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第15回

小林多喜二――プロレタリアートを目指して(後篇)

2019.12.19更新

読了時間

 『文豪』という言葉にどんな印象がありますか? ここ数年、文豪をモチーフにしたゲームやアニメの影響による『文豪ブーム』で、文豪の人柄に関心が高まっています。この連載では、文豪の末期、すなわち『死』に注目をします。芸術家は追い立てられるように生きて薄命な印象がありますが、文豪はどうなのでしょうか。『死』を見つめることは『生』を見つめること。それぞれの『死』から、多様な生き方を見ていきます。
「目次」はこちら

前編からの続き

小樽の場末で「狭いながらも楽しい我が家」

 狭いながらも楽しい我が家。
 戦前に大ヒットした歌曲「私の青空」の有名なこの一節は、日本の小市民の諦め混じりの願望を見事にすくい取っている。
 物質的には満たされなくても、心が満たされていれば、それでいいではないか。なんとか食ってはいけるが、裕福になれる見込みがないなら、その程度のところに落とし所を見つける他はない。
 もし、小林多喜二が、もっと鈍感で、自分の気持ちに嘘をつけるタイプであったならば、彼もまた「狭いながらも楽しい我が家」の幻を見続けた挙げ句、戦争に巻き込まれていった同世代の人々と同じ道を歩んだことだろう。
 明治36年(1903)年10月、多喜二は秋田県下川沿村(現在の大館市)に生まれた。
 父・末松は比較的裕福な農家の分家の次男、母・セキは小作農の娘。本来であれば、末松は分家として長男家の厄介になるか、あるいは別の職業を探さなければならない立場だが、小林家は長男・慶義が家を出て事業を始めたため、末松が跡継ぎになった。
 セキの証言によると、彼女が嫁入りした当初の小林家は、「家も大きく部屋数も沢山あって家財什器も備え、田や畑もかなり所有して、村でも相当な暮しをしていた」のだそうだ。旅人に宿を貸し、明治時代には駅逓――いわば特定郵便局的な役割も果たしていたそうだから、土地ではそれなりに“顔”の家柄だったと思われる。
 よって、何事もなければ、多喜二はそのまま地主階級の一員として一生を終えていたかもしれない。
 だが、慶義の事業の失敗が、多喜二の人生を大きく変えた。
 末松が継いだはずの土地は、大方が借金のカタに取られた。残った土地で農業を営むだけでは食べていけないことは明白だった。慶義も事情はわかっていたのだろう。自身は心機一転、北海道の小樽でパン屋稼業を始め、それがそこそこ当たっていたものだから、弟一家にも「こっちへ来い」と再三再四催促していたという。
 それでも、夫婦の腰は重かった。私のような根無し草にはわからぬことだが、農で生きてきた人にとって、先祖伝来の田畑がある村から離れるのはよほど辛いことらしい。しかし、生活は苦しくなるばかりで、土地にしがみついていても立ちいかない。
 最終的に夫婦は小樽行きを決断するのだが、その時、多喜二はまだ四歳。農村暮しの記憶はほとんどなく、彼の実質的な故郷は小樽となった。

港の水は青々と深くて、底が岩質だった。それで幾つにも折り重なった火山質の山が直ぐ後にせまっていた。――小樽の街はその山腹の起伏に沿って、海際を横に長く、長く延びている。

 

「転形期の人々」という作品の冒頭で描写される小樽の風景だ。
 北海道西部、石狩湾(小樽湾)に臨むこの港湾都市は、多喜二の描写通り、赤岩山、天狗山、毛無山の三山に取り囲まれた海岸段丘上に街が築かれている。
 開発は維新前から松前藩によって始められ、蝦夷交易の中心地として明治以前からすでに栄えていたが、小樽港は1872年に築港され、1880年に札幌に繋がる鉄道が開通すると、石狩炭田の石炭積出し港として地域有数の都市となった。さらに、1889年には特別輸出港の指定を受け、大陸との連絡/貿易港として大いに賑わった。
 多喜二が暮した頃の小樽は、その繁栄が最高潮に達していたのだ。

