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第2回

永井荷風 ―偉大なる孤独死の先駆者

2019.02.08更新

読了時間

『文豪』という言葉にどんな印象がありますか? ここ数年、文豪をモチーフにしたゲームやアニメの影響による『文豪ブーム』で、文豪の人柄に関心が高まっています。この連載では、文豪の末期、すなわち『死』に注目をします。芸術家は追い立てられるように生きて薄命な印象がありますが、文豪はどうなのでしょうか。『死』を見つめることは『生』を見つめること。それぞれの『死』から、多様な生き方を見ていきます。
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永井荷風(ながい・かふう)
小説家、随筆家、劇作家。明治12(1879)年、東京生まれ。昭和27(1952)年文化勲章受章、昭和29(1954)年芸術院会員に選出。昭和34(1959)年、千葉県市川市の自宅にて胃潰瘍の吐血が原因となった心臓麻痺で死去。享年79。代表作は『濹東綺譚』『断腸亭日乗』など。

 独居老人の孤独死が社会問題になって久しい。

 平成29(2017)年の統計調査では、一人暮らしをする高齢者の実に四割超が孤独死を身近に感じているとする結果が出ている。さらに、2040年には単身世帯が全体の四割近くになるという試算もある。「誰にも看取られずに独り逝く」死に方は、今以上に珍しいものではなくなるのだろう。
 ニッポンの未来天気図はどんより気味のようなのだが、そんな雲行きをあの世から高みの見物と洒落こんでいそうな文豪がいる。

 永井荷風だ。

 花柳小説と日記文学で有名なこの文豪は、絵に描いたような「孤独死」を成し遂げた偉大なる先駆者だった。

奇行の文人 最後のスキャンダル

 荷風は大正から昭和前期にかけての日本文学を語る上では欠かせない人物だ。しかし、他の文豪に比べ、教科書にはあまり載らない。学校では教えづらい男女の情と欲が渦巻く世界を描いた作家だからだろう。
 代表作の「濹東綺譚(ぼくとうきだん)」からして娼婦との交流が題材だし、出世作の一つである「ふらんす物語」は政府から発禁処分を受けている。正直、現代の我々の目には何が問題なのかピンとこないが、いずれにせよ荷風文学の本領はエラい人をしかめっ面にさせるところにあったらしい。
 しかし、黙殺もできなかった。
 良家のお坊ちゃまにして欧米留学経験者の元大学教授。不惑を前にして親の遺産が入ったおかげで悠々自適の文人生活に入り、名は世に轟いていた。戦後は、戦時下の時局に屈しなかった孤高の文学者として早い時期から再評価が進み、昭和27(1952)年には文化勲章を受賞して名実ともに「名士」となった。
 その一方、私生活はスキャンダルが絶えなかった。艶っぽい話は数知れず、生涯で関係した女性は十指どころか足の指を動員しても足りないだろう。さらには変人だの人間嫌いだの、大変な財産を持っているくせにドケチだのと、とかく話題には事欠かない。
 そんな男がある朝、血を吐いて独り死んでいるのを発見されたのである。
 発見者は通いで下働きをしていた老女だった。すぐさま医師が呼ばれたが、病気で寝込んでいたはずなのに外出着を着ていたため、事件性が疑われて警察が現場検証をする騒ぎとなった。
 奇行で知られる富豪文豪、突然の変死である。世間の耳目を集めぬわけがない。新聞から雑誌まで、マスコミがどっと詰めかけた。
 紙面に踊った「永井荷風氏急死 千葉・市川のわび住いで」「文豪 孤独の死 みとる人もなく」などの見出しはまだおとなしい方で、大衆紙になればなるほど「孤独」と「奇行」を強調し、世間の好奇心を煽りまくった。テレビでは現場写真が公開された。今では考えられない狼藉である。
 マスコミがこのような行動に出たのは他でもない。世間が荷風の死を「醜聞」と捉えたからである。
 21世紀の現代でも、孤独死には「みじめ」「不幸」などマイナスの概念がまとわりついている。古い価値観が支配的な地域では「孤独死」=「恥」とさえ捉えられるそうだ。荷風の死んだ昭和30年代ともなれば、この傾向は尚更著しかっただろう。
 しかし、恵まれた人生を送っていた作家が、なぜスキャンダラスな末路をたどることになったのだろうか。その謎を解くために、まずはざっと彼の人生をおさらいしたい。

