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「ブス」の自信の持ち方 山崎ナオコーラ

第4回

差別語と文脈の関係

2018.03.19更新

読了時間

【この連載は…】現代は多様性の時代と言われます。しかし社会には、まだまだ画一的な一面が強くあるのではないでしょうか。この連載で取り上げるのは「ブス」。みなさんはこの言葉から何を感じますか? 山崎ナオコーラさんと一緒に、「ブス」をとりまく様々なモノゴトを考えていきます。
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 「ブス」は差別語だろうか。

 十年くらい前までは、差別語っぽさがあったような気がする。

 でも、お笑い芸人さんたちが多用し始めたことで「普段でも言っていい言葉なんだ」と世間的にオーケーとなり、このようにエッセイでも乱発できるようになった。
  昔は、公の場で「ブス」という言葉を言ったり書いたりすると、「タブーに触れている」という雰囲気が強く漂ったものだ。

 現在では、随分と気軽に使えるようになり、タブーという感じはかなり弱くなった。
  今、「ブス」という言葉を差別語と捉える人はほぼいないのではないか、と私は考えている。
  ただ、文脈によって、「ブス」が差別語っぽくなることは、現在でもある。

 性的に容姿を愚弄するフレーズ、かなりはげしく顔を貶めるフレーズを、私がインターネットなどにたくさん書かれた話を前に書いた。気持ち悪いのでここに具体的なフレーズは引用しないが、おぞましいものばかりだった。私としては、あのフレーズは世界から消えて欲しい。あの文脈の中においては、「ブス」は差別語っぽかった。だが、このエッセイでブスブスブスと書き綴っていることからも明らかなように、「ブス」という言葉単体をこの世から消したい気持ちを私は持っていない。むしろ、自分の書きたいことが上手く伝わらなくなってしまうので、「ブス」という言葉がなくなると困る。単体では差別語ではないし、どんどん言ったり書いたりしたい。(ただ、もしかしたら、「ブス」という言葉を見るだけでもつらい、という読者が中にはいるかもしれないので、そういう方には申し訳ないな、と思っている)。

 ともかくも、デビュー当時の私は「ブス」という言葉を用いて作られたひどい文脈、えげつない文脈に対して、めっちゃくちゃに腹が立った。怒りが燃え上がった。こんなことを書かれるいわれはない。
  誹謗中傷の文章の執筆者に対して、「許すまじ。呪うぞ」と思った。しばらくの間、「書いた人のことは、一生、許さない。許す努力もしない。呪いは解かない」と考え続けていた。私が目にしていない文章、私の知らないところにある文章の場合でも、それを書いて私の人権を踏みにじった人のことは、意識せずとも、しっかりと呪ってやる。
  だが、長い期間を経て、自然と憤りが少しずつ弱まってきた。まあ、それは自分としては楽になることなので、良かったとは思う。でも、完全には鎮火していない。まだ、残り火はある。完全に許す、という境地はまだまだ遠い。死ぬ前までには、許せたらいいなあ、という感じだ。

 そう、許せたらいい。でも、あの卑猥なフレーズ、おぞましいフレーズは忘れない。あの文脈の中における「ブス」という言葉はものすごく嫌なものだった。

 多くの嫌な言葉は、文脈によって嫌さが作られる。
  執筆者が、嫌な意図を持って執筆に臨み、嫌な文脈を作る。そして、その言葉から嫌な感じが噴き出す。
  言葉そのものに罪はない。
 
