Facebook
Twitter
RSS
LGBTで考える人生の練習問題 北丸雄二

第25回

Black Lives Matterとクイア・ムーヴメント

2020.06.26更新

読了時間

メディアで「LGBT」を見聞きする機会が増えています。昨今の多様な生き方を尊重する世界的な流れに乗じて、日本における「LGBT」への理解も少しずつ進んでいるかのようです。しかし、本当にそうなのでしょうか。この連載は、元東京新聞ニューヨーク支局長でジャーナリストの北丸雄二さんによる、「LGBT」のお話です。24年間のニューヨーク生活から見えてきた視点で「LGBT」ブームへの違和感について読み解いていきます。東京レインボープライドとの連動企画です。
「目次」はこちら

 やっと手元に前回予告した『コリドン』所収の新潮社版アンドレ・ジッド全集第四巻(昭和26年刊)が届いたと思ったら、そこで世界を揺るがす「ブラック・ライヴズ・マター(BLM)」運動が噴き上がりました。これは反トランプ運動にも発展して、私も取材や解説、原稿に追われています。こんな時にはこのBLMについて書かないわけにはいきません。というのもこのBLM運動は、クイア活動家でもある女性たちによって始められたという側面があるからです。そして何よりもこれはLGBTQ+を取り巻くのと同じ、現代世界の「差別」と「偏見」の問題だからです。
 ですので今回は予定を変更し、緊急番外編としてこのBLMとクイアネスの関係、そしてインターセクショナリティ Intersectionality という考え方について書き留めておきたいと思います。

**

トレイヴォン・マーティンの死とBLM運動


 525日に米中西部ミネソタ州ミネアポリスで黒人男性ジョージ・フロイド(46)が白人警官デレク・ショーヴィン(44)によって頸部を膝で押さえつけられ、最後には死に至らしめられる843秒の動画が世界を揺るがせたのは、それが人間が実際に死んでゆく、しかもその本人が繰り返す「I can’t breathe(息ができない)」というナレーション付きのリアルタイム・ドキュメンタリーと同じだったからです。ここから現在5週間目という、史上かつてない長期にわたる人種差別抗議行動が米国ばかりか世界各地で繰り広げられることになりました。

 2013年から、こうした反黒人差別運動は「#BlackLivesMatter」というハッシュタグでSNS上での運動と連動する大規模なうねりとなりました。その前年にフロリダで起きたトレイヴォン・マーティンの射殺事件がきっかけです。
 2012226日、17歳の高校生トレイヴォンが、父親とともにゲート付きの居住区に住む父親のフィアンセ宅に訪れていた際の夜7時ごろ、彼は1人で7-イレヴンから戻る道で28歳の自警団員ジョージ・ジマーマンによって不審者と見なされ、誰何と口論の末に逃げる背後から射殺されたのです。彼は身長190cmでしたが体重は72kgしかない痩身の少年でした。もちろん武器などは持っていなかった。対するジマーマンは173cm91kgの大人でした。
 トレイヴォンはフード付きのパーカー(フーディー Hoodie)を着ていました。アフリカ系の若者はフーディーで顔を隠して悪事を働くという偏見があったのも一因でした。
 ジマーマンは一旦身柄を拘束されたものの正当防衛を主張して釈放されます。やがて殺人罪で起訴されますが、それまでに彼の逮捕を求める署名運動がトレイヴォンの母親によって Change.org のサイトで始まり、当時オンライン史上最多の220万筆が集まりました。その頃までには「フーディー」がこの抗議運動のシンボルになりました。フロリダの十数校の高校ではトレイヴォンを悼んでフーディーを着た授業ボイコットのデモが起こり、当時行われていたオキュパイ運動(「ウォール街を占拠せよ」などの社会・経済的平等を求める運動)もこれに連帯して「百万人フーディー行進 Million Hoodie March」が全米で行われました。
 けれどそれが大きな抗議となったのは翌13713日、ジマーマンにやはり第二級殺人罪などでの無罪評決が出たからでした。第二級殺人罪とは、殺意をもって故意に人を殺害したが、計画的ではない殺人のことです。検察側は、ジマーマンが、この「故意に、殺意をもってトレイヴォン・マーティンを射殺した」という罪状を十全に証明できなかったわけです。さらにフロリダ州法では、正当防衛だったと主張する被告側は「正当防衛だ」と証明する必要はなく、検察側が「正当防衛だとは言えない」ということを証明しない限り、正当防衛が認められる仕組みになっています。検察側の「正当防衛ではない=第二級殺人だ」という証明はしかし、こうして陪審員によって不十分だと見なされたのでした。
 検察側やメディアは、ジマーマンの行為を人種差別の偏見に基づくものとのイメージを(誤報を含めて)振りまきました。そしてジマーマンを当初は「白人」と発表したり報道したりしてもいました。それが実際は「ヒスパニック」だとわかってからも、彼を「ホワイト・ヒスパニック」と呼んでいました。「黒人」対「白人」の単純な対立構図を描きたかったのだとされます。
 とはいえ、そうした様々な要素を差し引いても、トレイヴォン・マーティンが何の罪もなく殺害されたことは事実です。彼が「黒人」特有のフーディーを着て顔を隠しながら夜1人で歩いていた、まさにそのことだけで射殺された事実は厳然として残ります。

