Facebook
Twitter
RSS

よみものどっとこむ

スポンサーリンク

「ブス」の自信の持ち方 山崎ナオコーラ

第16回

差別と区別

2018.09.03更新

読了時間

【この連載は…】現代は多様性の時代と言われます。しかし社会には、まだまだ画一的な一面が強くあるのではないでしょうか。この連載で取り上げるのは「ブス」。みなさんはこの言葉から何を感じますか? 山崎ナオコーラさんと一緒に、「ブス」をとりまく様々なモノゴトを考えていきます。
「目次」はこちら

「差別と区別は違う」というフレーズをよく耳にする。差別をしてはいけないが、区別はしても良い。差別と区別を混同して区別まで止めてしまったら上手くいかないことがいろいろ起こるから、区別はしよう……といった意味合いで使われている。

 差別と区別は確かに違う、と私も思う。「差別をできるだけなくそう」という話は、「全員を同じように扱おう」という話ではない。違いを大切にして、別々に扱ったり、相手によって適度な援助をしたり逆に援助を控えたり、それぞれの得意分野を見つけたりする方が、差別的にならず、公正な接し方になる場合も多いだろう。

「差別と区別は違う」。もっともだ。

 ただ、このフレーズを頻繁に使用するのは考えものだ、と私は思っている。問題が二つある。
 ひとつは、差別と区別の違いは実は複雑で、その違いをはっきりと認識するのは多くの人にとってかなり難しい、ということだ。
 もうひとつは、世の中には区別自体が苦手な人もいる、ということだ。

 まず、「差別と区別の違いをはっきりと認識するのは難しい」という問題について考えてみたい。

 私自身、差別と区別を瞬時にしっかりと判断する自信がない。他人をグループ分けするとき、かなり注意深くならなければ失礼なことをしそう、自分はやばい、と思っている。

 たまに、「差別と区別は違う」と言った途端に安心し、すっきりとした顔になって、思考停止してしまう人がいる。おそらく、「差別というのは、他人を見下すことだ。僕は他人を下に見ていないから、差別はしていない。区別しているだけだ」というシンプルな考え方をして、「区別、最高!」で終わってしまうのだろう。
 しかし、差別とは、他人を見下すことだけではない。
 たとえば、「僕は、男性をバカだと思っている。それに比べて、女性は頭が良い。男性は女性に敵わない。だから、バカな男性とは違う、女性らしい素敵な仕事をして欲しい。女性は素晴らしい」だとか、「女性は育児ができて、すごい。男性にはとてもじゃないが母親のような真似はできない。育児をする女性は美しい」だとかといったセリフを、「女性を差別しているセリフだ」と私は感じる。私の他にも、このような話をされた際に「差別的なことを言われた」と聞く女性はかなり多いだろう。でも、発言者は、「僕は女性を賛美しているわけで、決して女性を見下していない。むしろ女性を尊敬しているのだから、性差別をしていない」と堂々としていることがある。
 他にも、「障害者は清らかだ」「同性愛者には美人が多い」など、相手を上に見ていても差別的なセリフは結構ある。
 そう、「差別と区別は違う」わけだが、「見下していない区別は、差別ではない」とは言えないのだ。相手を見下さずに区別していても、差別を行ってしまっている場合が往々にしてある。
 また、「女性は非力なので、このスポーツには向かない。危ないので野球場などには入れない」「女性は心が弱いから、守ってあげるべき」「女性はこの病気にかかりやすい。なぜなら、小柄な人がかかる病気だからだ」「女性は将来、出産や育児を行うので、この職業には就くことはできない」といったセリフも、女性を下に見てはいない発言だが、すべての女性に当てはまることではないので変な線引きであり、固定概念によるラベリングであり、差別的だ。力の強い女性も、運動の得意な女性も、根性のある女性も、大柄な女性も、出産や育児をしない女性もいる。力の弱い男性も、気弱な男性も、運動が不得意な男性も、小柄な男性も、育児をする男性もいる。みんなに当てはまることではないのに、イメージで線を引き、強制的に職業や居場所を移動させるのはおかしなことだ。
 根拠のないラベリング、不必要な区分け、明確な理由がないのに職業や住居や服装を強制的に分けること、店舗やレストランや公共交通機関の入店や乗車を断ったり席を分けたりすることは、差別にあたる。
 だから、区別をするときには、深く考えるに越したことはない。線を引くのは簡単なことではないのだ。
 便宜的に区別が必要なシーンは確かに世の中にある。でも、偏見による区別をしたり、はっきりしない変なラインを引いたりすれば、たとえ相手を尊敬してそれを行っても、差別になる。慎重になるしかない。

