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「ブス」の自信の持ち方 山崎ナオコーラ

第2回

自信、そして「勘違いブス」について

2018.02.19更新

読了時間

【この連載は…】現代は多様性の時代と言われます。しかし社会には、まだまだ画一的な一面が強くあるのではないでしょうか。この連載で取り上げるのは「ブス」。みなさんはこの言葉から何を感じますか? 山崎ナオコーラさんと一緒に、「ブス」をとりまく様々なモノゴトを考えていきます。
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 この連載のタイトルは、「『ブス』の自信の持ち方」だ。

 小説でもエッセイでも、一文を読んでもらったとき、続きも読みたくなってもらえたら、ひとまず成功だ。読書の楽しみのひとつに、ページをめくる喜びがある。黒い染みの並びを目で追っているだけなのに、指が止まらなくなる不思議。
 タイトルを、最初の一文と捉えてもいい。読者には、書店でタイトルを見た途端に、手をのばし、表紙をめくってもらいたい。そして、購入したあと、ぺージをめくり続けて欲しい。読み始めたあとのめくるスピードは、ゆっくりでいい。私の場合、夢中になるのが苦手なもので、眠れなくなる小説はあまり読まない。一秒でも、我を忘れたくない。自分のままで読書をしたいと思っている。だから、私の作る本は、めくりやすく、閉じやすいものを目指す。さらさらと読めて、閉じたいときに閉じられる。つまり、ジェットコースターのような本ではなく、散歩のような本だ。次の文も読みたくなるが、続きが気になりすぎて眠れなくなるほどではない。翌日や、翌年に読んでもいいし、一ぺージ飛ばしでも楽しめる、というものだ。

 とはいえ、少なくとも表紙だけは、パッとめくってもらわなくてはならない。そうでなければ、始まらない。
 今回、「ブス」の本を出そうと考え、タイトルについて思案したとき、最初に浮かんできたのが、「自信」という言葉だった。
 ブスと言えば、自信だ。よく組み合わされて使われる言葉だ。
 ブスについて考えたいとき、ブスの読者も、ブスではない読者も、まず興味がそそられるのは、ブスが自信を持つのか持たないのか、ということに違いない。よし、これをタイトルに据えよう。「『ブス』の自信の持ち方」。このフレーズで、表紙をめくりたいと思ってもらえるのではないか?

 ただ、あらかじめ書いておくが、この本は人生指南書やビジネス書ではなくエッセイだ。自信のない人に「自信を持て」と説教する気は毛頭ない。じゃあ、何がしたいのか? 「『ブス』の自信の持ち方」とは一体なんなのか、と考察していきたいのだ。
 私は、「『“ブス”の自信の持ち方』というフレーズは引きが強いはずだ」と睨んだわけだが、その理由は世間が、「ブスはどうやったら自信を持たないでいてくれるのか?」、あるいは、「ブスはどうして世間の意見に歯向かって勝手に自信を持ってしまうのか?」に、注目していると感じるからだ。また、ブスがその雰囲気にのまれて、まんまと自信をなくしているからだ。

 もしも、あなたが自信のない人だとして、その自信のなさはあなたが自分の頭で考えたことが由来ですか? それとも、あなたに自信を持ってもらいたくない誰かがあなたに自信のなさを押しつけてきて、人の良いあなたが、「じゃあ、言われた通りに自信のないふりをして、しおらしく小さくなり、隅っこで目立たないようにこにこして、清潔を心がけて生きていきます」と周りに愛想を振りまいているだけですか?

 「勘違いブス」という言葉がある。
 「ブス」よりも、「勘違いブス」の方が、世間においてランクが低い気がする。
 だからブスは、「顔の悪さを自覚しています」「身の程をわきまえて、隅っこで、笑顔と清潔を第一に生きています」と激しくアピールする。
 世間が「勘違いブス」という言葉を乱発する理由は、ブスに自信を持ってもらいたくないからだ。

 ここで、また私自身の話を出すのも恐縮なのだが、これはエッセイなので、私の昔話を書く。
 私が匿名掲示板でいろいろと中傷されていた頃、スレッドのタイトルに「自信過剰・山崎ナオコーラ」というフレーズが頻繁に付けれられていた。
 「ああ、自信がある感じが嫌われているんだなあ」と推察した。