 一番下の税関や倉庫や運河や大きな汽船会社のある海岸通り、その一つ上の銀行や会社や大商店のあるビルジング街、その又上のカフェー、喫茶店、夜店のあるまばゆい遊歩街、更にその上に公園が学校やグラウンドのあるこんもりとした緑の場所があって、山の手の住宅街に続いていた――その一段一段が、それぞれの電燈の濃淡をもって、はっきり見分けがついた。それらは又そのまま暗い港の海にキラキラと倒さに映って、揺れた。
(「転形期の人々」より)


 秋田の農村とは何もかもが違う大都市。しかし、多喜二一家が住んだのは、キラキラした街の中心地ではなく、南の外れにある若竹町という地域だった。

街の中央はまばゆい電燈の光で、溢れるように輝いていたい。然し両端の街は――夜になると深い谷底にように暗かった。点々とついている電燈は、どれも黄色ッぽく、薄ぼんやりしていた。――そこは場末で、労働者ばかり住んでいた。(中略)どの家も煤けた同じ型の長屋で、それが階段に沿って規則正しくならんでいた。然し下の方に移るに従って、屋並が乱れ、汚い小さい家がゴジャゴジャに固まり、押しあい、へしあいしていた。
(「転形期の人々」より)


 多喜二の自伝的小説である「転形期の人々」の舞台は、若竹町と市街を挟んで反対にある手宮町だが「両端の街」と書かれているように、似たような土地柄だったらしい。
 つまり、労働者階級の街で多喜二は育ったのだ。この作品で、多喜二が自身をモデルとした龍吉を通して、「両端の街」に暮らす人々の姿を赤裸々に描いている。
 中でも、特に興味深いのが、労働者階級の街にも歴然とした階層があったことを伺わせる部分だ。

 手宮の街――と云っても、それは一様ではなかった。近代的な大工場に通っている労働者は、それでもキチンとした小綺麗な家に住んでいて、二三本樹の植えてある小さい庭ぐらいは持っているものもいた。役付職工などは一戸建てのうちに入っていた。(中略)町工場や謂わば少し大きな鍛冶屋などに通っている労働者も、まださっぱりした長屋に住んでいたが、浜人足や沖仲仕や出面取り(注1)などは、グジョグジョと湿ッぽい、幾つも折れ曲がった小路にささり込むように密集していた。(中略)全体がゆるい勾配になっているこの街を三町(約350メートル)程上って、右に入ると、「朝鮮人」ばかりの一画だった。そこに住んでいる朝鮮人は日雇や土方や積取人夫だった。(中略)この辺では時々喧嘩が起った。お互が組と組に分れて、殴ぐり合いをはじめた。港の荷物の揚げ卸しや、土方でも、日本人の労働者よりも賃金が安く、それに何時間でも働かせられるので、資本家は喜んで朝鮮人を使った。それで日本の労働者とは仲が悪かった。


 長いので引用はこれぐらいで切り上げるが、多喜二はさらにこの下の階層として、まともな家に住めずに、三階建て程度の古いビルの部屋で何家族もがすし詰め状態で暮らしている人々の存在についても言及している。労働者階級も一枚岩ではない現実。真の底辺はコンクリートの壁の向こう側に隠されている。
 主人公の龍吉は、そんな底辺ビルの一階でささやかな小売業を営む家の息子として設定された。
 生活は苦しく、父は働きすぎのため心臓を悪くし、どうにか女学校に通っている姉も放課後にはアルバイト、と書くと軽く聞こえるが、実際にはかなりきつい労働に従事せざるを得ない。そんな下流下層階級の辛く屈辱的な日々がテーマだ。
 これを読めば、読者は皆こう思うだろう。
 こんな生い立ちが、多喜二をプロレタリア文学、そして共産党入党へ導いたのだろう、と。
 私もてっきりそう思っていた。
 ところが、母・セキの回想を読むと、まるで違った多喜二の少年時代が浮かび上がってくる。
 一家はたしかに労働者階級の街に住んでいた。しかし、暮らし向きはというと、多喜二が書くところの「近代的な大工場に通っている労働者」、つまりその街ではもっとも上層にいる人々と同等だったようなのだ。
 多喜二の父母は小さいながらも一戸を構え、菓子店を開いていた。労働者相手の小商いだが、それでも売上は悪くなかったようだ。小樽の街と郊外を結ぶ通り沿いにあったので、客足が絶えなかったらしい。セキは、この時期の暮しについて「仕事に張り合いもあり、楽しみもあって、思いきって小樽へ移って来たことをよかったと夫婦は話し合うのでした」と回想している。
 また、「転形期の人々」と同様、多喜二が自らの経験を下敷きにした小説「同志田口の感傷」には、主人公の母と、女学校に通っている姉が次のような会話をするシーンがある。

