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「ブス」の自信の持ち方 山崎ナオコーラ

第13回

自虐のつもりはない

2018.07.23更新

読了時間

【この連載は…】現代は多様性の時代と言われます。しかし社会には、まだまだ画一的な一面が強くあるのではないでしょうか。この連載で取り上げるのは「ブス」。みなさんはこの言葉から何を感じますか? 山崎ナオコーラさんと一緒に、「ブス」をとりまく様々なモノゴトを考えていきます。

 この「ブス」の連載に対し周囲から反応をもらった件について、反駁したい。

 まず、「『ブス』という言葉を乱発しているからといって、自虐のつもりは毛頭ない」と明らかにしておきたい。
 世には「ブスブスブス」と自身を指差し、笑いを取ろうとしたり、同情を引こうとしたりする人もいる。
 しかし、私は自虐をしたくて「ブス」と書いているのではなく、「わかりやすい文章を書こう」「『ブス』という言葉をフラットに使える社会を作ろう」として「ブスブスブス」と書いているのだ。
 友人知人の中には、私が自分を「ブス」と言い出したことに困惑している人もいるようだ。
「付き合いづらい」
 と思わせたのかもしれない。
 世間は、「お互いに、自分の顔を『美人』とも『ブス』とも思わず、『普通の顔』と思っているという体で会話を進めたい」と望んでいる人で溢れている。
 聞くところによると、美人の場合は、もっと大変らしい。「美人」という自覚を持っている人は敬遠される。しかし、美人が自分を「ブス」と言ったらそれこそ炎上ものだ。「周りをバカにしているのか?」あるいは、「本音を言わないのか?」と逆上されてしまう。だから、美人は、空気を読んで、謙虚に振舞い、「自分が美人だということは知らない。でも、ブスだとも思っていない。周りの人の顔をジャッジなんてしていない。とにかく自分を低くして、みんなと仲良くなりたいです」という、薄氷を踏む慎重さで人付き合いをする。顔で注目されるシーンでは、「私の良さは顔だけだから」なんてことを言う謙虚さまでが求められる場合もあるようだ。
 ブスには美人ほどの大変さはないが、顔に対する自覚を素直に表すことは、やはり歓迎されない。どんなに顔が悪くても自分を「ブス」と言ってはいけない、という空気がある。でも、「美人」と言ったらもちろん炎上だ。ブスが自分を「ブスです」と言ったり、「美人です」と言ったりすることが許される場は日常にない。バラエティ番組における、ツッコミ役のお笑い芸人さんがいる場でしか許容されないのだ。日常においてブスが自分をブスと名乗ると、「え? 気を遣わなくちゃいけないの?」「美人だろうがブスだろうが、同じような普通の容姿という体でわいわいやるのが付き合いってものなのに、難しくなっちゃうじゃないの」「友だちづきあいどうしよう……」と思われてしまう。
 想像するに、「美人です」や「ブスです」と相手に言わせたくないという人は、容姿というものを重く感じ過ぎているのではないだろうか。
「美人です」と言われると、「人間としての頂点です」と言われているのと同じ気分になるのでは? 「ブスです」と言われると、「人間として生きている価値のない、ダメ人間です。死にたいです」と言われている気分になるのでは?
 しかし、容姿というものは、人間の価値を決定するほどのものではない。
 ちなみに、私は「ブスです」と名乗っているが、人間として生きる価値があると感じているし、ダメなところもあるがダメ人間とまでは思わないし、絶対に死にたくない。正直、「ブスだけど、天才です」ぐらいの気持ちで、「ブスです」と言っている。
 多角的に人間を見る気がある人なら、「美人です」「ブスです」といったセリフにそこまでぴりぴりしないのではないか。
 悪口の文脈ではなく、自虐の文脈でもなく、素敵な文脈の中で、「美人」「ブス」と書いていきたい。もっと軽く、「美人」「ブス」と言ったり書いたりできる社会を作りたい、と私としては思うのだ。

