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第8回

有島武郎――理想に嵌りそこねた男の悲劇(前篇)

2019.05.31更新

読了時間

  『文豪』という言葉にどんな印象がありますか? ここ数年、文豪をモチーフにしたゲームやアニメの影響による『文豪ブーム』で、文豪の人柄に関心が高まっています。この連載では、文豪の末期、すなわち『死』に注目をします。芸術家は追い立てられるように生きて薄命な印象がありますが、文豪はどうなのでしょうか。『死』を見つめることは『生』を見つめること。それぞれの『死』から、多様な生き方を見ていきます。
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超一級の文壇スキャンダルを起こした美男美女

 近代文学者の中で心中事件を起こした有名人の筆頭といえば太宰治だろう。
 だが、大正時代にも太宰の死に勝るとも劣らないセンセーショナルなスキャンダルとして世を騒がした心中があった。
 白樺派の旗手・有島武郎と「婦人公論」誌編集者だった波多野秋子の情死だ。
 ひと月ほど行方不明になっていた二人の遺体が見つかったのは、大正121923)年77日のこと。翌日からは大狂乱の報道合戦が始まった。
「軽井沢の別荘で有島武郎氏心中 愛人たる若い女性と」
「心中したのは六月中旬か 腐乱していた死体 美装した相手の女」
 当時、武郎は芥川龍之介をも凌ぐ第一級の人気作家だった。とりわけ、清廉潔白なイメージで多数の女性ファンを獲得していた。
 そんな人間の情死である。しかも、相手の波多野秋子が人妻だったことが判明し、上を下への大騒ぎになったのだ。
 テレビのなかった時代ゆえ報道は新聞が先行、のちに雑誌類が追いかけた状況だったが、この事件がどれほど人の興味を掻き立てたのかは、約2ヶ月後まで連日武郎関係の記事が発表されつづけたことでも知れる。91日に関東大震災が起こらなければ、まだ続いていたかもしれない。
 騒動の顛末については、武郎の個人同人誌だった「泉」の終刊号をはじめ様々な記録が残っているが、当事者に近しい人によって書かれ、かつ書籍化しているものは二つある。武郎の弟・里見弴が書いた小説『安城家の兄弟』と中央公論社の編集者だった木佐木勝の『木佐木日記』だ。
 前者は身内の記録だけあって、冷静さを保ちながらも感情が入り交じる。一方、後者は武郎に大した思い入れがなく、秋子には憎しみさえ抱いていた人物が書いているため、感傷は最低限で記述も客観的だ。
 木佐木日記によると、事件が露見するその日まで、武郎と秋子の失踪は最重要機密としてひた隠しにされていた。知っていたのは武郎の家族と秋子の夫である春房、そして中央公論社の一部幹部のみだった。
 そのため、発見当初はとんでもないデマが新聞紙面に踊った。
 見出しは「出産に煩悶か 平塚で二年前から同棲」。内容は次の通りである。

 有島氏と一緒に死んだ婦人の身許は同家でも警察署でも一切秘密にしているが探聞する所によれば同女は麹町区内に住む某大家の娘さんで有島氏が出している月刊雑誌『泉』の誌上で発表する氏の思想に共鳴し、別項生馬氏(*筆者注 武郎の弟で画家の有島生馬のこと)の談にある如くしばしば氏を訪問する中に恋に落ちたものであって、二年前から相州平塚(*筆者注 現神奈川県平塚市)の某所に同棲して居りその後有島氏が鎌倉の長谷寺に移って彼の小説「或る女」を創作する当時に両人は暫時も離れなかった。然るに、両人の間に子供が出来、総ての点に於て厳格なる有島氏は今更この事に就いて深く煩悶を重ねていたらしく、夫れ等が遂にこの悲劇を生むに至ったのではあるまいかと。
(東京朝日新聞 七月八日朝刊より)


