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LGBTで考える人生の練習問題 北丸雄二

第20回

「男らしさ」の呪縛~スポーツとカミングアウト

2020.03.13更新

読了時間

メディアで「LGBT」を見聞きする機会が増えています。昨今の多様な生き方を尊重する世界的な流れに乗じて、日本における「LGBT」への理解も少しずつ進んでいるかのようです。しかし、本当にそうなのでしょうか。この連載は、元東京新聞ニューヨーク支局長でジャーナリストの北丸雄二さんによる、「LGBT」のお話です。24年間のニューヨーク生活から見えてきた視点で「LGBT」ブームへの違和感について読み解いていきます。東京レインボープライドとの連動企画です。
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 それにしても人はなぜカミングアウトしたくなるのでしょうか? それはおそらく、自分が何者かという問題と関係します。そしてその「自分が何者か」は、自分だけで片がつく問題ではない。なぜならばそれは常に「自分が何者かわかった」その後で、「その自分を認めてほしい」という承認欲求とカップリングになっているからです。人は一人では生きていけない、という命題は、もちろん物理的に一人で生きていくことができないという生物としての脆弱性を意味していますが、同時に、他者の眼差しによって鏡写しに形成される自我の自己認証なしには(いわゆる)「人間性」を獲得できないということでもあります。狼に育てられた少女ですら、狼たちによる承認が必要だったように。
 つまりカミングアウトもまた、自分が何者であるかの表明に前もって、他者による承認をあらかじめの目的とした行為であるということです。誰も、否定されること、拒絶されることを目指してカムアウトなどしません。

 このとき、しばしばおかしなことが起きます。否定や拒絶を恐れるあまり、主客転倒が起きることがあります。否定や拒絶されないようなあり方の自分を、自分が何者であるかの答えの前に用意してしまうのです。承認欲求が目的化して、本来の自分のアイデンティティに気づく前に承認されるような自分を作り上げる、信じ込む。
 そういう例に、日本に帰ってきてから数多く気づきました。それはいわゆる「空気を読む」という言葉に表れていて、そういえば「KY」などという言われ方は2000年代になって初めて出てきたものです。それ以前はあまり「空気を読め」とかは定型句にはなっていなくて、私は逆に、日本社会は21世紀にかけて教育現場でも個性とかゆとりとかが推奨されてさぞかし自由闊達な社会になっているだろうと思っていました。けれど帰ってきて実際に目に映った日本は、逆に同調圧力が高まって仲間はずれを極端に忌避する社会でした。
 1966年の中央教育審議会の「後期中等教育の拡充整備についての答申」(中教審答申)で出てきた「期待される人間像」という言葉が思い起こされました。教育を受ける青少年に、まるで画一的に愛国心や順法精神を育成するよう促す指針です。いや、愛国心とか順法精神とかそんな大きな話でなくともなんでもいいのです。「期待される」ような自分でいたい、というより、それはそんなにもはや単純ではなくて、「期待される人間像2.0やります」、みたいな、そんな自分を装うというような裏切りを含んでなお、他人を気にする、という、二重底のすくみ具合。

 まあ、自分にとっての自分ではなく、他人にとっての自分を演じるという話はいくらでもできるのですが、それでは話が脱線します。では、逆に、さらに一歩進んで周囲の人々の方が「周囲の人々の期待に添うような自分を演じなくてもいいんだよ」と、同調圧力からの解放を先取りして提示してくれる社会とはどういうものでしょうか?
 80年代から90年代に至るAIDS禍のピークを経験して、アメリカ社会はこの疫病への対処の仕方だけでなく、そこで生きる特にゲイやトランスジェンダーたちの人権問題にも気づき始めたということはすでに何度も書きました。その時に起こったことは、ホモセクシュアルというアイデンティティ、トランスジェンダーというアイデンティティの発見が、同時にヘテロセクシュアルやシスジェンダーというアイデンティティの発見でもあったということです。言い換えれば、19世紀に「同性愛」という言葉が作られて初めて「異性愛」という存在も発見された(あるいは発明された)。それがやっと、社会の一般大衆のレヴェルにまで降りてきたと言っていい状況になってきたのです。さらにはトランスジェンダーという存在を知って初めて、シスジェンダーという在り方もまた知りつつある──。
 そのとき、性的マイノリティの解放の問題は、性的マジョリティの解放の問題と等価になります。

