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LGBTで考える人生の練習問題 北丸雄二

第8回

エイズ禍からの反撃

2019.03.28更新

読了時間

メディアで「LGBT」を見聞きする機会が増えています。昨今の多様な生き方を尊重する世界的な流れに乗じて、日本における「LGBT」への理解も少しずつ進んでいるかのようです。しかし、本当にそうなのでしょうか。この連載は、元東京新聞ニューヨーク支局長でジャーナリストの北丸雄二さんによる、「LGBT」のお話です。24年間のニューヨーク生活から見えてきた視点で「LGBT」ブームへの違和感について読み解いていきます。東京レインボープライドとの連動企画です。
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 ロック・ハドソンの死が世間を覚醒させる爆弾だったとしても、エイズ禍が終わったわけではありませんでした。1985年末までに、世界の全ての地域でエイズの発症例が報告されました。発症者は世界全体で2万人を超えました。
 「レッドリボン」がエイズ啓発の国際的なシンボルとなった1991年には、バスケットボール界のスター、マジック・ジョンソンが自らHIV陽性であることを発表しました。このことは「エイズはゲイ(だけ)の病気」というイメージを払拭する一助としましたが、それから間もなくクイーンフレディ・マーキュリーのエイズ発症も明らかになり、翌日11月24日、そのニュースは彼の訃報に変わりました。92年にはプロの花形テニス選手だったアーサー・アッシュが9年前の心臓手術の輸血からエイズにかかったことを発表し、彼も翌年2月にエイズ関連の肺炎で死去します。
 アッシュの亡くなった2週間ほど後に私は東京新聞ニューヨーク支局に赴任しました。

 報道メディアのニューヨーク支局の業務は主に国連本部やウォール街の動向、そしてアメリカ全土の事件・事故や社会事象のカバーです。余力があれば学者や作家など文化人のインタヴューも行い、ブロードウェイなどのエンターテインメントに関しても報じたりします。
 当時はクリントン大統領の就任直後で、赴任早々、あの世界貿易センターへの攻撃第一弾というべき地下駐車場爆破テロが起きました。国連も大忙しで、世界平和への積極介入派だったブトロス・ブトロス・ガーリ事務総長の下、内戦の終了したカンボジアでは明石康事務次長が代表を務める国連の暫定統治が始まっていました。そこで選挙監視の日本人ボランティア中田厚仁さんが射殺されたり、国連派遣の日本人警察官の車が襲撃されて岡山県警の高田晴行警部補が殉死したりと大事件が続きます。欧州では旧ユーゴスラビア分裂後のボスニア・ヘルツェゴビナ三つ巴の内戦がどんどん深刻化し、連日のように国連安保理が開かれていました。現在に続く核開発問題やミサイル発射問題で、北朝鮮が、NPT(核拡散防止条約)からの脱退を表明したのもこの年の1月、さらにその最初のノドン一号の発射も同年5月で、国際社会は大騒ぎになりました。アメリカでは5カ月に及ぶ中西部の大洪水も発生しており、夏のミズーリ州に入ってどこまでも茫洋たる濁り水の上を連邦緊急事態管理庁(FEMA)のボートに揺られていた数時間が、奇妙な休息の思い出として蘇ってきます。なぜなら、そこには水以外に何もなかったから。広大なトウモロコシ畑は3m下に水没していました。

 一方、支局のあるニューヨーク市はアメリカのどの都市よりもエイズの影響をまともに受けた街です。1990年、エイズに関連する病死者はニューヨーク市だけで年間で5000人を超え、95年にはそれが8000人超に上りました。その真っ只中で、あるいはその真っ只中だからこそ、マンハッタンのゲイ・コミュニティは隆盛を極めていた時代でした。
 ゲイ・コミュニティは「エイズ」という大義名分をテコに社会的にも政治的にも一気に公の場に出ていきます。93年6月のストーンウォール記念イベントのスローガンは「Be Visible(目に見える存在になれ)」でした。80年代、エイズによって二重の差別を受け、ふたたびクローゼット(ゲイであることを隠している状態)に閉じ籠もりがちになった傾向に対し、もう一度原点に戻って「カムアウトせよ」と訴えること──。
 エイズ禍の汚名を濯ごうと、暗いクローゼットから出てきたゲイの新世代は、エイズの影に怯えつつも自分の健康さを誇示するために人工的な「筋肉づくり」を始めていました。「マッスル・クイーン」「ジム・クイーン」という言葉が生まれていました。筋肉ネエさん、ジム通いの女王様──まるで絵に描いたような筋肉美にカポジ肉腫の斑点がないことを見せるために、彼らは露出の多いタンクトップを身につけ、ショートパンツでチェルシー地区を闊歩しました。画一的なその姿は「チェルシー・クイーン」ならぬ「チェルシー・クローン」とも揶揄されましたが、それもこれも端緒は「エイズ」だったのです。

