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第12回

芥川よ、お前もか! 文学アイドルの死を呼んだ女(前篇)

2019.09.20更新

読了時間

  『文豪』という言葉にどんな印象がありますか? ここ数年、文豪をモチーフにしたゲームやアニメの影響による『文豪ブーム』で、文豪の人柄に関心が高まっています。この連載では、文豪の末期、すなわち『死』に注目をします。芸術家は追い立てられるように生きて薄命な印象がありますが、文豪はどうなのでしょうか。『死』を見つめることは『生』を見つめること。それぞれの『死』から、多様な生き方を見ていきます。
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芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ)
小説家。明治25(1892)年、東京生まれ。昭和2(1927)年、東京で睡眠薬による自死を果たす。享年35。代表作に『羅生門』『鼻』『地獄変』など。

延々続いた死の予告

「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である」
 この有名な言葉を残して芥川龍之介が自死したのは昭和2年(1927724日のことだ。
 芥川については今更くどくどした説明は不要だろう。日本近代文学史上数多並ぶの才能の中で一際輝く大スターであり、死後百年近く経った今でもその名を知らぬ者はまずいない。宮沢賢治や石川啄木と違い、生前からすでに人気を博しており、とりわけ文学を志す青少年にとっては眩しいほどのアイドル、まさに「現代文学」のアイコンであった。
 だから、その早すぎる死に世間は驚愕した。しかし、家族や友人知人たちは驚かなかった。芥川が強い希死念慮を持っている――要するにとにかく死にたがっていることは周知の事実だったからである。

僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。
(「或旧友へ送る手記」より)


 考えていただけではない。態度にも表していたし、しばしば口に出し、試行もした。さらに、死を念ずるに至るまでの経緯を作品化さえしている。ここまで「死の予告」を徹底した人は珍しいかもしれない。
 よって、周囲の人間はなんとかして自死を防ごうとやっきになったし、とりわけ妻である文(ふみ)は幼い子ども三人を抱えながらも懸命に夫を支えようとした。
 だが、生に倦み疲れた芥川には、それさえ気を滅入らせる一因にしかならなかった。
 では、なぜ芥川はそこまで追い詰められていったのだろうか。
 本連載ではこれまで本人の作品はもちろんのこと、周囲が見た人間像を参考にしていわゆる「立体的」に各人の死を眺めてきた。だが、今回に限っては本人の著述だけを頼りに、その死を考えてみたいと思う。
 どうしてかというと、大スターの死だけあってあれこれ雑音が多すぎるのだ。それらを一々視野に入れていたら、見えるものも見えなくなってしまう。そこで、本人の遺した言葉だけに耳を澄ますことにしたのである。
 ただし、芥川は作家としては老獪な人だ。「僕は何ごとも正直に書かなければならぬ義務を持つてゐる」(「或旧友へ送る手記」より)と言いつつも、やはり隠していることもあるだろう。また当人だからこそ見えない己の背中もあるに違いない。そこで、晩年の文が語り下ろした『追想 芥川龍之介』のみ例外として参考にすることにした。
 え? 読んでも尽きせぬ資料や論文を読むのがめんどくさくなっただけだろう、って? 嫌だなあ、人聞きの悪い。そんなことありませんよ。嘘じゃありません。私は何ごとも正直に書かなければならぬ義務を持っていますから!

