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「ブス」の自信の持ち方 山崎ナオコーラ

第12回

他人に努力を強要していいのか?

2018.07.09更新

読了時間

【この連載は…】現代は多様性の時代と言われます。しかし社会には、まだまだ画一的な一面が強くあるのではないでしょうか。この連載で取り上げるのは「ブス」。みなさんはこの言葉から何を感じますか? 山崎ナオコーラさんと一緒に、「ブス」をとりまく様々なモノゴトを考えていきます。
「目次」はこちら

 世の中には、努力によってどうにかなることがある。
 たとえば、ダイエットだ。
 体型が努力で変わる。
 それから、整形や、お化粧などで、顔の造作も努力によって変えることができる。
 だから、見た目で問題を抱える人の中には、「努力不足」という部分がある人もいる。
 私の場合も、ダイエットや整形やお化粧を頑張っていないので、もともとの顔もあるが、「努力不足」の面もある。
 この「努力不足」に対する悪口について、今回は考察してみたい。

 小学生の頃に、同じクラスの子が、
「『生まれつきの体についての悪口はいけない』とお母さんから言われたけれど、生まれたあとに自分のせいでなったことの悪口はいいんだ。だから、『ブス』っていうのは言っちゃ駄目だけれど、『デブ』は言っていいんだよ」
 という理屈を軸に、太めの子に対して「デブ、デブ、デブ」という悪口を放っているのを耳にしたことがある。「デブって教えてあげた方が、本人が自覚できて、これから努力できるから、本人のためになるんだ」というようなセリフも聞いた。
 当時、私は傍観者になってしまった。今となっては「いじめだ」とわかるが、そのときは「確かに、生まれつきのことはかわいそうだから触れちゃいけない感じがして、生まれたあとのことは自分で選んでいるから触れても構わない感じがする。でも、やっぱり、デブと言ったらいけないと思う。とはいえ、『ブス』と『デブ』は違うとは感じる……」というようなことをモヤモヤ考えているだけだった。私は、学校でまともに喋れない子どもだったので、たとえそれがいじめだとわかっても止めるまでには高いハードルがあったのだが、それでも、あのとき、もっと深く考えれば良かった、と後悔している。あれは、いじめだった。あの子は、そんな悪口を一切言われるべきでなかった。

 中学生、高校生、大学生、と少しずつ大きくなりながら、「生まれつきの体のことは、たとえ他の人と違っていても、かわいそうではない」というのがわかるようになったし、「先天的なことと、後天的なことを、分けて考える必要はない」という風にも考えるようになった。

 大人になってからは、さすがに「デブ」という安易な悪口を日常生活の中で耳にすることはなくなった。
 でも、他人に対して、「生まれつきのことや不運で起こったことに触れてはいけない。努力でどうにかなることは言っていい」という考え方を持っている人は多いように感じている。
「先天的なことについては助け合おう。後天的なことについては助け合わない」という空気に触れることもある。病気や障害や貧困に関して、生まれつきのことなら支援しなければならないが、本人の不注意や努力不足によるものなら、真面目に努力している自分たちの税金を使ってまで支援する必要はない、といった考え方は蔓延している。
 自分で選んだこと、自分の努力によってどうにかなることについては、不満を訴えてはいけない、愚痴を言ってはいけない、そして、そのことについて誰かから悪口を言われても受け入れなくてはいけない、という概念が広く日本で受容されていると思う。「自業自得」「自己責任」といった言葉を度々目にする。

 努力は、素敵だ。
 前回書いたように、自分で決めた目標に向かって、自分で努力をして、それを自分で認識するのは、自己肯定のために必要で、生きる上で大事なことだ。
「努力している人」は、それを自分で誇りに思うのが良い。
 そして、「努力不足の人」のチェックはしなくて良い。
 自分に集中していれば、他人のことは気にならなくなる。
 そもそも、「努力不足の人」は、決して「努力している人」を批判したくて努力不足を選んでいるわけではない。
 意思が弱かったり、行動力が足りなかったり、他にもやりたいことがあっていそがしかったりして、同じ努力ができていないだけだ。努力を無価値なものとしたくて、努力しないことを選んでいるわけではない。
 だから、「努力している人」は、「努力不足の人」を攻撃する必要も見下す必要もない。
 ただ、「自分は努力をしたいから、他人に関係なく、自分に関する努力をしていこう」と考えればいいんじゃないかな、と私としては思う。

 確かに、体型が健康的であるに越したことはないし、お化粧などで見た目を感じ良くしてコミュニケーションを円滑にするに越したことはない。
 でも、みんながみんな、同じ方向に努力をする社会って、気持ち悪くないだろうか?
 同じ努力を強要する空気が満ちている社会を作って、いいのだろうか?

 努力は、自分で計画を立ててやるから面白いのであって、他人から「こういう努力をしなければ人間として駄目だ」と言われて仕方なくやるものではないだろう。

 また、「努力によってどうにかなることがある」と冒頭に書いたが、「努力でどうにかなること」と、「努力でどうにもならないこと」の線引きは、実は難しい。ダイエットに関しても、努力ももちろんだが、先天的なものや家庭環境など、様々な要素が絡んで成功するか失敗するかが決まるので、「この人は努力不足」「この人は先天的」ときっぱり分けられるものではない。どうせきっぱり分けられないのなら、線など引かない方が良い。

 障害者か、障害者ではないか、というのも、線など引けない。支援の方法を探るシーンでは必要となるので、便宜上の線を引いているだけだ。なだらかな違いしかなく、きっぱりとした線は引けない。
 本当は私だって、視力が弱くてコンタクトレンズを入れているし、容姿が悪くて仕事に支障を感じるときがあるし、障害者と言ってもいいのではないかと思っている。

「努力をしている人」か「努力不足の人」か、というのも、完璧な努力をしている人など世界中にひとりもいないし、一切の生きる努力を放棄している人もひとりもいないので、ぼんやりとしか分けられない。みんな、ある程度のところまでは行けても、真に理想としている食生活や運動習慣は、実行できていない。逆に、完全に駄目な生活もしていない。

 だから、努力の有無や、先天的か後天的か、というようなことで、他人をジャッジする必要はなくて、困っている人がいたらケチケチせずに助けたらいいのではないか、と私としては思う。

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著者

山崎ナオコーラ

1978年、福岡県生まれ。2004年、会社員をしながら執筆した『人のセックスを笑うな』(河出書房新社)で第41回文藝賞を受賞し、作家活動を始める。2017年、『美しい距離』(文藝春秋)で第23回島清恋愛文学賞受賞。小説に『ニキの屈辱』、『ネンレイズム/開かれた食器棚』(ともに河出書房新社)、『ボーイ ミーツ ガールの極端なもの』(イースト・プレス)、『偽姉妹』(中央公論新社)他多数。エッセイ集に『指先からソーダ』(河出文庫)、『かわいい夫』(夏葉社)、『母ではなくて、親になる』(河出書房新社)など。絵本に『かわいいおとうさん』(絵 ささめやゆき)(こぐま社)がある。モットーは、「フェミニンな男性を肯定したい」。目標は、「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」。

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