鰊の沖上げ」で、畚(注2)背負いをすると、女でも一日二三円になった。「鰊さき」の技術を覚えていると、もっと金になった。(中略)――けれども、姉はそれに行くといわないのだ。
「一日二円にもなるど。何んぼ助けになるか!」
 母は何度もそれをいった。
「んだども……嫌だなァ!……だって……。」
 こんなことの無かった姉だった。
「日曜一日行っても、一月の分が出るんだよ……。」
「日曜だからさ……。」
 姉はいいにくそうにいった。
「日曜だから?」
「……。」――姉はだまって母を見ていた。「……市の人が皆見物にくるでしょう。……それに……。」
 が、そこで言葉が躓いた。
「それに……ね、お友達が、学校の……!」
 母はそういわれて、思わず姉の顔を見た。


 つまり、田口の姉は同級生に汚い格好で働く姿を見られたくない一心で、高額の賃金がもらえる仕事を嫌がったわけである。年頃の女性としては当然の心理だ。
 ところが、この部分も、セキの話ではずいぶんと色合いが違う。当時、小樽の街では春の漁期には鰊担ぎで働くのはごく普通で、良家の娘でもこの日雇いに出たというのだ。報酬がよいのもあるが、現物支給として獲れたてピチピチの新鮮な鰊をもらえるのが一番の魅力だったという。
 多喜二の「自伝的小説」とセキの「大人の回想」を比べると、このような齟齬がちょいちょい見受けられる。
 その、もっとも顕著なのが、多喜二の学生時代のエピソードだ。
 一般的に流布する多喜二の伝記や年譜には、この時期について、伯父・慶義の営むパン工場を手伝うために伯父の家に住み込み、援助を受けながら苦学して卒業した、と書かれている。慶義は多喜二の課外活動や文化活動に白い目を向け、情熱を傾けていた絵の道を強権的に諦めさせたことになっているし、パン工場の職人たちは学校に行ける多喜二に嫉妬して冷たい態度を取ったとされている。
 ところが、セキの証言ではまったく様子が違うのだ。
 そもそも、多喜二は毎日自宅から学校に通っていたとセキはいう。伯父のパン工場で父ともども働いていたのは事実だ。だが、伯父は快く学費を提供してくれ(当然、贖罪の気持ちもあったことだろう)、多喜二が優秀な成績を収めると大いにご満悦で上の学校への進学も保証してくれた。さらに、課外活動をしたり、友達と遊ぶ時間も取れていたというのだ。
 どうも、話が食い違う。多喜二は、自分で書いているより、よほど幸せな少年時代を送っていたのではないだろうか。
 もちろん、母が子どもの気持ちを百パーセント理解していたとは思わない。また、セキが知らないところで、伯父やパン職人たちに嫌な思いをさせられていたことは十分ありえる。「散々恩に被せられて」というのも、伯父の態度の端々に「金を出してやっている」という気持ちがにじみ出ていたのかもしれない。また、絵を止めろと言われた時のショックは、当時書いた詩を見れば相当大きかったようだ。
 しかし一方で、恩に被せられて云々は、多喜二が引け目を感じていたからこその過剰反応と思えないこともない。また、十代半ばの少年少女が芸能や芸術に憧れ、才能以上の夢を見ていたら「お前、世の中そんな甘くないよ」と大人が諭すのは、どこにでもある話だ。
 実際、学生時代のエピソードをつぶさにみていくと、それなりに青春を謳歌する姿が見えてくる。そもそも、本当の苦学生であれば、同級生と絵の展覧会を開いたり、小説や詩を作って雑誌に寄稿したりする暇があるだろうか?
 結局のところ、後年、プロレタリア文学の書き手となってから綴られた「学生時代の思い出」は、かなり盛ってあるのではないかという気がしてならない。
 とにかく、多喜二フィルターを外してみると、彼の少年時代はまさに「狭いながらも楽しい我が家」であり、親や親類の理解によって、同じ街に住む本物の貧困層よりはずいぶんとマシな生活を送っていたようだ。
 そして、この「マシな生活」に対して盛らならければ気がすまなかった心理状態が、多喜二先鋭化の要因であり、彼を変死に導いた遠因であるように思うのだが、それに関しては後ほど触れることによう。

