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よみものどっとこむ

「ブス」の自信の持ち方 山崎ナオコーラ

第3回

自信を持たない自由もあるし、持つ自由もある

2018.03.05更新

読了時間

【この連載は…】現代は多様性の時代と言われます。しかし社会には、まだまだ画一的な一面が強くあるのではないでしょうか。この連載で取り上げるのは「ブス」。みなさんはこの言葉から何を感じますか? 山崎ナオコーラさんと一緒に、「ブス」をとりまく様々なモノゴトを考えていきます。

 私はこれからも雑誌や新聞で顔出しをするつもりだ。

 自分のヴィジュアルや喋りが仕事になる(金に換える価値がある)とはもちろん思わないので、ヴィジュアルがメインの仕事や、トークで笑いを取らなければならない仕事は遠慮する。今後も、ヴィジュアルを良くする努力はせず、文学に対してだけ努力する。そして、文学について語ることができる仕事や、書籍の宣伝ができる仕事では、堂々と顔出しをして作家活動を行う。
 ブスを理由に脇に寄ったり、隅っこに移動したりはしない。

 たとえば、逆にこういうこともある。
 文章のプロではない人が、専門分野のことを語るため、あるいはキャラに魅力があるため、文章を雑誌や新聞に載せる。世の中には、上手い文章ではなくても、面白い文章がたくさんある。間違っていたって、手を抜いていたって、文章というものは、どこにでも発表していいのだ。学校の外で書く文章は、テストでも小論文でもないのだから、自由に、ただ面白く書くのがいい。
 もちろん、別ジャンルで仕事をしている人が、もともと読書家だったり、二足の草鞋を履く覚悟があったりして、文筆家としても本腰を入れてエッセイなどを執筆することもある。
 でも、そうではなくて、「依頼をもらったから、自分の本来の仕事を紹介できるチャンスだと思って、さらりとエッセイを書いてみました」という場合もあるに違いない。その、手を抜いて書かれた、てにをはが変な文章が、ときに作家が目一杯に張り切って書いた「上手い文章」よりも、ずっと魅力的なことは往々にしてある。「文章を勉強したわけじゃないから」「本業がいそがしくて、文章を書くためにたくさんの時間は割けないから」と遠慮して書くのをやめてしまうのはもったいない。
 作家の場合は、文章を発表するからには手を抜きたくない。言葉や文法も「私はこう書く」というプライドを持って選び、「テキストだけが自分のすべてだ」と考える。
 けれども、それは文章を発表する資格ではない。
 様々な人が、いろいろなスタンスで文章を書いて、発表していい。それが健全な社会というものだ。

 それと同じだと思う。
 モデルさんならば、価値ある顔立ちを、日々のメンテナンスでさらに整え、食事や運動などの努力もプラスして、センスのある表情を浮かべ、自然なポージングで、人前に出るだろう。
 お笑い芸人さんは、太ったり痩せたりといった努力をし、キャラがはっきりわかるような服装を心がけ、場が和むような表情を作って、カメラに向かうだろう。
 だが、私はヴィジュアルは仕事にしていないから、価値のない顔立ちの上に、なんの努力もせず、自分が好きな服を着て、ただの真面目な表情で、棒立ちで、写真を撮ってもらう。それでも許されるだろう、と考えている。
 とはいえ、たとえば雑誌の記事の場合、編集者さんや写真家さんやデザイナーさんといった他のプロたちの作品でもあるので、「笑ってください」と言われれば笑うように努めるし、「肩の力を抜いてください」と言われればリラックスを心がける。ただ、上手く笑えなかったり、結局は力が抜けなかったりしたら、それはそれで仕方がないと私はあきらめてしまう。大概、編集者さんも写真家さんも、大目に見てくれる(最近は、きれいだったりかっこ良かったりする作家が多いし、写真の仕事もきっちりとこなす作家もいるから、もしかしたら、「期待と違った」と思われている可能性もあるが)。

