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「ブス」の自信の持ち方 山崎ナオコーラ

第15回

ノンバイナリージェンダー

2018.08.20更新

読了時間

【この連載は…】現代は多様性の時代と言われます。しかし社会には、まだまだ画一的な一面が強くあるのではないでしょうか。この連載で取り上げるのは「ブス」。みなさんはこの言葉から何を感じますか? 山崎ナオコーラさんと一緒に、「ブス」をとりまく様々なモノゴトを考えていきます。
「目次」はこちら

「ブス」に関することで悩んでいるのは、女性だけではない。
 被害者には男性もいる。
 そして、もちろん、加害者は男性とは限らない。
 容姿差別には性別の問題が確かに絡んでいるが、それについて語るとき、加害者や被害者を性別でラベリングしたりカテゴライズしたりするのは避けたいものだ。

 私は、「ブス」についてエッセイを書こうと思ったとき、性別ができるだけ想起されない書き方をしたい、性別を限定しない書き方をしたい、ということを思っていた。
 とはいえ、自分の筆力に限界があり、「女性のことを書いている」「男性には読みづらい」という部分もできてしまっているかもしれない。
 さらに気を引き締めて、注意しながら書き進めていきたい。

 ここで、私自身が、「自分はノンバイナリージェンダーなんじゃないかな」と思った話を入れておきたい。

 私は、ノンバイナリージェンダーという言葉を、つい最近知った。
『ナショナルジオグラフィック』という雑誌にはまっている私は、性別の特集の号をめくっていたときに、「ノンバイナリー」という文字に出会い、ハッとしたのだ。
 これなんじゃないかなあ。

 子どもの頃、「ランドセルが赤と決められているのがつらいなあ。死にたいほどってわけではないし、我慢できそうな気もするけれど、『女の子は赤』というものを見ていると、馴染めない、生きにくい、この世界で自分はやっていけないんじゃないか、大人になれないんじゃないか、という思いがせり上がってくる」「列や名簿が男子と女子で分けられているのが苦しいなあ。みんなはそう感じないのかなあ?」といったことを、言葉ではっきりとは表現できなかったのだが、ぼんやりと思っていた。
 思春期に入った頃から、新聞や本などで性別に関する記事や文章に出会うと、興味深く読むようになった。性別違和感に苦しむ人たちのことを知り、自分と似ているように感じつつも、同性愛者や性同一性障害の方とは少し違うように思い、また、女性差別に苦しんでいる方とも自分は別なように感じた。ただ、世の中にはいろいろな人がいることがわかってきて、「いろいろな人がいる」ということそれ自体が、救いになった。性別に関すること以外でも、弱者に関する話題、差別問題などに、なぜだか心惹かれた。人種差別や部落問題、障害者に関する話など、系統立てて勉強していないので知識は浅いのだが、どこか自分に関係しているような気がして、文章を見つけるとむさぼり読んだ。当時は友人関係がなかなかうまく築けなくてひとりの時間を過ごしがちで、活字中毒のようになっていたので、図書館などでそういったものをチマチマ見つけて読み耽った。
 高校ぐらいからは、夏期講習などの申込書に性別を記入する欄があると、空欄のまま提出するようになった。根性はなかったので、「ちゃんと書け」と返されたら、書き加えて再提出したが、「性別を示す必要はなさそうなシーンだったら、性別を出したくないなあ。性別を出さないって、どこまでだったら許されるのかなあ」ということをよく考えた。通っていたのが私立高校で、修学旅行が海外だったため、生まれて初めてパスポートの申請をした。パスポートにも性別をはっきりと書かなくてはならなくて、「え?世の中って、そんなに性別が大事なんだ」とショックを受けたのを覚えている。そして、自分のような感じ方をするのは少数派らしいというのもだんだんわかってきた。
 性別に関する文章で最も頻繁に出会ったのが、「女性の権利を獲得しよう」「女性同士で繋がろう」といったものだった。もちろん、そういったことは大事だと思う。そのような仕事を先輩女性の方々が行ってくれたおかげで世の中が良くなってきており、私もその恩恵を預かっているので感謝が湧く。だが、私個人の問題は、そこから少しだけずれているように感じた。女性の地位の向上、女性同士の連帯、といったことは、他の女性の方々に、ぜひ頑張ってもらいたいのだが、私の仕事ではないのかもしれない。私の仕事は、ほんのちょっとだけ、違うところにある気がする。
 どうも、「女性同士で連帯する」ということが、私にとってはハードルが高いようだ。というか、「『女性のみ』という繋がりには、自分の場合、できるだけ参加したくない」というのが本音だった。
 それまでも、学校などで、「女の子同士だから、仲良くなれるね」「同じだね」「同じだね」「似た者同士、助け合おうね」と友情を築くのが、私には難しくて、「なんでなんだろう?自分はおかしいのだろうか?」「波風立てたくないが、どうしたらいいのだろう?」とよく戸惑っていた。
 ただ、誤解しないで欲しいのだが、このような友情の築き方を批判したい気持ちを私はまったく持っていない。「女性同士、仲良くしよう」という形の友情の築き方が得意な人には、ぜひそれを続けてもらいたいのだ。また、現在、私と友だちになってくれている人にも、こういう友情が得意な人がいる。そういう人に、私は好感を持っている。ただ、自分の場合は、それが不得意なため、戸惑いがちで、自分からは積極的に「同じだね」という言葉は発することができないというだけだ。
 また、「女性としての自分に誇りを持とう」「女性らしさを大事にしながら仕事をしよう」といったスローガンも、自分には当てはまらないと感じられて、「自分もそうした方がいいのかな」と考えると元気がなくなってしまう。ここでも、やはり誤解されたくないのだが、「女性としての自分に誇りを持っている人」や「女性らしさを大事にして仕事をしている人」のことを、私は好きだ。そのまま頑張って欲しいと思っている。ただ、自分の場合は、そういう風にしようと考えると、身が縮まるような思いがするというか、社会に一歩踏み出すのが怖くなるというか、自分にはもっと自分にぴったりの別の考え方があるんじゃないか、という気がしてくるのだ。