 私は、作家としてデビュー前は、「ブス」という中傷を受けたことはなかった。
 顔についての雑談などから、自分の容姿が世間で良いとされないことは子ども時代から知っていた。そう、容姿に関する会話はあった。しかし、それらは悪口ではなく、ただの雑談だった。容姿が悪いという理由で生きづらさを感じることはなかった(性格の悪さを理由に生きづらさを感じることはあったが)。とにかく、悪意を持って私に「ブス」と言ってくる人はひとりもいなかった。あるいは、陰で言われることがあったとしても、私の耳に届いてきたことはなかった(でも、私の予想として、陰でも言われていなかったと思う)。
 この「私が子ども時代や会社員時代に容姿の中傷を受けなかった理由」に、今、私は察しがつく。
 私は小・中・高・大学・会社員と、学校なり会社なりの集団の中で過ごしてきたが、「長」と名のつく役職に就いたことがない。班長でさえない。
 現在、この文章のトーンなどから、私に「気の強い人」「はっきりと主張する人」というイメージを持つ方も多いのでは、と思うのだが、実際に対面してもらって、直接に会話して声や雰囲気を判断してもらったとき、真逆の印象に変わるのでは、と予想している。自分で言うのもなんだが、実生活において私は、「大人しそう」「ほんわか系」「地味」と思われがちだ。
 子どもの頃の私は、もっとひどかった。病的なほどに人見知りが激しかった。小学校のクラスに「なぜか一日中ひとことも口をきかない子」というのがひとりはいたと思う。私はそれだった。先生や親戚から問題児として扱われていた(低学年の頃は、しっかり者の明るい子を「ナオちゃんの面倒見役」として当てがわれた。屈辱だったが、それが私だった)。実際に病気の心配をされた記憶もある。いじめに遭ったときは「まごまご」というあだ名をつけられた(常にまごまごしていたからだろう)(だから、悪意のある中傷を受けることは子ども時代にもあった。でも、性格に対する中傷であり、容姿についてはまったく言われなかった)。年齢を重ねるうちに少しずつ喋ることができるようになり、大学に入ったときに友人に恵まれて大分明るくなり、会社員時代はおどおどしながらも通勤して、それなりの大人になった。ただ、地味なキャラクターは貫いていた。
 そのあと、二十六歳で作家デビューして、ものすごく変わった。インタビューを受けたり、トークイベントに出たりした。元々の友人知人と話すときは変わっていないが、少なくともメディアに出るとき、私は堂々と振舞っている。最初は無理をして振舞っていたが、繰り返すうちに、それほど支障を感じなくなってきた。
 すると、新聞や雑誌に、ブスの顔写真が大きく載る。それも、道化ではなく、真面目な表情をしている。
 「勘違いブス」と思われたのではないか。
 そして、中傷が始まった。

 何が言いたいかというと、「世間は、ブスの存在を消したいのではなく、隅っこに行かせたいに違いない」という推論だ。
 私は自分に向けられた様々な中傷を読んで考察した。
 意外と、ブスに対して、「いなくなれ」「消えろ」「見たくない」「自分と関わらないでくれ」といった声を放つ人は少ない。
 それよりは、「勘違いするな」「身の程をわきまえろ」「自分の顔が世間でどの程度のランクに属しているかを認識した上で、社会的な行動をしろ」「せめて、にこにこしろ」「女は愛嬌」「隅っこで、清潔と笑顔を心がけて、道化を演じろ」「真ん中に立つな、隅っこに立て」「上に立つな、下に立て」「たとえ仕事で成功しても、ブスは社会の中央には絶対に立てない」「仕事ができたからといって、自分の顔を忘れるな」といった声を放ってくる。

 私は作家になる前、子供時代から会社員時代までの間、中央から離れた隅っこで生きていた。だから、「ブス」と罵られなかった。
 しかし、作家になったときに、「身の程をわきまえずに中央に出てきた」「ブスなのに目立つ場所にきた」と思われ、バッシングされたのだろう、と私は自分の状況を分析した。

 世間は、ブスに消えて欲しがっていない。
 むしろ、ブスの存在を望んでいる。
 ブスには、「自信がありません」という顔で、隅っこでにこにこしながら立っていて欲しいのだ。