会社員生活から共産党活動員へ


 中学時代から文学に興味を持つようになった多喜二は、大正10年に18歳で小樽高等商業学校(現在の学制では商業短大に相当)に入学すると、盛んに短編小説を書くようになり、やがて志賀直哉に傾倒していく。当時の文学青年としては至って普通のコースだ。
 基本的に凝り性で、一度はまり込むとトコトンまで追求しなければ気がすまない性格であったため、志賀直哉の作品を熟読し、徹底的に研究したという。この営為が、多喜二文学を「手段としての小説」ではなく「正統文学」にまで引き上げたことは言うまでもない。
 そして、大正デモクラシー期に学生時代を迎えた青年らしく、社会主義思想に興味を持ち、大いに共感していく。これも当時の教養ある青年としてはごく一般的だ。
 学友や教師からの評価も「真面目である一方、朗らかでユーモアも持ち合わせる好青年」と大変好意的で、少なくとも運動家にありがちな狷介さは持ち合わせていなかったようだ。学業も優秀だった。
 だからだろう。第一次世界大戦後に起った戦後不況が長引き、「慢性不況」と称された時代のただ中にもかかわらず、北海道拓殖銀行への就職に成功する。
 その昔、銀行員は花形だった。しかも、拓銀といえば北海道では随一の都市銀行だ。
 数十年前の世の中で銀行へ就職しようとすると、単に就職試験で優秀な成績を収めただけでは足りない。まず、学校側が成績や人柄も含めて人物を保証しなければならない。OBの口添えも必要だ。さらには、銀行側が本人はおろか家族の素行や財産状況まで調べる。不正をするような人間では困るし、家族に問題があると当人も横領などに手を出しかねないという判断がなされていたのだ。今では完全に人権侵害だが、当時は銀行側のリスクヘッジとして当たり前に行われていた。
 多喜二の場合、伯父がパン工場で成功していたことも大きいだろうが、それでもやはり生家がある程度「間違いのない家」と判断されたはずである。つまり、本人が書き残しているような「赤貧洗う、と云ってもまだるッこい」状況にあったとは思えないのだ。やはり、セキが回想する通り、決して裕福ではないが、それなりにやっていける程度の収入はあったと考えるべきだろう。
 これを裏付けるのが、多喜二とその家族の人柄を示すエピソードとして知られる二つの出来事だ。
 一つ目はこれ。
 小林家はあまりにも家族仲良く、また幼い子もたくさんいる一家だったので、常にとても賑やかで、時には黙って店のものをもっていく――要は万引なのだが――人が相当いた。しかし、父の末松は「いつものことだから、いいんだよ」と平気な顔をしていた、と姉のチマが話している。
 これは、両親のおおらかで優しい人柄と一家の幸福を示すエピソードという文脈で紹介されているのだが、もし菓子店の収入が一家の暮しを支えていたのであれば、どれだけ呑気な人でも決して万引を見逃さなかったはずだ。
 多喜二は「駄菓子屋」という小品で、小商いで生きる老婆の姿を活写しているが、彼女は他の店で菓子が売れているのを見ただけでイライラを抑えられなくなる。自店の売上が掠め取られた気分になるからだ。生業というのはそういうものである。菓子店の売上で糊口をしのぐ必要があったのなら、どれだけ大様な人でも万引に寛容ではいられなかっただろう。
 そして、もう一つの逸話は、多喜二を語る上で避けて通ることはできない田口タキが関わっている。
 田口タキは小樽の小料理屋「やまき屋」で酌婦をしていた女性だ。当時の酌婦は、ほぼ売春婦に等しい。もちろん、タキも例外ではない。
 多喜二とタキが出会ったのは大正十三年(1924)の十月、多喜二は21歳でタキは16歳だった。
 貧困の末、親に売られ、酌婦に身を落としたタキに大いに同情した多喜二は、翌年にはボーナスを費やして彼女の借金を返し、身元引受人になって小林家に招き入れている。
 この時の様子を、母・セキはこう語る。