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 他に、この連載への反応として、
「たいしてブスではないあなたが自分をブスって言って、本当のブスの人に悪いと思わないのか?」
 といったものがある。
 聞きたいのだが、「本当のブス」ってなんだろう?
「本当のブス」の定義を誰も知らない。
 だから、おそらくこれは、ただの全体主義で、「他にもつらい人がいるときに、自分の話をするな」ということに違いない。
 確かに、私よりもずっと大きな悩みを抱えている人はいるだろう。しかし、お腹が空いているとき、「世界には飢餓で苦しんでいる人もいるのだから」という理由で、「お腹が空いた」「ごはん食べたい」というセリフを控えるべきだろうか。友人とフットサルなんかで遊んでいて、ひと休みして小腹が減ったとき、「お腹が空いたなあ」とつぶやきたくなっても、ぐっとこらえて、黙るべきなのか。
 私の小学生時代は、ノドが渇いても「みんなノドが渇いているんだから、『ノドが渇いた』と言うな」と先生から言われた(今は熱中症が問題になっているからそんなことはないと思うが、昔はなぜか「水を飲むのを我慢させることが教育になる」と思われていた)。軍隊かよ。みんなが思っていることをなぜ自分が言ってはいけないのか、さっぱり意味がわからなかった。
 思っていることは、なんでも言っていい。まあ、TPOはわきまえるにしても、過度な自粛は必要ないし、「どんなシーンでも、世界中の人のことを考えて、常に黙っているべき」ということは絶対にない。たとえ他の人とかぶる意見でも、自分よりもっと上手く喋れる人が他にいる場合でも、自分の思いを伝えていい。

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 それから、またこの連載への別の反応として、
「奥さんが自分をブスなんて言って、だんなさんがかわいそうだ」
「だんなさんは、なんて言っているの?」
 といったものがある。
 私の夫は書店員で、読書量が多い。フェミニズムの本も私よりたくさん読んでいるし、知識がある。考えも深い。
 夫は、「美しい妻が男の価値を上げる」なんていうくだらない思想を微塵も持っていない。だから、私がブスだろうがなんだろうが夫は気にしない。「ブスです」という話を恥ずかしいとは全然思っていない。
(もちろん、私の方は、「収入の高い夫が女の価値を上げる」なんて思想を露ほども持っていない。夫に今よりも収入を上げてもらいたいなんてまったく思わないし、収入の話が恥だという感覚もない。夫の良さが他にあることを、私はよく知っている)。
 そして、夫の方は、私の良さを知っているらしいし、このエッセイも更新日に毎回読んでくれ、「面白い」と感想を言っている。

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 あとそれから、私は、「自分の顔を客観視できなくて、必要以上に自分をブスと思っている」わけではない。
 ちょっと申し訳ないな、と思った反応が、
「私はナオコーラさんに顔が似ているので、私もブスなのかもしれないです」
 というものだ。
 おそらくだが、私に顔が似ている人は世間に結構いる。そして、その多くはブスではない。
 たとえば、妹は私と同じ系統の顔つきだが、私はブスで、妹はかわいい。妹は中学時代からずっと彼氏がいて、いつもモテていたし、妹の写真を見せると、多くの人が「かわいい」と言う。おそらく、百人いたら八十人は「かわいい」と言う顔だ。でも、私の写真を見せたら、たぶん逆で、八十人は心の中で「ブス」と思うだろう。
 顔立ちが似ていても、一方はブスで、もう一方は美人というのはあり得る。
 私に似ているからといって、「じゃあ、自分もブスだ」と捉えるのは早計だ。

 私は芸能人に似ていると言われることはまったくないのだが、「弟のヨメに似ている」「いとこに似ている」「義理の姉に似ている」といったことをよく言われる。なんとなくわかる。
 自分でも、「親戚顔」だと思う。それぐらいの範囲の関係性の中にひとつは見かける感じの顔だ。ただ、私はブスだが、その「弟のヨメ」なる人はかわいい可能性があると思う。