若いうちから爺さま指向

 荷風といえば、なんといっても40年以上にわたって綴られた『断腸亭日乗』が代表作だ。日本近代文学最大の日記文学であると同時に、大正から昭和前期の風俗を記した貴重な記録として今も愛読者が絶えない。
 荷風畢生の大事業は、大正6(1917)年9月16日に、こんな記述から始まっている。

 秋雨連日さながら梅雨の如し。夜壁上の書幅挂け替ふ。
 碧樹如烟覆晩波 清秋無尽客重過 故園今即如烟樹 鴻雁不来風雨多
 姜逢元
 等閑世事任沉浮 万古滄桑眼底収 偶□心期帰図画□□蘆萩一群鷗
 王一亭

 先考所蔵の畫幅の中一亭王震が蘆雁の図は余の愛玩して措かざるものなり。

 いきなり軸の架替えネタである。清雅な暮らしアピールに余念がない。
 今で言うと、インスタでキラキラな私♡をアピるのに近いものを感じる。たぶん、デコるだけデコったネイル画像を「ちょっと地味かな?」みたいなコメント付きでアップする女子と気持ち的に大差なかったのではなかろうか。ちなみに「先考」とは「亡くなったお父さん」の漢語であり、これまた漢文学の教養アピールに見えないこともない。
 とにかく、この数行には知性と教養と上流階級たる我をひけらかすポイントが多数詰め込まれているのだ。ただし、荷風の場合、教養も知性も階級もハッタリではなく本物である。
 念の為書き添えておくが、荷風の日記は後々の公開を前提に書かれている。今でこそ日記はプライベートな記録だが、日本では古来日記は公開されるものだった。「断腸亭日乗」はその伝統に乗っかっている。よって、ひけらかしポイントは明らかに他人の目を意識して据え置かれたものと見て間違いない。
 さて、いずれは人に見せる腹積もりの上で日々の胸間を綴る荷風は、文中で己の老人指向をことさら強調した。

来青閣(注1)に隠れ住みて先考遺愛の書画を友として、余生を送らむことを冀ふのみ。(大正7年9月20日)

不図思出せば廿一二の頃、吉原河内楼へ通ひし帰途、上野の忍川にて朝飯くらふ時必ずあなごの蒲焼を命じたり。今はかくの如き腥臭くして油濃きものは箸つける気もせず。豆腐の柔して暖きがよし。(大正7年9月20日)

余既に余命いくばくもなきを知り、死後の事につきて心を労すること尠からず。(大正8年 1月16日)

 枯淡の境地に至った老作家の心自から閑なり……と言いたいところだが、これを書いた荷風は全然老作家ではない。不惑をちょっと過ぎたぐらいだ。
 40でこれはちょっと老成しすぎ……というより、老人ごっことしか思えない。
 確かに、四十路に入るとこれまでピンとこなかった「老い」の臭いが鼻先をかすめ始める。また、荷風は蒲柳の質だったともいう。だからといってあなごの蒲焼より豆腐がいいだとか、あと何年も生きられないなんて話は、ちょっと早すぎる。リアルな心情とは思えない。
 事実、荷風は余命幾ばくもないどころか、享年は79歳、つまり40歳のほぼ倍の寿命を生きたし、若い頃から晩年まで洋食が大好物だった。最後の晩餐はカツ丼だったぐらいだ。本物の老年に至っても健啖家であり続けた作家の40代の食卓が、豆腐どころですむはずがない。性生活の方も、昭和2(1927)年に30歳近く年下の女性を妾にする程度には枯れていなかった。
 ここはもう、きっぱり断言してしまおう。
 彼が40そこらで老い衰えていたなんてことは、絶対にありえない。完全にフェイクだ。
 では、なぜ荷風は老人に擬態しようとしたのだろうか。
 そこのところを探るには彼の幼少期から青年期までを振り返る必要がある。
 荷風の生家は儒学によって士官した先祖がいるような学者肌の家で、父は藩校で当時著名だった儒者・鷲津毅堂に直接教えを受け、後にアメリカ留学も経験した当時一流の知識人だった。母は鷲津毅堂の次女で、かつ熱心なキリスト教信者だった。東洋の伝統的な価値観と新しい西洋知が奇妙に同居する、そんな不思議な環境で荷風は育ったのだ。
 こうするとずいぶん四角四面の家に育ったように見えるが、母には芸事を好むくだけた面もあった。

