Facebook
Twitter
RSS

第16回

岡本かの子 ―― 鵺のような妖物作家(前篇)

2020.01.31更新

読了時間

 『文豪』という言葉にどんな印象がありますか? ここ数年、文豪をモチーフにしたゲームやアニメの影響による『文豪ブーム』で、文豪の人柄に関心が高まっています。この連載では、文豪の末期、すなわち『死』に注目をします。芸術家は追い立てられるように生きて薄命な印象がありますが、文豪はどうなのでしょうか。『死』を見つめることは『生』を見つめること。それぞれの『死』から、多様な生き方を見ていきます。
「目次」はこちら

岡本かの子(おかもと・かのこ)
小説家・歌人。明治22(1889)年、東京生まれ。昭和13(1938)年、脳充血によって死亡。享年49。代表作に『鶴は病みき』『老妓抄』、歌集『かろきねたみ』、随筆『観音経を語る』など。

 本連載もいよいよ十人目、最後の一人までたどり着いた。
 今回の主人公は岡本かの子である。
 おそらく、これまで取り上げてきた中では、現代での知名度がもっとも低い作家ということになるだろう。「誰、それ? そんな文豪いるの?」と思った向きもあるかもしれない。何となれば、彼女は教科書に載るタイプの作家ではないからだ。念の為、手元の国語便覧(2015年発刊)を引いて見たが、記載はなかった。
 しかし、私としては当初からマストで取り上げるつもりだった。彼女は、このテーマにとって必要不可欠な人物だ。なにせ、49歳の若さで夫と愛人たちに見守られながら生涯を閉じるというエクストリームな死を迎えたのだから。
 それなのに、なぜラストの登場になってしまったのか。
 答えはズバリ、とにかく掴みどころのなかったから、である。
 鵺という妖怪を知っているだろうか。平家物語に登場する、頭は猿、尾は蛇、手足は虎の合成獣だ。異なる獣が複数混ざった姿のせいで正体がまったくわからないため、得体のしれない人間を「鵺のようだ」を表現したりするが、かの子の作品群はまさに「鵺」なのである。
 一般的に、彼女はお嬢様育ちの趣味的作家であり、その小説は叙情的・耽美的で、文章は装飾過多だと評価されている。

 ある夕方。春であった。真佐子の方から手ぶらで珍らしく復一の家の外を散歩しに来ていた。復一は素早く見付けて、いつもの通り真佐子を苛めつけた。そして甘い哀愁に充たされながらいつもの通り、「ちっと女らしくなれ」を真佐子の背中に向って吐きかけた。すると、真佐子は思いがけなく、くるりと向き直って、再び復一と睨み合った。少女の泣顔の中から狡るそうな笑顔が無花果の尖のように肉色に笑み破れた。
「女らしくなれってどうすればいいのよ」
 復一が、おやと思うとたんに少女の袂の中から出た拳がぱっと開いて、復一はたちまち桜の花びらの狼藉を満面に冠ぶった。少し飛び退さって、「こうすればいいの!」少女はきくきく笑いながら逃げ去った。
 復一は急いで眼口を閉じたつもりだったが、牡丹桜の花びらのうすら冷い幾片かは口の中へ入ってしまった。


 代表作「金魚繚乱」の一節だ。これを見る限り、世評はまあ的外れではない。

 お別れしてから、あの煙草屋の角のポストの処まで、無我夢中で私が走ったのを御存じですか。あれはあなたにお別れしたくない心が、一種の反動作用を、私の行為の上に現わしましたの。それから私、走りながらも夢中の夢のように考へましたことは私がもし一寸でもふりかえったら私はまたあなたの方へ……いえついにあなたへ走りかえって、永遠にあなたから離れられない、あの月夜の、月の雫が太く一本下界に落ちて、そのまま停ったように真新らしく白く木肌をかがやかした電柱の下にしょんぼりと私を見送ってたっていらっしゃったであろうあなたのおそばから。


 この、胸焼けを通り過ぎて即効胃潰瘍になりそうなほど甘ったるい悪文は「或る男の恋文書式」という掌編の一部だ。文法も無茶苦茶だし、いくら恋文っていってもこれはあんまりだが、おそらく世人の思う「かの子らしい文章」はこんなところだろう。