  しかし、中には、「単体でも嫌な感じが漂う」という言葉がある。差別語だ。

 差別語のことを、「人種や性別、職業、顔つき、体つきなどにまつわる言葉のうち、歴史的に差別や蔑視をする際によく使用されてきたものを、現代においてはできる限り使わない選択をし、不必要に誰かを傷つけるのを避けようとする考え方のことだ」と私は捉えている。
  絶対的な「この言葉は差別語だ」というルールがあるわけではなく、それぞれの自主規制によって「差別語だと思うから、書くのを止めよう」となる。
  だから、逆に、執筆者の判断によって、使われてしまうことはある。
  たとえ話で考えてみる。私の作風において差別語が必要になることはあまりないが、仮定の話として、もしも、小説の中で差別語を使い、「文脈上、どうしても必要だ。読んでもらったらわかるが、差別の意図はない」と出版社に対して強く主張したとしたらどうなるか。想像してみるに、載せてもらえることもある気がする。特に文芸誌の場合、結構、自由がきく。ただ、差別語を使用したら、「作品内の文脈」に関係なく、その言葉単体で傷つく読者がいる可能性がある。その言葉が差別の表現として使われてきた「歴史的な文脈」が作品の外の世界に強くあり、読書という行為が外の世界から完全に離れて行われることはまずないからだ。執筆というものがそもそも暴力的な行為であり、気をつけたところで誰かを傷つけるリスクを常に孕んでいると承知で作家をやっているとはいえ、避けられそうなリスクでも避けずに、無駄に人を傷つけても気にしないでいるということが作家らしい態度なのかどうか、疑問は抱かなければならない。また、発表媒体の出版社も責任を負うので、贖罪の道連れにする覚悟も必要だ(繊細な問題なので再度書かせてもらうと、「ブス」を差別語と捉える人がいる可能性を思えば、この疑問や覚悟について考えておくべきなのだが、私としては「ブス」は差別語ではないと思っていて、私の「作品内の文脈」がしっかりしていれば、深く傷つく人はいないと判断している。ただ、私の判断が外れて、もしも、深く傷つく人がいたら、申し訳ありませんと謝るしかない)。
  けれども、新聞が発表媒体の場合は難しいだろう、と想像する。ちなみに、私は作家デビュー前、新聞に関係する仕事の末端に携わっていて、校閲のようなことをしていた時期があるのだが、『記者ハンドブック』という辞書を片手に、タブーとされる語にはチェックを入れていた。今、たまに仕事で会う新聞記者の方々は、やはり社会規範に敏感で、言葉選びに慎重だ。新聞という媒体には社会的使命があるため、記者には公明正大な態度が求められる。もしも、私が作品内で差別語を使用して「このままで行きたい」と強く主張した場合、記者はおそらく「作品を掲載しない(ペンディングにする。つまり、ボツ)」という判断をすると思う。とはいえ、それも絶対的なルールではない。ただの執筆者や掲載者の判断だ。
  つまり、差別語は「ルールだから言わない、書かない」というものではなく、「歴史的に差別の文脈の中で使われてきた言葉だから、その言葉単体でも誰かを傷つける可能性がある。そのため、言ったり書いたりしない判断をする人が多い」というものなのだ。

 差別語、すなわち、単体でも嫌な感じがしてしまう言葉とは要は、「『作品内の文脈』以上に、『歴史的な文脈』が強い言葉」ということだろう、と私は考える。
  歴史的に「差別が行われた」という事実があり、その差別の中でその言葉が多用されたという記憶をたくさんの人が共有している場合、作品制作の中で差別の意図を持たず、関係のない文脈を一所懸命に作っても、なかなか歴史に太刀打ちできない。
  もちろん、歴史を打ち砕く強靭な文脈を作品内に作ることができたら、傑作が生まれるに違いない。善も悪も関係ない、差別がどうのと言いたくならない、何もかもがぶっ飛ぶ小説がいつか現れるかもしれない。しかし、それはものすごく難しいことだ。

 ここで、言葉ではなくて記号の話に移る。しかも、容姿の話から離れる。
  つい最近、テレビ番組の作り方についての議論で、「ブラックフェイス」が問題になった。「ブラックフェイス」とは、顔を黒く塗る化粧方法のことで、アメリカを中心に世界の多くの人が人種差別を表していると受け取る。
  昨年末に、日本の大人気バラエティ番組で、ベテランお笑い芸人さんが、アメリカの映画スターの真似として、顔を黒く塗る化粧をした。
  そのお笑い芸人さんは、用意されていた衣装や化粧をその場ですぐに施されただけだ。まあ、そこで断ることができないわけではなかったかもしれない。でも、「ブラックフェイス」の使用を誰が判断したのかというと、主に制作スタッフということになるだろう。
  ただ、お笑い芸人さんはもちろん、スタッフさんにも差別の意図がなかったのは明らかだ。番組内の文脈で見れば、人種に対する思いは読み取れないし、映画スターの真似をした理由は、ただ、「『古い大スター』の扮装」を笑いに変えようとしただけだろうだし、三十年近く続いてきたこの長寿番組の制作姿勢を振り返っても、差別の気持ちでやったのではないだろうと推察できる。
  それなのに、ここまで大問題になったのは、世界的に見ると、「ブラックフェイス」が差別を表す記号になっているということ、言わば「差別語」として機能しているということなのではないだろうか。
  歴史の中に、顔を黒く塗る化粧によって人種差別を表現することが実際に行われた事実がある。そのことを、世界の多くの人が忘れずにおり、「ブラックフェイス」を差別の記号として認識している。
  だから、いくら作品内に差別の文脈がなくても、「ブラックフェイス」単体で傷ついてしまう人がいる。小説の場合に、作者に差別の意図がないのにも関わらず、差別語単体で傷つく読者がいるのと同じだ。作品の外の、歴史的な文脈があまりに強いから、いくら作品内で文脈を作っても、言葉や記号のイメージを、なかなか打ち壊せない。
  この番組の問題に対して、「差別があった」と捉えるのが順当だと私は思う。たとえば、いじめの問題においては、いじめた側の意図ではなく、いじめられた側が「いじめられて、つらい」と感じているかどうかでいじめの有無を判断する。それと同じように、テレビ番組や小説でも、制作者や書き手の意図ではなく、「つらい」と感じる人がいるかどうかが差別の有無の判断基準になる。「つらい」と感じた人が実際にひとりでもいるのならば、「作り手に差別の意図があったかどうかを読み取れ」という主張は無意味だ。
  もしも、人種差別の歴史をしっかりと踏まえた上で、作品内で歴史が吹っ飛ぶような力強い文脈を作ることができたならば、「ブラックフェイス」を笑いに変えることもできるのかもしれない。しかし、それは、とてつもなく難しいことなのに違いない。

