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LGBTで考える人生の練習問題 北丸雄二

第7回

ロック・ハドソンという爆弾

2019.03.13更新

読了時間

メディアで「LGBT」を見聞きする機会が増えています。昨今の多様な生き方を尊重する世界的な流れに乗じて、日本における「LGBT」への理解も少しずつ進んでいるかのようです。しかし、本当にそうなのでしょうか。この連載は、元東京新聞ニューヨーク支局長でジャーナリストの北丸雄二さんによる、「LGBT」のお話です。24年間のニューヨーク生活から見えてきた視点で「LGBT」ブームへの違和感について読み解いていきます。東京レインボープライドとの連動企画です。
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 「ゲイ」、今で言う「LGBTQ+」の話題なんぞ、‟普通”に暮らしている人々にとっては何の関係もないものでした。今から28年前の1991年に、日本でも初の画期的なゲイ差別損害賠償訴訟「府中青年の家事件」裁判が始まったのですが、それも社会的少数者には関係があっても社会的多数者たちにとってはほとんど興味のないものでした(同性愛者たちが、期待に反してそこらの一般人と変わらない風体で記者会見した、という光景以外には)。今から50年前、1969年6月28日の夜からニューヨークのダウンタウンでゲイたち数百人、数千人が三日三晩にわたってストーンウォールの‟解放区”を作った時も、そこからちょっと離れたウォール街やミッドタウンではまるで何もなかったかのように普段の生活が続いていました。世界の性的少数者人権運動史上燦然と輝くこの事件ですら、アメリカ国内であっても(日本ではなおのこと)今でも知らない人は多い。人は、自分に関係のあるものにしか興味を持ちません。「関心」とはそういう言葉です。

オールアメリカン・ボーイの憂鬱

 けれど1985年のアメリカに、一般人が「ゲイ」のことに急に関心を持たざるを得ない事件が起きました。俳優ロック・ハドソンが、10月2日の朝の9時ごろエイズ関連の合併症でビヴァリーヒルズの自宅で亡くなった、というニュースが世界を駆け巡ったのです。59歳でした。

 彼はエイズで死亡した世界的有名人の初めての例となりました。身長196cm、黒い髪に優しげな目、ロマンティックな低い声──彼は、最もエイズから遠い(すなわちゲイとは無縁の)「オールアメリカン・ボーイ(All-American boy=全てのアメリカ人を代表するような男性)」という称号をほしいままにしていた人物だった(と一般には思われていた)のです。日本の芸能界なら誰に相当するかと考えれば、そうですね、女性にも男性にも大人気の国民的青春スターだった石原裕次郎とか加山雄三とか、そのあたりでしょうか。いまは「大スター」ってのはいないもんなあ。

 ですから、病状や所在など様々な噂の渦巻く中で、ロック・ハドソンのエージェントがとうとう「エイズを発症している」と認めたその年の7月25日(死の69日前です)以降、彼の病気は「男性同性愛者以外でもエイズになる」という社会的喚起・啓発の文脈でも語られたほどでした。当時のピープル誌がハドソンの叔母リーラのコメントを引用しています。

「彼がそう(ゲイ)だとは私たちは誰も一度も思ったことはありません。いつもなんともいい人(such a good person)だった。それだけです」

 けれど彼はゲイでした。

 タイム誌はこう書きました。「先週、ハドソンがパリの病院でエイズによる重篤な病状で横たわっているとき、このオールアメリカン・ボーイは、長年にわたりすっと公にしてこなかった秘密を抱えていたということが明らかになった:彼はほぼ確実にホモセクシュアルだったのである(he was almost certainly homosexual)」

 なんともホモフォビック(同性愛嫌悪的)でスキャンダラスな書き方です。確かに1985年というのはアメリカでエイズ禍が拡大(全米死者数はその年12,529人を数えました)し、その‟元凶”としてゲイ・コミュニティが槍玉に挙げられ、それゆえに宗教保守派に支持基盤を持つ当時の共和党大統領ロナルド・レーガンはエイズを政治課題としては全く取り上げないままでいた、そんなホモフォビックな年でした。エイズ活動家たちの常套句は「だれか白人で金持ちのヘテロセクシュアルがエイズになるまでマスメディアも政治家もエイズのことに振り向きもしない」というものでした。そこに白人で、裕福で、屈強な‟ヘテロセクシュアル”のシンボルだったハリウッドスターがエイズに襲われたのです。しかも彼は(やはりハリウッドの俳優だった)レーガンの長年の友人で、保守的なバリバリの共和党支持者でした。彼の真実が露呈したことの衝撃は凄まじいものでした。