「年の瀬も押しつまった頃、多喜二はある夜私に相談があると言い出したのです。どんなことかと聞きますと、ある知り合いの娘さんのために年末賞与の内から二百円の金を恵んでやってもよいかと言うのです。突然のことなので、好いも悪いも一寸返答に窮しましたが、私は多喜二を信用していますし、多喜二も私を信頼してそうした相談を持ちかけたものなので、そこには何等の蟠(わだかま)りのあろう筈がありません。
(小林セキ『母の語る小林多喜二』より)


 タキは多喜二の文学および人生に大きな影響を与えた女性として知られている。“滝子もの”と呼ばれる一連の作品の源泉でもあるので、多喜二を語る上で決して無視できない存在だ。だが、有島における秋子と違い、死に対してはほとんど関係していない。よって、彼女との恋模様については、ここでは触れないことにする。
 だが、タキとの関係を通して見えてくることがある。
 まず、大正末年頃の小林家の財政状態が、赤の他人に二百円も費やしてもなんとかなる状況だったこと。そして、二十歳を幾つか出たばかりの多喜二に宿っていた「貧者に対する過剰な思い入れと少々独善的なヒロイズム」だ。
 実は、多喜二とタキが出会う二ヶ月ほど前、末松が心臓病で急死している。つまり、一家は大黒柱を失い、多喜二のサラリーのみが頼りだったのだ。そんな状態で、今の価値に置き換えると50万円ほどになるお金を、見ず知らずの酌婦に使えるのは、やはりある程度の余裕がなければ無理だ。ここでもまた、小林家赤貧説にクエスチョンマークが点く。
 それなのに、多喜二は著作の中で繰り返し自らが貧困プロレタリア階層の出身だったことを強調している。
 ここに、多喜二のコンプレックスが透けて見えるような気がするのだ。
 多喜二は確かに貧民街で生まれ育った。しかし、貧民街にいるからといって、全員が全員困窮しているわけではない。下流上層ともなれば、子を学校に行かせ、中流への切符を持たせてやることができる。おそらく、小林家が位置していたのはこの階層だ。赤貧という言葉が本当にふさわしい、タキのような女が属している下流下層ではない。
 しかし、共産主義に傾倒していく多喜二にとって、中途半端な立ち位置はあまり歓迎できるものではなかった。
 当時のインテリ青年層らしく社会主義に共感していた多喜二が、それを通り過ぎて共産主義に本格的に近づいていくのは、銀行員時代の大正15年(1926)年頃からだ。
 この時期の日記を見てみると、主な内容はタキとの恋愛の悩みと読書記録がメインだが、はじめてマルクスの『資本論』を読み始めたこと、また志賀直哉信仰を捨てプロレタリア文学に惹かれていく様子が見て取れる。
 そして、最も興味深いのがこの一節だ。

九月二十一日
 俺が赤貧洗う、と云ってもまだるッこい生活をしてきながらも、(親類のお蔭で)高商を出た。そのインテルゲンチュアー(ママ)らしさが、当然与えるアリストクラティックな気持が、その「赤貧」という俺とごっちゃに住むようになった。俺のあらゆる事件に打ち当たっての、矛盾、不徹底はこの「ごっちゃ」からくるようだ――丁度、あの二重国籍者のような!!


 共産主義にシンパシーを感じながらも、銀行員というプチブル生活を享受している自分。
 そこに現れた本物の貧困の犠牲者たるタキ。
 彼女を救うことは、貧者への共感者としての自分を完成させることだった。同時に、己のヒロイズムを満足させることができる。
 多喜二がタキにあてた、有名な手紙がある。

「闇があるから光がある」
 そして闇から出てきた人こそ、一番ほんとうに光の有難さが分かるんだ。世の中は幸福ばかりで満ちているものではないんだ。不幸というのが片方にあるから、幸福ってものがある。そこを忘れないでくれ。だから、俺たちが本当にいい生活をしようと思うなら、うんと苦しいことを味わってみなければならない。
 瀧ちゃん達はイヤな生活をしている。然し、それでも決して将来の明るい生活を目当にすることを忘れないようにねえ。そして苦しいこともその為めだ、と我慢をしてくれ。
(中略)瀧ちゃんも悲しいこと、苦しいことがあったら、その度に僕のこの愛のことを思って、我慢し、苦しみ、悲しみに打ち勝ってくれ。