 性的マジョリティの表徴たる「男性」スポーツの世界で、それは劇的な、感動的ともいえる”事件”でした。2001年3月、アメリカの4大プロスポーツの1つ、メジャー・リーグ・ベースボール(MLB=大リーグ野球)の開幕日に、シカゴ・カブスが以降毎年恒例となる「ゲイ・デイ Gay Days」のイヴェント「Out at the Ballpark(球場にカムアウト)」を行いました。主催はゲイ新聞「シカゴ・フリー・プレス Chicago Free Press」の広告営業部員だったビル・ガブラッド Bill Gubrud。カブスの大ファンでもあった彼が広告主や読者に広く呼びかけ、開幕試合の団体席2000席を購入して球団に「ゲイ・デイ」イヴェントへの協力を働き掛けたのです。
 新たなファン層獲得へのプロモーションとして、カブスにとってもこれはビジネス・チャンスでした。それにホーム・スタジアム「リグリー球場」はシカゴの有名なゲイ地区「ボーイズタウン Boystown」に近接していました。ゲイへの偏見はすでにアメリカでは(特にシカゴなど大都市圏では)そちらの方がタブーでした。カブスは結果、ゲイ新聞に初めて広告を出した男性プロスポーツ・チームとなるのです。

 現在では「Out at Wrigley」、つまり「リグリー球場にカムアウト(出ていらっしゃい)」と改名されているこのイヴェントは人権問題のニュースとしてメディアでも大きく取り上げられました。シカゴではいまもLGBTQの野球ファンの団体席を用意した上で、試合開始の国歌斉唱と始球式をゲイやレズビアンのコンテスト優勝者が行うようになっています。カブスはシカゴのプライド・パレードでもフロートを出してLGBTQコミュニティへの支援を明らかにしています。
 大リーグは計30球団ですが、以後、この19年間でほとんどの球団がカブスに続いて同様のゲイ・デイ(あるいはプライド・ナイト)のイヴェントを始めました。
 アメリカの多くの男の子たちの憧れの的である大リーグ選手たちがこうした動きを公的に支援するのは、その中に含まれるLGBTQの子供たち、あるいはそれ以外の子供たちにどういう影響を与えるか、想像に難くありません。もっともそれだけで差別や偏見がなくなるというわけではありませんが。
 同じように、LGBTQの十代の子たちの自殺が社会問題になった2011年にも、様々な分野の数多くの有名人たちとともに大リーグ球団もまたYouTubeに「It Gets Better(必ず良くなる)」と訴えるヴィデオを上げました。その中には当時の黒田博樹投手が所属したロサンゼルス・ドジャーズの動画もあり、黒田投手本人も若きゲイやレズビアンらに向けて英語でメッセージを送っていたのです。おそらく球団かチームメイトからの指示でしょうが、黒田投手も日本にいたらそんなことは思いもつかなかったでしょうね。

