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よみものどっとこむ

「ブス」の自信の持ち方 山崎ナオコーラ

第9回

『シラノ・ド・ベルジュラック』における友情

2018.05.28更新

読了時間

【この連載は…】現代は多様性の時代と言われます。しかし社会には、まだまだ画一的な一面が強くあるのではないでしょうか。この連載で取り上げるのは「ブス」。みなさんはこの言葉から何を感じますか? 山崎ナオコーラさんと一緒に、「ブス」をとりまく様々なモノゴトを考えていきます。

 好きな人ができたとしても、一番に愛されなくてもいいし、子どもを産まなくてもいい、ということを前回に書いた。

 私はもうひとつ書きたい。異性との付き合い(同性愛者の方の場合は「同性との付き合い」。この後の文章もそう置き換えて読んでいただきたい)は、恋人同士になることだけが成功ではない。友だちもいいものだ、ということだ。

「ブスは異性が苦手」「ブスは異性と関わりがない」というイメージが世間に蔓延している。
 しかし、異性と関わるとき、必ずしも恋愛の雰囲気が漂うものではない。学校で共同作業をする仲間、会社で一緒のプロジェクトに取り組む同僚、仕事や人生を教えてくれる先輩、慕ってくれる後輩、様々な異性と私たちは日々出会い、関係を築いている。
 昔は、男女別学や、性別によって労働を分ける、といったことが盛んに行われていたので、異性と接点のある貴重なシーンではどうしても恋愛の方向に流れがちだったのだろうと推測する。
 でも、現代では、異性と会うシーンがたくさんあり、仕事の場面に安易に恋愛を持ち込むことが避けられるようになったので(セクハラになるということもある)、仕事仲間、友だちといった関係性を極めること、異性とのフラットな付き合いをすることができるようになった。
 もしかしたら、あなたは、「たとえ、仕事仲間や友だちといった関係でも、イケメンからブスは嫌われるはずだ」という思い込みを持っているかもしれない。
 しかし、私の経験上、イケメンはブスを避けない。「恋愛相手として見てください」と寄っていった場合に避けられることはあるだろうが、「一緒に仕事をしましょう」「○○について、教えてください」「△△のこと、教えてあげられるかも」「友だちとして、みんなでわいわい遊ぼう」といった具合に近づいたときに、「ブスだから嫌だ」と避けるイケメンは、いるとしても少数派だと思う。もちろん、美人がブス(男のブス)と仕事仲間や友だちとして仲良くしたがらないということもない。イケメンも美人も、新しい世界を見せてくれるブスを求めている。
 みんな、常に恋愛のことを考えているわけではないのだ(中には恋愛モードになっていて、日々、恋の相手のことしか考えていない人もいるかもしれないが、やはり少数派だ)。新しいことを知りたい、もっと勉強したい、仕事を頑張りたい、知らない世界に行ってみたい、といった欲望を持って生きている人が世の大半を占めている。新しい扉が開きそうなときに、「ブスだから」といった理由で相手を拒絶して、良い機会を減らそうと思う人は滅多にないのだ。イケメンなんて特に、プライベートで恋愛相手と出会える確率が高い世界を生きているのだから、仕事や勉強のシーンで出会う人みんなを「恋愛相手として見られるかどうか、常に吟味しよう」なんて思わない(もちろん、何かのきっかけでその後に恋愛へ発展する場合もあるだろうが、「出会う異性のすベてを、恋愛対象として見られるかどうか判断したい」という焦りはイケメンにはないと思う)。
 だから、「モテない」という理由で「世界の半分の人間との交流ができない」とあきらめる必要はない。友だちとしてなら、いくらでも付き合える。

 そして、もうひとつ、恋愛感情が混じっている場合も友情は成り立つ、ということも書き添えておきたい。たとえ片思いでも、あるいは両思いでも、友人として付き合うことはできる。

 ときどき、「『男女の友情はある』とは考えられない。恋愛の雰囲気をまったく出さないのは難しい」といった声を耳にする。
 しかし、私は、片思いや両思いやエロが混じった友情もあると考えている。
 恋愛の雰囲気のまったくない友情もあるだろうが、少し漂っている友情もある。
 同性同士の友情でも、「独占したい。他の子と仲良くしているところを見るとモヤモヤする」だとか、「飲みの場において、ノリで、キスしちゃった」だとかということはある。つまり、そもそも友情というのは、純粋なものではないのだ。
 好きな人と、友だちになってもいい。