 世間的には多喜二とタキの堅く麗しい愛が綴られた手紙、ということになっている。
 だが、私は初読時から、なんだか気持ち悪くて仕方なかった。タキ宛の他の手紙もそうだ。熱い思いがあるのは確かだが、妙に上から目線で、しかもなんだか独善的なのだ。
 手紙から透けて見えるのは、一人の女性を愛しぬこうとする男ではなく、かわいそうな女を自分の手で引っ張り上げてヒーローになりたい男の願望だ。そうでなければ「俺の愛を思って今の苦しみを我慢しろ」とは言えたものではない。
 実は、多喜二に引き取られた後の昭和二年、タキは自立を目指して家出する。この辺りの事情を書き始めるときりがないので今は出来事のみを書くに留めるが、おそらくタキはこんな多喜二に感謝こそすれ、男として愛することはできなかったのではないだろうか。己のヒロイズムのために、自分を利用する男ほど、女にとってうっとおしいものはない。ちなみに、多喜二は日記の中で、タキに恋したのは彼女が美貌だったからで、ブスであれば関心を持てなかっただろうとはっきり書いている。何をか言わんや、である。
 荊の城に閉じ込められていたタキ姫は、多喜二王子の手で城から出たが、その妻に収まるよりも自活の道を選んだ。そうさせたのは、おそらく多喜二の保護者ヅラだ。あれほど伯父の恩着せがましい態度を嫌った男が、これである。
 さて、タキに去られた多喜二は、行き場のなくなったヒロイズムの矛先を貧困層に広げていった。プロレタリア文学、そして共産主義にどんどん接近していったのだ。
 そうこうしているうちに、拷問死への最初のマイルストーンとなった出来事が昭和三年に起った。
 三・一五事件である。
 1922年にコミンテルン(注3)から承認された日本共産党は、国の弾圧に耐えきれず1924年に一度解党したが、192612月にコミンテルンの協力を得て再び結党した。ちょうど金融恐慌の最中だった日本において、労農争議のほか、中国・山東への出兵に反対する対支非干渉運動を展開していくが、組織自体が非合法とされたため、活動は水面下で行っていた。しかし、動きを察知していた当局は内偵を進め、1928315日に1323県の共産党員とその同調者約1600人を逮捕・勾留した。そして、そのうち483名が治安維持法違反で起訴された。
 この事件をきっかけに、当時の田中義一内閣は治安維持法での最高刑を懲役10年から、死刑もしくは無期懲役にひきあげ、全県警に特別高等課(特高)を設置することになる。長州出の軍人上がりだった田中義一は思想弾圧の手段に超法規的な「暴力」と「死」を加えた。多喜二虐殺の主要メンバーに数えてよい。
 この事件に大きな衝撃を受けた多喜二は、プロレタリア文学作家としての道を本格的に歩みだす。それは同時に、半端な自身を真のプロレタリアートに塗り替えていく工程でもあった。
 上意下達の啓蒙的な社会主義と違い、当事者の運動である共産主義に入り込むために、多喜二は「貧困層に生まれた自分」をより強調する必要があった。それが、セキの記憶との齟齬の原因だと私は考えている。
 プロレタリアートを目指す人間が、資本家の手先たる銀行員のままでいられるはずもない。代表作のひとつである『不在地主』を発表後、勤め先の拓銀から肩たたきをうけ、依願退職することになる。『不在地主』で拓銀の主要取引先を悪者として描いていたのだ。これはある意味、多喜二にとっての、プチブルからの卒業宣言だったといえる。
 多喜二は、共産主義者として先鋭化する道を選んだ。ここから昭和8年(1933)の死までは一直線だ。
 昭和4年、日本プロレタリア作家同盟が創立されると、中央委員の座についたが、この頃から特高の監視が強まっていく。労働者の団結と資本家・帝国主義者への徹底抗戦を声高に叫ぶ作家が放っておかれるはずがない。
 3月に不朽の名作『蟹工船』が発表したが、4月には三・一五事件と並ぶ共産党弾圧事件である四・一六事件への関与を疑われて、初めて警察に勾留された。