 さて、言葉に話を戻そう。「障害者」という言葉がある。
  最近では、その「障害者」という言葉の「害」という漢字が差別的だということで、「障がい者」や「障碍者」という表記を選択する人も増えてきてきた。
  ここで、お笑い芸人のホーキング青山さんの文章を引用したい。
 

 もしも「害」の字を排除していったらどうなるか。そのうち「障」の字も気になりはじめるのではないか。すると、こんな人が出てくるかもしれない。
  「『障』は『翔』にしてはどうでしょうか。羽ばたくみたいで素敵ですよ。『害』も『碍』も論外です。ここは『涯』でどうですか。『はて』という意味だから、『はてまで翔ぶ』というイメージになります。ね? 『翔涯者』。素敵でしょう?」
  なんだか昨今のキラキラネームかインチキな広告代理店の口上みたいだし、こうなるともう暴走族の「夜露死苦」「仏恥義理」とも変わらない。
  ちょっと話が脱線したけれど、「障がい者」「障害者」派の人たちに対しての反論は、簡単に言えば次のようなものになる。
  「表記を変えたからといって、障害者に対する無知や、そこから起きる偏見や差別が変わるわけではないだろう」
  興味深いのは、意外と障害者やその周辺の人たちにも、こういう意見の人は少なくないという点だ。「言葉を安易に変えると、かえって実態を隠してしまう」と考える人もいるようだ。
  当事者の立場から本音を言えば、こういう言い換えはどこか安易な感じがする。ごまかされている感じがするのだ。そして、そんな安易なことで事足れりとしてしまう感覚が透けて見えちゃうから、「こんなんで変わるわけないだろ」という批判が出てくるんだと思う。

(ホーキング青山『考える障害者』新潮新書)

 先天性多発性関節拘縮症のため電動車イスで舞台に上がっているホーキングさんは、障害者差別に関して深く考察していて、芸人という仕事柄、言葉にも敏感で、ご自身は「障害者」という漢字を選んでいるようだ。

 私の場合、エッセイなどの執筆中に、「障害者」という表記を選択することが多いのだが、「これでいいのかなあ」という疑問がいつも小さく胸に湧き、決してベストではないと感じてきた。ただ、「障がい者」や「障碍者」だと、私にはちょっと不自然な漢字に感じられ、「害という言葉を避けて、気を遣っています」という意味だけが強く出てしまう気がしてしっくりこなくて、「障害者」という表記の方がベターかな、と思ってきた。
「気を遣わなければならない」「扱いが難しい」というイメージが言葉に付くと、使用が少なくなってしまい、コミュニケーションが希薄になるから、「障害者」という言葉、あるいはそれに代わる言葉を、フラットに使えたらいいなあ、と思う。

 ともあれ、障害者差別の問題も、言葉単体の問題ではなく、文脈に因るところが大きいということだ。「歴史的な文脈」で差別や蔑視のために使われた言葉、つまり差別語は避けることを選ぶ人が多い。「障害者」という言葉の場合は、使用することを選ぶ人もたくさんいるが、「作品内の文脈」が大事だとホーキングさんも、そして私も思っている。

 さて、言葉単体の性質ではなく、「作品内の文脈」「歴史的な文脈」、とにかく文脈が大きく作用してその言葉に差別的な雰囲気を帯びさせていると考えるならば、つまり、単体では「いい言葉」「きれいな言葉」と捉えられがちな言葉でも、文脈によって差別的になり得るということだ。

 たとえば、「美人」という言葉はどうだろうか。

 「美人」という言葉は、単体で見たり聞いたりしたら、ポジティブなイメージを抱く人がほとんどだろう。インターネット上でも雑誌でも新聞でもどこでもよく目にする単語だし、普段の雑談においてもよく耳にする。大概は、その人を褒める文脈で使われている。歴史的にも明るい文脈の中で使われることの方が多かった言葉だから、たくさんの人が躊躇なく使用する。
 