Black Lives Matter」運動は、かくして生まれました。直訳すれば「黒人の命は大切だ」というこのスローガンは、あまりに強い運動となったために逆に白人側から(黒人だけじゃない、おれたち白人を含む)「All Lives Matter(みんなの命が大切だ)」という反動スローガンを招きました。しかし、この「Black Lives Matter」は、「All Lives Matter」という当然の事実の中で「Black Lives」だけが軽んじられている現実を訴えるもの、「黒人の命だって大切なんだ」と反訴するものです。「白人の命も大切だ」とはそもそも拠って立つ地層がまったく違う。津波も届かぬ高台の上に立っている「白人であるという特権」に気づかぬ白人たちは、非白人たちが波打ち際で溺れそうになっている事実を見ることもなく、自分たちの命だって同じく大切だと開き直る。愚かか故意の撹乱でなければできない妄言です。
 そうして、ジマーマン無罪評決から飛び出たこのBLM抗議行動は、それまでの黒人運動とはやや違った様相を帯びることになったのです。

「奴隷」から「犯罪者」への移行


 アメリカで「奴隷制度」が始まったのは1619年に「召使い」と称された20人のアフリカ人がヴァージニア州ジェイムズタウンに連れてこられた時だと言われています。以来、南北戦争1863年にリンカーン奴隷解放宣言を行い、1865年に奴隷制度の最後の砦だった南部連合のテキサス州が陥落して奴隷制度は終結しました。法的には、奴隷制を禁止する合衆国憲法修正第13条が批准されたのです。
 この奴隷制時代(1619~1865年)は日本で言えばほぼ江戸時代(1600~1867年)にかぶっています。
 400万人という「奴隷労働力」を失った南部諸州は経済的に混乱します。そこでどうしたかというと、奴隷労働力の代わりとして、今度は解放された黒人たちを「徘徊」とか「放浪」とかの微罪でどんどん摘発し犯罪者として拘束したのです。そして彼らを奴隷に替わる「囚人労働力」として動員し、鉄道や道路などの、アメリカ近代化のインフラ整備に当たらせることにしたのでした。
 合衆国憲法修正第13条は、奴隷は認めませんでしたが、犯罪者に関しては基本的人権を制限して奴隷と同じように強制労働につかせることを禁止してはいませんでした──この時から、「白人警官」が黒人たちを過剰な警察力で取り締まる社会構造が構築されるようになりました。黒人たちは「奴隷」から、今度は「犯罪者」という危険な「野獣」のイメージを付与されます。20世紀に入ってからも、麻薬の蔓延が問題化したときには白人たちが多用する高価なコカインではなく、黒人層が手に入れやすい安価なクラックが多く摘発対象になったことからもこれは裏打ちされています。同時に、1876年から1964年にかけては「ジム・クロウ法」という公然の人種隔離・差別法が存在しました。「黒人の血が一滴でも混じっていれば黒人」という「One Drop Rule(一滴規則)」を基に、白人用の公共施設・機関の利用が制限されたり白人との結婚を禁止されたりしました。
 奴隷解放から150年経った現在も、人種差別と偏見が横行するのはそういう構造と文化が根絶されていないからです。根絶されるどころか、それらの差別はついに「刑務所産業複合体」という一大ビジネスとして社会システムの中に新たに組み込まれてしまっているのです。
 ちなみに「Racism」は「Race(人種)」主義という意味です。一般にわかりやすく「人種差別」と訳されますが、すべてを「人種」を重要な要素として考える偏見の態度のことです。人種など、単なる人間の外見上の「見え方」の差異以外にはほぼ何の意味もないことなのに。
 さてそこで重要になるのが、この「人種主義」が、個人の差別的・侮蔑的な言説や行動に発展するのとは次元を異にして、社会構造・機構そのものが人種主義的で差別的である、あるいは社会体制そのものが差別を行っている、という認識です。
 これは60年代後半から「Institutional Racism(構造的人種差別)」と呼ばれるようになりました。最近はまた、より直截的に「Systemic Racism(社会体制自体の人種差別)」とも言います。
Systemic(システミック)」というのは、日本語でも聞き慣れた「システマティック systematic」という形容詞とはちょっと違います。「システマティックな人種差別」というと、それは「なんかやっているうちに色々と体系的に組み合わさって、どうしても結果としてそれが人種差別になってしまう」という意味です。一方で「システミックな人種差別」というのは、「システムそれ自体が、つまり制度や組織や社会体制それ自体が直接、差別を行っている」という意味です。
 白人主体の警察機構そのものが、あるいは白人優位の社会機構それ自体が差別的なのだ、というのがいま現在の認識なのです。これが「システミック・レイシズム」。だから今回の問題の発端となったミネアポリス市警などの警察システム自体を、「解体する」とか「予算停止する(defund)」ということが言われているのです。