 なにやらえらく詳しいが、内容自体は何一つ真実がない大デマだ。武郎と秋子がのっぴきならない関係に至ったのは死の数ヶ月前のことだし、同棲だってしていない。
 これを読んだ木佐木は、日記にこう綴っている。

 この記事は、自分には少しばかばかしく思われた。何が常に行為の純正を欲する有島氏だと思って腹が立ってきた。新聞記者もいいかげんなことを書くものだと思った。
(中央公論新社刊『木佐木日記』上巻 七月八日の記述より引用)


 ちなみに、この時点で木佐木は有島の心中相手が同僚である秋子とは知らなかった。ぼんやりと悟るところはあったようだが、夕刊に真相が載った段階で一応は驚いている。
 つまり、木佐木が「新聞記者もいいかげんなことを書く」と思ったのは、心中相手の身許についてではない。「総ての点に於て厳格なる有島氏」なる言葉にひっかかったのである(日記文には「常に行為の純正を欲する有島氏」となっているが、当時の記事は引用の通り)。
 では、なぜ木佐木は記者による評を「いいかげんな」と思ったのか。それは、木佐木が文壇関係者として彼の派手な女関係を知っていたからだろう。
 そう、社会的良心を代表するようなポジションにいながら、武郎はかなりの女たらしだったのである。

理想が高すぎていろいろ歪んだおぼっちゃま

 ここで、ざっと有島武郎の生い立ちを確認しておこう。
 武郎は明治111878)年に東京で生まれた。父は薩摩藩郷士出身の官僚、母は南部藩江戸留守居番を務める家の娘。つまり士族だ。明治期の士族は、没落者と成功者の二手にきれいに分かれていたが、幸いなことに有島家は後者だった。やり手の父は官僚として昇進する一方、実業にも手を出し、成功を重ねていった。
 そんな家の長男に生まれた武郎は、当然ながら後継ぎとして厳しく育てられた。

 父は長男たる私に対しては、殊に峻酷な教育をした。少い時から父の前で膝を崩す事は許されなかった。朝は冬でも日の明け明けに起こされて、庭に出て立木打ちをやらされたり、馬に乗せられたりした。母からは学校から帰ると論語とか孝経とかを読ませられたのである。一向意味がわからず、素読するのであるが、よく母から鋭く叱られてメソメソ泣いた事を記憶して居る。
(「私の父と母」より)


 明治の士族にはよく見られる教育法である。ただし、父には先見の明もあった。

 父は然しこれからの人間は外国人を相手にするのであるから外国語の必要が有ると云うので、私は六つか七つの時から外国人と一所に居て、学校も外国人の学校に入った。
(同上)


 武郎が4歳の時、父が横浜税関長という重役に出世したので一家は横浜に転居。そこから英語の英才教育が始まる。まずは知人の米国人一家に預けて英語を覚えさせ、就学期になるとミッションスクールである横浜英和学校(現・横浜英和学院)に通わせた。10歳の頃、学習院が皇族や華族以外にも解放されたのを受けて編入すると、成績優秀・品行方正だった武郎は後の大正天皇となる明宮嘉仁親王の御学友に選ばれる。武郎についてまわる毛並みのよさ感は、おそらくこんなところにも由来する。
 そういうわけで支配階級への道一直線に進んでいた武郎だったが、思わぬ陥穽が待っていた。体が弱かったため、都会暮らしでは命が危うくなると医者に宣告されたのだ。
 19歳にして地方移住を余儀なくされた武郎は、進学先に北海道を選んだ。

 羸弱な自分の肉体をはかなみながら、見渡した地方の学校の中で、殊に私の心を牽き付けたのは札幌農学校だった。幼稚な時から夢のような憧憬を農業に持っていたのも一つの原因であるが、北海道という未開地の新鮮な自由な感じと、私の少年期の伝奇的な夢想が結びつき、人前で怯れ勝ちだった私の性情が、境地の清浄を希ったのも与って力があった。
(『リビングストン伝』第四版序より)