 江戸の生れで大の芝居好き、長唄が上手で琴こともよく弾ひきました。三十歳を半ば越しても、六本の高調子で「吾妻八景」の――松葉かんざし、うたすじの、道の石ふみ、露ふみわけて、ふくむ矢立やたての、すみイだ河……という処なぞを楽々歌ったものでした。(中略)私は忘れません、母に連れられ、乳母に抱かれ、久松座、新富座、千歳座なぞの桟敷で、鰻飯の重詰を物珍しく食べた事、冬の日の置炬燵で、母が買集めた彦三や田之助の錦絵を繰り広げ、過ぎ去った時代の芸術談を聞いた事。(「監獄署の裏」より)

 これはあくまでも小説の一節だが、自身の体験を色濃く反映している。
 封建的漢学、江戸趣味、そして父母世代が学んだ西洋文明の皮相は、幼き荷風にしっかりと根づいた。
 さらに親の転勤に伴っての上海短期在留、親には内緒の寄席修行、そしてアメリカとフランスへの留学などなどあらゆる経験ができたモラトリアム期間を20代いっぱいで終了。30歳から大学教授を務め、父の勧める女性と結婚してようやく落ち着いたかと思いきや、34歳の時に父が死ぬとちゃぶ台をひっくり返して、離婚再婚また離婚で独り身になった上、大学も辞して晴れて無職になった。
 そして、「荷風散人(注2)」というニュータイプの文人にジョブチェンジしたのである。
 荷風の理想的とした隠居生活は、古代中国の「竹林の七賢」的隠士と日本の風流人を足して英国独身紳士を振りかけたような独特のスタイルだった。働かずとも食える境遇だった荷風は、うらやましいほど自由気ままな生活を送る。
 そんな時期の日記でやたらと老境を強調したのは、若くして文字通り「散人」である自分への照れ隠しと言い訳だったのではないだろうか。いかに我が道を行く奇人とて、働き盛りに隠居生活を送るのは、さすがにきまり悪くはあったのだろう。だから、ことさら「老い」と「余生」を強調したのではないかと思うのだ。
 私は病弱ゆえ(と本人は強調するが、成人以降大病はしていない)早く老衰し、もうすぐ死にます。だから、早々と隠居しちゃうんですよ、というわけだ。