デトロイト暴動とストーンウォール暴動


 さてこうした歴史を踏まえた上で思い出してください。黒人の公民権運動や人種差別抗議でいつも語られるのがまずは黒人女性ローザ・パークスが公営バス内で黒人席への移動を断ったことに端を発する1955年のアラバマ州「モンゴメリー・バス・ボイコット」事件です(連載第11回「『私』から『公』へのカム・アウト」参照)。さらに1967年のデトロイト暴動、1968年のマーティン・ルーサー・キング牧師暗殺事件とその暴動が続くことになります。
 当時のJ・F・ケネディ政権が着手し、そしてケネディ暗殺後のジョンソン政権が尽力した「公民権法」が1964年に成立しました。職場差別、公共施設・機関の利用差別、選挙差別、教育差別を禁じる包括的な人権法でした。けれどデトロイトでは暴動が起きた。
 『ハート・ロッカー』(2009年)でオスカーの作品賞、監督賞など6部門を制した監督キャスリン・ビグローが、『デトロイト』(2017年)でその詳細を再現しています。
 1967723日の日曜の夜、ベトナム戦争から帰還した友人の兵士たちを祝って、デトロイトのクラブ階上で黒人たちがパーティーを開いていました。そこに、酒類法違反の無許可クラブ摘発のデトロイト市警が急襲します。パーティー参加者を根こそぎ逮捕して裏口から護送車に乗せる手はずだったのですが、裏口の鍵が開かずにやむなく表通りから連行することになりました。それが周囲の黒人コミュニティの目撃するところとなります。それはやがて大暴動に発展してゆくのです。
 まるでその2年後の、1969628日のあの「ストーンウォールの暴動」を彷彿とさせる冒頭シーンです。というより、そっくりです──コミュニティに対する警察のルーティーンとなった摘発と嫌がらせ、抑圧される者たちの怒りの発火……。
 5日間に及んだデトロイト暴動を鎮圧するため、ミシガン州は陸軍州兵を投入しました。結果、43人が死亡し、1200人が負傷することになりました。
 それ以降もアメリカではたびたび黒人暴動につながる黒人差別・暴力事件が起きます。1980年にはフロリダ州マイアミで、無抵抗の黒人を殴打した白人警官が無罪になって「マイアミ暴動」が起きました。19913月にはロサンゼルス市警の白人警官ら4人が黒人男性ロドニー・キングに殴る蹴るの激しい暴行を加え、その一部始終が近隣住民のビデオカメラで撮影されて全米で報道されました。そして1年後の1992429日、この4人にまたもや無罪評決が下って6日間にわたる「ロサンゼルス暴動」が起きました。ロサンゼルスの韓国人街も巻き込んだこの暴動で、死者は63人、負傷者は2400人、逮捕者は12000人を数えました。
 でも、そのいずれでもこの抗議と暴動の主体はだいたいが黒人たちでした。それはほとんど当事者たちのみの抗議運動だった──ちょうど「ストーンウォール」から始まったLGBTQ+の人権運動が、当初はLGBTQ+の当事者たちの運動以外にあまり広がりを見せなかったように。
 LGBTQ+コミュニティは80年代から90年代にかけてのエイズ禍で支援の裾野を徐々に広げてはいました。黒人差別への抗議も、同じようには白人コミュニティにも理解を広めてはいたのですが、なにせ両者とも、相手は社会システムとしての差別だったのです。