 要は、私は「社会的なシーンで『女性』という自覚を持てない」ということなのだと思う。

 性の問題というと、「セックス」の問題がまずあるが、私がもっぱら感じているのは「セックス」のことではなくて、「ジェンダー」のことのようだ、というのに、二十代も半ばを過ぎてから、つまり、作家になったあとに気がついた。
 性別は、この現代社会において、恋愛シーンだけでなく、仕事などの社会的なシーンでも大きく扱われる。レストランに行く、食事やファッションのマナーを守る、公共の場でトイレに入る、何かに申し込む、書類を申請する、新聞に載る、あちらこちらで、性別を問われる。私はどうしてもストレスを感じてしまうし、「自分は、この社会に歓迎されていない」という感覚を味わう。

 この感覚はどこから来るのだろう? どうして自分は社会に馴染めないのだろう?
「育ちが悪かったのか? 育った環境に問題があったのか?」と省みることもできるかもしれない。
 だが、私が一番しっくりくるのはこれだ。
「生まれつき」。
 たまたま、私はこういう人間として生きることになった。
 それだけのことだと捉えても良いのではないだろうか。

 いや、もちろん、後天的な要素も加わって自分の考えはできているに違いない。でも、「生まれつき」と思ってしまってもいいのではないか。先天的なことや後天的なこと、何やかやでできている自分のことを、とりあえず、「自分はこういう人間だ。自分として生きていく」と腹をくくっていいのではないか。「生まれつき」という言葉は社会に通じやすいから、そう言ってしまいたい。

 同性愛は生まれつきであり、同性愛者になったきっかけなど考える必要はまったくない。それは、異性愛が生まれつきで、異性愛者になったきっかけを考える必要がないのと同じだ。それと同じように、ジェンダー、つまり、社会的な性別の感覚も、自分がどうしてこんな風になったのかを省みる必要はないのではないか。

 そんなことを考えていた折に、「ノンバイナリージェンダー」という言葉を目にし、「これだ」と思ったわけだ。
 この言葉に出会ってから日が浅いし、たくさんの本を読んだわけではないので、もしかしたら、私の言葉の使い方は間違っている可能性もある。
 でも、とりあえず、「ノンバイナリージェンダーという風に自分を考えてもいいのかもしれない」と思い始めたら、気持ちが軽くなったので、思い切って、使うことにした。

 ところで、先月、『新潮45』という雑誌に寄稿された杉田水脈衆議院議員の「『LGBT』支援の度が過ぎる」という文章が話題になった。必要以上のバッシングを受けてつらい思いをしているであろう杉田さんをさらに批判したいという気持ちはないので、もう触れない方がいいのだろうが、今回の話とちょっとだけ繋がるように感じているので、バッシングのためでなく、ただ私の話を続けるために、少しだけ紹介させてもらいたい。

 この文章は、「『生産性』がない」というフレーズのみが爆発的に有名になって、そのフレーズに触れた多くの人が傷つき、執筆者の杉田さんは糾弾されることになった。
「子どもを産まない人は、社会的に『“生産性”がない』と捉えられる」と衆議院議員が発言した、と多くの人が捉えたわけだ。

 しかし、杉田さんを擁護する方々が、「全文を読まずに批判している人がほとんどなのが問題だ」と反駁していた。少部数の雑誌に掲載された文章をちゃんと読んだ人は少ないはずだ。「『生産性』がない」というフレーズが広まった理由は、ある人がツイッターに杉田さんを批判する目的で「『生産性』がない」というフレーズを使った短い文章を上げたからだ。みんなはそれに則って怒っているだけだ。批判をするのなら、元の文章をすべて読んでからにするべきだ。