 また、区別に関するもうひとつの問題として、「区別だけで、つらく感じてしまうんだ」「差別がなくても、そもそも区別が苦しいんだ」という人も社会の中にいる、ということがある。
 同じ区分に入る人の中にも、様々な性質の人、いろいろな考え方の人がいて、感じ方も意見もそれぞれだ。区別されることによって楽になる人もいれば、つらくなる人もいる。

 たとえば、私は「『ブス』の自信の持ち方」というタイトルでエッセイを書いていることからも明らかなように、「ブスと美人は違う、ブスと美人を同じに扱わないで欲しい」と思っている。「ブスと美人の区別」礼賛派だ。たまに、「ブスと美人を同じように扱うことが容姿差別をなくすことなんだ」「ブスも女性なのだから、美人と接するときと同じように、肌や髪など一部でも良いところを見つけて容姿を褒めるのが良い」と考えているらしき人に会う。私はそれが苦手で、「『ブスですね、じゃあ、容姿じゃない、他の良いところを見つけてつき合いますね』『ブスだけど、小説面白いね』が嬉しいんですよ」と言いたくなる。出版社は、おそらく、「美人作家とブス作家で違う売り出し方をするのは容姿差別にあたるから、同じように売り出そう」と考えていて、作家の顔写真を広告やPOPなどに使おうとする。そういうのに接すると、「おいおい、美人作家とブス作家は分けて販促方法を練ってくれ。ブス作家には、ブス作家の売り方がありますから。ちゃんとアピールポイントありますから」と訴えたくなる。結婚に関しても、「美人の結婚と、ブスの結婚は違う。夫に大事にしてもらうために結婚したんじゃないんですよー」「『髪型を変えて、旦那さんになんて言われました?』って、美人の奥さんだったらわかりませんが、ブスの奥さんの髪型は夫婦関係になんら影響ないんですよー」と教えてあげたくなる。
 けれども、同じブスでも、私とは正反対の考えを持つ人もいる。
「美人と同じように接して欲しい。ブスという区分に入れないで欲しい。ブスという言葉には嫌悪感が湧く。同じ女性として見て欲しい」という人もいるだろう。
 また、「ブスとして、ヴィジュアルを楽しんでいる。化粧やファッションを勉強したり研究したりして、生きがいを感じている。いわゆる『美人』というのではなくても、魅力的なヴィジュアルがあることをみんなに知って欲しい。容姿のことを、もっと褒められたい」という人もいるかもしれない。
 あるいは、「容姿のことなんて、まったく気にしたことがない。自分は他人を見るときに顔で判断しないし、ブスと美人の分け方がわからない。だから、その概念自体が苦手だ」という人もいるに違いない。
 いろいろなブスがいるので、「区別した方が、ブスは怒らない」「区別しない方が、ブスは怒らない」といったことを一概には言えない。

 性別に関しても、いろいろな女性がいるので、「区別した方が、女性は怒らない」「区別しない方が、女性は怒らない」というような決まったパターンはない。
 私の場合、ブスと美人は分けて欲しいが、女性と男性はできるだけ分けないで欲しい、と願っている。
 前回、「自分はノンバイナリージェンダーだ」と書いた。
 私は、「社会的なシーンで、女性と男性を無駄に分けることをやめてもらいたい」という気持ちで生きている。
 だが、決して、「女性と男性を分けるのは、絶対になくすべきだ。性別を意識するのは、全員やめるべきだ」と社会に訴えたいとは思っていない。「私は個人的に性別が苦手で、性別があまりない世界だったら生きやすくなるだろうから、自分の気持ちとしては区分けをなくしてもらいたい。でも、私とは違う考えの人も多くいることは知っている」というだけだ。「差別と区別が違うのはわかるが、私の場合、性別ではカテゴリーにうまくはまることができないし、区別があるだけで苦しく感じてしまうんだよなあ」とぼやきたい。「たとえ、『女性作家』の地位が『男性作家』より高いとしても、私は苦しい。『女性作家』と『男性作家』が別の職業であるかのように捉えられるのは、とてもつらい。私は同じ仕事をしたい。『女性作家』という仕事をする人がいてもいいし、ただの『作家』がいてもいい、という社会だと嬉しい」と思っている。
 そして、私とは逆に、「女性らしさを尊重してもらえる社会」が生きやすい、と感じている女性もいる。男性はたくましく包容力を持ち、女性は優しく可愛く生きる。その路線で努力して人生を築きたい、という女性が大勢いる。そういう人たちは、「社会的なシーンでも、男性と女性をできるだけ分けて扱って欲しい」「職業も、性別らしさを活かせるようにした方が良い」と望んでいるに違いない。

