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第9回

有島武郎――遍歴の果てにたどり着いた情死という安楽(後篇)

2019.06.14更新

読了時間

  『文豪』という言葉にどんな印象がありますか? ここ数年、文豪をモチーフにしたゲームやアニメの影響による『文豪ブーム』で、文豪の人柄に関心が高まっています。この連載では、文豪の末期、すなわち『死』に注目をします。芸術家は追い立てられるように生きて薄命な印象がありますが、文豪はどうなのでしょうか。『死』を見つめることは『生』を見つめること。それぞれの『死』から、多様な生き方を見ていきます。
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有島武郎(ありしま・たけお)
小説家。明治11(1878)年、東京生まれ。大正12(1923)年、軽井沢で編集者・波多野秋子と情死。享年45。代表作に『或る女』『一房の葡萄』『小さき者へ』『生れ出づる悩み』など。

 

小説家としての成功、社会主義の実践、そして情死


 大正51916)年は、武郎にとってある意味厄年、ある意味解放の年となった。
 妻だけでなく、父も死去したのである。父は、理想家で夢見がちな息子にさっさと見切りをつけ、せめて苦労なく生きていけるようにと北海道のニセコに農場を購入していた。つまり、地主として収入を得られるよう、周到に用意してやっていたのである。なんとありがたい親心だろう。
 ところが、それが武郎には負担だった。すでに社会主義思想に傾倒していた武郎にとって、小作人の上前をはねながら有産階級として生きることは苦しみ以外の何物でもなかったのだ。しかし、彼にとって絶対的権威である父の意向を無視するわけにはいかなかった。
 だが、権威は死んだ。妻という枷も死んだ。
 武郎は、ようやく自由に生きる道を見出した。
 かの有名な文学同人誌『白樺』には結婚の翌年から参加していたが、小説家としての仕事を本格化させたのは妻と父の死の翌年からだ。
 1917年には「惜しみなく愛は奪ふ」「カインの末裔」、1918年には「小さき者へ」「生れ出づる悩み」、1919年には「或る女」と代表作を次々に発表していく。
 その理知的かつ最新の思想に裏打ちされた作品はまたたく間に人気を博し、圧倒的な支持を得た。特に母なき子となった三兄弟にあてて書いた「小さき者へ」は世の女性の紅涙を絞ったという。
 理知溢れる文章、柔和な顔立ち、洋行帰りの洗練された立ち居振る舞い。結婚生活数年で妻を亡くした後、子どもたちのために独身を貫く決意をしたという清廉性と悲劇性。おまけに婦人運動に理解を示す近代人としてのスマートさ。
 これでもてないはずがない。
 派手な女性関係がまた始まった。もちろん、「肉の欲」は抜きだが。
 妻の存命中から(ここ大事)交流があった御園千代子は鶴岡八幡宮の沿道にある寿司屋の娘だ。文壇公認の仲良しさんは閨秀作家の大橋房子。元帝劇女優ですでに人妻になっていた唐沢秀子とは秋子から関係を疑われるほど「お親し」かった。さらに、ノンフィクション作家の永畑道子は、あの与謝野晶子とも恋愛関係にあったと断定している。他にもいろいろといたらしい。
 波多野秋子も、最初はそうした中の一人だった。
 ところが、彼女だけ、武郎と抜き差しならない関係になることに成功する。
 なぜか。
 たぶん、理由はふたつある。
 まず秋子が女優顔負けの飛び抜けた美女であったこと、そしてもう一つは、破滅願望に囚われつつあった武郎の心の部屋に、うまくすっぽり入り込んだことだ。