 書店へ行くと、「自分に自信を持とう」と促す本が書棚にたくさん並んでいる(まあ、本書と同じく、タイトルで「自信」を謳っているからといって、自信を持つことを促しているとは限らない。うがったことが書いてある可能性も、もちろんあるわけだが)。
 たぶん、「自信さえあれば、楽に生きられるのに」と思いながら、苦しい生活を続けている人が、世にたくさんいるのだ。そういう層に向けて、それらのビジネス書は売られている。
 そして、想像するに、そんな自信のない人が目立つブスを見たとき、
 「普通の顔の私(あるいは僕)がこんなに自信がないのに、なぜブスが自信満々で表舞台に出ているのだろう?」
 「美人が表舞台に立つべきだから、普通の顔の私(僕)は脇に寄って引き立て役にまわり、コツコツ頑張ってきた。そうやって私(僕)が日陰で懸命に生きているのに、なぜブスが身の程をわきまえずにポーンと中央に出てきたんだろう?」
 という疑問で胸がいっぱいになってしまうのではないか?
 そういう人たちは、悪い人ではない。ただ、苦しいだけなのだ。自分に自信が持てず、どうしたらいいかわからない。どこかに灯を見つけたい。
 普段は礼儀正しいし、友人や家族に対しては優しい。でも、インターネットでブスを見つけたときに、「勘違いブス」「身の程をわきまえろ」と書きたくなってしまう。
 ブスに対して、世界からパッと消えて欲しい、と願っているのではなく、恥ずかしい顔をしながら「勘違いしてごめんなさい」と表舞台からすごすごと去り、元いた隅っこに戻ってにこにこして欲しい、と願っている。
 自分より下のランクの人を見つけて、自分が少しでも自信を得たいのだ。決して、悪意なんてないつもりだ。悪人になる勇気などないし、周囲の人が蹴っているのと同じ程度の小さな石を、自分もブスに向かって蹴って、怪我をさせない程度にコツンと当てたいだけだ。世間というものは、ブスにだけでなく、普通の顔にも厳しい、と感じている。だから、「自分も被害者だ」という意識がある。アップアップしていて、藁をも掴みたいだけなのだ。

 こういったことは私の周りだけでなく、あなたの周りでも起こっているのではないだろうか?

 自信のなさの押し付け合いだ。

 私の場合は幼少時代に容姿を中傷されることはなかったが、他の人の話で、「親から『ブス』と言われながら育った」「子どもの頃に、親戚から『おまえは顔が良くないから、隅っこに行ってにこにこしろ』と言われたことがある」といった類の実に悲しいことを聞いたことがある。
 家族間で「ブス」と言い合うのはもっと複雑な事情があるかもしれないが、もしかしたら、「自信のない親が、子どもに自分の自信のなさを押しつけているだけ」という場合もあるのではないか?

 社会の中でも、家の中でも、ドッジボールのボールのように、自信のなさを誰かに当てて、中央から追い出そうという流れがある。消したり殺したりするのではなく、「にこにこしながら外野に出てくれ」と、ポンと当ててくる。

 人間は集団で生きているので、いろいろな人の気持ちを受け取ったり、こちらも周囲に発散したりして、やっていくしかないのかもしれない。

 でも、普通の顔の人の自信のなさを受け止めて、ブスがより自信をなくさなければならない、という流れは、かなりバカバカしく感じられる。

 そういうわけで、自信のない人に、「あなたの自信のなさはどこから来ているのですか?」と尋ねてみたいのだ。
 誰かから押しつけられていないですか?

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著者

山崎ナオコーラ

1978年、福岡県生まれ。2004年、会社員をしながら執筆した『人のセックスを笑うな』(河出書房新社)で第41回文藝賞を受賞し、作家活動を始める。2017年、『美しい距離』(文藝春秋)で第23回島清恋愛文学賞受賞。小説に『ニキの屈辱』、『ネンレイズム/開かれた食器棚』(ともに河出書房新社)、『ボーイ ミーツ ガールの極端なもの』(イースト・プレス)、『偽姉妹』(中央公論新社)他多数。エッセイ集に『指先からソーダ』(河出文庫)、『かわいい夫』(夏葉社)、『母ではなくて、親になる』(河出書房新社)など。絵本に『かわいいおとうさん』(絵 ささめやゆき)(こぐま社)がある。モットーは、「フェミニンな男性を肯定したい」。目標は、「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」。

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