 現在のシカゴ・カブスのオーナーの1人はローラ・M・リケッツ Laura M. Ricketts です。彼女はオープンリー・レズビアンの弁護士で、ラムダ・リーガル Lambda Legal というLGBTQ法曹家市民団体の理事でリベラルな政治活動家でもあります。そしてLGBTQコミュニティからの初めての大リーグ球団オーナーでした。2009年に彼女が所有権を獲得する前には性的少数者であるとオープンにした人でプロスポーツ・オーナーだった人は1人もいません。ここでもまた男性よりも女性の同性愛者が先んじました。男性優位社会なのに(あるいはだからこそ)、公的なカミングアウトでは女性が目立つのは前々回で触れたとおりです。
 ちなみに大リーグでは、ゲイだと自らカミングアウトした現役選手はまだ1人もいません(現役を引退してからカムアウトした選手はいます)。性的指向が理由で解雇された選手はMLB史上少なくとも3人いるとされますが、いずれも公には認められていません。そもそも、スポーツと同性愛に関する調査自体、1990年代になるまで行われたことがなかったのです。

 社会の側から、LGBTQの少年少女たちに性的マジョリティと性的マイノリティの多様性の受け入れモデルを示す、という流れは、もちろん自然と出来上がったものではありません。そこにはまず、自らを“曝し”てまでも相手からの承認を“要求”する、アイデンティティの開拓者たちが存在しました。
 すでに書きましたが、この時代で最も有名なLGBTQコミュニティからのプロスポーツ選手は著書『Being Myself』(1985年)の中でレズビアンだと公表したチェコスロヴァキア生まれのテニス・プレイヤー、マルティナ・ナヴラティロヴァ Martina Navratilovaでした。もう1人同じくテニス界には、「キング夫人」として有名なビリー・ジーン・キング Billie Jean Kingもいました。さらには彼女たちに先駆け、1982年に、夏季オリンピックの出場者数にも比肩する世界最大級のアマチュアスポーツの祭典に育つ「ゲイ・オリンピック Gay Olympics」(現在は「ゲイ・ゲイムズ Gay Games」に改名)を創設した1968年メキシコ五輪出場の陸上選手トム・ワデル博士 Dr Tom Waddell もいました。
 けれど、プロスポーツ界でのカミングアウト・ラッシュは2012年、ロンドン五輪で日本を破って金メダルを獲得した米国女子サッカー代表のミーガン・ラピノー Megan Rapinoeから始まったと言っていいでしょう。以後、米チームから続々とカムアウトが相次ぎます。昨年2019年のFIFAの女子サッカーW杯でも優勝した同チーム主将ラピノーは、反LGBTQ施策を執るトランプ政権への抗議として、恒例の優勝後のホワイトハウス表敬訪問を拒絶すると発言してやんやの喝采を浴びました。
 男子では2013年にサッカーのロビー・ロジャーズ Robbie Rogersが、そして4大スポーツ界で初めてバスケット(NBA)のジェイソン・コリンズ Jason Collinsが現役カミングアウトをしました。
 もう1つの4大スポーツ、アメリカン・フットボール界(NFL)では2014年に、ミズーリ大学のディフェンシヴ・エンドだったオープンリー・ゲイのマイケル・サム Michael Samが史上初めてセントルイス・ラムズ Rams にドラフト入団を果たしました。それを機に「複数の現役選手が同時に一斉カムアウトする準備をしている」という情報も流れました。私も当時、一体どういうニュースになるだろうと期待したのでしたが、結局、いつまで待っても誰1人のカムアウトもありませんでした。そしてその後も、2020年の今まで、アメフト界でゲイだと公表する選手は誰も現れていません。
 他のLGBTQの子供たちは励ますことはできても、自分を励ますことはとても難しいという複雑な心理がそこにはあります。それに何と言っても、企業からの莫大なスポンサー料というおカネと人生の関係することです、万が一でもそうしたリスクは避けたいと思うのは人情でしょう。けれど、そのNFLにしても、2011年のストライキでは性的指向に基づく差別から選手を守る包括的労働協約を結びましたし、様々な選手や経営者が自分にはゲイの兄弟がいるという話をメディアで公表してLGBTQコミュニティへの支持を表明しています。ヒューストン・オイラーズでは名前を明かさないまでも2人のゲイのチームメイトがいるとして同僚選手たちが「全然問題はない」と話したり、地元のプライド・イヴェントに寄付をしたり、反LGBTQのヤジや暴言には罰金や罰則を設けてもいます。ゲイの当事者の選手やファンを慮って、ゲイではない選手や経営者側が差別や偏見を取り除く環境をどんどん整備しているわけです。そうした中で、高校や大学のスポーツ界でも、「男らしさ」にとらわれがちなアメフトやレスリングやラグビーなどのコンタクト・スポーツの分野でも、多くのカミングアウトが行われるようになっているのです。