 昭和5年には上京し、当時プロレタリア文壇で名を馳せていた作家たちや共産党の主要活動員たちと交流を深めていく。そうした中、共産党への資金援助や『蟹工船』の不敬罪、さらに治安維持法違反などの罪に問われ、8月から四ヶ月あまり豊多摩刑務所に収監された。しかし、転んでもただでは起きない。獄中では読書や自己反省の時間を多く持つことで、文学者としての己の立ち位置を見直していたという。
 本来の多喜二は、こういう内省的な青年だったのだろう。しかし、一度先鋭化にアイデンティティを据えてしまった以上、もう戻れなかった。
 そして、昭和610月。とうとう共産党への入党が認められた。
 ここに共産主義者・小林多喜二の完成したのだ。
 ところが、どうしたわけか多喜二はそれから一ヶ月ほど後に、奈良県に住む志賀直哉に会いに行っている。志賀とは長らく文通を続けていたが、面会はこの時がはじめてだった。「小僧の神様」ならぬ「多喜二の神様」だった志賀は、この邂逅を大変好意的に受け止めているが、なぜ多喜二は共産主義とは縁もゆかりもない志賀に会おうとしたのか。
 後付けと言われればそれまでだが、私にはこの時の多喜二の行動が暇乞いであったように思えるのだ。ある種の覚悟が、すでにできていたのではないか、と。
 当時、特高による共産主義者への弾圧は熾烈になる一方で、多くの仲間とともに多喜二も拷問を経験していた。しかも、拷問内容はどんどんエスカレートしていった。世論が不法拷問にノーと言わなかったからだ。
 ほとんどの大衆にとって、共産党員は「天皇に逆らう怖い集団」だった。そんな連中が官憲によって殺されたところで痛痒を感じるわけもなく、むしろザマアミロと舌を出す者もあった。もし、それが国民全員の生活が壊れていく糸口だと気づいていれば、彼らもまた違った行動をとっていただろうか。
 昭和7年、特高の目から逃れるため地下生活に入った多喜二の生活を知りたければ、「党生活者」を読めばいい。
 多喜二は、懸命に理想を追っていた。しかし、この頃すでに死の運命はほぼ決まっていた。共産党員の中に、特高のスパイがいたからだ。一人ではない。何人もいた。
 その中の一人、三舩留吉が多喜二を特高に売ったのは昭和8220日のこと。
 築地警察に拘引され、三時間以上に及ぶリンチを受け、多喜二は死んだ。
 その遺体の写真が残っているが、肌は変色し、顔は腫れ上がっている。どこをどう見ても暴力による変死だ。だが、警察は心臓発作による急死と発表し、マスコミもそれが嘘だと知りつつ、右から左に発表した。
 世間はとりあえずそれを信じた。嘘だとわかっていても、自分に関係なければ、嘘でもよかった。
 もちろん、怒りを覚えた者も少なくない。
 志賀直哉は、日記に「警官に殺されたるらし、実に不愉快」「アンタンたる気持ちになる」と書き記している。
 プロレタリア文学とは微妙な距離を保っていた広津和郎は、ひと月後に掲載した読売新聞の文芸時評に「小林の死が人々に与えた感動によって、恐らく彼の死は犬死ではないだろう」と功績を讃え、「この作者が死んでしまったという事は、余りにも理屈に合わなさ過ぎる気がする」と当時公に発表できる限界と思われる表現で追悼した。
 プロレタリア文学とはまったくかけ離れた場所にいた川端康成でさえも、死の直後に出た『新潮』の文芸時評で遺作「地区の人々」を評価し、「とにかくこの作品は、私を明るくしてくれた唯一のものであった。生活の指標も希望もない、諸家の作品を読み疲れた私を救い出してくれたのは、やはりこの作品であった」と書き綴っている。
 しかし、その死の真実を明らかにし、違法な殺人を弾劾しようとする動きはついぞ起きなかった。
 皆が皆、だんまりを決め込んだ。
 その結果どうなったか。
 12年後に国土は焼き尽くされ、何百万もの人間が犠牲になり、大日本帝国は滅んだ。