波多野秋子――生きづらさを生きた女


 波多野秋子の出生は今ひとつ詳らかではない。母が新橋の芸者だったことは確実だが、父の身元には二説あり、判然としないのだ。とはいえ、父のわからぬ子というわけではなく、秋子自身は父を知っていた。だが、その名を公表すれば自らが庶子であることがバレてしまう。そのため、ひた隠しにしていたらしい。
 秋子の母は娘を芸者にはしたくなかったので、女学校に通わせた。そこで一人の英語講師と出会う。夫となる波多野春房だ。18歳の秋子はまさに花の盛りだったのだろう。詳しい経緯はわからないが、春房は妻帯者であったにもかかわらず15歳以上年下の秋子を見初め、離縁してまで彼女を妻に迎えた。そして、大学に通わせ、教育を授けた上、女性編集者として中央公論社で働くよう仕向けたのである。
 こう書くと、なにやら春房と秋子は大恋愛の末に結ばれ、春房は秋子を掌中の珠としたように見えるが、実際の結婚生活は、少なくとも秋子にとっては不幸なものだったらしい。
 春房は極めて女癖が悪かった。そして、秋子をモノのように扱った。才色兼備で流行りのモガでもある秋子は、格好のトロフィー・ワイフだったのだろう。トランプ大統領とその妻の関係と同じようなものだ。
 秋子はプライドの高い女だった。自分を引き上げてくれたとはいえ、よその女にうつつを抜かす男を愛し切ることはできなかったに違いない。
 秋子は美しく、賢く、人から称賛されることに慣れていた。同僚だった木佐木勝はそんな秋子を高慢ちきな女として嫌い抜いたが、社内ではどんな難しい作家からでも原稿を取ってくる有能な編集者として重宝がられていた。ご多分に漏れず色仕掛け云々を噂されたようだが、仕事のできる美女には今でもつきものの中傷だ。内心はともかく、外面では歯牙にも引っ掛けぬそぶりだったようだ。
「中央公論社の女王」と揶揄されるほど自信に満ちた大輪の花。
 しかし、内実は違ったらしい。唯一心を許した親友の石本静枝は秋子がしばしば死んだ母を思って泣き崩れ、自殺願望を口にしていたと証言している。出生の暗い秘密と不誠実な夫の遊蕩は、秋子にとって強いコンプレックスであり、心を常に傷つける刃となっていた。
 そんな彼女の目に、武郎は「最後の救い」に見えたのかもしれない。
 以下は、数少ない資料から私が推測した内容だ。
 武郎研究は膨大にあるが、秋子研究は管見ではほとんどない。資料は当時のマスコミが報道した噂話や、「婦人公論」が事件を特集した号に載った各方面からの追悼文ぐらいなのだが、そのほとんどはなにかしら悪意を含む、もしくは必要以上に無関心を装う物言いになっている。
 さらに、秋子が直接書いたものとなると、遺書ぐらいしかない。これでは研究のしようもないのだろう。
 そうした資料の性質を頭に入れた上で読み解くと、30歳を目前にした秋子が美貌の衰えに強い恐れを抱いていたのはまぎれもない事実のようだ。
 死の直前、疲れた表情を見せるようになっていた秋子が、急に娘っこのように派手な格好をし始めたとする証言が複数ある。
 30歳といえば今でも女性にとっては最初の大台だが、戦前など「はたちを過ぎれば年増」の時代だ。若さと美しさを看板にしてきた女が感じた焦燥感は察するに余りある。
 秋子は才女で、人あしらいもよく、英語にも堪能だった。それだけで身過ぎ世過ぎは十分なはずである。だが、なまじ銀座を歩けば誰もが振り返るほどの美女だったことが、実力を隠してしまったのだろう。本人でさえ真の自分を見損なっていた。能力より美をアイデンティティにしてしまったのだ。
 事件翌年、中央公論社で開催された新年会の様子を、木佐木は次のように書いた。

 去年の新年会には波多野秋子女史がけばけばしい派手な装いで出席して人目をひいたが、今年は秋子女史のあとに入社したI女史が『婦人公論』の席に地味な和服姿で坐っていたのが目についた。(中略)I女史なら、問題を起こすようなこともないし、自分なども秋子女史のように反感を起こさせられないで済むように思った。しかし、秋子女史は宴会の席上ではたしかに紅一点だったし、席上に一種の華やかな雰囲気をかもし出す点では、I女史とは比較にならなかった。(中略)今日の宴会の席上にI女史を見た瞬間、やはり秋子女史の存在意義はこういう場所では重要であったことを悟った。(中央公論新社刊『木佐木日記』下巻 大正13年1月7日の記述より引用)