死へのロードマップ

 さて、芥川の「遺書」として有名なのは、先にも引用した「或旧友へ送る手記」だが、もっとプライベートな遺書も遺している。表題はずばり「遺書」、宛ては妻・文だ。
「或旧友へ送る手記」は「誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。それは自殺者の自尊心や或は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであらう。」と大上段な一文で始まっているが、「遺書」は「僕等人間は一事件の為に容易に自殺などするものではない。僕は過去の生活の総決算の為に自殺するのである。」と幾分内面を前に出している。とはいえ、この初っ端の一文、最頃流行りの表現を使うなら「主語が大きい」のは否めないところだ。自殺は「僕」の個性ゆえに引き起こされたものではなく、「人間」の特性であるがゆえに起こると言わんばかりの文章である。
 実際、芥川にとっての自殺は、何年もかけた理論武装が必要な大仕事だった。
 管見によれば、芥川が生前公にされた随筆やアフォリズム集の中で、自殺についての思いを具体的に触れた最初は『侏儒の言葉』の「人生――石黒定一君に――」という一文の中においてである。
『侏儒の言葉』は大正12年(1923)に創刊した「文藝春秋」誌の巻頭を飾る連載として発表されたもので、芥川の機智と人生観がよく表れた箴言集だ。自身は「『侏儒の言葉』は必ずしもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々窺わせるのに過ぎぬものである。」と定義している。
 その中で、石黒定一(注1)という友人に向け、人生の生きづらさについて語りかける一文に自殺話が出てくるのだ。

 もし游泳を学ばないものに泳げと命ずるものがあれば、何人も無理だと思うであろう。もし又ランニングを学ばないものに駈けろと命ずるものがあれば、やはり理不尽だと思わざるを得まい。しかし我我は生まれた時から、こう云う莫迦げた命令を負わされているのも同じことである。
 我我は母の胎内にいた時、人生に処する道を学んだであろうか? しかも胎内を離れるが早いか、兎に角大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。勿論游泳を学ばないものは満足に泳げる理窟はない。同様にランニングを学ばないものは大抵人後に落ちそうである。すると我我も創痍を負わずに人生の競技場を出られる筈はずはない。(中略)
 人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たものである。我我は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ。こう云うゲエムの莫迦莫迦しさに憤慨を禁じ得ないものはさっさと埒外に歩み去るが好い。自殺も亦確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思うものは創痍を恐れずに闘わなければならぬ。


 どうだろう。「やっぱりうまいこと言わはるわ~」と感心するが、まあそれは横に置いといて、この時点、つまり死の4年前には「人生の競技場に踏み止ま」るために闘う気概はあったようである。もちろん、友に贈った言葉だから自分は適用外なのかもしれない。だが、少なくとも「闘わなければならぬ」と言葉にできるほどの気力はまだ残っていたわけだ。

 しかしながら、ほぼ1年後の大正13年(19247月に掲載された「神」という項では、少々雲行きが怪しくなってくる。

あらゆる神の属性中、最も神の為に同情するのは神には自殺の出来ないことである。


 一方便に過ぎなかった自殺が、少なくとも芥川にとっては「埒外に歩み去る」ための良き手段になってきているニュアンスが伝わってくる。良いと思っていなければ同情することもないはずだ。
 そして、生前発表されなかった遺稿分にはずばり「自殺」について書いた項が現れるのだが、ここまでくると自殺は完全に「我が事」となっている。

自殺
 万人に共通した唯一の感情は死に対する恐怖である。道徳的に自殺の不評判であるのは必ずしも偶然ではないかも知れない。


 自殺に対するモンテェエヌ(注2)の弁護は幾多の真理を含んでいる。自殺しないものはしないのではない。自殺することの出来ないのである。


 死にたければいつでも死ねるからね。
 ではためしにやって見給え。


 そして、決定的なのが「死」の項だ。


 マインレンデル(注3)は頗すこぶる正確に死の魅力を記述している。実際我我は何かの拍子に死の魅力を感じたが最後、容易にその圏外に逃れることは出来ない。のみならず同心円をめぐるようにじりじり死の前へ歩み寄るのである。


 芥川自身は死の二年前ほど前から自殺を考え始めたとしているが、実際にはもう少し早くから眼前に「死」がちらつき始め、本格的に捉われたのが大正14年あたりからということなのだろう。その頃から自死への渇望が「同心円をべぐるように」じりじり迫りだしたわけだ。