 雑誌のインタビューを受け、送られてきた掲載紙をめくる。美しいモデルさんが載っていて、その隣のページでブスな私がしかめっ面をして同じくらいの紙面スペースを占めていたら、さすがに自分でも引くときはある。「きれいだったりおしゃれだったりする人で、このページに私の代わりに載りたい人がいるんじゃないだろうか?」「読者だって、見目麗しい人のページを見る方が気持ちがいいだろうし」と考える。
 けれども、やっぱり、「いや、いや、いや……」と首を振る。
 ブスは表舞台から去るべきだ、という思考に安易に流れるのは、それがどんな場面でも、避けた方が良いのではないか?
 もう何年も前のことだが、ある雑誌の著者インタビューを受けたところ、ワンピースの襟ぐりがずれて、ブラジャーの肩紐が写っていたことがあった(シンプルな太幅の紺色ストラップだったので、編集者さんは下着ではなくてこういうデザインの服だと思ったのに違いない。読者も気にしなかっただろう。でも、自分ではわかるわけで「失敗したなあ」と反省した)。こういう風に、見た人を不愉快にさせる可能性があるだらしのない着方は迷惑なので、さすがに身だしなみには気をつけていきたい。しかし、そもそも、ヴィジュアルを仕事にしている人ならば、こういう失敗はしないはずなのだ。「着こなしがちゃんとできる人が、紙面に載るべきではないのか?」「読者だって、ファッションを楽しみたいだろうし」と思う。
 だが、やっぱり、「いや、いや、いや……」と首を振る。
 身だしなみはともかく、おしゃれに関しては完璧でなくても良いのではないか?
 文芸誌が文章のプロだけでは成り立たないのと同じように、ファッション誌もおしゃれのプロだけでは成り立たない。おしゃれではない人もいる社会でおしゃれな仕事を繰り広げるのが、本当のおしゃれな人なのに違いない。
 そして、身だしなみに関しても、度を過ぎればもちろん読者に失礼だが、「ご愛嬌」というものはある。森茉莉の写真で、やはり襟ぐりがずれて、ブラジャーの肩紐が写ってしまっているものを見たことがある。本人としては恥ずかしく感じる写真だろうが、見ているこちらとしては森茉莉のだらしのなさがむしろキュートに感じられ、作家性がよく出ていて良い写真だな、と思った。
 将棋の羽生善治さんが、寝癖を直さずに写真に写っているのも、「将棋に集中しているんだな。常人とは違うな」と納得させられるし、むしろ好印象だ。
 読者の方も、モデルさんのセンス溢れる完璧な着こなしも見たければ、変わった人間性の人の変な服装も見たいのではないか。編集者さんは、それを全部合わせた上で「おしゃれな雑誌」に仕上げるのが仕事なのではないか。
 ブスでも、ヴィジュアルの努力をせずに雑誌に載ったり、目立つ場所に行ったりしていい、と、やっぱり私は思う。
 きれいな人ばかりが社会を作っているわけではない。
 私みたいなブスが雑誌に載ることで、「ああ、こういう人でも雑誌に載っていいんだ」と救われる人だっているかもしれないではないか。

 数年前、ある相談サイトで記憶に残る書き込みを読んだ。
 確か、四十代の主婦の方による書き込みだった。私の覚えている内容を勝手に要約させてもらうと、「雑誌『VERY』に自分よりも顔立ちの悪い人たちの写真が載っていた。会社の社長だとか広報だとかなんだとか。顔立ちの悪い人が、なぜ『VERY』みたいな暮らしをして、幸せになっているのか。私の方が美人なのに、おかしい。私だって、本当は『VERY』みたいな生活をしたい。おしゃれなワンピースを着て、素敵なカフェでランチをしたい。でも、できない。夫の収入が少ないからだ。この先の日本では、男性の給料を女性の給料の二倍にしたらいい。そうすれば、美人がきちんと幸せな暮らしができるようになり、顔立ちの悪い人はそれより下のランクの生活になり、序列が整うはずだから」といった意見だった。まあ、炎上していて、批判のレスがたくさん付いていたのだが、キャラの強烈な面白い文章だった。
 『VERY』は、昨今の低迷する雑誌業界の中にあって、燦然と輝く成功雑誌だ。「きれいなママ」といった雰囲気の人がメインの読者のようだ。記事の切り口にいつもユーモアがあって、ファッションページもキラキラしているし、売れるのはよくわかる。
 先日、私は『VERY』でインタビューを受け、写真を撮ってもらった。それが巻頭の見開きに大きく載った。依頼をもらったとき、私はハラハラした。この書き込みを思い出し、「ブスが出ることを快く思わない人がいるのではないか」と思った。
 しかし、「いや、いや、いや……」と考え直した。
 『VERY』の読者にも様々な人がいるはずで、みんながみんな、美人だったり、おしゃれだったりするわけではないはずだ。私みたいなのが雑誌に載ることで、ほっとする人がいるのではないのか。快く思わない人がいるとしても、それを予想して「出ない」と判断するのは、作家の仕事ではない。ここで出るのが、作家らしい態度ではないのか。

 これからも、「ブスだから不快に思われるかも」と思ったら、むしろ顔出しをする判断をしていきたい。

 私の、この「雑誌や新聞に平気で顔出し」するというスタンスを、「顔に自信がなくても、文章に自信があるからだ」と捉える人もいるかもしれない。
 それは合っていないこともないが、ちょっとだけ違うようにも自分としては思う。