 もっともだ、と私は思った。

 このエッセイでも、「文脈が大事だ」ということを度々書いてきた。「ブス」にしたって、「ブス」という言葉が悪いのではなく、悪意のある誰かが変な文脈の中で使うから悪くなるのであり、私が書けば「ブス」も面白くなると私は思っているのだ。

 また、私は大学で文学の勉強をしていたときに、「孫引き」という言葉を習った。論文を書くために調べ物をしている際、参考文献の中に、その執筆者が引用したさらに興味深い文章に出会うときがある。その場合、「何々という本の中で紹介されている何々という本が……」という書き方で紹介してはいけない、ということだ。それは「孫引き」と言われ、忌むべき行為となる。必ず原典を探し出し、ちゃんと読んでから、論ずる。もしも、その本が見つけられず、原典を読めなかった場合は、そのフレーズについて論じてはいけない。

 それから、これは一般的なルールではないし、少し話がずれるのだが、私が作家デビューして、初めて書評の依頼をもらったとき、編集者さんから「書評を書くときは、その作者の別作品を、少なくとも三作は読むこと」というアドヴァイスをもらった。ケースバイケースでそれを守ることができない場合もあるのだが、少なくとも現代作家(且つ、四作以上出している作家)の作品に対していわゆる「書評」を書くとき、三作は読むようにしたいと私は思っている。責任を持って書評を書けないと感じるとき、時間がなくて読めないと感じるときは、事前に仕事を断る。

 まあ、そうは言っても、人それぞれ考え方もルールも違うし、だからこそ世の中面白いわけで、「『孫引き』も良し」と考える人がいてもいいのかもしれない。
 ともあれ、「人の文章に対してあれこれ言うのは重いことだ」というのはみんなが感じていることなのではないだろうか。
 読めるものはできるだけ読んでから論ずるに越したことはない。

 そういうわけで、『新潮45』2018年8月号を書店で取り寄せて購入し、「『LGBT』支援の度が過ぎる」全文を読んでみた。
 読む前は、「世の中に流れているイメージとまったく違う文章で、拍子抜けするかもしれない」と読後感を想像していたのだが、ページをめくると、生産性云々以上に気になるところがたくさんあって、読み終わったあと、憤りが止まらなくなってしまった。
 ちょっとだけ紹介したい。
(でも、私の文章を読んで杉田さんをバッシングするのはやはり「孫引き」になりますので、やめていただけたらと思います。よろしくお願いします)。

 最近はリベラルなメディアに「LGBT」の記事が多い、という話から杉田さんは始める。たとえば、この1年間では、朝日新聞では260件、読売新聞では159件あったそうだ。
「生きづらさ」を解消するための取り組みだろうが、杉田さんは取り上げる必要はないと思っているようだ。宗教の問題が少ない日本においてはLGBTへの差別があまりないと杉田さんは見ているらしく、自身も差別感情は持っていない、と断言してしまっている(杉田さんの擁護派は、この箇所を読んでもらいたかったのだと思われる。悪意はないので差別していない、ということだろう。しかし、全文を読むと、「差別していない」と言いながら差別しているとしか感じられない)。日本に住むLGBTの方の「生きづらさ」は、「社会制度の問題」でなく、親から理解されないといった類の「家族の問題」ではないか、と杉田さんは考える。それなのに、「生産性」のない彼ら彼女らに税金を投入するのはいいことなのか、と、ここで「生産性」という悪魔のフレーズを登場させるのだった。
(多くの人が怒っているわけだが、「生産性」云々のことだけでなく、「日本に差別はない」「家族の問題」と言い切られたことにも失望した同性愛者の方が大勢いるに違いない。実際には、日本に住む多くの人が、社会制度の変革を望み、差別の根絶を求めている)。
 その後、
「LGBとTを一緒にするな」
 という小見出しを入れ、Tは「性同一性障害」という障害なのでまだわかるが、LGBは性的嗜好だ、という話を始める。杉田さんは中高一貫の女子校を出ているそうで、同性間の疑似恋愛をたくさん見かけたが、「成長するに連れ、みんな男性と恋愛して、普通に結婚していきました」と書く。リベラルなメディアが煽るから同性愛者が増えている、と杉田さんは思っているらしい(つまり、「同性愛者は、メディアが煽らなければ、そのうち異性愛者になる」という完全に間違った認識を持ってしまっているようだ。杉田さんは単に不勉強なだけなのかもしれないが、あまりにも失礼で、不用意な文章だ)。
 最近の諸外国では、制服やトイレも自分の認識する性に合ったものを使う流れになってきているがとんでもない、「オーストラリアやニュージーランド、ドイツ、デンマークなどでは、パスポートの性別欄を男性でも女性でもない『X』とすることができます。LGBT先進国のタイでは18種類の性別があると言いますし、SNSのフェイスブック・アメリカ版では58種類の性別が用意されています。もう冗談のようなことが本当に起きているのです」と、現状の社会制度に馴染めない人たちを「冗談」として笑おうとする。