 この一文に、後の武郎という人物がよく現れている。
 彼は自分の性格を引っ込み思案で夢見がちと捉えていた。実際その通りだったのだろう。札幌の地にあこがれてはみたものの、他の学生たちとは相容れず、なかなか友人ができなかった。そりゃそうだろうと思う。農学校を志すような学生は、普通は農業の現実を知った上で開拓なり農場経営なりに自らの道を定めるつもりで入学してくる。普通はぼんやりとした農業へのあこがれだけでは入らない。おまけに、武郎は士族教育に始まって西洋教育から華族教育と、いわゆる一般的な教育を一度も受けていなかった。友達ができなくて当然だ。
 しかし、どこにでも変わり者はいる。有島の同級生にもいた。終生の友人であり、一時期は同性愛的交流さえあった森本厚吉である。厚吉はなかなか狷介な人物だったようだが、なぜか有島に目をつけ、自分の友人となるよう迫ったのだ。そして、キリスト者であった彼は武郎を信仰に巻き込んでいく。その過程で、武郎は厚吉とキリスト教の双方に心酔し、のめり込んでいった。なにかに熱狂してはまりやすい性格がよく表れたエピソードだ。
 挙句の果てに、二人して死ぬつもりでプチ家(というか寮)出する。そう、つまり武郎は心中の前科者だったのである。もっとも未遂も未遂、5日ほどで逃げ帰るのだが。しかし、これがきっかけとなり、キリスト教に入信することを決め、清教徒に倣った祈りと禁欲の生活を実践していく。
 しかし、「ボクの考えた清いキリスト者」生活は思わぬ副次的効果をもたらした。禁欲を厳しく課したがゆえに、かえって性欲が前景化してしまったのだ。
 20歳そこらのヤリたい盛りに禁欲なんぞやってしまったがゆえに、かえって性欲が爆発したのである。とはいえ、別に乱倫に陥ったわけではない。セックスは全面拒否した。帰省中に祖母付きの看護婦に性的な誘惑を受けても、それを退けるくらいには徹底していたらしい。
 しかし、この時期の禁欲体験が、のちの武郎の女性観……というより異性交際観を、変に歪めたように私には思えるのだ。
 武郎は、自分自身の心の弱さと性欲の強さ(と本人は思っている)を自覚し、肉の欲求を抑えることに宗教的/精神的意義を見出した。崇高なようだが、マゾヒズムの表れといえないこともない。
 また、衝動を抑えすぎた末、理想と現実の不均衡に折り合いをつけようとする心が過度に働きすぎたのか、プラトニック・ラブであれば同時に複数の女性と愛を交わすことになんら疑問を持たない人間になっていくのである。人に隠すようなこととすら思わなかったらしい。発表したエッセイや論文にも「僕は複数の女性と同時進行できるよ!」と大威張りで書いているほどだ。それでもスキャンダルにならなかったのはひとえに「肉の関係」は結ばなかったかららしい。まあ、世の中そんなものである。
 だが、この不均衡が起こった時点で、おそらく武郎の末路にはある程度布石が打たれたのではないか。そう思えるほど、「体の関係はないけどズブズブの恋愛関係になる女性」が一生を通じて増えていくのだ。

脱キリスト教して社会主義へ

 そんな武郎が、初めて結婚を考えるレベルで意識したのが河野信子という女性だった。
 農学校を卒業後、一年間の兵役を終えた武郎は、米国留学を目指して準備を勧めていた。そんな時、信子と出会った。彼女は札幌農学校の恩師である新渡戸稲造(千円が夏目漱石だった時代に五千円札だった人)の姪で、瓜実顔の美人である。もう一度言おう。信子は美人だったのである。
 これはどんな解説書にも研究書にも書かれていないが、この際だからはっきり言っておこう。
 武郎は、紛れもなく面食いだ。絶対間違いない。
 証拠はいくらでもある。書簡集を読んで、ラブレターが出てきたら、その女性の顔写真をネット検索すればいい。誰だって「ああ~」と思うはずだ。
 とにかく、すっかり信子に心奪われたものの、最初のうちは気持ちそのものを信仰的理由で否定していた。ところが、同時期に友人や弟妹の愛子や生馬が恋愛問題に悩み苦しむのを見て、徐々に我が禁欲生活に疑問を持ち始める。