先鋭化の先にあるもの


 多喜二は死ぬべき人ではなかった。
 多喜二を殺した国家権力と、それを見逃した民衆、つまり私たちの三~四代前の日本人に対しては厳しい批判の目を向けるべきだ。少なくとも私は明確に反面教師としたい。
 だが、多喜二たちの運動に共感を覚えるかというと、そうでもない。むしろ、いずれにしても失敗に終わっただろうと思っている。
「個人的生活が同時に階級的生活であるような生活」をしながら、社会の変革をめざす。
 志はすばらしい。すばらしいが、先鋭化すると取り残されるのは庶民だ。
 その庶民とは誰か。
 タキだ。多喜二の側にいながら、彼の思想にはついていけなかった女性だ。
 多喜二は彼女に結婚を申し込んだが、断られている。彼女には面倒をみなければいけない弟妹がいた。多喜二にも弟妹はいたが、面倒をみる人間は他にいた。だが、タキはすべてを引き受けなければならなかった。そんな人間にどうして共産主義運動に関わる余裕などあろうか。
 そして、もうひとり、共産主義運動が取りこぼした庶民がいる。
 多喜二を死に追いやったスパイ、三舩留吉だ。
 三舩は東京の下町に育った労働者で、労働組合の活動を通じて共産党中枢部にいた源五郎丸芳晴と知り合い、彼の推挙を受けて共産党に入っている。そして、裏切った。三舩は、共産党員が「実践現場」と呼ぶ街場の工場で働く労働者だった。多喜二がなりたかった立場にいた人間が、裏切り者になった。叩き上げの労働者は、思想より金を選んだ。
 このすれ違いに、今も変わらぬ運動家と庶民の関係性が見て取れる。
 多喜二は共産主義者であろうとするばかりに、己の過去をも修正しようとした。そして、愛する人にして本物の貧困を知る女性に「貧者の自覚を持て」と迫った。彼女の意志など関係なしに。運動家になった多喜二には、庶民の心が見えなくなっていたのかもしれない。
 実際、彼の書く文章は、時代を下るごとに先鋭化していく。
 それを読むたびに、私の脳裏をよぎるのは、Twitter論客と呼ばれる一群の人々だ。思想の左右問わず、Twitterで社会的/政治的な発言をする彼らは、フォロワーが増えるに従い、発言内容をより先鋭化させていく。結果、敵とシンパしかいない世界に閉じこもっていく。これまで、何人ものTwitter論客がその道をたどっていった。
 声を出さない人々の支持が失われた時、その運動は内部から崩壊していく。たとえ、弾圧がなかったとしても、タキや三舩を繋ぎ止められなかった共産主義は、実を結ぶことなく落花したことだろう。
 だが、勘違いしないでほしい。私は多喜二ら共産主義運動に命を落とした人々が無駄死だったと言いたいわけではない。むしろ、彼らの犠牲に最大限の敬意を払っている。累々たる屍の上に、民主主義や人権は成り立っている。これらを毛嫌いする不思議な人たちもいるが、彼らもまた、毛嫌いする思想に守られているのだ。親の稼ぎで生きていながら、親の仕事を馬鹿にする出来の悪い子どものようなものだ。
 戦後、共産党は合法になり、政党として国政に一定の存在感を示し続けてきた。しかし、未だ広く国民の支持を受けるには至っていない。きっと、今なお多くの党員が「多喜二」なのだろう。
 一方の特高警察は公安警察と看板を掛けかえて温存されたものの、戦前の威勢は当然ながら無い。だが、現在もとっくの昔に合法になった共産党の監視活動をしているそうだ。ご苦労なことである。
 多喜二の作品を読み、その生涯を知ることとは、現代日本に広がりつつある病に対する処方箋になると思う。だが、このクスリはいささか口に苦い。好んで摂取する者はほとんどいないまま、病巣は深くなっていくばかりかもしれない。
 志賀直哉ではないが、今、私は「アンタンたる気持ちになる」になっている。

注1:浜人足、沖仲仕、出面取り(はまにんそく、おきなかし、でめんとり)
浜人足と出面取りはいずれも日雇いで働く港湾労働者。出面取りは北海道から本州北部日本海側地域にかけての日雇い労働者を指す方言。沖仲仕も港湾労働者だが、日雇いと常雇いがあり、港湾労働の中ではもっとも熟練が必要とされた。
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注2:畚(ふご)
竹や縄などで編まれた、物を入れて運ぶ用具。もっこ。
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注3:コミンテルン(Komintern
1919年、レーニン率いるロシア共産党を中心とする各国の共産党および左派社会民主主義者グループによってモスクワで創設された国際的な労働者組織。ソ連共産党指導のもとに世界革命を目ざす急進的な政策をとったが、1943年、ソ連の政策転換によって解散した。(デジタル大辞泉「第三インターナショナル」の記述より引用)
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