 いろいろな人がいるから、区別の方法の完璧な答えはなかなか見つからない。どうも、「人間に対する絶対的な区別」というものはない気もする。「『便宜的に区別が必要』というシーンに遭遇したら、とにかく慎重に分ける」という以外に方法はないのではないか。

 ところで、先ほど、差別の例として、「店舗やレストランや公共交通機関の入店や乗車を断ったり席を分けたりすること」と書いた。
 最近、「タトゥーのある人を、多くのプールや入浴施設が拒否していることの是非」がSNS界隈でさかんに議論されている。
 やはり、「人によって入店を断る」というのは大変なことなのだ。みんなが関心を持っている。

 きっかけは、タレントのりゅうちぇるさんが、ご自身の子どもが生まれたときに、「家族の名前を刻もう」と奥さんと子どもの名前のタトゥーを自分の両肩に入れた、とSNSで公にしたことだった。すると、それを批判するコメントが殺到した。「プールに子どもと行けなくなるのに」といった余計なお世話から、「タトゥーを入れないと子どもを守れないのか」というわけのわからない深読みまで様々だった。りゅうちぇるさんが個人的な信条のもとに自分の体に入れただけなのだが、社会に反する行為をしたかのように、かなり強い声が多くの人から寄せられたみたいだ。まあ、「かっこよくない」とか、「嫌い」とかだったら、タレントさんなので言われても仕方ないのかもしれないが、寄せられた意見はもっと踏み込んだものだ。日本では、プールや入浴施設などで「タトゥーお断り」の文言をよく見かけるので、多くの人が「タトゥーは駄目」と他人に言って良いと思ってしまっているのだろう。

 その後、りゅうちぇるさんから離れ、他の人たちが、「そもそも、プールや入浴施設で『タトゥーお断り』とされているのは、どうなのだろう?」という議論を活発に始めた。

 日本で「タトゥーお断り」が広まったのは、おそらく、「暴力団の人とのトラブルを避けたい」という入浴施設の運営者が、「暴力団お断り」と明記するのを怖く感じ、「タトゥーお断り」と言葉を変えて入浴規定を書いてしまったことによって、「タトゥーのある人を避けるのは差別ではないんだ」「実際にトラブルを起こすかどうかではなく、見た目で『反社会的』ととりあえず判断するのは、ラベリングではないんだ」「刺青をしないことが社会のルールだと捉えていいんだ」という考えが人々の間で共有されてしまったのではないかな、と想像する。暴力団の方とのトラブルを避けたいという考えのもとで、それとイコールではない「タトゥー」という言葉を書いてしまったのは、はっきりしない変なラインを引いたということで、これは立派な差別だ、と私は思う。
 その他にも、江戸時代には罪人に刺青を施したそうなので、「タトゥーのある人は反社会的な人だと捉えて良い」という空気を今も引き継いでしまっているだけ、という指摘もあるようだ。

 ただ、「宗教、民族、個人的な信条、ファッションなどの理由でタトゥーを入れている人の方が現在は多い」「反社会的な理由でタトゥーを入れる人はむしろ少数派だ」ということは、現代人のほとんどが知っている。
 知っているのに、「タトゥーのある人を避けて良い」「入店を断って良い」と考えるのは、偏見を肯定する思考の流れではないだろうか?
 しかも、現代日本において、タトゥーのある人を排除したがっている人は、本当に反社会的な人を避けたいのではなく、「ルールを守る社会にしたいから、なんでも良いから理由を見つけてスケープゴートを作り、排除したい」「ルールを守る自分に酔いたい」という気持ちで、排除を進めてしまっていないだろうか?