 サンフランシスコ・クロニクル紙のジャーナリストだったランディ・シルツが1987年、エイズ禍拡大の真っ只中で大部の労作『And the Band Played On : Politics, People, and the AIDS Epidemic』(邦訳『そしてエイズは蔓延した』1991年、草思社)を刊行しました。その本の最初の5年間のエイズ史の書き出しは「1985年10月2日、ロック・ハドソンが死んだ朝に、(エイズという)その単語は、西側世界のほとんど全ての家庭で普通に知られる言葉となっていた」でした。

「ゲイ」の変身、「女」たちの献身

 彼の死がアメリカの「世間」に与えた衝撃は2種類です。1つは、自分の知っている人物がエイズで死ぬという衝撃です(それまでの死者はすべてほとんど「他人」でした)。もう1つはそれに関連して、あんなに男らしいロック・ハドソンがゲイだとすれば、ほかの誰がゲイではないと言い切れるだろう、という、反語の形の衝撃でした。

 「ゲイ」は自分たちとは関係のない、どこか闇の世界の住人でした。「性のバケモノ」という話は序章で説明した通りです。そうした、これまで揺るぐことのなかったゲイに対する自分の認識が、ひょっとしたら間違っているのかもしれないという初めての疑義が世間の人たちの心によぎった……それはまさにこのロック・ハドソンの、スキャンダラスな報道に汚され、衰弱した姿を写真で晒され尊厳も奪われた非業の死がもたらした、衝撃の余波でした。

 ──私たちの周りには、私たちが気づかなかっただけで、ゲイやレズビアンであることをひた隠しにしている友達や家族や同僚がいるのではないか? 私たちは気づかぬうちに、そんな友人知人たちにひどい言葉を聞かせていたのではなかったか? 私たちは彼ら/彼女らに対して、取り返しのつかないことをしてきたのではなかったか?──私のことをいつも優しく大切に思ってくれていたあの人は、ひょっとしたらゲイだったのでは/レズビアンだったのではないのか?

 この時、エイズをめぐる潮目が変わります。同時に、ゲイに関する見方も変わり始めるのです。それらは不意に「自分に関係のあるもの」へと変貌する。

 もちろん依然として、「ロック・ハドソンも、うまく隠していたが結局は変態性欲の異常者だったのだ」という昔ながらの言説の引力は大きなものでした。それは主に保守的な男性層からの反応でした。けれど(これはどうもジェンダーロールのステレオタイプを語るようで難しいのですが、敢えて記せば)主に女性層の中から、ゲイ男性に対するこの‟ひどい仕打ち”に関して、そうであってはならないという反発が生まれたように思います。ロック・ハドソンにとってのその筆頭は、彼と何度も共演し、アメリカのスイートハート(恋人)と呼ばれた女優で歌手のドリス・デイや、誰もが認める大女優エリザベス・テイラーでした(日本で言えば八千草薫とか吉永小百合、岩下志麻……やめましょうねw)。

 彼女たちはハドソンについて発言し、エイズについて(つまり間接的にゲイについて)語りました。エリザベス・テイラーが米国エイズ研究財団(AmfAR=American Foundation for AIDS Research)の創設メンバーとなり(1985年)、自らの名を冠した「エリザベス・テイラー・エイズ基金」を創った(1993年)のも、ハドソンの感染と死がきっかけでした。フェミニズムの台頭で70年代に袂を分かつことの多くなっていたゲイ・コミュニティとレズビアン・コミュニティが、多くレズビアン女性たちの方から再び歩み寄り始めたのもエイズ禍が契機の1つだったように思います。同様に、ハドソンの死の時期を境目に急激に増え始めたゲイ男性やエイズをめぐる数々の小説や映画やTVドラマ(NHKでも放送されたNBC製作の『An Early Frost(早霜)』は1985年11月の放送でした)でも、多くゲイ男性の女友達や母親、祖母、姉妹などの女性たちが理解と和解の橋渡し役を担うパターンが定着していきました。