「ぽっくりと死にますぜ」

 さて、大正から昭和初期にかけての荷風の生活ぶりについて言及すると紙幅が足りないので、ここからは一気に荷風の死の3年前に飛ぶ。
 昭和31年。政府が経済白書に「もはや戦後ではない」と記述したこの年、荷風は喜寿を迎えた。前とは違って本物のお爺ちゃんだ。しかも、けっこう可哀想なお爺ちゃんだった。
 東京大空襲の夜、荷風が理想の終の棲家として建てた自宅「偏奇館」が焼け落ちた。
 偏奇館焼失の日を綴った一節は、断腸亭日乗の中でもとりわけ名文として知られている。
 方方に上がる火の手を見て、「到底禍を免るること能はざるべき」と覚悟した荷風は「麻布の地を去るに臨み、二十六年住馴れし偏奇館の焼倒るるさまを心の行くかぎり眺め飽かさむもの」と覚悟を定め、愛着のある我が家と心血を注いで収集した文物が炎に呑まれていく光景を独り見続けた。膨大な蔵書や書画骨董は文字通り灰燼に帰した。
 正直、荷風という人間にはさほど共感を持てないのだが、それでもこの時の心情を思うと同情の涙がこみ上げるのを禁じ得ない。蔵書家にとって、本は魂にも等しい。無情の業火が己の魂を無に帰していく光景を見ながら、その心も無残に焼け落ちていったのだろう。
 偏奇館を失った荷風は、戦後千葉県市川市に移住し、数年間従弟である杵屋五叟やフランス文学者の小西茂也の家に寄寓した。だが、どちらの家でも度を越した変人ぶりを発揮し、決裂する形で次の住処に移っている。断腸亭日乗では自分ばかりが被害者であるかのような書きぶりだが、五叟の息子で荷風の養子となった永井永光や小西が残している証言を読む限り、非は荷風にある。
 畳の部屋で七輪を焚いたり、窓から庭に向けて小用を足したり、隣室のラジオがうるさいとそれを上回る騒音を立てたりするような老人と仲良く暮らせるはずがない。
 こうした逸脱行動を荷風の研究者やシンパは「長年の一人暮らしに慣れきっていたため」と弁護するのだが、彼同様長年一人暮らしをしている私としては冗談じゃない、と抗議したくなる。いくら独りが長くとも、最低限の社会常識は普通に保てる。トイレ以外で用足しするのも、同居者に対してクレーマーのような振る舞いをするのも、彼自身が何か問題を抱えていたせいとしか考えられない。
 ここからは憶測になるし、あまり軽々な判断はできないのだが、荷風の言動をつぶさに見ていくと、彼にはアスペルガー症候群に類する発達障害があったのではと感じる部分がある。他人への共感性の薄さ、収集癖、気に入った物/者への強い執着、聴覚や痛覚が過敏気味だったらしいところ、パターン行動を好む点などなど上げていくときりがない。
 荷風が二度離婚していることはすでに触れたが、離婚の経緯を見ても、彼は到底他人と一緒に住める人間ではなかったようだ。金と情で繋がる妾でさえ、長続きした者はいない。家督を継いだ末弟とは義絶したまま生涯関係を修復することはなく、友もほとんどいなかった。戦後数年は浅草のストリッパーたちと交流を持ち、華やかなひと時を過ごしたが、受勲がきっかけで彼女たちとも距離ができ、最終的には自ら遠のいていった。
 とはいえ、人との交流を全く絶っていたわけではない。
 昭和31年の自宅への来客は、のべ120人を超えている。ただ、そのほとんどが出版社の編集者か文学関係者であり、プライベートの客となると実業家で荷風の熱烈な崇拝者・相磯凌霜と昭和初期に荷風の妾をしていた関根歌がやってくる程度だった。まったくの孤独ではないが、身辺賑やかだったとは言い難い。
 昭和32年になると、千葉県市川市八幡に本当の終の棲家となった家を新築し移り住んだ。その世話をした小林修という青年と凌霜が頑固な老翁を物心両面で支えることになる。最低限の家事を手伝う老女もいた。
 しかし、その侘び住まいは、かなりひどい状態だったらしい。
 荷風が亡くなって3ヶ月後に出された『婦人公論』誌に関根歌が寄せた「日陰の女の五年間」という追悼文で、荷風宅の様子はこう描写されている。