死を運ぶファム・ファタルと救いの女神

 晩年、心身ともに病み苦しんだ芥川だが、蟻の一穴になったのは大正10年(1921)の中国旅行だったと言われている。3月に大阪毎日新聞から中国視察の特派員として大陸に渡ることになるも、途中風邪のために一週間ほど大阪で足止めになったのがケチのつき始め、上陸早々上海で乾性肋膜炎を発症して三週間入院する羽目になった。もともと神経の細い芥川が、異国の地で病を得てどれほど心細い思いをしたか想像に難くない。
 その時の心情は帰国後に書いた「上海遊記」で読むことができる。

それでも七度五分程の熱が、容易にとれないとなって見ると、不安は依然として不安だった。どうかすると真っ昼間でも、じっと横になってはいられない程、急に死ぬ事が怖くなりなぞした。


 自殺間際の時期の文章に比べると随分と素直だし、きちんと死を恐れている。他の文章も、まだまだ芥川らしい機智と軽みが横溢している。
 しかし、これ以降、芥川は死ぬまで完治することのない体調不良に悩むことになった。病名は胃痙攣、腸カタル、ピリン疹、心悸亢進など様々あるのだが、畢竟すべては神経性疾患だったようだ。芥川の代名詞ともいうべき「神経衰弱」が嵩じて、主に消化器官への影響や不眠といった身体症状が出たというわけである。
 では、なにが芥川の精神をここまで追いやったのか。
 その答えとして、芥川は妻への遺書にこう書いている。

中でも大事件だったのは僕が二十九歳の時に秀夫人と罪を犯したことである。僕は罪を犯したことに良心の呵責は感じていない。唯相手を選ばなかった為に(秀夫人の利己主義や動物的本能は実に甚しいものである。)僕の生存に不利を生じたことを少からず後悔してゐる。(中略)
P.S. 僕は支那へ旅行するのを機会にやっと秀夫人の手を脱した。(中略)その後は一指も触れたことはない。が、執拗に追いかけられるのには常に迷惑を感じてゐた。