「政治的正しさ」と「綺麗事」と

 忘れてならないことがあります。「ゲイ男性に対するこの‟ひどい仕打ち”に関して、そうであってはならないという」言説が多く女性たちの中に生まれてきたのが、80年代の「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ=PC)」の風潮を土台にしていたということです。

 このPCという用語は初めは70年代にかけての学生運動の新左翼やフェミニストたちが、内輪のジョークのように使っていたものでした。仲間内で性差別あるいは人種差別的な物言いがあった時に、彼ら/彼女らは文化大革命の政治委員や近衛兵のような言い回しで「同志よ、それはあまりポリティカリー・コレクトではない!(Not very ‘politically correct’, Comrade!)」と言っていたそうです)。

 けれど性差別、人種差別の問題は70年代を通して肥大する一方でした。そこにエイズ差別(を通したゲイ差別)が被さってきます。PCはその時、揶揄やジョークではない、命に関わる切実な運動になっていきます。そしてその切実さと重要性をすでに知っていたのが、マチズモ(男性優位主義)の横行するアメリカ社会の真っ只中にいた女性たちだったわけです(もちろんそうじゃない女性たちも多かったですが)。

 80年代のアメリカで9年にわたって大ヒットした大富豪一家の愛憎劇TVドラマ『ダイナスティ』で、ロック・ハドソンが主人公一家の妻クリスティにキスをする場面がありました。84年のシーズンでした。そして翌85年、ハドソンのエイズ感染が公のものになる──その際、ハドソンのキスがクリスティ役の女優リンダ・エヴァンスにHIVを感染させたかもしれないという疑問が持ち上がりました(もちろんキスなんかでHIVは感染しないということは今ではわかっています)。TVホストにそう質問されたエヴァンスは毅然として返します。「私は病気ではないし、私は何も恐れていません。いったいどこからそんな話が出てきたんですか?」

 この時のことを後に彼女は回顧録(『Recipes for Life: My Memories』2016年、日本未刊行)で記しています。要約すれば──

情熱的なキスの代わりに、ロックはさっと唇を掠るようなキスしかしてこなかった。そしてすぐに体を引いてしまう。何度やってもそうだった。業を煮やした監督が私の方から情熱的なキスをしてと言ったが、私はそれは「クリスティ」の役柄にそぐわないと言って断った。翌週に再撮影したときもロックのキスは同じだった。やがてロックのエイズが明らかになった。彼がどうしてキスをしてこなかったのか、私はその時そのわけを知った──「思えばあのとき」とエヴァンスは書いています。「彼は懸命に私を守ろうとしていてくれたんだと思う。それを思うと感動で心が震える」と。

 彼女のこの言葉を綺麗事だと吐き捨てることは私にはできません。その時に「きゃー、怖い!」と喚かない矜持。そのプライドを「綺麗事」と言い換えるのは、ポリティカリー・コレクトを矮小化するトリックです。PCとは、80年代の米国で立ち上がりつつあった社会的弱者たちの言挙げを支える、切実で真剣な言説運動でした。たとえその後、それが「言葉狩り」の皮相へと流れたとしても。

 日本は、これまで一度たりとも人種(民族・出自)差別や性差別、エイズ(ゲイ)差別を、社会運動的に片を付けようとしたことはありません。ですから日本社会で、ポリティカル・コレクトネスが力を持った例しは実はないのです。それがあったら、「セクハラ罪という罪はない」とか「女性は産む機械」だとか少子高齢化は年寄りより「子どもを産まなかった方が問題」だとか、こうものべつまくなしにトンデモ発言が出てくるはずがありません。

 なのに現在、浸透すらしていないそのPCの持つ力の「強さ」の予感が、「ポリコレ棒」という呼び名で先取り的に非難される倒錯が蔓延しています。「ポリコレ棒」は先制攻撃の武器ではなく、単に平等を得るための自衛の道具に過ぎないのに、その史実すらもが蔑ろにされる修正が続いています。そんな改竄の流通自体が、PCの不在の証明であるのに。