「ミレニアル世代」から「Z世代」へ


 そこに、新しい世代が白人コミュニティにも生まれてきます。90年前後にはまだ子供だった、けれどそうした黒人差別の現実をビデオ映像や自分の身近な出来事として目の当たりにしてきた若い世代、さらにロック・ハドソンのエイズ死(1985年)以降の、LGBTQ+コミュニティの社会的包摂の開始を身を以て体験してきた若い世代です。彼らは1970年代から80年代初めの生まれですから、ヒッピー世代の子供たちという位置付けでしょうか。いわゆる「ミレニアル世代」「ジェネレイションY」に属する人たちです。
 19967年でしたか、ニューヨークのチェルシー地区に「G loungeGラウンジ)」というゲイバーが開店したときのことを憶えています。それまでのゲイバーやゲイクラブは「ストーンウォール・イン」がそうだったようにだいたいは分厚いドアに塞がれて店内の様子はあまり窺い知れませんでした。店に入っても薄暗いし、誰が誰かもわからない。ところがその「G」は通りに面した部分が一面ガラス張りのテラス窓のような引き戸になっていて、明るい店内がすっかり見通せるような作りでした。つまりそれは、誰もゲイであることを隠さないということでした。いやゲイだけでなくレズビアンも、ストレートの男女も、性的指向にかかわらずその店に訪れていました。ゲイバーに行くことは(というか「G」に行くことは、少なくともニューヨークの若者の間では)ヒップなことになったのです。
 同時に、「G」での人種構成もまたそれまでのものとは違っていました。黒人たちのゲイバーは、白人のゲイバーとは違って存在していました。アジア系のゲイバーもまた別にありました。レズビアンご用達のバーやレストランもありました。けれど「G」には黒人もヒスパニックもアジア系もレズビアンたちもトランスジェンダーもドラァグクイーンたちも集まっていました。まあ、ハンサムでゴージャスでカッコ良い若者たちが主ではありましたが。そういえば「メトロセクシュアル Metrosexual」なんていう言葉が生まれたのもこの頃でしたっけ。
 なんだか時代の空気が一気に変わったように気がしていました。アメリカはクリントン政権になっていて、LGBTQ+には禁止されていた軍への入隊を「Don’t Ask, Don’t Tell(訊かない、言わない)」ならば容認するという、極めて欺瞞的な政策変更がなされていました。
 欺瞞的とはいえ、しかし「同性愛」のことがアメリカ政治の中心、メディアの中心で日々語られていたのです。
 1997年、自分と同じ『エレン Ellen』という主人公名をタイトルにした人気TVコメディの主役エレン・デジェネレス Ellen DeGeneres が「タイム」誌でレズビアンとしてカムアウトし、430日の番組回それ自体でも、主人公「エレン・モーガン」が同じくカミングアウトをするという“事件が起きました。そのエピソード「the Puppy Episode」(「青春物語」とでも訳しましょうか)の回で、「エレン」が相手役のローラ・ダーン Laura Dern に向けて「I’m gay!」と明るく声を発した時、異例の全米4200万人視聴者が一斉に「Ohhhh!」と快哉を挙げたようでした。少なくとも私の周りのゲイやレズビアンの友人たちは叫んだり飛び上がったり拍手をしたり、中には抱き合って泣き出す人もいたほどです。米国TV史上初めて、主人公が自分から堂々と、けれど大げさにではなく「ゲイだよ」とカミングアウトした瞬間でした。
  それから15年ほどが経って、その時に20代だった世代がアメリカ社会の中心的な構成員となる40歳近くになった2013年に、世論調査では「自分の周囲の親しい友人や家族、親戚にLGBTの人がいる」と答える人が初めて過半数の57%となり、しかも同性婚を支持する人が55%という状況になって(ともにCNN調べ)、その2年後の2015年にアメリカは同性婚を合法化するのです。