 は? 女? 女なんですか???
 そう、本人の言うところによると、彼の神経を痛めつけたのは秀夫人なる浮気相手だというのだ。
 また女の話かよ、文豪ってほんとどーしよーもねーなとうんざりしないでもないが、とりあえず秀夫人を知らねば彼の死に様もわかるまい。本人がそう言っているんだから。
 というわけで、仕方ないので調べてみた。
 名は秀しげ子。旧姓小瀧。明治23年(1890)の生まれだから、芥川より二歳年上だ。生地は神田区錦町というバリバリの都会っ子で、父は金融業を営み、母は元藝妓だったという。有島の情死相手である波多野秋子を彷彿させるプロフィールだ。ちなみに秋子は1894年の生まれなので、当時こういう両親を持つ子は珍しくなかったのかもしれない。長じては日本女子大学校(現在の日本女子大学)に進み、22歳で卒業したその年に電気技師の秀文逸と結婚した。結婚二年後には最初の子をもうけたが家庭の主婦に収まることはなく、歌人、そして「新しい女」の一人として盛んに歌誌や女性誌に寄稿をしている。なかなかの才女であったらしい。残された写真を見ると、お雛様のような顔をした一見おしとやか気な女性だ。とはいえ、秋子や太宰治の心中相手である山崎富榮に比べると、そう目立つ美貌というわけではない。(興味のある方は山崎富榮の画像検索をしてみるとよい。女優顔負けの美女がそこに現れるであろう。)
 おそらく芥川は「才女としてのしげ子」に興味を持った。芥川は女性に知性を求め、「対等な関係」を望んでいた。日本人男性としてはまっこと珍しいと言うしかないのだが、これが彼を妻以外の女に走らせる要因となった。
 妻の文は女学校を出ていて、決して無学な女ではない。それに、鈍い方でもなかった。むしろ勘働きの冴えた、豊かな感性を持つ女性だったようだ。芸術を理解するだけの教養もあった。
 しかし、時代の価値観に逆らうほどの雄々しさはなく、女学校を卒業して即嫁いだ後は、「芥川家の嫁」としての役割を忠実に果たした。こうした彼女の態度は、芥川にとっては好ましくも物足りなく感じられたのだろう。『追想 芥川龍之介』には芥川が文に対して「文子は芥川家のお嫁さんだよ」と言ったとする記述がある。
 僕のお嫁さんではなく、家のお嫁さん。
 近代的自我を文学テーマとしてきた男の歯がゆさが、この言葉からは感じられる。
 もっとも、文と結婚する前は「近頃のえらい女にならず、自然天然のままいらっしゃい」などと書いた恋文を送っているので、文との飽き足らない生活がむしろ「近頃のえらい女」に興味を抱くきっかけとなったのかもしれない。
 いずれにせよ、まだ元気があった頃の芥川には「支えてくれる女」より「互角に渡り合う女」の方がはるかに魅力的に映ったのだ。
 その好例が「才力の上にも格闘できる女性」と言わしめた片山廣子だ。歌人であり、翻訳家でもあった廣子は、英語力では芥川を遥かにしのぎ、教養も知性も感性も高いレベルで持ち合わせるスーパーウーマンだった。
 芥川は14歳も年上の廣子に強い恋心を感じながらも、一線を越えることはなかった。その判断には、当然しげ子との、芥川が一方的に泥沼と感じていた関係への反省があっただろうし、それ以上に廣子への尊敬心がラブ・アフェアの相手にすることをためらわせたのだろう。ちなみにこの時、廣子はすでに夫を亡くしており、ガチのダブル不倫だったしげ子よりは若干なりとて心の負担は少なかったはずだ。しかし、バレれば大スキャンダルで、年上未亡人の廣子がより強いバッシングを受けることは容易に想像できる。そんな危険に、跪く思いで愛する女性を晒すわけにはいかなかったのだと思う。
 余談になるが、『追想 芥川龍之介』において、文が妻として反発心を見せるのは片山廣子ただ一人だ。しげ子や、後に芥川と心中未遂をしでかす平松麻素子に関しては、むしろ「正妻の余裕」とも感じられる態度を取っているのに、ひとり廣子にだけは鋭い切っ先を向けている。
 蛇蝎のごとく嫌われていたしげ子、単に利用されたに過ぎない麻素子など屁でもないが、芥川が真剣に恋をし、「むらぎものわがこころ知る人の戀しも」とまで詠ましめた人には思うのところも多かったのだろう。
 なにせ、「三つのなぜ」という作品中の「なぜソロモンはシバの女王とたった一度しか会わなかったか?」という章で、芥川はこんなことを書いているのだ。

 シバの女王は美人ではなかった。のみならず彼よりも年をとっていた。しかし珍しい才女だった。ソロモンはかの女と問答をするたびに彼の心の飛躍するのを感じた。それはどういう魔術師と星占いの秘密を論じ合う時でも感じたことのない喜びだった。彼は二度でも三度でも、――或は一生の間でもあの威厳のあるシバの女王と話していたいのに違いなかった。
 ソロモンはモアブ人、アンモニ人、エドミ人、シドン人、ヘテ人等の妃たちを蓄えていた。が、彼女等は何といっても彼の精神的奴隷だった。ソロモンは彼女等を愛撫する時でも、ひそかに彼女等を軽蔑していた。しかしシバの女王だけは時には反って彼自身を彼女の奴隷にしかねなかった。
 ソロモンは彼女の奴隷になることを恐れていたのに違いなかった。しかし又一面には喜んでいたのにも違いなかった。この矛盾はいつもソロモンには名状の出来ぬ苦痛だった。彼は純金の獅子を立てた、大きい象牙の玉座の上に度々太い息を洩もらした。その息は又何かの拍子に一篇の抒情詩に変ることもあった。


