。もっとも、東京は人口の45%までがよそ者、地方出身者(しかも若者が多い)ですから、みんな田舎者に見られないよう、スキを見せないよう、必要以上にツンツンと構えているのかもしれないですね。でも、「公の議論」というのは案外、そういう「街なかで見知らぬ人に対しても声を出す」、なんていう余裕から始まるのだと思うのです。

 そうやって「公の領域」での言葉に慣れていないと、必然的にそこから発展して「公の議論」をする人間たちがやかましく思えてきます。それが外国人ならしょうがないかと諦めもするのですが、同じ日本人なら「欧米か!」とツッコミを入れたくなる。突っ込むくらいならまだ笑って済ませられますが、それが度重なるとやがてその人は私的な領域での「和」を乱す厄介者になってきます。それを避けようと、日本では、「まあまあ、そう事を荒立てないで」「まあまあ、そこは仲良く」「まあまあ、そこは大人になって穏便に」と取り成す人が必ず現れます。そしてこの「日本では」「欧米では」を連発してこの社会の不具合を比較し知らせようとすると日本では(笑)それすらすぐに「出羽守(デハの守)」と疎まれるようになるわけです(でもその人たちも実は「日本ではそうじゃないんだ」という、別の形の「出羽守」なんですがね)。
 そういう言挙げが嫌われるのは、その言葉は私的領域にとどまらずに「赤の他人」である「公」に向かって発せられる言葉だからです。言挙げとは、自ら「私」を離れてしまう言葉のことです。もっと内密に、内輪で、穏やかに、事を荒立てずに、どうにかできるんじゃないか。それが「和」を乱さない、最も穏便な解決法なんじゃないか。それが「ワン・チーム」「一丸となって」の「美しい国」ではないか、というわけです。
 なぜならその昔、「公」とは天皇であり、幕府であり、そして明治政府であり、昭和の軍国政府でした。「公」に向かって言挙げしたら、それだけで打ち首、いやいやそれに連座する者たちまでが切り捨て御免でしたものね。いやはやこれは根が深い。
 そうして大衆はそのうちに学習性の無気力に陥って、私的領域で解決できないものはもう「どうしようもないもの」と反応すらしなくなる。そうして、公的言語を発する者をまずは自分たちで抑圧する。次に否定する。それでもダメなら自分とは関係ない者として疎外する、あるいは無きものとして扱う。公の領域での自動抑圧装置の完成です。
「公」の存在しない集団では、集団の不正を正そうという「内部告発」は「告げ口」になります。「私」から「公」への回路が繋がっていないと、全ては個人的な怨嗟で語られてしまうのです。内部告発者は、告げ口する卑怯なやつだから、どうしてそれを法で守ろうとするのか? それは特権だ、そんな必要はない、ということになるのです。

 さて『his』は、私的領域の物語でありながらも『あん』同様に美しい映画です(「後朝の別れ」から繋がって、『ブロークバック・マウンテン』へのオマージュとしか思えないシーンもありますし)。同時に私は、アンディくんに300ドルの募金をしたクラスメートの行為をとても美しいと思う。トランスジェンダーとしてのカミングアウトを通して正義に尽くした軍曹の行為を美しいと思う。「美しい国」という空疎な言葉が氾濫する今のこの国で、「美しい」という言葉のまったく違った方向性と用法とが横行しているからこそ、「ワン・チーム」も「一丸となって」も強要しない、排他的ではなく包摂的な美しさを求めたいのです。