 確かに、私が顔に対して自信を持っている度合いと、文章に対して自信を持っている度合いでは、文章に対しての方が高い。しかし、「文章に絶大な自信がある」というわけではない。「文章が下手だ」という批評だって受けているし、自分としても「もっと文章が上手くなりたい」と常に省みている。新しい文章を発表するとき、自信満々というわけにはなかなかいかない。また、書籍の出版の際は、出版社に出資してもらって、書店さんなどの力を借りて売るので、作家が「自信がありません」と言ってしまうのはルール違反だと私は考えており、「自信があります」と発言することを心がけている(「書いた私は自信が持てない本ですが、売るプロの方々は一所懸命に売ってください」と頼むのは失礼だと思う。「とても良い本ができました。読者に喜んでもらえる自信があります」「応援してください。もっと良い作家になります」と一緒に仕事をする方々に私は言いたい)。だが、口ではそう言っても、新刊の発売に際してはいつもドキドキし、心の底から自信を湧き上がらせるということはやっぱり難しい。

 そして、顔に関しても、本当に自信がまったくないわけではないと思う。
 大学生だった頃、何かのストレスに因るものだろうか、ある朝、突然、ばあっと顔中にニキビが吹き出た。顔全体が真っ赤になって、ぶつぶつしている。鏡を見て、驚愕し、心が萎縮してしまった。
 皮膚科に行って薬をもらい、しばらくすると治ったのだが、私はニキビが薄くなるまでの一、二週間、授業を休んでしまった。感染る病気ではないのだから堂々と通学すれば良かったと思うし、治らなかった場合はその顔で生涯やっていくのだから勇気を持って外出するべきだったとも反省する。ニキビがあると外に出られないと考えるのはニキビへの差別だし、気にせずに振る舞えたらどんなにかっこ良かったか。だが、人間ができていなかった私は、「外に出るのがものすごく怖い」とコンビニすら行けなくなった。気力もなくなり、家にいたところで勉強も何もしなかった。
 大学生の私は、「ああ、これまで私は自分の顔に自信を持っていないと思い込んでいたけれども、本当に自信がゼロだったわけじゃないんだな。今、『自信がなくて、人と会えない。何もやる気がしない』と感じているということは、ニキビがなかったときは、少しは自信があったということなんだ」と気がついた。

 自信というのは、「ある」「ない」とキッパリと二つに分けられるものではなく、高めだったり、低めだったりたする、なだらかなものだ。
 百パーセントの自信を持っているという人は世界にひとりもいない。おそらく、ゼロパーセントの人もいない。
 十パーセントの自信でなんとか生きていたり、九十パーセントの自信で悠々とやっていたり、人それぞれだ。
 そして、私が顔と文章に違う度合いの自信を持っているのと同じように、「この分野では、まあまあ自信がある」「こっちの分野では、少なめの自信しかない」と思いながら、なんとかやりくりして過ごしている人も多いに違いない。