 これでも秋子を悼んでいるつもりだろうが、女性差別に満ちたなんとも呆れる記述だ。とはいえ、木佐木一人を責めることはできまい。今でさえ、職場の女性に対してこの程度の見方しかしない者はごまんといる。
 職業婦人が珍獣に近い存在だった時代、どれだけ能力を発揮しても正当には評価されず、花としてのみ存在を認められている自分。しかし、もう間もなく花は散る。教養は夫から与えられたもので、持って生まれた才覚には重きを置いてもらえない。
 そんな状況で「美」に固執せざるを得なかった秋子の心情を思うと、本当に胸が痛む。
 若作りする女は自分を知らないのではない。むしろ嫌というほど知っているから、時を止めようと必死になるのだ。
 秋子の女王然たる態度は徐々にエキセントリックなものになっていった。秋子が武郎と面識を得たのは28歳前後とみられるだが、その時期に武郎は「美貌の婦人記者が僕を誘惑にくるんだよ。滑稽じゃないか」と周囲に話していたという。
 しかし、交流を重ねるうちに、武郎の心情は変化していく。面食いのことだから、最初は美貌に心捉えられたのかもしれない。とはいえ、ただ美しいだけの女ならいつもの恋愛ごっこで済んだだろう。
 だが、秋子の内面には埋めがたい虚無と自己破壊願望があった。武郎はそこに共鳴したのではなかったか。

惜しみなく奪われた愛と命 そして、腐乱


 武郎に迫る死の影を、彼の著作の中に見出すのは全く難しいことではない。

 運命は現象を支配する、丁度物体が影を支配するように。現象によって暗示される運命の目論見は「死」だ。何となればあらゆる現象の窮極する所は死滅だからである。

 人間の生活とは畢竟水に溺れて一片の藁にすがろうとする空しいはかない努力ではないのか。

運命が冷酷なものなら、運命を圧倒してその先きまわりをする唯一の道は、人がその本能の生の執着を育てて「大死」を早める事によって、運命を出し抜く外にない。
(上三文すべて「運命と人」より)


 情死への道筋も読み取れる。

 緩慢な、回顧的な生活にのみ囲繞されている地上の生活に於いて、私はその最も純粋に近い現われを、相愛の極、健全な愛人の間に結ばれる抱擁に於いて見出すことが出来るように思う。彼らの床に近づく前に道徳知識の世界は影を隠してしまう。二人の男女は全く愛の本能の化身となる。その時彼等は彼等の隣人を顧みない。彼等の生死を慮らない。二人は単に愛のしるしを与えることと受け取ることにのみ燃える。そして忘我的な、苦痛にまでの有頂天、それは極度に緊張された愛の遊戯である。それ外に何物でもない。

私の愛は私自身の外に他の対象を求めはしない。私の個性はかくして成長と完成との道程に急ぐ。然らば私はどうしてその成長と完成とを成就するのか。それは奪うことによってである。

愛が完うせられた時に死ぬ、即ち個性がその拡充性をなし遂げてなお余りある時に肉体を破る、それを定命の死といわないで何処に正しい定命の死があろう。
(上三文すべて「惜しみなく愛は奪ふ」より)


 1919年まで順調だった武郎の創作活動は、20年後半になって急ブレーキがかかった。創作力の減退を本人が感じるようになったのだ。それはつまり理想主義者・有島武郎の行き詰まりであった。
 武郎は、自然主義文学が抱える自己憐憫や欺瞞を超え、それを内包した上での理想主義を貫こうとしていた。しかし、我が身をブルジョア階級に置く以上、どれだけ真剣に拳を振り上げても所詮は有閑階級の戯言としか受け取られない。その現実に耐えられるほど、武郎は厚顔ではなかった。この一点において、武郎は確かに稀に見る純粋の人だったといえる。
 理想と現実の狭間に苦しむ姿を人に見せる行為自体が偽善者と罵られる要件になるのは承知の上で、武郎は心情を吐露し、社会主義周辺の人々を批判し、とうとう自ら財産を手放すことを決心する。
 1922年にはニセコの農場を小作人に解放し、共同農場にしてしまった。
 無産階級を搾取することなく、筆一本で生きる。そんな理想型に自分をはめ込んだのだ。
 しかし、やはり隙間と余りが生まれた。武郎の決心への母を始めとした親族の反対、創作力が衰える中での将来への不安、理想通りには運ばない小作人との関係性……。
 埋めがたいギャップに、死という甘い毒を携えた秋子がすっと滑り込んだ。