 ところが、である。エッセイでは、まったく違う顔が現れる。

 これは無産階級風に描かれたニースの花祭だ。市長就任式の行列(プロセッションが新市長と官飾(デコレーション)を連れ忘れただけだ。ランカシャーの工服を着た象牙画(ミニチュア)のような少女が荷馬車(ホースドロウヴァシ)の上で笑顔をつくつて叫ぶ。
 Down with the British Empire(大英国を倒せ)とシークな事よ。行人の拍手。
 英国では伝統を破ろうとするものはやがて伝統に捉えられる危険がある。発生の早い英国のメーデー(注1)は既に今日歴史を帯ばされて年中行事的に図案化した。無産思想を通じての有色人種と白人との国際的提携を象徴しようとして赤髪の美婦人は灰面の埃及(注2)人と腕組みして行く。だがそれを褒める倫敦(注3)人に彼等の意味を殖民地博覧会(注4)の門冠彫刻以上に汲み取らし得るかは疑問だ。
 それほどこの行列は内容を脱却した英国人通弊の趣向偏重に陥って居る。儀礼的の形式主義(フォーマリズム)に力の角々を嘗め丸められている。すべてこの国では、妥協が貫徹への最短距離なのだ。英国気質の通則以上に表現を露出することは更にそれに打ち勝つ力を弱めることなのだ。自ら進んで伝統の上に位置を占めることがむしろ既存伝統の棄却を完からしめる(注5)ことになるのだ。
(「英国メーデーの記」より)


 これを初めて読んだ時、私は舌を巻いた。渡英中に実見したロンドンのメーデーの行列について、非常に理知的に描写しているだけでなく、加えられた分析がまことに的を射ているからだ。眼前での出来事を正しく社会情勢に結びつけ、英国民の国民性を鮮やかに切り取っている。なかんずく「すべてこの国では、妥協が貫徹への最短距離」なる指摘は慧眼というしかない。ブレグジットの混乱がよい証拠だ。
 このような文章を、単なる世間知らずの耽美主義者がものせようはずがない。付け加えると、先に引用した「或る男の恋文書式」もアイロニーに満ちたどんでん返しがあるので、カルピス原液を煮詰めたような文章は明確な意図で成されたアイロニーなのだ。
 さらに、世俗の生活に関しては、次のような穿った見識を残している。

 仏教を非常に消極的なものに考えて衣、食、住のごときも貧弱一方にするのが功徳のように思っている人があります。これは誤っています。むろん奢り贅沢はいけませんが、身分不相応な切り縮め方をして、子供や使っている人を、営養不良色にして得意になっているのは、これまた贅沢の一つです。吝嗇贅沢といいます。
 一口にいえば、適時、適処、適事情の三つの条件に当てはまるのがよろしいのです。
(「仏教人生読本 第一二課 衣食住」より)


ありきたりといえばありきたりな人生訓ではあるが、世俗の生活に関して常識的感覚を持ち合わせていたことが窺える。ついでに指摘すると、ラストの一文は釈迦の「中道」の精神をわかりやすく生活に落とし込んだ表現であり、読者層によって臨機応変に文体や比喩を変えられる力量の持ち主だったこともわかる。
 さて、もし引用したこの四つの文章を、なんの断りもなく目の前に差し出されとして、果たして同じ人の書いたものだと一体どれほどの人間が気づくだろうか。
 私はたぶん気づけない。
「金魚繚乱」は谷崎潤一郎かぶれの作家志望、「或る男の恋文書式」は文学大好き女学生、「英国メーデーの記」は新聞社の特派員、「仏教人生読本 第一二課 衣食住」は道学先生みたいな人が書いたと思ったことだろう。
 文体もテーマも、とにかくバラバラだ。共通点がない。文章から滲み出る人格の変幻自在は、かのビリー・ミリガンも真っ青である。文豪が文章に巧みなのは言うまでもないが、ここまで書き分ける人は珍しい。太宰治なんかにはあの「女生徒」があるじゃないかと思うかもしれないが、あれはリアル女生徒が書いた元ネタをリメイクしたものだ。お手本の文体があったわけで、すべて自分の風呂敷から出してきたかの子作品とはわけが違う。
 こんなわけで、どれだけ作品を読んでも、彼女の人となりについて何らかの稿を起こせるほどの確信はまったく得られなかった。むしろ、読めば読むほどわからなくなっていったのだ。
 白状すると、当初の予定では「超ナルナルのスキャンダル女王が夫と愛人たちに見守られて死にました(はーと)」みたいなところを、ゲスに面白可笑しく書くつもりだった。ところが、途中からどうもそうはいかなくなっていった……というより、依然としてメインは「超ナルナルのスキャンダル女王が夫と愛人に見守られて死にました」であるのは間違いないのだが、ただそれだけの話で終わらせられないことがはっきりしてきたのだ。
 この人は一体何者なのだ……。
 にっちもさっちもいかなくなって、本人の作品中からそのパーソナリティを推測するいつもの手法は、ひとまず諦めた。若干邪道ながらも、同時代人が彼女について書いたものを拾っていくことで、外堀から埋めていくことにしたのだ。
 だが、結論からいうと、それは失敗だった。むしろ、私のかの子像探しはますます混迷を深めてしまうことになったのだ。