 しかも、自信は時間と共に増減する。

 私の顔の自信も、ずっと増減を繰り返している。
 作家デビュー当時は激減した。
 「ブス」と罵られ、罵られた通りに自信を減らしてしまった。

 この項の冒頭に、「私はこれからも雑誌や新聞で顔出しをするつもりだ」と書いたが、それは今の気持ちであり、デビューしたばかりでバッシングをどのように受け止めたら良いかわからなかったときは、「顔が嫌われているのだったら、もっと露出を控えた方がいいのかな。でも、そうすると宣伝ができないし……」と素直に悩んでしまった。
 また、作家活動を紹介するための自分のホームページに私の顔写真を載せたら、「頭がおかしくなったの?」と友人からメールが届き、「ああ、身近にも、『ブスが顔出しするのは可笑しいことだ』と考える人がいるんだなあ」と思ったことがある。私のことを嫌っているわけではないのだろうが、「控えめにすることがブスの美徳だ」という価値観を押し付けたいのだろう、と察した。私は言われた通りにその写真を削除した。
 それから、「カバー袖に写真を載せるな」というインターネット上のコメントを見て、「じゃあ、今後は自著に写真を載せるのを止めよう」と素直に考えたこともあった。文庫カバーの折り返しのところに著者紹介のスペースがあり、そこに載せる写真を、「自画像のイラストに差し替えてください」と編集者さんに頼み、自分で描いたイラストを出版社へ送りつけ、実際に載せてもらった。
 それから、「ここ数年、私は顔出しをするのを止めているものですから、似顔絵でお願いします」とあちらこちらで言っていた数年間もある。ちょっとしたコメントや短いエッセイを雑誌などに寄せるときに、編集者さんから「プロフィール用の小さい写真を貸してください」と言われる。私は「写真ではなく、イラストでお願いします」と、イラストレーターのフジモトマサルさんに描いてもらった似顔絵を送り、それを載せてもらっていた。
 このようにプロフィール写真を似顔絵にするのは、まったく問題ないと思う。多くの漫画家さんがこういったスペースを似顔絵で乗り切っているので、作家だってこれでいいはずだ。私は、これからも似顔絵は使っていきたいと考えている(最近の風潮では、雑誌側が似顔絵を用意することが増えているみたいだ。写真の取り扱いが煩雑だからかもしれないし、紙面が統一されて見やすくなる効果もあるのかもしれない)。
 そもそも私は元来、写真が苦手で、プライベートではほとんど写真を撮らない。家族写真も、常に私は撮る側で、撮られることはほぼない。家族はそれを知っているので、私にカメラを向けない。
 できるだけ撮られたくない、という気持ちは、子どもの頃から持っている。
 ただ、仕事をしていて、写真を完全に避けると、販促などの仕事が限られてくるし、いちいち「今は顔出しを止めているものですから……」と説明するのも面倒で、ちょっと疲れてきた。
 しかも、だんだんと、「ブスを理由に顔出しを避けるのは、やっぱり悔しいかも」という気持ちが膨らんできた。
 そういうわけで、二年前くらいに、「ブスを理由に写真撮影を断ることはしない」と決めた。
 撮影を断る理由に、「写真が苦手だから」は良いけれど、「ブスだから」は言いたくない。
 そして、撮ってもらうと決めたときは、堂々と写る。ファッションも表情も上手いものではないとしても、「これを雑誌に載せてもらって良いと私は思っています」という態度でいる。

 今後も、写真へのスタンスは変わっていくと思うし、顔に対する自信も増えたり減ったり変動していくだろう。
 時代や文化、環境の影響を受けて、私の自信は変わっていく。
 でも、自信を増やしていきたいか、減らしていきたいか、という方向に対しては、できるだけ自分で舵を取っていきたい。「ブスには、自信を減らして欲しい」という考え方には与しない。

 人間は集団で生活する動物なので、主流派の考えに個人も左右される。
 だが、「自信を持ちたいか持ちたくないかは、自分で決めていい」という人間の基本はあるはずだ。

 自信というものは、多い方が確かに生きやすい。
 自信が少ない人は、周りに迷惑をかける可能性が高い。周囲の者は、気を遣わないといけなかったり、フォローをしなければならなかったりする。自信のない人は、ミスが多かったり、愚痴が増えてしまったり、誰かに自信のなさを押しつけてしまう可能性もある。だから、自信を持った方が周りの人たちの負担が軽くなる、ということはある。

 それでも、「自信を持たない自由はある」と私は思う。
 他人に迷惑をかけることは、決して悪いことではない。
 助け合うのが社会なのだから、「迷惑をかけない」ということを第一義にして生きる必要なんてないだろう。迷惑はかけていい。

 それに、恋愛シーンで、「自信のない人が好き」という話はよく聞く。
 自信満々の人より、自信が少なめの人の方が、性的な何かをくすぐるのだろうか?
 サポートをするのが好き、応援するのが好き、頼られるのが好き、という人は世の中に大勢いるし、モテる可能性がある。

 だから、自信のない人が、「これからも自信を持ちたくない」と思っているのなら、私は「自信を持て」としつこく言う気はない。自信のないままで幸せになっている人は大勢いる。

 ただ、私の場合は、ブスを理由に隅っこには行かないし、ブスを理由に自信を減らしていくことは、もうしたくないと思っている。

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著者

山崎ナオコーラ

1978年、福岡県生まれ。2004年、会社員をしながら執筆した『人のセックスを笑うな』(河出書房新社)で第41回文藝賞を受賞し、作家活動を始める。2017年、『美しい距離』(文藝春秋)で第23回島清恋愛文学賞受賞。小説に『ニキの屈辱』、『ネンレイズム/開かれた食器棚』(ともに河出書房新社)、『ボーイ ミーツ ガールの極端なもの』(イースト・プレス)、『偽姉妹』(中央公論新社)他多数。エッセイ集に『指先からソーダ』(河出文庫)、『かわいい夫』(夏葉社)、『母ではなくて、親になる』(河出書房新社)など。絵本に『かわいいおとうさん』(絵 ささめやゆき)(こぐま社)がある。モットーは、「フェミニンな男性を肯定したい」。目標は、「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」。

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