 2000年と2004年のオリンピックで男子400m自由形などで5個の金メダルを獲ったオーストラリアの競泳選手イアン・ソープは、現役引退8年後の2014年、31歳になるまでゲイであることをひた隠しにしてきました。それも一因として長年鬱病に苦しんでいたのです。
 自分が自分ではないと嘘をつき続けることは、どうしてそれほどまでに辛いことなのでしょう。
 今回の冒頭部分で、カミングアウトの達成以前にしばしば奇妙な主客逆転として、「否定や拒絶されないようなあり方の自分を、自分が何者であるかの答えの前に用意してしまう」と書きました。「承認欲求が目的化して、本来の自分のアイデンティティに気づく前に承認されるような自分を作り上げる」と。
 2012年に出版された自伝「This is me」で、ソープは「ここではっきりと書きます。私は同性愛者ではありません。過去の交際関係もすべて異性とのものです。私は女性に惹かれ、子どもが好きで、いつか家庭を築きたいと思っています」と記していました。「大きくなったときに自分の性的指向を(ゲイだと勝手に)決めつけられ、それが必ずしも自分の事実ではないと知るときの気持ちを私は知っています。私は、自分が誰であるかを知る前にゲイだと呼ばれたのです」──ゲイのアイデンティティを取り戻したソープは、現在オーストラリアで若者たちの悩みにリーチアウトする活動も続けています。

 今回のスポーツ編の最後に、ジョン・カリー John Curryという現代男子フィギュアスケートの先駆者についても書かねばなりません。

 エイズ禍さなかの1996年、カナダ・エドモントンの世界選手権ガラ・エクジビションで、オープンリー・ゲイのアメリカのフィギュアメダリスト、ルディ・ガリンド Rudy Galindoが全身を黒のビロードで包み、その首の周りを襟のような大きなレッド・リボンでぐるりと飾ったコスチュームで現れた時のことを、今でもまざまざと憶えています。
 鮮やかなレッド・リボンはもちろんエイズ追悼のシンボルです。彼の演技は、彼の兄や彼の2人のコーチら、エイズに斃れた人々へと捧げられたのでした。その長いリストのなかには、その2年前に亡くなったジョン・カリーも含まれていました。
 1949年9月に英国バーミンガムで生まれた彼は、インスブルック五輪で英国に金メダルをもたらした20代の最盛期を1970年代に生き、プロに転向してからの円熟期を80年代に迎えます。その20年がどういう時代だったか──すでに何度も、それがエイズの時代だったということは書きました。ひとは、自分の生きた時代と場所からは逃れられません。
 ジョン・カリーは子どものころ「I wanted to be a dancer.(ダンサーになりたかったんだ)」と言っていました。しかしそんな彼の夢は工場経営者の父に否定されます。その代わり「I was allowed to ice-skate. Because it was a sport. They thought it was ok.(許されたのはアイススケートだった。なぜならそれはスポーツだったから)」
 そうした葛藤の中の彼の人生が『氷上の王、ジョン・カリー』というドキュメンタリー映画(2018年、イギリス)になっています。
 のちに「リンク上のヌレエフ」と呼ばれ、男子フィギュアを芸術と合体させたと賞賛された彼は、それでも当初は「男らしさ」の呪縛に苦しみました。男子のスケートでは腕やスピンを使うことは厭われ、優雅さも不要と言われました。「スケートを始めた時、ぼくが腕を宙にあげて演技を終えるとコーチがその腕を掴んで体に押し付けるんだ(略)そうしないとぼくを叩いた。文字どおり叩いた。もっと屈辱的だったのは、医者に連れてかれたことだ。まるでなにかを治さなきゃいけないみたいに」。別のコーチは「きみは絶対に成功しない」と言い放ちます。「スケーターとしても、男としても」(AP通信John Vinocurのインタビュー記事より)。
 当時のフィギュア界には彼の演技はあまりに華やかすぎ、あまりにも違っていて挑発的ですらあったのです。そしてインスブルックの金メダル直後に、このインタビュー記事の全文が配信されました。その中で彼は(オフレコだったとしていますが)自分がゲイであることも語っていました。それが事実上のカミングアウト、あるいは他者によるアウティング(同性愛者だと暴露されること)となったわけです。