ホンモノの美女、文壇に降臨

 さて、ここでひとまず岡本かの子のプロフィールを、箇条書きで見てみよう。
 本名・岡本カノ。旧姓・大貫。
 歌人にして小説家、そして仏教研究家。
 神奈川県に広大な地所を持つ旧家に生まれ、乳母日傘で育ったお嬢様。
 学芸ともに優れた才女。ただし生活力はゼロ。
 家族にも、他人にも熱烈に愛される。同じぐらい、強烈に嫌われる。文学的評価も然り。ブレまくる。
 夫は戦前に一世を風靡した漫画家・岡本一平。一人息子は「太陽の塔」や「明日の神話」でよく知られる世界的芸術家・岡本太郎。
 こうして列記すると、ずいぶん恵まれた人生を送った女性だという印象を受ける。
 実際、恵まれていただろう。結婚後の数年を除いては。
 その数年が大貫カノを岡本かの子に変容させたのは間違いないところだが、今はそこを飛ばし、死の約二ヶ月前のかの子まで一気に下ることにする。
 昭和13年。49歳のかの子は、ニ年前に積年の念願だった小説家デビューを果たし、新進作家として破竹の勢いを見せていた。ただし、毀誉褒貶は激しかった。
 かの子が影響を受けたとされる谷崎潤一郎は読むに値しない駄作と切って捨てた。一方、小説家にして文芸評論家の林房雄は「岡本かの子は森鴎外と夏目漱石と同列の作家である」とまで絶賛した。川端康成もかの子の才能を認めた一人だった。
 だが、世間は、作品そのものより、彼女の特異な性格と生活により強い興味を持っていた。「エキセントリックなナルシスト」というのが一般的な評価であり、道徳的にふしだらで何をしでかすかわからない女という認識を持っていたからだ。
 小説家になる前後のかの子が、世間にどんな姿を見せていたか。それを、かの子と関係が深かった吉屋信子に語ってもらうことにしよう。

 ある時、新聞社の講堂に文芸講演会が催され、その講師のなかに岡本かの子があった。(中略)夫人が壇上に現れた、お化粧はいつものように念入り綺麗によそおってそれこそ丹花の唇、これは天与の大きなまるい眼をじっと見張って、
「……人間はじぶんを生涯かけて自分自らクリエートしてゆくもので……そのクリエート……」
 ここで人間の精神形成の要を説かんとして意あまって言葉足らぬ哀しみに眼はますます大きくつぶらに――しばらくじっと壇上にたったまま……いくらか娯楽気分で集まったその日の聴衆はクリエートの連発に中毒した顔でつまンなそうである、けれども壇上に泰然自若と立ったまま、一語も軽くは発せず心に湧き出ずる真実の言葉を待つごとく夫人はいつまでも黙して立っている。
(吉屋信子「逞しき童女」より)


 小太りで厚化粧の中年女性が、「クリエート……」とつぶやきながら壇上で陶然と立っている。
 吉屋信子の観察では、聴衆はつまらなさそうにしていたらしいが、もし私がそこに居合わせたら「え、これなに? まじ? ヤバくね?」と脳内ギャルが励起し、小鼻と瞳孔をおっぴろげてワクテカしたことと思う。
 だって、これ、直に見たら絶対おもしろいに決まっている。ほとんどコントである。
 そうそう、念のために申し添えておくが、中年になったかの子の容貌はお笑い芸人のブルゾンちえみさんのコント用フルメイク時状態に近い。体型は同じくお笑い芸人のゆりやんレトリィバァさんを一回りほど小さくした感じだ。そんな女性が、壇上で一言「クリエート……」と呟いたまま、後は黙して固まっているのである。『R-1ぐらんぷり』に出場しても、結構いい線に行くのではなかろうか。
 だが、当のかの子は大真面目……というより、特段芝居がかったつもりもなく、ごく自然な振る舞いを見せていただけのようだ。後日、舞踊家・岩村和雄(注6)の門下生の一人として築地小劇場で開催された公演会に「舞踏家」として出演した際には、さらにエキセントリックな姿を披露しているのである。
 再び、現場を目撃した吉屋信子に証言してもらおう。