(ところで、「『弟のヨメに似ている』と言われたところでなんて返せばいいんだ?」とこれまであまり良い気分ではなかったのだが、先日、お笑い芸人の阿佐ヶ谷姉妹さんと私とでトークイベントを開いたとき、気づきがあった。
 終演後、阿佐ヶ谷姉妹ファンの方々とちょっと雑談できる時間があったので、「阿佐ヶ谷姉妹さんのファンになったきっかけはなんだったのですか?」とお尋ねしたら、「最初は、『顔が友だちに似てる』ってところから入って……」や、「お母さんに顔が似ていたんです」など、「身近な人と顔が似ている」というところから入った方が何人かいらした。もちろん、入口がなんであれ、そのあとにネタやセンスにやられたに違いないのだが、「似ている」というのが良いトンネルになることもあるのか、と私は驚いたのだ。もしかしたら、私も、今後、「弟のヨメに見た目が似ている作家だから、小説を読んでみよう」という人に出会えるかもしれないし、これからは、「似ている」と言われたら、好意的なセリフだと捉えよう、と考えを改めた)。

 私は、道を尋ねられることが多い。知らない街を旅行しているときでも「郵便局ってどこですか?」など、人から道を聞かれる。想像するに、ラフな「主婦っぽい」服装と、ありがちな顔が、「道聞き」を招いているのではないか。

 これまでの連載で書いてきた通り、私は日常生活の中では、容姿の理由で生きづらさを強く感じたことはない。街中で指をさされたり、通りすがりの人に暴言を吐かれたり、といった経験がない。心の中で「良い顔立ちの人ではないな」「容姿が悪い人だな」ぐらいは思われても、「よくある感じの系統の顔」と分類され、街中に溶け込んで生きてきたのだと思う。
 だから、「障害」という言葉を私にぴったり当てはめて読者に通じるように書くのは難しいと思っている。
 ただ、作家になってから、メディアに顔写真を載せることが度々あって、そのときに壁を感じたり、インターネットにたくさんの誹謗中傷を書かれたり、といった経験をした。仕事のしづらさを強く感じた。当時は若かったこともあり、人間ができていなかった私は傷つき、いろいろと考えた。それで、「『ブス』について書けることが私にあるのではないか」「文学者としての仕事があるのではないか」と温めてきて、今、エッセイを書いているのだ。

 顔についての悩みを持っている人たちの中には、「鏡を見るのがつらい」「目の形が違かったら良かったのに」「周囲に引け目を感じてしまう」「自分の顔が嫌い」といったことを考えている方もいると思う。
 でも、私の場合は、それとは違う。鏡を見て悩んだのではない。インターネットを見て悩んだ。
 いじめにおいて、「チビ」と言われた人は、背の低さに苦しんでいるのではなく、暴言に傷ついている。決して、背を伸ばしたいわけではない。低くたっていいじゃないか、と思いつつ、「暴言を止めてもらいたい」「謝罪してもらいたい」と願っている。
 同じように、私は顔を変えたくない。ブスだっていいじゃないか、と思っている。私は、自分の顔が好きになれなくて悩んだのではなく、誹謗中傷に悩んだのだ。
 その後、その悩みを友人知人に率直に語り始めたとき、「その話はもうするな」「コンプレックスを持っているんだね」「自分でブスと思っているから、そう言われるんだ。自分の考えを変えろ」と話を聞いてもらえず、まるでセカンドレイプに遭っているような気分を味わった。
 誹謗中傷をしている人は自由に言葉を発しているのに、なぜ被害を受けた私が口を噤まなくてはならないのか。納得できない。私は、思っていることを言いたいし、書きたい。嫌な文脈の中ではなく、自分らしい文脈の中で「ブス」を使い、「ブス」という言葉を再生させたい。
 だから私はこれからも書いてやる。

 ブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブス。

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著者

山崎ナオコーラ

1978年、福岡県生まれ。2004年、会社員をしながら執筆した『人のセックスを笑うな』(河出書房新社)で第41回文藝賞を受賞し、作家活動を始める。2017年、『美しい距離』(文藝春秋)で第23回島清恋愛文学賞受賞。小説に『ニキの屈辱』、『ネンレイズム/開かれた食器棚』(ともに河出書房新社)、『ボーイ ミーツ ガールの極端なもの』(イースト・プレス)、『偽姉妹』(中央公論新社)他多数。エッセイ集に『指先からソーダ』(河出文庫)、『かわいい夫』(夏葉社)、『母ではなくて、親になる』(河出書房新社)など。絵本に『かわいいおとうさん』(絵 ささめやゆき)(こぐま社)がある。モットーは、「フェミニンな男性を肯定したい」。目標は、「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」。

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