 蛇足ながら、この回の最後にもう1つ映画の話をします。2016年に制作された『カランコエの花』という、日本の高校のレズビアンの映画です。多感な時期の高校2年生の授業で、先生が突然、LGBTに関する話を切り出します。それもそのクラスだけ。「人を好きになるのは感情の問題」「恋に性別は関係ない」。しかしどうしてそんな授業を? 生徒たちは逆に、自分たちのクラスにLGBTの人がいるからじゃないかと疑い始めます。それは男子生徒を中心に次第に「犯人探し」の様相を帯びていくのです。
「カランコエ」の花言葉は「あなたを守る」だそうです。けれどこの映画は、レズビアンの生徒を「特別授業」を通して「公」の場で守ろうとした先生の失敗から始まります。この映画はレズビアンの生徒を守れなかった「私」たちの未熟さと悲惨さを露呈させるのです。ここで展開するのは、もう、そうやっちゃいけないよのオンパレードです。無知な善意から唐突に授業を始めた先生からしてそうなんですが、レズビアンの生徒をかばうためにその友人(恋の相手)に彼女は「レズビアンなんかじゃない!」と言わせてみたり。
 したがって、ネットに溢れるこの映画の感想も「そもそも彼女はレズビアンじゃない」「恋をして、胸がいっぱいなってつい恋バナをしてしまうような、どこにでもいる普通の高校2年生」「“レズビアン”という枠に無理やりあてはめられたことで、恋路がふさがれてしまった」といった主張に流れがちです。
 そう、この「LGBTで考える人生の練習問題」の最初のプロローグのところで触れた「脱ゲイ化」です。「これはレズビアン映画ではない、普遍的な人間の愛の物語だ」という、例のアレです。ここに引用したあるネタバレ・サイトでの結論は「本作品『カランコエの花』を鑑賞する際には“LGBT映画”と構えるのではなく、優れた青春映画を観る心持ちで少年少女の表情や感情を丁寧に読みとり、その一つひとつを味わうことをお薦めします」というものでした。
 そういう読みをさせるのは、映画として成功しているのでしょうか? でもこの映画、2017年の「第26回レインボー・リール東京」のコンペティションでグランプリを受賞したり、結構な賞を獲っているのですよね。
 プロットに関する“アメリカナイズ”された私の予想は、こういう映画はきっと最後にクラスの女子が何人か立ち上がって、“犯人”探しのバカな男子たちに「私もレズビアンだ」「私もそうだ」「なんか問題ある?」と迫るというものでした。実際、その種の学園ものは結構あるような気がします。それは「性的指向は変わらない」という説に反するウソ、のようにも聞こえますが、それは「嘘も方便」というよりも「あなたを守る」ためならレズビアンにだってなってやるさという、そういう「連帯」の意志のような気がします。それって、「同性愛は、友情の問題である」と言ったフーコーの言葉のように美しいと、私なんぞは思っちゃうのでありますが。

 次回は、その種の「公」に通じる美しさの具体例を、「男性性」の支配から逃れようとするアメリカのスポーツ界の話に立ち戻って紹介します。
(続く)

 

「目次」はこちら

シェア

Share

著者

北丸 雄二

ジャーナリスト、コラムニスト、作家、翻訳家。元々は毎日新聞から東京新聞(中日新聞東京本社)に転社した社会部畑の新聞社記者で、クリントンが大統領に就任した1993年にニューヨーク支局長に着任。3年半後の96年夏に帰任を命じられたのを機に退社し、独立。その後もニューヨーク在住のまま、大統領がG.W.ブッシュ~オバマ~トランプと変わった2017年まで、計24年間、現地で9.11テロや選挙ルポなど米国政治・社会・文化、日米及び国際関係の分野でジャーナリズム活動を続ける。18年、実母の老齢化のために拠点を日本に移し、現在は主にトランプ・ウォッチャーとしてTBSラジオやFM TOKYO、大阪MBS及びネットTVなどで米国関連ニュースを解説。一方で、英米文学、ブロードウェイ・ミュージカルや戯曲の翻訳も多く、「世界」「現代思想」「ユリイカ」などで国際情勢から映画、音楽、文芸まで各種評論も行っている。 LGBTQ+関連では90年に米国ゲイ文学の金字塔と言われる『ザ・フロント・ランナー』を翻訳刊行したのを機に、新聞業務と並行するライフワークとしてエイズ問題や刻々と拡大する人権状況を取材執筆開始。ニューヨークでは日本人コミュニティ向けにHIV/AIDSの電話相談の開設・運営にも尽力する一方、97年から、日本のゲイ月刊誌『Badi』に米国を中心としたゲイ関連ニュースコラムを連載。同年6月に青土社から刊行の『ゲイ・スタディーズ』(キース・ヴィンセント他著)でも全面的な監修を担当し、ほかにLGBTQ+関連のニュースを報じるプロフェッショナルが誰もいなかった当時、「AERA」で「日本に向けて性的マイノリティに関する正しい情報を発信するゲイのジャーナリスト」という紹介記事も掲載された。現在、十年来の同性パートナーと5歳の黒猫とともに東京に暮らす。Twitterは@quitamarco。 

矢印