 余は一人の同情を呈し得るものあるは余に一人の恋人あるなり。彼女の余を思うと思わざるとは余の知る所にあらず。余が心の中にあこがるるなり。而して余が心の中には云うべからざる涼しさを感ず。主に謝す、感謝す。余を苦しめたまえ。(明治3635日の日記より)


 歪んでるなあ、と思いませんか?
 青年の煩悶といえば美しいだろうが、「主に謝す、感謝す。余を苦しめたまえ」の自己陶酔感、私はちょっといただけない。
 武郎には、すべての事象において「理想型」を見出し、それに無理矢理自分をはめ込もうとする傾向がある。だが、どんな女性もバービー体型にはなれないように、人工的な理想に生身を合わせるのはまず無理だ。必ずどこかが余り、どこかが空く。
 自己陶酔するのと同じぐらいの勢いで自己批判も欠かさない武郎にとって、理想に対する余剰と欠損は常に苦しみの元になった。
 彼の人生に漂う空転の気配は、幼い理想を捨てきれなかったゆえに生じたものだ。だが、それは一種のシステムとして武郎の根幹にがっちり食い込んでいた。空回りがなければ、彼の人格も文学も成り立たなかったと思われる。
 なんとも業が深いというか……。
 真面目といえば真面目な人だったんだろうなあ。
 女癖は悪いけれど。
 話を戻そう。
 25歳の武郎は信子に心を残したまま、明治361903)年8月、米国留学に旅立った。そして、ペンシルバニア州のハバフォードカレッジの大学院に入学し、歴史と経済を学び始めた。
 そこでアーサー・クロウェルという米国人の友人を得て、11月には彼の実家に遊びに行き、出会ったのだ。永遠の心の恋人(の一人)・フランセス、通称ファニーに。
 当時、ファニーは13歳。さすがにガチ恋の相手にはならなかったようだが、かえってプラトニックな憧れが掻き立てられ、心の中の一部屋を永遠に明け渡すことになった。
 ファニーに対して、「童女の清浄と歓喜」を感じた武郎は、彼女を偶像化する。ところが、翌年ファニーの少し大人びた表情を見ると一転「お前はもう童女じゃない、処女になってしまったんだね」などと本人を前にして言い放ち、ファニーの心を傷つけた。武郎はそんなつもりはなかったと弁明しているが、どう考えても性的な発言である。きっぱりセクハラだ。この一件でファニーは心を閉ざす。だが、すでに「童女としてのファニー」を心の部屋に閉じ込め完了していた武郎にとって、現実の彼女は用済みだった。ことの顛末を描いた短篇「フランセスの顔」は、ファニーの“Farewell!”という、拒絶のような別れの挨拶で終わる。だが、私にはむしろこれが武郎の言葉のように思えてならない。
 武郎の恋愛には、一人で盛り上がって相手を崇拝し、ピークが過ぎたら勝手に萎えていく傾向がある。
 彼にとって、女性は「憧れを投影するための鏡」でさえあればよかったのだろう。等身大の女性には興味がなかったのだ。だからこそ、好きな女はいくらでもできる。理想の数だけ、女性が必要だったのだから。
 三年の留学が終わると、武郎はまっすぐ日本には帰らず、弟の生馬が留学していたイタリアに向かった。グランド・ツアーの始まりである。ナポリを始点にイタリア各地を周遊、さらにスイス、ドイツ、オランダ、ベルギー、フランス、イギリスと西ヨーロッパの主要都市を巡り、見聞を深めた。
 そして、スイスでまたしても永遠の恋人を見つける。投宿したホテルの娘、ティルダ・ヘックだ。ティルダとともに過ごした時間はほんの一週間だったが、その間もうティルダに首ったけになった武郎は、思わず彼女にキスして、「私、婚約者いるから」と告げられてまたもや勝手に失恋する。しかし、彼女との文通は日本に帰ってからも続き、なんと16年間も続いた。つまり、死ぬまで交流していたのである。
 武郎は、19085月、帰国して一年ほど経ってから、ティルダにこんな手紙を送った。

