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第7回

文豪の死に様 拾遺

2019.05.24更新

読了時間

 『文豪』という言葉にどんな印象がありますか? ここ数年、文豪をモチーフにしたゲームやアニメの影響による『文豪ブーム』で、文豪の人柄に関心が高まっています。この連載では、文豪の末期、すなわち『死』に注目をします。芸術家は追い立てられるように生きて薄命な印象がありますが、文豪はどうなのでしょうか。『死』を見つめることは『生』を見つめること。それぞれの『死』から、多様な生き方を見ていきます。
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 本連載ではどうしても特徴ある死に方をした人物を中心に取り上げることになる。よって、文学史上重要だけれども、まずは一般的な死を迎えている場合はスルー、になってしまう。
 だが、そうであってもそこは文豪。死を廻って特筆すべきエピソードを持つ面々は少なくない。
 というわけで、今回は一寸中休みとして、「文豪の死に様 拾遺」をお届けすることにした。
 もし、この中で「この人、ちょっと読んでみたいんですけど」と思う作家がいればリクエストしてほしい。鋭意検討してみます。
 なお、今回は白樺派あたりまでとした。これ以降の作家、もしくは取り上げていない作家については、今後本編もしくは「文豪の死に様 後拾遺」に登場させる予定である。乞うご期待、なのである。

坪内逍遥(つぼうち・しょうよう)
享年75 死因/肺浸潤 1859-1935(安政6-昭和10)。小説家、劇作家、評論家、教育家/『小説神髄』(評論)、『桐一葉』(戯曲)など

『小説神髄』で小説家志望の若者たちを導びくと同時に、演劇の近代化に果たした役割はとても大きい。
 妻のセキとはオシドリ夫婦として知られていたが、内実はなかなり愛憎入り混じる複雑な関係だった模様。死ぬ直前まで好きな仕事に打ち込んでいたというが、実のところ仕事しか逃げ場がなかったのかもしれない。
 彼の死後、妻が書いた手記の温度/湿度の低さになんとも薄ら寒い思いがする。

 

尾崎紅葉(おざき・こうよう)
享年36 死因/胃癌 1867-1903(慶応3-明治36)。小説家/『二人比丘尼色懺悔』『金色夜叉』など

 学生時代から抜群のリーダーシップを発揮し、「硯友社」を設立。若くして明治文壇の中心人物となる。
 生まれついての親分肌で、弟子を多数抱えて面倒をみた。死の前年から胃癌が発覚し、入院加療も行ったが手術は拒否。自宅療養を選んだ。
 妻がいるのに愛人を家に入れて看病させるなどやりたい放題の闘病生活を送り、最期はモルヒネを投与しながら実質的な安楽死を選んだ。

 

幸田露伴(こうだ・ろうはん)
享年80 死因/嚥下性肺炎 1867-1947(慶応3-昭和22)。小説家、随筆家、考証家/『五重塔』『風流仏』『幻談』など

 代々江戸城の表坊主衆を勤める家に生まれた生粋の江戸っ子。男性的・理知的な文体である一方、怪奇幻想オカルト方面にも造詣深かった。長生きしただけあり、執筆活動にはかなり波があるが、各時期にそれぞれ名作を残している。死の寸前まで娘(随筆家の幸田文)に口述筆記させて仕事に励んだ一方、誰もいない部屋で一人話をしていたり、文を早逝した長女と取り違えたりするなど衰えを見せていた。この辺りのエピソードもちょっと怪談めいているのでお好きな向きは是非チェックを。最期は仕事仲間や娘に見守られつつ安らかに臨終。
 なお、今市子さんの名作怪談漫画『百鬼夜行抄』の登場人物である飯嶋蝸牛のモデルはこの人。

 

泉鏡花(いずみ・きょうか)
享年65 死因/肺癌 1873-1939(明治6-昭和14)。小説家/『婦系図』『天守物語』『縷紅新草』など

 金沢文化と江戸文化のハイブリッドともいうべき独自の文学的境地を築いた天才だが、かなりの変人で、大変な「お化け好き」だった。だからといって死に親しむ心情を持っていたわけでもなく、むしろ母の早世も影響してか、かなり命大事の神経質だったらしい。
 そんな鏡花だが癌には勝てず、臨終が近いということで友人知人が集まってきたのを見て己の末期を悟ると、臥所を四畳半の小さな部屋から隣の八畳間に移させたという。四畳半は往生の舞台としては不適切という判断らしい。死を前にして気にするの、そこだったんだ、と思わなくもないが、らしいといえばらしい今際の際である。

 