 ニューヨーク区・マンハッタン島の地図

 そうそう、「ゲイ地区」といえばニューヨークではかつてはグリニッジ・ヴィレッジでした。昔から自由人の住む「リトル・ボヘミア」として栄え、最初のゲイバー(当時は花の名の「パンジー」がゲイを指す隠語で、「パンジー・バー」と呼ばれました)めいた店も1890年代にこの地区にできています。あの「ストーンウォール・イン」も七番街からクリストファー・ストリートをすぐ東に入ったヴィレッジの中心部にあります。
 しかしヴィレッジは基本的には住宅地で、道路も狭く商業施設のスペースも限られています。おまけにどんどん瀟洒になって家賃も高くなり、年齢層も高い金持ちゲイしか住めない場所になった。ゲイたちがその北隣のチェルシー地区に移り始めたのはそんな90年代に入ってからです。
 チェルシーはそれまで特に八番街から西ではなんだか危険な感じもする地区でした。だから家賃も安くて若いゲイたちも住むことができたのですが、そうやってゲイたちが入り始めてから街はどんどん明るく安全になってきて、当時はすっかりニューヨークでいちばんトレンディな地区になっていました(現在のゲイ人口はマンハッタンを離れてブルックリンに移動した後、同性婚が合法化されて家族化することで市内どの地区にも、年収に見合った場所場所に偏在するようになっています)。
 そういえばサンフランシスコのカストロ地区も「ゲイの街」になってから見違えるほどきれいになりました。ロサンゼルス近隣のウェストハリウッドもゲイ地区化とともに豪奢になりました。ケープコッドのプロヴィンスタウンやフロリダのサウスビーチ、キーウェストなど、ゲイのリゾート地は不況時でさえも賑わっていました。

 チェルシー地区はまさにその流れで繁栄しました。次々とおしゃれなカフェやレストランやゲイクラブができ、ヴィレッジにあったゲイ専門書店「ディファレント・ライト」も1993年に3倍の店舗面積を求めてチェルシーの19丁目に移転しました。その近くに「G Lounge」という画期的なゲイバーができたのは1995年でした。ドアも閉じて窓も小さく、内部の窺い知れないゲイバーが多かったのですが、この店は通りに面して全面がガラスのドアでした。そこにはゲイフレンドリーなストレートの若い男女もゲイの友人に連れられて数多く訪れ、おしゃれなカクテルと会話を楽しんでいました。ニューヨークのストレートの若者たちの間では、ゲイの友人がいることはそのころ 「シック(chic)」でクールなことになっていました。それはすでに政治的にもリベラルで人権意識も高いという「ブランド」であり「記号」でもあったわけです。
 例の、エイズ発症者/HIV陽性者への「友情・支援」を示す「レッドリボン」もまたどんどん記号化し、エイズ・フレンドリーであることを「エイズ・シック(chic)」と呼ぶ傾向も生まれました。レッドリボンが高級宝飾店からとんでもない高額なアクセサリーとして売り出されたのもこのころでした。

 不思議な時代でした。エイズ禍は去っていないのによりヴィジブル(目に見えるよう)になって元気なゲイたちを(正確に言えばそれは選別的に「白人ゲイ男性」層だったのですが)、生き馬の目を抜く米ビジネス界がターゲットにし始めるのです。
 90年代に入って、アメリカの主流メディアは(そしてそれに触発されたヨーロッパ・メディアもまた)こぞってゲイたちの可処分所得の多さを喧伝しはじめます。その先駆けとなったのはウォールストリート・ジャーナルの1991年6月18日付けの大々的な統計記事でした。米商務省国勢調査局と民間調査機関の共同調査によるその統計数字は、ゲイの世帯が他のアメリカの一般世帯よりはるかに年間所得や可処分所得が大きく高学歴で、旅行や買い物に多大な興味を示しているというものでした。
 今から30年近く前となるその当時のアメリカにおける統計結果を少し抜き出してみましょう。

 ▼一世帯平均年収はゲイ世帯で5万5430ドルで、全米平均より2万3千ドル多い
 ▼米国人平均個人年収1万2166ドルに対し、ゲイ個人は3万6800ドルと3倍
 ▼大卒者は米国平均では18%なのに対しゲイでは59.6%とこれも3倍以上
 ▼年収10万ドル以上の高額所得者はゲイで7%を占め、アメリカ平均の4倍
 ▼回答レズビアンの2%は年収20万ドルを超え、これはゲイ男性中の比率より多い
 ▼全米でゲイ男性とレズビアン女性が獲得する所得は年間で5140億ドル
 ▼海外旅行経験者はアメリカ人全体では14%だが、ゲイでは65.8%
 ▼航空会社のフリークエント・フライヤーズのメンバーも米国人全体で1.9%だった当時に、ゲイはその13倍以上の26.5%