 もちろんソロモンは芥川で、シバの女王は廣子。
 そして、自分は蓄えられた妃の一人。愛されても軽蔑される存在。
 私が文の立場なら「死にたいのはこっちだよ!」と叫びたくなる。いや、叫ぶ。
 誇り高い夫に「奴隷になりたい」と思わせる女、夫の中の不可侵領域に腰を下ろし「惜しむは君が名のみとよ」と詠ませるほどの崇拝を勝ち取った女に対して、嫉妬するなという方が無理だ。女にとって、愛する人の心に女神として君臨する女ほど、憎くてやるせない相手はいない。
 閑話休題。
 神聖なる女神だった廣子に比べ、しげ子はもっと肉体的と言おうか、人間的な態度で芥川に接し、ある種の獣性を容赦なく振るった。
 獣性とは、マーキングである。つまり「この男は私のものである」と誇示する振る舞いである。それをしげ子は延々と続けた。
 遺書にあった通り、しげ子とは大正10年の中国旅行を境に愛人関係を解消した。と、少なくとも芥川は思っていたし、実際その体には触れなくなった(らしい)。
 しかし、しげ子は芥川につきまとった。
「或阿呆の一生」の「三十八 復讐」に、このような一節がある。

 それは木の芽の中にある或ホテルの露台だった。彼はそこに画を描きながら、一人の少年を遊ばせていた。七年前に絶縁した狂人の娘の一人息子と。
 狂人の娘は巻煙草に火をつけ、彼等の遊ぶのを眺めていた。彼は重苦しい心もちの中に汽車や飛行機を描きつづけた。少年は幸いにも彼の子ではなかつた。が、彼を「おぢさん」と呼ぶのは彼には何よりも苦しかった。
 少年のどこかへ行った後、狂人の娘は巻煙草を吸いながら、媚びるように彼に話しかけた。
「あの子はあなたに似ていやしない?」
「似ていません。第一……」
「だって胎教と云うこともあるでしょう。」
 彼は黙って目を反らした。が、彼の心の底にはこう云う彼女を絞め殺したい、残虐な欲望さへない訣ではなかつた。……


 狂人の娘とは即ちしげ子のことで、「或阿呆の一生」にたびたびこの名称で登場する。芥川は、その中で当初「対等な才女」だと思っていたしげ子が、実は「動物的本能ばかり強い」女であることを知り、早々に愛想が尽きていたばかりか憎悪さえ感じていたこと、関係を断った時には「幸運」とさえ感じたことなどを綴った。
 確かに、しげ子は尋常ではなかった。夫持ちの愛人の分際で、堂々と芥川家に出入りしていたのだ。一時期は面会日である日曜日ごとに現れたという。別れてからも、頻度こそ少なくなったものの、平気で姿を見せた。時には上のように子連れで。また、療養先である鵠沼にも見舞いと称して訪問してきたと文の追想録にある。
 たいした心臓である。どこまでも無神経な振る舞いを続けるしげ子に、芥川はほとほと嫌気が差していた。しかも、しげ子は嫌がらせでやっているのではない。普通に会いたいから会いに来たと言わんばかりなのである。
 芥川の没後、文は思わぬ場所でしげ子と遭遇した。なんと芥川の次男である多加志が入学した小学校に、しげ子の子も入学したのだ。入学式の後、文に声をかけたしげ子は、「発表されました先生の遺稿を拝見いたしましたが、私があんなに先生を苦しめていましたことなど、ちっとも知りませんでした……」と曰ったそうだ。
 やはり、たいした心臓というしかない。これにはさすがの文も一言皮肉で答えたらしいが、それに何かを感じるような人ではなかったと文は回想している。
 結局のところ、才女であったはずのしげ子は、鈍感さにおいてのみ並外れていた。
 それが、人一倍神経質な芥川を苦しめた。
 基本的に、芥川は小市民的倫理観から外れることをしなかった、また、できなかった人である。
 だからこそ、作品において倫理を突き詰めることができたのだが、実生活で乱倫の人と思われるのは苦痛でしかなかった。とりわけ、彼が老人たちと呼んだ養父母と育ての親である伯母・フキに「悪い子」「駄目な子」と思われるのは絶対に避けなければならなかった。愛人が家族の目に入るなど、本来あってはならぬことなのだ。しかし、しげ子は容易に一線を超えてくる。自分がどれほど嫌がろうとも意にも介さず。
 芥川は「河童」で雌に追いかけられてズタボロになる雄の河童を描いているが、あれはしげ子との関係を投影した自画像なのだろう。
 よって、遺書に書かれた通り、しげ子が芥川のか細い神経に相当なダメージを与えたのは嘘ではない、とは思う。
 しかし、である。
 さすがに自死を決意させる理由の筆頭にあげるほどのものだったかどうか。それについては、私はどうにも疑問を抱かざるを得ない。
 これには別の意図があったのではないか。つまり、あくまで「妻宛ての遺書」だったから、取り立ててしげ子を悪者に仕立てたのではないか。そんな気がするのである。
 というのも、もう一つの原因として次に養父母の存在をあげているからだ。