 ここで、『シラノ・ド・ベルジュラック』の話を出したい。
 言わずと知れた大恋愛の戯曲だ。

 シラノは、鼻が大きくて醜い顔をしている。詩人であり、哲学者であり、軍人であり、才気溢れるシラノだが、容姿だけは恵まれなかった。そんなシラノが、美人のロクサーヌに恋をする。でも、自分のブスな顔がロクサーヌのような美しい人から愛されるなんて思えないので、気持ちを伝える勇気は出ない。そこに、クリスチャンという美男が登場する。クリスチャンはシラノと同じ青年隊に属する、軍人だ。シラノは詩人としての才能がずば抜けているので、ロクサーヌがイケメンのクリスチャンを気にかけていることを知り、クリスチャンも美人のロクサーヌを好いているとわかると、お似合いだと考え、詩心のないクリスチャンのラブレターを代筆してその恋を応援する。クリスチャンがバルコニーで愛を打ち明けるシーンでは、シラノは下に隠れて代わりに愛の言葉を語る。
 案の定、言葉にうっとりとしたロクサーヌはクリスチャンを恋の相手として定める。言葉に惚れているわけで、ロクサーヌはシラノの方を愛しているとも読み取れるのだが、ロクサーヌはクリスチャンが類い稀な言語センスの持ち主だと信じ切っているので、クリスチャンひとりを見つめている。クリスチャンが戦場へ行けば、慰問に出かけ、愛し抜く。シラノは代筆を続けて、戦場からラブレターを毎日送る。クリスチャンは好青年なので、ロクサーヌが顔ではなく言葉に惚れているとわかると、思い悩む。
 そうして、クリスチャンは戦死してしまうのだ。
 戦死してしまったら、もうシラノはロクサーヌに真実を打ち明けることはできない。シラノは騎士道を何よりも重んじる男だ。口は堅い。
 ロクサーヌはクリスチャンを偲んで修道院で十五年を過ごし、シラノは毎週土曜日に修道院に出かけ、一緒にお茶を飲んだ。いわば、「お茶飲み友だち」として十五年を過ごした。
 十五年後に、シラノは敵対する者から狙われて瀕死の状態になる。そのときになってやっと、ロクサーヌはラブレターの書き手や、バルコニーでの声の持ち主がシラノであることを推察する。シラノも打ち明ける。そして、シラノは死ぬ。

 私はこの作品が大好きなのだが、完璧に恋愛の話なので、「友情の素晴らしさ」を説くために引用するのはどうなのか、と思う人もいるのだろう。しかし、私がたまらなく好きなのは、戯曲にはほとんど書かれていない、空白の十五年間なのだ。

 二人の間には、恋愛感情があり、最期の瞬間には気持ちが通じ合う。でも、それはどうでも良いことのように私には思える。

 恋のいざこざの時間よりもずっと長い、十五年という時間を二人は「お茶飲み友だち」として静かに過ごしたのだ。

 それが、ものすごく尊いもののように私には感じられる。

 ここで、こと切れる直前のシラノのセリフを引用したい。
 ロクサーヌは「お茶飲み友だち」として過ごしてしまったことを悔やむのだが、シラノは「お茶飲み友だち」を肯定するのだ。

 わたし は 女 の 優し さ という もの を 知ら ず に 来 た。 母 は わたし を 醜い 子 だ と 思っ て い た。 妹 も い なかっ た。 成人 し てからは、 恋しい 女 の 嘲り の 目 が 怖かっ た。 あなた が おら れ た お蔭 で、 せめて 女 の 友達 を、 わたし は 得 た。 わたし の 人生 に、 あなた の お蔭 で、 女 の 衣擦れ の 音 が 聞こえ た の です。

(ロスタン『 シラノ・ド・ベルジュラック』 光文社古典新訳文庫)

 シラノは、おそらく童貞だ。顔に引け目を感じて、恋に勇気を出すことがなく、異性との接触を避けた。ロクサーヌだけでなく、他の女性とも深く交わることをしない人生を生きた。でも、スカートの裾が揺れる音は耳にしたのだ。

 そうだ。恋人同士にならなくてもいい。
 素晴らしい人生だ。 

 恋愛対象の性別を持つ人たちとの関わりを、恋人になることを最上のこととして行わなくても構わない。
 友だちでもいいし、服の裾が揺れるのを耳にするぐらいの距離感で過ごしてもいいのだ。

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著者

山崎ナオコーラ

1978年、福岡県生まれ。2004年、会社員をしながら執筆した『人のセックスを笑うな』(河出書房新社)で第41回文藝賞を受賞し、作家活動を始める。2017年、『美しい距離』(文藝春秋)で第23回島清恋愛文学賞受賞。小説に『ニキの屈辱』、『ネンレイズム/開かれた食器棚』(ともに河出書房新社)、『ボーイ ミーツ ガールの極端なもの』(イースト・プレス)、『偽姉妹』(中央公論新社)他多数。エッセイ集に『指先からソーダ』(河出文庫)、『かわいい夫』(夏葉社)、『母ではなくて、親になる』(河出書房新社)など。絵本に『かわいいおとうさん』(絵 ささめやゆき)(こぐま社)がある。モットーは、「フェミニンな男性を肯定したい」。目標は、「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」。

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