 ここで断っておかねばならないのは、これらの数字はあくまで「自分はゲイである/レズビアンである」とアンケートに答えることのできる、すなわち自分に自信を持っている人たちの回答結果だということです。当時ゲイ(LGBTQ+)人口は10%を占めると言われていました。その10%の構成者がすべてこの統計数字を具現しているわけではないのは自明でしょう。けれど、需要と供給の新市場が生まれることはメディアにも企業にも、そしてゲイ・コミュニティにも経済戦略的にも政治的正しさにおいても損はなかった。だから皆この戯画化した「ゲイ金持ち説」にまんまと乗った──その側面は指摘しておかねばなりません。

 アメリカの大企業がゲイたちをひそかに「上客」として狙いはじめる──そのときのウォールストリート・ジャーナルの見出しは「根深い敬遠を捨て、ゲイ社会への企業広告増加」。同じころ、サンフランシスコ・クロニクル紙も「隠れた金鉱ゲイ・マーケット」と書きました。ニューヨーク・タイムズも92年3月、「だれもがゲイ・ビジネスに乗り出そうとしている。ストレート(異性愛者)社会の気づかないところで、一般企業までもがみんなゲイ市場になだれ込んでいる」とのマーケッターの分析コメントを掲載しています。
 90年代半ばにかけ、大企業がこうしてゲイ向けのマーケティングを本格化させていきます。アメックスは顧客の財形部門にゲイとレズビアンの担当員を置いてゲイの老後の資産形成などきめ細かな相談に乗りはじめました。アメリカン航空は94年からゲイ専門部門をつくってゲイ・イベントへの格安航空券の提供やゲイの団体旅行割引販売などを企画し成功します。そして95年4月にはニューヨークで初めて「ゲイ・ビジネス・エキスポ」が開かれ、チェイス・マンハッタン銀行やらメットライフ(保険)、メリルリンチ(証券)など、当時は特段ゲイフレンドリーでもなかった企業の投資部門までもが出展しました。当時のルドルフ・ジュリアーニNY市長もその開会式に出席して「ニューヨークがこの素晴らしいエキスポの恒常的な拠点都市になることを希望します」と満面の笑みを浮かべて祝辞を述べたのです。

 今年のゴールデンウィークに開催される『東京レインボープライド2019』には昨年以上の企業協賛がつくでしょう。アメリカやヨーロッパと似た流れが日本にも訪れつつあります。政治うんぬんや宗教的な思惑や偏見で煮詰まったりしているときに、この企業の論理=おカネの論理は時にウンザリするほどわかりやすかったりもします。事実、ゲイの働き手を差別すれば優秀な人材を逃すことにもなると、家族手当や扶養手当などの福利厚生で性的少数者差別を撤廃したのは、まずは民間企業だったのです。

続く。次回は4月10日(水)更新予定

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著者

北丸 雄二

ジャーナリスト、コラムニスト、作家、翻訳家。元々は毎日新聞から東京新聞(中日新聞東京本社)に転社した社会部畑の新聞社記者で、クリントンが大統領に就任した1993年にニューヨーク支局長に着任。3年半後の96年夏に帰任を命じられたのを機に退社し、独立。その後もニューヨーク在住のまま、大統領がG.W.ブッシュ~オバマ~トランプと変わった2017年まで、計24年間、現地で9.11テロや選挙ルポなど米国政治・社会・文化、日米及び国際関係の分野でジャーナリズム活動を続ける。18年、実母の老齢化のために拠点を日本に移し、現在は主にトランプ・ウォッチャーとしてTBSラジオやFM TOKYO、大阪MBS及びネットTVなどで米国関連ニュースを解説。一方で、英米文学、ブロードウェイ・ミュージカルや戯曲の翻訳も多く、「世界」「現代思想」「ユリイカ」などで国際情勢から映画、音楽、文芸まで各種評論も行っている。 LGBTQ+関連では90年に米国ゲイ文学の金字塔と言われる『ザ・フロント・ランナー』を翻訳刊行したのを機に、新聞業務と並行するライフワークとしてエイズ問題や刻々と拡大する人権状況を取材執筆開始。ニューヨークでは日本人コミュニティ向けにHIV/AIDSの電話相談の開設・運営にも尽力する一方、97年から、日本のゲイ月刊誌『Badi』に米国を中心としたゲイ関連ニュースコラムを連載。同年6月に青土社から刊行の『ゲイ・スタディーズ』(キース・ヴィンセント他著)でも全面的な監修を担当し、ほかにLGBTQ+関連のニュースを報じるプロフェッショナルが誰もいなかった当時、「AERA」で「日本に向けて性的マイノリティに関する正しい情報を発信するゲイのジャーナリスト」という紹介記事も掲載された。現在、十年来の同性パートナーと5歳の黒猫とともに東京に暮らす。Twitterは@quitamarco。 

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