 プログラムは進んで岡本かの子……あの葡萄のマークの幕が上ると仄暗い舞台の中央にスポットライトが当たるなかにま白き幅ひろき布を半身斜にかけまとうて、三分の一裸身素足の女身がタンバリンを持った片手を上げて出現した。その手がきわめて緩慢にいちどにど動きタンバリンがかすかに鳴ったがそれなり彫像のごとく動かない。
 わたくしの後方にいた中年の婦人がつぶやいた「あれなに? 外国の活人画(注7)?」
 やがて幕は降りた。ほんとにそれは荘厳なる一種のタブロウ・ヴィヴィンの感だった。わたくしはほっと吐息して席を立った。
 (吉屋信子「逞しき童女」より)


 思うに、かの子はまったく踊れなかったのだろう。しかし、著名人で、おそらく岩村舞踏教室のパトロンでもあったかの子が舞台に出たいと希望したら、それを無碍にするわけにもいかない。活人画パフォーマンスは、岩村畢生の打開策だったのではないだろうか。
 ほら、活人画なら一応、アートって強弁できるし。
 そうと類推できる教養あるご婦人方も会場内にはいたわけだし。
 まあ、なんというか、芸術は機転だ。
 ちなみに、築地小劇場は岩村のホームというべき劇場であり、本気のダンサー志望者や後世に名を残す偉大なダンサーたちがしのぎを削る場でもあった。そこにド素人が立つというのだから、大した胆力である。
 だが、かの子は自らの美がそこで最大限に表現されたと信じて疑わなかっただろう。
 美魔女? ロリババア? そんな安っぽいものではない。
 取り繕った美ではない、内面からも外見からも等しく滲み出る天然の美。太っていようが、厚化粧だろうが、芝居じみていようが、かの子のすることであれば、すべては美に昇華される。
 かの子は本気でそう思っていた。
 かの子には正真正銘の揺るぎない自己肯定力があった。最近のポジティブ・シンキングのような甘っちょろいものではない。もっと足腰の座った、本物の肯定感が彼女の全身を覆っていたのである。
 かの子の「美」は本人とその崇拝者にとっては宇宙の真理であり、強大な力だった。そして、その力は一部の人たちにはとてつもない魅力として、老若男女を選ばず作用した。
 それを十全に証明したのが、まさに「かの子の死」であったのだ。
 彼女が死に至る病を得たのは昭和13年12月12日のことだ。
 場所は東京の自宅ではなく、三浦半島の景勝地である油壺の旅館。伴としていたのは一平ではなく、慶応大学に通う学生だった。もちろん、女性ではない。
 海に近い冬の宿でかの子は三度目となる脳充血の発作を起こし、倒れた。辞書によると、脳充血の症状は次の通り。

脳疾患や著しい高血圧などで脳循環の自己調節機序が破綻し脳の細小動脈が拡張した場合や,心不全などで脳からの静脈灌流が障害された場合に生ずるもので,頭痛,嘔吐,痙攣,意識障害などをきたす。
(「デジタル版世界大百科事典」より)