 杉田さんは決して悪い人ではなくて、社会のことを真面目に考えた結果、こういう思いになったのだろう。
 私は、制服もトイレもパスポートも、自分の思う性別にして良いと考えているので、杉田さんとは真逆なのだが、でも、個人的に直接会えば、杉田さんは良い人かもしれず、普通に会話ができるかもしれない。
 だから、バッシングはしたくない。
 私としても、自分とは違う考えを排除する生き方はしたくないし、杉田さんのような考え方の人とも共存できたらと思う。失礼な言い回しや、差別の言葉をなくしてもらって、違う考えの私たちを尊重していただき、決められた性別や制度を大事にする生き方を好きな人同士だけでそのまま続けていただきたい、と願う。
 社会は弱者のために存在している、というのは共通の考えだろう。
 ただ、杉田さんの場合、「自分たちのグループに属していて、自分たちと同じような努力をしているのに、上手くできないかわいそうな人だけを助けよう」という考え方なのだと思う。
 私としては、単純に、「困っている人を助けて、良い社会を作ろう」と考えたい。
 「かわいそうな人」ではなく、「困っている人」だ。
 思想や、帰属意識や、困った状況に陥った経緯や、努力の有無は、問わないくていいと思う。
 もちろん、帰属意識を大事にしたい人はするのが良いし、努力が好きな人は努力をするのが良い。
 何かに属するのが好きな人は、もちろん、属するのが良いと思う。
 そして、属するのが苦手な人は、属する人を邪魔しないようにしながら、属しない。
 困っている人がいたら、理由や所属を問わず、助ける。
 それだけでいいのではないだろうか?

 自分の「生きづらさ」と合わせて読むうちに、私としてはそんな風に思った。

 最後に、「同性愛者の方からしたら、私みたいなのはどう見えるんだろう?」と不安になったので、書き添えたい。

 私はこれまで、同性愛についての小説や文章を好んで読んできたのだが、それは自分の問題に少し繋がるような気がしていたからだ。
 でも、同性愛者の方からは、「全然違う」と思われるかもしれない。
 同性愛者は、何をしようが決して異性愛者にはならない。それは、異性愛者が、何をしようが決して同性愛者にならないのと同じだ。完全なる「生まれつき」だ。そして、人によっては、社会制度の中で、尋常ではないつらさを感じているだろう。
 私が、ノンバイナリージェンダーということでなんとなく悩んでいたこととはまったく違う。雲泥の差だ。私は、違和感を抱きながらも、死ぬほどではなかった。大人になって、自分としてはこの感覚を「生まれつき」と捉えたいと考えたが、とはいえ、同性愛が完全に先天的なのと違って、おそらく後天的な要素も大きく関わっているだろうことは否定できない。

 それでも、私はやっぱり、「障害者」「健常者」や「先天的」「後天的」といった言葉は、便宜的なもので、絶対的な違いはないのだから、真剣に分けるべきものではないと思う。
 つらさの度合いが違っても、そこに明確なラインを引く必要はないのではないか、とも考える。

 だから、「ブス」の問題も、カテゴライズをできるだけ避けたい。「女性はみんな『ブス』で悩んでいる」「男性にわかって欲しい」といった書き方をしないように心掛けたい。「女性はみんな悩む」「男性は理解していない」ということはありえないと私は考えている。人それぞれだ。
 ただ、私の執筆能力の問題で、私の理想の文章に追いつけていないと感じるので、さらに気を引き締めたい。

「目次」はこちら

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著者

山崎ナオコーラ

1978年、福岡県生まれ。2004年、会社員をしながら執筆した『人のセックスを笑うな』(河出書房新社)で第41回文藝賞を受賞し、作家活動を始める。2017年、『美しい距離』(文藝春秋)で第23回島清恋愛文学賞受賞。小説に『ニキの屈辱』、『ネンレイズム/開かれた食器棚』(ともに河出書房新社)、『ボーイ ミーツ ガールの極端なもの』(イースト・プレス)、『偽姉妹』(中央公論新社)他多数。エッセイ集に『指先からソーダ』(河出文庫)、『かわいい夫』(夏葉社)、『母ではなくて、親になる』(河出書房新社)など。絵本に『かわいいおとうさん』(絵 ささめやゆき)(こぐま社)がある。モットーは、「フェミニンな男性を肯定したい」。目標は、「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」。

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