BLM運動を始めたクイア・フェミニストたち


 それと同じような包摂と融合の流れが黒人コミュニティを取り巻く社会にも現れていたのは当然のことでしょう。
 トレイヴォン・マーティンの射殺事件で2013年から湧き上がった「ブラック・ライヴズ・マター」運動は、1983年生まれのパトリース・カラーズ Patrisse Cullors81年生まれのアリシア・ガルザ Alicia Garza84年生まれのオパール・トメティ Opal Tometi といった、「ブラック・フェミニスト」と自認するアフリカ系女性3人の呼びかけによって始まりました。彼女たちもまた「ミレニアル世代」の若者たちです。
 なおかつ、カラーズとガルザの2人は自分を「クイア」であると表明していて、クイア活動家でもあります。パトリースは2016年にジェンダー・ノンコンフォーミング(既成の性別に当てはまらない)でクイアと自認するジャネイヤ・カーン Janaya Khan と結婚しています。アリシアは2008年にトランス男性のマラカイ・ガルザ Malachi Garza と結婚してガルザ姓を名乗っています。 
 それまで、黒人差別への抗議運動はジェンダーの不平等や性的不自由には目を向けず、むしろそれらに敵対するかのように人種的不平等にのみ焦点を当てていました。そこには家族の絆を重んじ、敬虔なキリスト教会を中核とするアフリカ系アメリカ人コミュニティの文化背景があったのでしょう。伝統的な黒人運動は歴史的に、疑問の余地なく「同性愛」やオープンリー・ゲイの活動家、トランスジェンダーの活動家たちを沈黙させ忌避してもきたのです。一方のLGBTQ+解放運動ですら、当初から(プエルトリカン・アメリカンの)シルヴィア・リヴェラ Sylvia Livera や(アフリカン・アメリカンの)マーシャ・P・ジョンソン Marsha P. Johnson といったトランス女性たちに多くを負っていたのに、彼女たちを正当に評価・顕彰したのは20世紀も終わるという頃になってからでした。

 黒人でレズビアンでフェミニストだったオードリー・ロード Audre Lorde 1960年代の政治状況を次のように語っています──

The existence of Black lesbian and gay people were not even allowed to cross the public consciousness of Black America.
黒人のレズビアンやゲイの人間たちの存在は、アメリカの黒人コミュニティの人々の意識をよぎることさえ許されていなかった。


 カミングアウトをして自由で公的な政治参加を求める黒人のゲイやレズビアンにとって、1960年代は「生きる指針を与えてくれる時代ではなく、新たな手枷足枷の時代だったと。