今晩また貴方のこの前の手紙を読み返しました。そしてお会いして貴方の目を覗き込み、あの湖のほとりでしたように、貴方の手をきつく握りしめたいという思慕の念に強く捕らえられました。(中略)ティルダ、私は告白します。私は長い間、自分自身と貴方を欺いてきました。貴方は私の友人ですとか、親愛なる友とか、愛しい妹(*筆者注 実際にはティルダが一歳年上)とか言った時、私は無意識に貴方に嘘をついていたのです。私は貴方を気に入っているだけではないのです。ただ好きなだけではないのです。愛していたし、今も愛しているのです。(『愛の書簡集―有島武郎よりティルダ・ヘックへ』より)


 熱烈である。熱烈であるが、この時期、彼は信子との結婚を諦めて大いなる苦しみを受けていたはずである。つまり、ファニーやティルダに熱烈な愛を捧げている最中も、信子は信子で結婚するつもりの恋人として心の部屋にキープしていたのだ。ついでに言うと、父の勧めで19歳の神尾安子とお見合いして婚約したのはこの4ヶ月後で、結婚までの半年ほど10歳年下の別嬪さん相手に恋愛感情を謳歌した。ところが、結婚寸前になって恋がなんだか冷めてしまったと言い出す始末。
 なんなんでしょう、この人。

 私は極端な一種の潔癖症と、自分を恋人に与えるまでは、肉体を愛のない女に与えまいとする欲求と、自分の肉の欲求のために多かれ少なかれ婦人を犠牲に供するのを畏れる心とから、三十一歳になるまで肉的な関係では童貞を守り通して来た。然しそれは私が性的に潔白であったと云う証明にはならない。(中略)実際に婦人を犯さなかった私も、心の中では常に婦人を犯していた。而してこの内部の葛藤に苦しめられ通した。(『リビングストン伝』第四版序より)


 理想と現実の板挟みへの煩悶は、ポーズではなく本物だったらしい。
 信仰は刻一刻と揺らいでいった。原因は複数あったが、「ボクの理想のキリスト教」に現実のキリスト教をはめ込んだら、あっちこっちに矛盾が生じてそれを抱えきれなくなったのだ。また、米国留学中に、最新の西洋哲学や流行期に入りつつあった社会主義思想に触れたことで新たな「理想」を得たもの原因のひとつだった。
 ただ、それに対してどうアプローチすればいいのか皆目わからず、自己嫌悪に陥っていった。そして、ティルダに熱烈な手紙を送る一ヶ月ほど前にはピストル自殺を試みるほど追い詰められていた。とはいえ、その直後にあの手紙かあと思うと、どうにもどっちらけであるのだが。
 結婚した妻との間には次々と三人の男の子が生まれた。結婚後、せっせと励むようになった夜の営みに「これではいかん」と半年も妻の体から離れたりもしたそうだが、その割には順調な家族計画である。だいたい、半年ほっとかれた若妻はどうすりゃいいのという話で、夫婦仲は悪くもないが良くもない、という具合だったようだ。「An Incident」という短篇では、はじめての子育てに癇癪を起こす自分の姿を客観的に書いているが、妻の心理への洞察はどうにも身勝手さがにじみ出ている。
 しかし、たとえそうだとしても、武郎はこの時代の男性にしては妻を尊重しようとしているし、子煩悩だった。だから、もし安子がそのまま生きていれば、あるいは状況は変わったかもしれない。
 だが、安子は結核のため、27歳の若さで没した。
 時に大正5(1916)年、武郎は38歳の男盛り。この多情な男が、ただで済むはずがなかったのだ。

(後篇に続く)

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