 当時のメディアは彼のスケーティングの革新性や芸術性を語るよりも多く彼のセクシュアリティに注目し、それは時に好奇の目でもありました。ニューヨークで「ストーンウォールの暴動」が起きてまだ7年しか経っていない時のことです。70年代のゲイ・コミュニティもヒーローを求めていました。けれど彼に続きゲイであることを明らかにするアスリートは、スポーツ界全体を見渡しても皆無でした。
 当時、スポーツ界でカムアウトしていた一流選手は、1920年(!)にウィンブルドンのシングルで優勝したビル・ティルデン Bill Tilden、前述の1968年メキシコ五輪10種競技のトム・ワデル、そして現役引退後の1975年に、初のNFL選手のカミングアウトとして話題になったデイヴィッド・コペイ David Kopay──このわずか3人しかいませんでした。
 この思わぬ展開に(『氷上の王』の中では彼は、ゲイであることを否定したり、恥じる気もなかったと笑っていましたが)、当時の新聞見出しの1つは「Broke Gay Barrier(ゲイの壁を打ち破った)」と彼を賞賛する一方で、別の新聞では「The Haunted Hero(取り憑かれたヒーロー)」となっていたのがわかります。その下に「My “Gay” Tag」。カリーはどこに行くにも「ゲイのタグ付け」に「取り憑かれているヒーロー」となったのでした。もっとも、世界中から寄せられた賞賛と感謝の手紙の中にはあのエルトン・ジョンからのものも映っていますから、ゲイの金メダリストに人知れず勇気をもらったゲイたちも数多いたことは想像に難くありません。

 カリーは最も純粋な男性スケーターだったと考えられています。彼のアイス・シアターでの業績はソロでもアンサンブルでも現在でも広く崇拝されていますし、その仕事はモイラ・ノースやキャサリン・ヒーリーらに引き継がれました。ポール・ワイリーやアリザー・アレンといった一流プロたちも、その代表作をカリーに捧げています。
 『氷上の王』では短いシーンながらニジンスキーの「牧神の午後」を踊るカリーの姿が出てきます。同性愛関係にあったディアギレフと秘密裏に作り上げたニジンスキーのあの独特な振り付けが、彼と同じ衣装をまとったカリーの牧神の中に蘇っていて、一瞬鳥肌の立つ思いがします。
 しかしディアギレフ=ニジンスキーの時代から70年以上経った1987年に、カリーはHIV感染と診断され、91年にはエイズを発症します。抗HIV療法として有効なカクテル療法が開始された95年を待たずに、彼は94年に44歳で亡くなります。
 映画では描かれていませんが、その最期を看取ったのはかつて彼の恋人だった俳優アラン・ベイツ Alan Bates でした。ベイツは当時女優ヴィクトリア・ワードと結婚していましたが、カリーと2年間の熱いロマンスを続けたのです。そのベイツはカリーがエイズに苦しんでいると知って、最期の日々を通して彼を看病したのでした。カリーはベイツの腕の中で息を引き取ったそうです。