 BLM運動は違いました。黒人フェミニストを名乗るミレニアル世代のアフリカ系女性3人が始めた運動は、恥じるところなきウーマニズム womanism(フェミニズム運動が主に白人の女性によって担われ、性差別だけを問題としたのに対し、黒人の女性が中心になって性差別、階級差別、人種差別を併せ持った問題としてフェミニズムを捉え直そうという考え)とクイアネスによって下支えされた運動なのです。
 そういえば2008年から2016年のオバマ政権時代を経て、オキュパイ運動などの様々なアメリカの政治運動でしばしばレインボー・フラッグを見かけるようになりました。「オキュパイ・ウォール・ストリート」運動では、2か月にわたって“占拠”されたダウンタウンのズコッティ公園に、週末になると市内アップタウンから通ってくる高校生の男女グループにも会いました。その中の1人は髪の毛をレインボーに染めて晴れ晴れと笑っていました。
 トランプ政権発足後(2017年~)にはトランプが何か問題を起こすたびにマンハッタン五番街のトランプタワーの前には若者たちの抗議デモが繰り出されるようになりましたが、そこにも必ずレインボー・フラッグが振られていました。集まったその抗議者たちの、人種構成、年齢構成の多種多様なことと言ったら! 中学生など10代の子たちも少なくないのです。
 いま思えば、彼ら彼女らが、ミレニアル世代よりももう1世代若い「ジェネレイションZZ世代」(1990年代後半から2000年代初めに生まれた世代)の若者たちの始まりだったんですね。そしてそのZ世代がいま、全米各地で、ジョージ・フロイド殺害のことを我が事として憤っている。
 彼ら彼女らは白人でありアフリカン・アメリカンでありラティーノでありラティーナでありアジアンであり、そしてゲイでもレズビアンでもクイアでもストレートでもトランスでもノンバイナリーでもあります。
 私の友人の娘であるアリッサは日本人の母親とアメリカ人の父親の間に生まれ、いまは大学に通う21歳です。彼女もまた高校生のころから6月末の最終日曜にマンハッタン五番街を歩くLGBTプライド・マーチに、あるときはエイズ支援団体のフロートとともに、あるときは銃規制の若者グループを作って参加していました。彼女は「たぶん(と自分で言っていました)ストレート」の女の子ですが、彼女にとってはゲイもビアンもトランスも同じように友人であり、黒人であったりラテン系であったり白人だったりすることはその個人のあり方に比べればそう大きなことではありません。ニューヨークで生まれ育った、その環境のせいもあるでしょう。とはいえ、これもまたニューヨークという土地柄のおかげでもあるでしょうが、人種的マイノリティ(彼女自身もそうです)や性的マイノリティの抱える不平等と不自由には敏感です。というか、それが生理的に体得されているだけでなく、頭の中で言葉としても整理されている。そういう教育を受けているのです。

キーワードは「インターセクショナリティ」


 そんな世代がジョージ・フロイド殺害での抗議行動を、すでに5週目というかつてない息の長さに拡張しています。今回は今までの黒人差別反対運動と確実に違う何かが動いています。直線的な運動ではない。複雑に交差した様々な差別の問題、不平等の問題が、様々な方向から尽きることない燃料をこの運動にくべ足しているのです。
 1967年のデトロイト暴動の時、マーティン・ルーサー・キングはあくまでも非暴力の抵抗を市民的不服従にまで発展させる路線を支持しながらも「A riot is the language of the unheard.(暴動とは、声を聞いてもらえぬ者たちの言葉である)」という理解を示しました。黒人でゲイだった作家ジェイムズ・ボールドウィン1968年の「エスクワイア」誌インタビューで、商店からテレビを略奪する者は「He doesn’t want it. He wants to let you know he’s there.(べつにそのテレビが欲しいわけじゃない。自分がここにいるということを見せつけたいだけだ)」と話しました。
 それから50余年、「私はここにいる」ということを、声を奪われていた様々な人たちがそれぞれに話し出しています。それは「主語を取り戻す運動」(連載第12回「アイデンティティの政治」参照)です。その「主語」「主体」も、様々に語り始められることでより精密に細分化されてきました。例えば、黒人男性であることと、黒人女性であることの抑圧の質は違います。さらにそこにゲイやレズビアンやトランスジェンダーの違いもかぶさってくるし、年齢や教育や階級による差別も違ってきます。さらには宗教や民族や文化の違い、つまりは国家の違いもあります。障害の有無や種類によってもまた違ってくる。
 1人の人間の中で様々なアイデンティティの位相が複雑に交差し合って、その個々人に対する独特の抑圧が生じてきます。これをインターセクショナリティ Intersectionality (交差性)」という概念で表します。

 その中から614日(日)には、ニューヨーク・ブルックリン博物館前に異例の多さの15千人という人々が集まって「Black Trans Lives Matter(「黒人トランスジェンダーの命だって大切だ)」集会が行われました。なにせ、その前週にはまた二人のトランスジェンダー女性が殺害されて、全米のトランス・コミュニティは14人目の犠牲者を出しているのです。これは昨年全体の26人の犠牲者を上回る頻度です。この詳細は、日本語では鈴木みのりさんが「Black Trans Lives Matter特集をはじめるにあたって」というテキストを書いています。