 この先どんな運命が来るかわからない。この頃は何だか命がけの恋人でも得て熱い喜びの中に死んでしまうのが一番いい事のように思われたりする。少し心が狂いだしているのかなと自分でも思うが。(1923225日 叢文閣社主足助素一への書簡)


 二人は、愛人関係になった。さして間を置くことなく、道ならぬ恋が秋子の夫・春房の知るところとなり、春房は罠にはめるような形で間男の現場を取り押さえた。一度は別れると約束した二人だったが、結局は離れられず、再び関係を結んだ。また、春房にバレた。
 春房は武郎にこう言った。「この女はくれてやる。だが金をかけて育てた女だ。代価をよこせ。払わなければ警察に突き出す。たとえ払ったところで死ぬまでタカってやるがな」
 武郎は拒否した。
 愛する女を金に代えることなどできない。そんなことをするぐらいなら警察に出頭すると断言したのだ。
 春房はうろたえた。
 彼は普通で俗な男だった。だから、一生タカってやると言えば武郎が怖気づくと考えたのだろう。そして、金が払われたら、言行の不一致を大いに罵って武郎の心を蹂躙する腹積もりだったのかもしれない。いずれにせよ、まさか命を賭してまで理想を貫こうとする者が現実にいようとは想像もしなかったに違いない。理想なき人間は、理想を語る人間をなめてかかるものだから。
 膝詰め談判は物別れに終わった。武郎は警察に行くと言って譲らなかった。最後は春房も半ばなだめにかかっていたという証言もある。
 とにかく、この時点で死への道行きは決まったようなものだった。
 絶望的な状況だ。社会の良心ポジションにいる男が姦通を犯したとしれば、世間はどういうだろう。恥辱は自分だけでなく、家族にも降りかかる。有島家はいわゆる「華麗なる一族」だ。手ぐすね引いてスキャンダルを待ち望んでいる連中も少なくなかっただろう。
 だが、思うに、この時の武郎はさほど絶望を感じなかったのではあるまいか。むしろ、格好の死の舞台が用意されたことに、一種の喜びを感じたのではないかという気がする。
 なにせ、最後に身を投じるべき「理想」が向こうからやってきてくれたのだから。
 武郎にとって最後の恋は、短期決戦でなければならなかった。なぜなら、自身理解していたからだ。狂おしいほどの秋子への愛もいずれ冷める、と。これまでのすべての恋がそうであったように。
 死の旅路に出るその日の午前、武郎は彼のアシスタントのような立場にいた足助素一という人物に会っている。秋子も同席した。死の決意を語る武郎を足助は必死に説得し、秋子に対しても「この人には三人の幼い子がいるのだ!」と翻意を懇願した。
 だが、もうこの時、武郎と秋子は完全に二人だけの世界に閉じこもってしまっていた。すでにどんな言葉も届かなかった。秋子はただ武郎だけを見つめ、「二人でわかってさえいればいいのね」とつぶやいたという。
 きっと、秋子は嬉しかったんだろうな。
「お前は金には代えられない」と言ってもらえて。
 大正121923)年68日の夜。武郎45歳、秋子30歳。
 二人は列車で軽井沢に向かい、雨のそぼ降る中、死に場所となった別荘にたどり着いた。そして、数通の遺書と辞世の歌をしたため、首をつって命を断った。

 もし私が愛するものを凡て奪い取り、愛せられるものが私を凡て奪い取るに至れば、その時に二人は一人だ。そこにはもう奪うべき何物もなく、奪わるべき何者もない。(「惜しみなく愛は奪ふ」より)


 姿を消した二人を関係者は必死になって探した。しかし、見つかったのは失踪から一月も経った後だった。折しも梅雨時、二人の遺体は虫にたかられ、一見どちらがどちらかわからぬほど腐乱していたという。

 愛の前に死がかくまで無力なものだとはこの瞬間まで思わなかった。

恐らく私たちの死骸は腐爛して発見されるだろう。(足助素一への遺書より)


 ようやく理想通りにことが運んだ現実に、武郎は生まれて初めて本物の満足を得ることができたのかもしれない。

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