 それから24年、2018年の冬季・平昌オリンピックでは誇らしげにメダルを掲げるアダム・リッポンAdam Ripponエリック・ラドフォード Eric Radford2人の写真がツイッターに上がりました。
 リッポンはアメリカ・チーム団体として銅を獲得し、ラドフォードはカナダのペアとして金を獲得したのです。2人が一緒に写ったのには理由があります。ジョニー・ウィアー Johnny Weir もオープンリー・ゲイのオリンピアンでしたが、男性アスリートとして冬季五輪で表彰台に上ったのは彼ら2人が初めてなのです。
 そのタグには「#olympics」「#pride」「#outandproud」「#medalists」とあり、何より「#represent」として虹色の旗がそれに続いていました。レインボーフラッグはLGBTQら性的少数者たちの象徴です。ジョン・カリーに”取り憑いていた”「ゲイのタグ付け」は今やっと、「#outandproud(カミングアウトして誇りを持った)」者たちの徴しのタグになっていました。
 そのツイートの下に連なる5000近いコメントの1つに、ビリー・ジーン・キング(あのテニスのキング夫人です)からのものもありました。60年代から80年代にかけて女子テニス界に君臨した女王、のちにレズビアンとしてカムアウトした彼女は、2人に向けて「あなたたちは若い世代をインスパイアしただけじゃなく、私たち古い世代をもインスパイアしてくれた」と記していました。
 それにしても、このスポーツ編だけではないですけれど、LGBTQの日本のアスリートに関して触れられないのはなぜなのでしょう。先日、米アドヴォケット誌がやはりフィギュアの村主章枝選手のバイセクシュアリティに触れていましたが、日本のメディアはあまりそこに触れていないようです。日本のスポーツ界だけが純粋ヘテロセクシュアル世界であるということは絶対にないのですが。

(続く)

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著者

北丸 雄二

ジャーナリスト、コラムニスト、作家、翻訳家。元々は毎日新聞から東京新聞(中日新聞東京本社)に転社した社会部畑の新聞社記者で、クリントンが大統領に就任した1993年にニューヨーク支局長に着任。3年半後の96年夏に帰任を命じられたのを機に退社し、独立。その後もニューヨーク在住のまま、大統領がG.W.ブッシュ~オバマ~トランプと変わった2017年まで、計24年間、現地で9.11テロや選挙ルポなど米国政治・社会・文化、日米及び国際関係の分野でジャーナリズム活動を続ける。18年、実母の老齢化のために拠点を日本に移し、現在は主にトランプ・ウォッチャーとしてTBSラジオやFM TOKYO、大阪MBS及びネットTVなどで米国関連ニュースを解説。一方で、英米文学、ブロードウェイ・ミュージカルや戯曲の翻訳も多く、「世界」「現代思想」「ユリイカ」などで国際情勢から映画、音楽、文芸まで各種評論も行っている。 LGBTQ+関連では90年に米国ゲイ文学の金字塔と言われる『ザ・フロント・ランナー』を翻訳刊行したのを機に、新聞業務と並行するライフワークとしてエイズ問題や刻々と拡大する人権状況を取材執筆開始。ニューヨークでは日本人コミュニティ向けにHIV/AIDSの電話相談の開設・運営にも尽力する一方、97年から、日本のゲイ月刊誌『Badi』に米国を中心としたゲイ関連ニュースコラムを連載。同年6月に青土社から刊行の『ゲイ・スタディーズ』(キース・ヴィンセント他著)でも全面的な監修を担当し、ほかにLGBTQ+関連のニュースを報じるプロフェッショナルが誰もいなかった当時、「AERA」で「日本に向けて性的マイノリティに関する正しい情報を発信するゲイのジャーナリスト」という紹介記事も掲載された。現在、十年来の同性パートナーと5歳の黒猫とともに東京に暮らす。Twitterは@quitamarco。 

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