 私たちは今、インターセクショナルな差別の構造を理解しながら、つまりは互いに違っていることを理解しながら、その交差する差別のポイントを渡り歩くことで他の差別と交感していきます。Z世代がそれぞれに異なることを基盤としながらも一つの方向で団結して戦えるのはそのせいかもしれません。それが現在のBLM運動の新しい力だと思います。
 
 そんなことを言っているうちに、またまたやってくれました。AFP624日付のNY発で次のような記事を配信しています。

トランプ氏集会を偽予約で妨害 Kポップファンの政治意識に注目

 社会意識の高いアメリカのKポップファンたちが(つまりはこれもZ世代の若者たちが主体です)、BLM運動から反トランプ運動に横滑りしたのです。
 彼ら彼女らは620日にオクラホマ州で行われたトランプの選挙集会をニセのオンライン参加予約でいっぱいにし、結局は集会に来なかったことで会場をガラガラにさせることに成功した、というのです。

インディアナ大学のKポップ研究者、セダーボー・サエジ氏はAFPに「Kポップには自分に責任を持とうというカルチャーがある」と語った。「Kポップファンは全般的に外向的で、社会的意識が高い。とりわけ米国では有色人種やLGBTQ(性的少数者)を自認する人々の間で、Kポップは圧倒的に支持されている」という。


  同じKポップ・ファンでも日本ではあまりそういう動きがないので、これはアメリカ人のZ世代に特徴的な動きなのだと思います。それでもKポップの聖地である東京・新大久保では2010年代になって「在特会」なる差別主義者たちが反韓デモや「お散歩」と称する暴力行為を繰り返した際、「Kポペン」と呼ばれるKポップファンの女の子たちが最初にSNS上で「わたしたちの楽しい遊び場に来ないで!」と声をあげたそうです。このKポペンの勇気に触発され、大人たちがカウンター行動を開始した経緯もあります。
 Kポップファン、反レイシズム、LGBT運動の親和性は、アメリカほど大規模ではないけれど、日本でも自然の流れとして2013年ごろから存在しているのでしょう。「アメリカの音楽だけが音楽」だったアメリカ人でさえ、この世代は国や文化の壁などやすやすと乗り越えてアジアの音楽にもすぐに交感することができる。これもまた「差別」を通じたインターセクショナリティの効用なのだと思います。

(続く)

「目次」はこちら

シェア

Share

著者

北丸 雄二

ジャーナリスト、コラムニスト、作家、翻訳家。元々は毎日新聞から東京新聞(中日新聞東京本社)に転社した社会部畑の新聞社記者で、クリントンが大統領に就任した1993年にニューヨーク支局長に着任。3年半後の96年夏に帰任を命じられたのを機に退社し、独立。その後もニューヨーク在住のまま、大統領がG.W.ブッシュ~オバマ~トランプと変わった2017年まで、計24年間、現地で9.11テロや選挙ルポなど米国政治・社会・文化、日米及び国際関係の分野でジャーナリズム活動を続ける。18年、実母の老齢化のために拠点を日本に移し、現在は主にトランプ・ウォッチャーとしてTBSラジオやFM TOKYO、大阪MBS及びネットTVなどで米国関連ニュースを解説。一方で、英米文学、ブロードウェイ・ミュージカルや戯曲の翻訳も多く、「世界」「現代思想」「ユリイカ」などで国際情勢から映画、音楽、文芸まで各種評論も行っている。 LGBTQ+関連では90年に米国ゲイ文学の金字塔と言われる『ザ・フロント・ランナー』を翻訳刊行したのを機に、新聞業務と並行するライフワークとしてエイズ問題や刻々と拡大する人権状況を取材執筆開始。ニューヨークでは日本人コミュニティ向けにHIV/AIDSの電話相談の開設・運営にも尽力する一方、97年から、日本のゲイ月刊誌『Badi』に米国を中心としたゲイ関連ニュースコラムを連載。同年6月に青土社から刊行の『ゲイ・スタディーズ』(キース・ヴィンセント他著)でも全面的な監修を担当し、ほかにLGBTQ+関連のニュースを報じるプロフェッショナルが誰もいなかった当時、「AERA」で「日本に向けて性的マイノリティに関する正しい情報を発信するゲイのジャーナリスト」という紹介記事も掲載された。現在、十年来の同性パートナーと5歳の黒猫とともに東京に暮らす。Twitterは@quitamarco。 

矢印