国木田独歩(くにきだ・どっぽ)
享年36 死因/結核 1871-1908(明治4-41)。小説家、詩人/『武蔵野』『牛肉と馬鈴薯』など

 16歳で山口から上京。翌年東京専門学校(現在の早稲田大学)に進むも卒業を前に退学。その後は地方と東京を行ったり来たりしながら文学を志し、サークル活動したり受洗したり恋に落ちて無謀な結婚をしたりと明治青年らしい人生を歩む。
 晩年は出版事業に失敗、結核が発病し、茅ヶ崎でこれまた妻妾二人に看護してもらいながら、死を嘆き怯える療養生活を送った。キリスト教の信仰もあまり役に立たなかったようだ。結句、大喀血の直後に死亡。当たり前だが、枕上では妻妾の争いが絶えなかったらしい。安らかな境地に至れなかったのは半ば自業自得かと。

 

田山花袋たやま・かたい
享年58 死因/喉頭癌 1871-1930(明治4-昭和5)。小説家/『蒲団』『田舎教師』など

 日本における自然主義文学の先駆者として知られる人だが、同時に本家欧州のそれとは似ず非なるなものなってしまった主犯ともいえるだろう。
 そんな彼は死の床で、盟友であり近代文学史上きってのゲス男である島崎藤村に、「ねえ、死んでいくのってどんな感じ?」と感想を求められている。藤村さすがの鬼畜っぷりだが、無礼極まりない問いに真面目に答えた花袋のお人好しをこそ称えるべきなのだろう。

 

徳田秋聲(とくだ・しゅうせい)
享年70 死因/肋膜癌 1871-1943(明治4-昭和18)。小説家/『黴』『足跡』など

 自然主義の盛衰と運命をともにした小説家。
 後年、行き詰まった彼の文学的苦境を救ったのは二人の若い女性だった。弟子である山田順子が愛人となったのは56歳、芸者の小林政子と出会ったのは61歳。なんとも元気なことだが、彼女たちとの交際は糟糠の妻の死後だった分、まだしもである。
 晩年は芸術院会員に選ばれるなど文壇に立場を築き、第二次世界大戦の敗戦を見ることなく亡くなった。

 

島崎藤村(しまざき・とうそん)
享年71 死因/脳卒中 1872-1943。(明治5-昭和18)小説家、詩人/『若菜集』『破戒』『新生』など

 浪漫派の詩人から自然主義文学の大家、そして文壇の重鎮となった文学史上屈指の人物だが、人格的には……。
 神奈川県の大磯(関東の保養地、いわゆる湘南)にある別邸で、自らが書き上げた原稿を夫人に読ませていたところで脳卒中を起こして亡くなった。まことに文学者らしい死に様といえる。最後の言葉が「涼しい風が吹いて来る」だったというのも実によくできている。生涯反省なしのモラ男でもいい死に方をするのだから、因果応報なんのその、である。

 

志賀直哉(しが・なおや)
享年88 死因/肺炎 1883-1971(明治16-昭和46)。小説家/『小僧の神様』『城の崎にて』『暗夜行路』など

 白樺派の立役者。前半生は父に象徴される「家制度」との戦いに明け暮れていた。
 一方で、幼き日の実母の死、妹の自殺、そして自身も山手線に跳ねられ死にかけたことなどから、「死」に強い関心を持っていた。しかし、自殺を図ることはなく(盟友である有島武郎の心中には激怒したとか)、戦争も乗り越え、戦後には日本ペンクラブの会長に就任し、文化勲章を受賞するなど、文壇の名士として生を全うする。最期は病院で88歳の大往生を遂げた。
 奇禍にあったのはむしろ死後で、骨壷が盗難にあってしまい、お骨は今も行方不明のままだそうだ。それにしても人骨なんか盗んでどうするのだろうか……。

 

武者小路実篤(むしゃのこうじ・さねあつ)
享年90 死因/尿毒症 1885-1976(明治18-昭和51)。作家、画家、思想家/『お目出たき人』『真理先生』など

 名前が京都の貴族っぽいが、その通り子爵の爵位を持つ正真正銘の華族様である。だが、二歳で父と死に別れたため、まったく苦労知らずというわけではなかったらしい。華族といっても悲喜こもごもである。
 とは言いながらも、代表作である自伝のタイトルが『お目出たき人』である通り、基本は「ええしの子(注1)」らしい、金持ち喧嘩せずの、良くも悪くもおおらかな人物だった。そうした一種の無邪気さが第二次世界大戦では戦争賛美の態度に繋がり、戦後一時期は公職追放された。だが、わずか4年で処分は解除。後は悠々自適の生活を送り、病院にて90歳で亡くなった。

 

注1:ええしの子
良家の子という意味の大阪弁。「ええ」は「良い」、「し」は「衆」の転訛。つまり良家の人々ということになる。大阪弁ネイティブには、羨望と揶揄が入り交ざる独特のニュアンスが感じ取れるが、若年層では死語に近い。
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