 他に、「日本にはもともと『タトゥーのある人は公共の風呂やプールに入れない』というルールがあり、日本でタトゥーを入れた人はそれを知りながらタトゥーを入れたわけだから、ルールを守って排除して構わないのだ」という意見も読んだ。
 しかし、この意見の人は、勘違いをしてはいないか?
「タトゥーお断り」というルールの否定派(私)は、「そのルールは差別になっているから、成熟した社会においては、ルールを変えていった方が良い」と言っているのであり、決して「かわいそうだから、入れてあげようよ」と言っているのではないのだ。
「ルールを知らないでタトゥーを入れちゃったのなら、かわいそうだからアリ」だとか、「生まれつきなのだったら、かわいそうだからアリ」だとか、「そうではないのならナシ」だとか、上から目線でその人をジャッジして、入れてあげるかどうかを決めるなんて、その行為自体が差別だ。

 学校でもこういうことがある。「バカな校則のある学校に入った人は、それを知っていて入ったのだから、たとえ人権を踏みにじる校則でも、守るか退学するかしかない」。そんな意見が出てくるのは、人間の集団として、あまりにもレベルが低い。

 偏見をなくすのは難しい。だから、偏見と共に生きるしかない。だが、少なくとも「良し」とはしない社会にしたい。
 私は立派な人間ではない。私もいろいろな偏見を持っている。道を歩いていて、「あの人、怖そうだな」と見た目でイメージを作って、遠回りしてしまうことがある。初対面の人を、ファッションなどでなんとなくグループ分けして、性格を想像してしまうときもある。でも、それを良いことだとは思っていない。恥じている。他の人に、「私はあの人が怖いから、避けるね」と声高に言うことはしない。とっさにそういう態度を取ってしまったが、そんなことをした自分が悔しいし、今後は、できたら自分の見方を変えていきたい。
 タトゥーに対しても、正直なところ、私の中に偏見がまったくないとは言えないと恥じている。「タトゥーのある人に偏見を持っていないか?」と聞かれたとき、持ちたくないとは思っているが、「はい」と強く頷いていいかどうか、わからない。自分自身はタトゥーを入れておらず、地味なファッションだし、多様な人たちと接した経験があまりないし、派手な見た目の人に会ったときに、慣れていないので驚いたり、「自分とは違う世界の人」と捉えてしまったりすることもあるかもしれない。
 でも、それは決して胸を張れる態度ではないと自覚している。変えたいことだ。
 だから、プールや入浴施設の運営者側が、「怖がるお客様がいるので、タトゥーのある方はお断りしています」という意見を出すのを見て、それはないんじゃないか、と思った。「偏見によって他人を怖がるお客様の方が変わるべき」と思うのだが、どうだろうか?
 昔は、「外国人に慣れていないので、外国人が怖い」というお客様がいた。だが、「『怖がるお客様がいるので、外国人の方の入店はお断りしています』というのは差別だ」というのは現代人の共通認識だろう。
「お客様がたくさん来るように、『怖いイメージ』をちょっとでも持たれそうな人は差別してでも排除します」では、社会活動としておかしい。

 でも、どのお店でもそんなことを言っているわけではない。
 利益追及だけではなく社会的な視点を持って運営しているプールや入浴施設があったら、そこを選んで行くようにし、お金を払っていきたいな、と私は思った。

 ともかくも、「タトゥーお断り」に私が賛同できないのは、根拠がないからだ。

 遊園地の乗り物に「130センチ以下のお子様はお断りしています」とあるのは、明確な理由があるので、納得できる。小さい子が乗るのは危険だ。
 しかし、「タトゥーお断り」には、論理がない。

 タトゥーのある人への入店拒否を、「タトゥーをしている人を見下しているわけではないから、差別ではない」と捉える人もいるだろう。けれども、根拠のないラベリングや入店拒否は差別だ。

 こういったことを「文化だ」と言う人もいる。確かに、文化は大事にするべきだ。しかし、「見慣れない人を排除する」という行為は文化でもなんでもない。

 人と人との間に線を引くのはとても難しく、ものすごく大変なことだ。

「目次」はこちら

スポンサーリンク

シェア

Share

著者

山崎ナオコーラ

1978年、福岡県生まれ。2004年、会社員をしながら執筆した『人のセックスを笑うな』(河出書房新社)で第41回文藝賞を受賞し、作家活動を始める。2017年、『美しい距離』(文藝春秋)で第23回島清恋愛文学賞受賞。小説に『ニキの屈辱』、『ネンレイズム/開かれた食器棚』(ともに河出書房新社)、『ボーイ ミーツ ガールの極端なもの』(イースト・プレス)、『偽姉妹』(中央公論新社)他多数。エッセイ集に『指先からソーダ』(河出文庫)、『かわいい夫』(夏葉社)、『母ではなくて、親になる』(河出書房新社)など。絵本に『かわいいおとうさん』(絵 ささめやゆき)(こぐま社)がある。モットーは、「フェミニンな男性を肯定したい」。目標は、「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」。

矢印