 反PC言説の撒き散らしとは、社会的弱者の権利より、まずは社会的強者の既得権を1ミリたりとも侵害させないがための予防措置に他なりません。

大義名分としての「エイズ」

 ワシントン・タイムズの保守派編集長ウェスリー・プルーデンは当時、ロック・ハドソンのエイズにかこつけて「いまやエイズは、戦闘的ホモセクシュアルたちにとっては有名人の病に格上げされた」と皮肉たっぷりに書き記しました。これでまた喧しく騒ぎ立てるのだろう、という揶揄です。

 彼の予想どおり、ゲイ・コミュニティは社会の危機としてのエイズ対策を大義名分として「戦闘」していきます。「ゲイ」という個人的事情はカミングアウトに逡巡するのですが、「エイズ」のカミングアウトは政治対応を訴え社会危機を防ぎ対策予算を得るための奨励されるべき立派な行いになったのです。かくして人々はエイズのカミングアウトを通して、あるいはエイズ患者感染者支援活動への参加や関与や関心を通して、ゲイであることも間接的あるいは直接的に公にするようになってきました。

 ロック・ハドソンの悲劇が異性愛社会にもたらした啓示──「私たちの周りには、私たちが気づかなかっただけで、ゲイやレズビアンであることをひた隠しにしている友達や家族や同僚がいたのではないか? 私たちは気づかぬうちに、そんな友人知人たちにひどい言葉を聞かせていたのではなかったか? 私たちは彼ら/彼女らに対して、取り返しのつかないことをしてきたのではないか?」という気づきの予感は、かくして時間をかけながらも確実に実感に変わっていきます。大統領のレーガンは友人だったはずのハドソンの死から2年後に、やっとエイズ対策を政治課題として演説の中に組み込みます。それはエイズ患者たちも(そしてゲイたちもまた)人間なのだという、政治的な宣言の第一歩になった──ロック・ハドソンの死は、世間を覚醒させる爆弾として機能したのです。

続く。次回は3月27日(水)更新予定

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著者

北丸 雄二

ジャーナリスト、コラムニスト、作家、翻訳家。元々は毎日新聞から東京新聞(中日新聞東京本社)に転社した社会部畑の新聞社記者で、クリントンが大統領に就任した1993年にニューヨーク支局長に着任。3年半後の96年夏に帰任を命じられたのを機に退社し、独立。その後もニューヨーク在住のまま、大統領がG.W.ブッシュ~オバマ~トランプと変わった2017年まで、計24年間、現地で9.11テロや選挙ルポなど米国政治・社会・文化、日米及び国際関係の分野でジャーナリズム活動を続ける。18年、実母の老齢化のために拠点を日本に移し、現在は主にトランプ・ウォッチャーとしてTBSラジオやFM TOKYO、大阪MBS及びネットTVなどで米国関連ニュースを解説。一方で、英米文学、ブロードウェイ・ミュージカルや戯曲の翻訳も多く、「世界」「現代思想」「ユリイカ」などで国際情勢から映画、音楽、文芸まで各種評論も行っている。 LGBTQ+関連では90年に米国ゲイ文学の金字塔と言われる『ザ・フロント・ランナー』を翻訳刊行したのを機に、新聞業務と並行するライフワークとしてエイズ問題や刻々と拡大する人権状況を取材執筆開始。ニューヨークでは日本人コミュニティ向けにHIV/AIDSの電話相談の開設・運営にも尽力する一方、97年から、日本のゲイ月刊誌『Badi』に米国を中心としたゲイ関連ニュースコラムを連載。同年6月に青土社から刊行の『ゲイ・スタディーズ』(キース・ヴィンセント他著)でも全面的な監修を担当し、ほかにLGBTQ+関連のニュースを報じるプロフェッショナルが誰もいなかった当時、「AERA」で「日本に向けて性的マイノリティに関する正しい情報を発信するゲイのジャーナリスト」という紹介記事も掲載された。現在、十年来の同性パートナーと5歳の黒猫とともに東京に暮らす。Twitterは@quitamarco。 

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