 お部屋に入ってびっくり、畳はぼろぼろ、まっくろで、七輪やら火鉢やら、おふとんはしきっぱなし、枕をみれば座ぶとんを二つ折りした、汚れたベタベタのものでした。

 とにかく、不潔で乱雑な部屋だったらしい。
 そんな場所で、誰にも看取られることもなく死んでいったのだ。これ以上侘しい死もないだろう。当時の人々が憐憫と侮蔑半ばする目で大文豪の死を眺め、醜聞と断じたのも無理はない。
 だが、私は思うのだ。それでもやっぱり、荷風は我が身を不幸とは感じていなかっただろう、と。
 2018年9月、独立行政法人経済産業研究所より「幸福感と自己決定―日本における実証研究」と題する研究結果が発表された。健康、人間関係、自己決定、所得、学歴を変数に、日本人2万人を対象にアンケートを取った結果、日本人の幸福感に与える影響力は、所得や学歴よりも「自己決定」できるかどうかが強い影響を与えていることがわかったそうである。所得や学歴は二の次だった。
 この変数に晩年の荷風を当てはめてみよう。
 健康については、年相応に悪いところはあったとはいえ、死ぬ1ヶ月前まで散歩に出歩ける程度の体力はあった。2ヶ月前までに至っては、「(日付)(天気)正午浅草。」の記述がなんと153日間も続いている。昭和33年のお出かけ回数は1年365日のうち、354日だ。80歳を前にしてこうなのだから、健康状態は良しとすべきだろう。
 次に、所得と学歴。こちらは文句のつけようがない。人間関係は多少難ありだが、まったくの孤独ではなく、少人数とはいえ敬愛し支えてくれる人たちが身近にいた。そして、その背後には何万の愛読者がいた。
 では、自己決定はどうだった。
 これについては荷風ほど自己決定し尽くした人生を送った人間もいないだろう。
 嫌なことはせず、好きなことだけして生きる。人間関係も仕事も自分基準で選ぶ。気に入ったら手元に置き、嫌になったらさっさと捨てる。
『断腸亭日乗』では、うまく生きられぬ己を嘆くようなところも見えぬでもないが、あれも一種のポーズとしか思えない。
 関根歌は、

先生はお一人でさぞお淋しかったことだろうとおもいます。いつも孤独でいいと口に出しておられましたけれど、ほんとうは淋しがりやだったのです。いつもにぎやかなことのお好きだった先生だけに、索居独棲たのしみをいわれたのは、江戸っ子らしい、負けずぎらいの気分からそう申されたのでしょう。(「日陰の女の五年間」より)

 と、かつての愛人の気持ちを推し量っているが、私はこの見方は半ば当たり、半ば外れているように思う。
 人は一人では生きられない。だが、誰かとともに生きる安らぎより、自己決定の喜びが勝る人間もいる。人に合わせる煩わしさに直面するぐらいなら、孤独の方が心地よいのだ。荷風はそんな人間だったのだろう。
 不潔で乱雑な部屋も、その気があれば人を雇って清く明るく整えることができたはず。なにせ大金持ちなのだから。でも、そうしなかった。自分にとって快適な環境を壊したくないから、他人を拒否することに決めたのだ。
 2度の結婚失敗ののち、自分の老後と死後を任せる養子を検討したこと何度かあったが、ともに家庭を築く相手はさっさと諦めていた。自分が家庭向きの人間でないと骨身に沁みていたのだと思う。家庭への憧れはあっても、実際に家庭生活を営む上での我慢や譲歩はとてもできない。がんじがらめが何よりのストレスだ。
 だから、独りがいい。
 そんな自己決定をした結果が、「文豪の孤独死」の正体だ。
 三食好きなものを食べ、心の赴くままに散歩し、夜は愛する書物に目を通す晩年が不幸だったわけがないと、いずれ同じような境遇になるであろう私は思う。
 その上、最期さえ「ぽっくりと死にますぜ」と周囲に宣言していた通りになった。末期まで自己決定通りにやってのけたのだから、見上げたものである。
 ちなみに荷風の絶筆は、遺体が見つかる前日に書かれた

「四月廿九日。祭日。陰(注3)。」

 の一行。死ぬまで続けると決めていた日記を最後の最後まで書けたことに、泉下の荷風はさぞ満足しているだろう。

注1:来青閣 
荷風が父の遺産として譲り受け、大正二年から大正四年まで住んだ邸宅の号。牛込区大久保余丁町(現新宿区余丁町)にあった。
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注2:散人
世事にとらわれず、仕事にも就かずにのんきに暮らす人。
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注3:陰
くもりのこと。
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