 さて、お立ち会い。
 しつこいが、この時のかの子は49歳です。
 年齢不相応に若く美しく見える女性もいるにはいますが、かの子はそうではありません。付き合いのあった作家・円地文子の言を借りるならば、その容姿は「グロテスク」でさえあったそうです。
 そんなかの子が、ですよ。
 大学生、旧制大学だから二十歳は超えていたと思うけれども、それにしたって三十近く年下の若者と泊りがけで逢引きしていたってんだから、驚くじゃあありませんか。
 それだけじゃあない。
 このランデヴー、夫の一平公認であったわけです。岡本夫婦はある時を境にいわゆる夫婦関係というものは一切断ち、かの子は自由に男性と付き合っていました。もちろん、大人の付き合いで。しかも、相手はみんな年下。一部は岡本家に寄寓し、妻妾同居ならぬ夫燕同居生活を送っていました。
 ちなみに、私は今年、かの子の享年と同じ年齢になります。
 つまり、死の間際のかの子を、まんま自分に当てはめて考えてみられるわけです。
 だから、考えてみたんですよ。
 ハタチそこそこの男の子と、海辺の宿に不倫旅行をしてみたいかどうか、を。
 答えは、Non! ことは愛の話なのでフランス風に答えてみましたが、本当に、心の底からしたくない。麗しき中年男性ならやぶさかでも……と書きかけて、それもちょっとなあ……。
 何をどうシミュレーションしてみても、この年になってめくるめく秘め事に身を投じるなんて、正直めんどくさい。まして「ハタチそこそこの男の子」ですよ? 話をしても面白くないだろうし、洗練されたエスコートなんて期待できるはずがありません。唯一のとりえである若き精力も、こちらにそれに付き合う気力体力、そして肝心カナメの色気がない限り、宝の持ち腐れです。
 そう思うと、かの子、半端じゃない……。
 かの子にとって、恋はまさに命の煌きであり、華やぎだった。
 一般的な女性であれば、知命を前にすると枯れたとまではいかないが、一から恋の花を咲かるには相当な努力を払って心身ともに回春しなければならない。しかし、かの子に回春は不要だった。バリバリの現役のまま、生涯を過ごしてきたのだから。
 脳充血の原因は高血圧だそうだが、この時の高血圧は体型ゆえの慢性病か、それとも高血圧になるようなことをしていたためか……。今となっては藪の中だが、なんとも元気というか、若々しい。
--いや、そうじゃないな。
 むしろ「男性的」というべきなのだ。自らの年齢を顧みず恋ができるのは、ある意味男性の特権だ。
 人間としての価値を容姿と年齢でジャッジされ続ける女性は、自らを「恋」というフィールドには不適格と判断し、舞台を降りてしまうタイミングが男性よりもずっと早い。稀にいくつになっても恋愛体質という女性は存在するが、彼女たちはおしなべて根っこが男性的だ。どれだけ女っぽく振る舞っていても、精神的な部分では男前であることが多い。
 通俗的な男女論を振りかざすつもりはないが、人生を耐え続けてきた女性が狂い咲き的に恋にハマるパターンは別にして、絶えることなく恋の季節に身を置けるのは男性性に依拠するものだ、と思う。ソースは、長年の見聞による、程度なのだが。
 いずれにせよ、普通の家庭なら嫁が間男中に倒れましたとなると大騒ぎになろう。もちろん、岡本家も上を下への大騒ぎになった。ただ、大騒ぎの色合いが違った。
 一平は、我が女神が倒れたというので、大いに動揺し、狼狽えたのだ。彼とその息子の太郎にとって、かの子の危機は地球の破滅と同じ意味を持っていた。太陽が明日昇らなくなると告げられるに等しかった。
 ふたりの世界は、かの子を中心に動いていたからだ。
 何を馬鹿な、と思うかもしれない。だが、この家族に限っては、全然馬鹿な話ではないのである。
 というわけで、後半では、かの子にこのような死を許した家族と彼女自身の性格について、もう少し深堀りしていきたい。

注1:メーデー(May Day)
毎年5月1日に開催される国際労働日のこと。「労働者の祭典」ともいわれ、労働者の経済的社会的向上を訴える集会やデモ行進などが行なわれる。1886年5月1日に合衆国カナダ職能労働組合連盟が決行した、8時間労働制を要求するゼネラル・ストライキを起源とし、現代では世界各国に広がっている。
←戻る

注2:埃及
エジプトの漢字表記。
←戻る

注3:倫敦
ロンドンの漢字表記。
←戻る

注4:殖民地博覧会(Colonial exhibition)
18世紀に始まった万国博覧会は、19世紀半ば過ぎより欧米列強が植民地の珍しい風物を紹介することで国威を示す場になった。元は万博の一環だったが、1883年にアムステルダムで行われた万博から「植民地」の言葉が使われ始め、1948年にベルギーで開催された「Foire coloniale」が最後となった。戦前の日本でも数度「植民地博覧会」と名付けた博覧会が開かれている。
←戻る

注5:完ったからしめる(まったからしめる)
完遂する、終わらせる、の意味。「業務を全うする」の「全う(まっとう)」と同じ。
←戻る

注6:岩村和雄(いわむら・かずお)
1902(明治35)~ 1932(昭和7)。大正から昭和初期にかけて活躍した舞踏家。18歳で米国に留学し照明技術を学んだが、後にドイツに渡り、最新のモダンダンスを習得した。帰国後は日本の現代舞踊界を席巻し、多数の弟子を育てた。
←戻る

注7:活人画
18~19世紀の欧米で流行したアート。演者が無言静止の状態で名画や歴史上の名場面を再現する。タブロウ・ヴィヴィン(Tableau vivant)はそのフランス語。
←戻る

「目次」はこちら

シェア

Share

感想を書く感想を書く

※コメントは承認制となっておりますので、反映されるまでに時間がかかります。

矢印