  ただ、文脈によっては差別的に使われていることがある。
  私の周りで見たり聞いたりしたフレーズで、いくつか例を挙げてみたい。

「あの人の仕事が評価されているのは、美人だからだ」「もし美人でなかったら、あの人があそこまでの地位に就くことはできなかっただろう」など、業績や評価を疑い、「美人に実力はないに決まっている」という偏見を押しつけるフレーズがある。美人というキャラクターだけでその人を見て、仕事人としてのその人を見ることができていない。

「美人だから、上司に取り入っている」「美人だから、先生に気に入られようとしている」「美人だから、男友だちに媚を売っている」「美人が私の恋人をたぶらかした」など、実際にはその人はなんの行動も取っていないにもかかわらず、「美人だから」という枕詞をつけることで、嘘に真実味を帯びさせるフレーズがある。やっかみからの噂話などで使われてしまう。

「美人なんだから、真ん中に行きなよ」など、その人の居場所を勝手に移動させようとするセリフがある。隅っこが好きな美人を、ことあるごとに中央に引きずり出す。あるいは、他に主役がいる場なのに「あなたに華があるんだから」「あなたが真ん中だとみんな喜ぶんだから」などと無理に中央に行かせようとしてしまう。それを美人が断ると変な空気になる。

「美人は性格が悪い」「美人は遊んでいる」「美人は周囲の人を見下しながら生きている」「美人は幸せだ」など、顔によって性格や人生をタイプ分けするフレーズがある。

「美人だから犯罪に遭ったんだ」「美人が犯罪者をそそのかしたのだから、仕方がない」「美人は男の性欲をそそらないように、シャツのボタンを一番上まできっちり締めて、基本はパンツスタイルで、地味な格好をするべきだ」など、犯罪が起きた理由を犯罪者ではなく、被害者に求めるあまりに酷い視点がある。犯罪に遭っても良い理由を持つ人など世界にひとりも存在しないのに、なぜか美人が被害者になると、「美人だからだ」と平気で言う人がいる。

 殺人の被害者が新聞に載っているのを見て、「美人ばっかりね」「美人薄命と言うからね」「美人なのにかわいそう」と、ひたすら「美人が殺された」というステレオタイプのストーリーに落とし込んでしまう。

 アスリート、犯罪の被害者、芸術家、作家、犯罪者、その職業の人の仕事内容の説明、といった容姿が問題にならない人の記事で、新聞でさえ「美人」に近い表現でその人を紹介してしまうことがある。

 あと、気持ち悪いのでここに具体例は書かないが、性的なフレーズ、卑猥な文章に「美人」が使われることはよくある。それを仕事場で言えば、いわゆるセクハラだ。学校で言えば、いじめだ。個人名や写真を付けてインターネット上にさらせば、誹謗中傷、人権侵害だ。 

 このように、「美人」という言葉が差別的に作用しているフレーズは、意外と世界に溢れている。
  普段は、相手を褒める文脈、ポジティブな文脈で目にすることの多い「美人」という言葉だから、タブーな雰囲気がなく、差別的な意図で使いたくなったときに「ブス」を使うよりも敷居が低く感じられ、安易に言ったり書いたりしてしまっているのではないか。

 私は文学者なので、ものごとを善悪でジャッジすることは避けたいとは思っているのだが、差別だけは決して肯定したくない。本書は「ブス」について書いているが、真逆の「美人」や、容姿に関係のない様々な言葉が差別的に作用しているのも日々見かける。私は、差別を行うフレーズは書きたくない。どんな言葉を使おうが差別は起こり得るのだ、と文脈というものの恐ろしさを常に感じていたいと思う。

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著者

山崎ナオコーラ

1978年、福岡県生まれ。2004年、会社員をしながら執筆した『人のセックスを笑うな』(河出書房新社)で第41回文藝賞を受賞し、作家活動を始める。2017年、『美しい距離』(文藝春秋)で第23回島清恋愛文学賞受賞。小説に『ニキの屈辱』、『ネンレイズム/開かれた食器棚』(ともに河出書房新社)、『ボーイ ミーツ ガールの極端なもの』(イースト・プレス)、『偽姉妹』(中央公論新社)他多数。エッセイ集に『指先からソーダ』(河出文庫)、『かわいい夫』(夏葉社)、『母ではなくて、親になる』(河出書房新社)など。絵本に『かわいいおとうさん』(絵 ささめやゆき)(こぐま社)がある。モットーは、「フェミニンな男性を肯定したい」。目標は、「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」。

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