 僕は養家に人となり、我儘らしい我儘を言ったことはなかつた。(と云うよりも寧ろ言い得なかったのである。僕はこの養父母に対する「孝行に似たもの」も後悔している。しかしこれも僕にとってはどうすることも出来なかったのである。)今僕が自殺するのは一生に一度の我儘かも知れない。


 しげ子ほど直接的に糾弾してはいないが、芥川が養父母に対してどれほど気を使い、その圧力に耐えていたかを伺わせる内容だ。
 文にとって、しげ子は夫の愛人、養父母は舅姑だ。どちらも目の上のたんこぶである。
 実際、養父母と伯母のフキは若夫婦のやることに尽く口を出し、とりわけ伯母のフキは逐一の行動報告を芥川にも文にも求めた。これがどれほどの重圧になっていたか。賢夫人の文は追想録でも直接的な不満を訴えはしないながらも、ちょいちょい嫁いじめのエピソードを披露しているあたりから伺えるし、芥川に至っては著作で折りに触れ婉曲に糾弾している。
 要するに、しげ子と伯母を含む養父母は、二人にとって共通する仮想敵のような対象だったのだ。
 芥川は、文に飽き足らないまでも、配偶者としての愛情は感じていたし、彼なりに大事にしていた。
 最後の最後という時に、自死の原因を文にもわかりやすい「敵」に転嫁したのは、文が自責の念に駆られないですむようにという夫としての愛情というか、責任感だったのかもしれない。プライベートの遺書であるにもかかわらず、冒頭の主語が大きいのもそのせいではないか。
 お前は悪くない。悪いのは俺とお前の両方を苦しめた、共通の敵だ。
 それだけを強調するために「遺書」は書かれ、わかりやすい「理由」が語られたのではないかと思うのだ。
 だが、そうならば、自殺の原因は他にあることになる。
 後篇では、そのあたりを探っていきたい。

注1:石黒定一
三菱銀行上海支店に勤務していた実業家。大正10年の中国旅行中に知り合った。別名・政吉。
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注2:モンテェエヌ
ミシェル・ド・モンテーニュ/Michel Eyquem de Montaigne1533年~1592年)
フランス・ルネサンス期の哲学者、モラリスト。著書『随想録』に自殺について触れている項がある。「死にたければいつでも死ねるからね。ではためしにやって見給え。」の一文はここからの連想だろう。
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注3:マインレンデル
フィリップ・マインレンダー/Philipp Mainländer1841年~1876年)
ドイツの詩人、哲学者。著書『救済の哲学』(Die philosophie der Erlosung)で、厭世主義者として人生の価値を全否定している。彼もまた、神経衰弱から狂気に陥り、34歳で自死した。
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