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「ブス」の自信の持ち方 山崎ナオコーラ

第17回

新聞様(1) 被害者の顔写真をなぜ載せるのか?

2018.09.18更新

読了時間

【この連載は…】現代は多様性の時代と言われます。しかし社会には、まだまだ画一的な一面が強くあるのではないでしょうか。この連載で取り上げるのは「ブス」。みなさんはこの言葉から何を感じますか? 山崎ナオコーラさんと一緒に、「ブス」をとりまく様々なモノゴトを考えていきます。
「目次」はこちら

 みなさんは、新聞に顔写真が載ることをどういう風に捉えていますか?
 もし、自分の顔が新聞に載ったら、嬉しいですか、つらいですか?

「どうして新聞は人の顔写真を載せるのだろう?」と私は以前から不思議に思っていた。

 捜索中だったり、指名手配中だったりする人の顔ならば、わかる。
 その顔を多くの人が知ることが、誰かの助けになる。

 でも、探されているわけではない顔を、多くの人が知って、誰になんのメリットがあるのだろうか?

 新聞には、毎日、いろいろな人の顔写真が掲載されている。
 犯罪の被害者、加害者、何かを成し遂げた人、研究を発表した人、スポーツ選手、作家、政治家、ニュースの中心人物、様々な人の顔、顔、顔……。

 新聞は特殊なメディアだ。
 雑誌の場合は、たくさん売るために、魅力ある紙面に向けて、写真と文章を組み合わせる。読者がページをめくりたくなるような、雰囲気が素敵な写真、おしゃれな写真が使われる。横顔だったり、髪型の感じだけが伝わるものだったりする「顔写真」も多い。
 週刊誌の場合も、たくさん売るために、ヴィジュアルが使われる。「良くも悪くも、こういうことをやった人の顔を見てみたい」「そういうことをされてしまった、かわいそうな人の顔を見てみたい」という読者の下世話な欲求を満たす目的で顔写真を載せる。顔という情報を伝えるというよりも、読者がハッとするような写真を載せている。
 インターネット記事も、閲覧数を上げるために、「おしゃれな写真」か「下世話な写真」が使われていると思う。
 でも、新聞は社会的使命で情報を発している。もちろん、新聞社も発行部数を増やすことを目標にしているだろう。でも、それ以上に、社会的使命を果たしたい、と掲げている。顔写真の多くが、正面を向いた形で、雰囲気や背景が削られ、その写真の面積いっぱいに顔だけが大きく写っている。「社会的使命を果たすために、顔という情報を広く伝える」という仕事をしているつもりなのだろう。

 私は15年ほどの作家活動の間に、新聞や雑誌や週刊誌などに自分の顔写真が何度も載った。やはり、新聞は特殊だと感じた。
 雑誌の場合、作家の顔を載せる際、ただ雰囲気良く、ヴィジュアルの構成を考える。写真家さんが、その作家らしい感じを出すために、ふとした仕草を撮ってくれる。顔立ちを伝えたいわけではないので、うつむいていたり、手を顔にかざしていたりしても良いみたいだ。そして、撮った写真は、掲載する前に必ず本人に確認を取ってくれる。私の場合、メール添付でもらうことが多い。いくつか見せてくれて、「では、3番の写真でお願いします」と、本人が選べる場合もある。
 しかし、新聞は、「正面向きで」と言われて撮られ、被写体は事前チェックができない。
 記者とカメラマンが選び、デスクが最終判断を行なって載せる。報道なので、取材対象の私たちは、たとえ自分の記事でも、「どう報道されるか?」にはノータッチでいることを求められる。
 インタビューでは、意見を言っている風なシーンを、顔立ちがはっきりとわかるように撮られる。「ここで、この人が、喋った」という証拠としての写真なのだろう。
 授賞式などの公の場に行くと、知らないうちに撮られたものが、こちらになんの連絡もなく、新聞に載っていることもある。
 また、雑誌やインターネット媒体の場合は、インタビュー記事なら顔写真が付くが、エッセイや書評を書いた際に顔写真を並べて載せられることはまずない。
 でも、新聞では、インタビューはもちろん、エッセイや書評を書いたときにも顔写真付きの記事になることがよくある。

 新聞は、雑誌などとは違う感覚で、顔というものを捉えているに違いない。
 顔のことを、指紋のような、足跡のような……、人間をリアルにさせるものだ、と新聞は思っている。
「ここに書かれている事件は実際にあったことだ、という証明」「この文章はこの人が書いた、という証拠」といった意味合いで、顔写真を記事に添えるのだろう。

 確かに、事件記事に、「十八歳の女性が被害者」という言葉があるだけでは漠然としていて、「実際に起こった事件」という印象が強まらず、社会的関心が集まらないかもしれない。
 でも、真面目そうなファッションの、いたいけな少女の顔が記事に付いていたら、「将来の夢があっただろうに、果たせないままになってしまったのだろうな」「自分の姪に似ていて性格の良さそうな子だ。感情移入してしまう」「この子の豊かな未来を奪った犯人が許せない」と想像がふくらみ、世間で話題にされ、「実際に起こった事件」という印象が強まり、「裁判の行方を追いたい」「被害者家族へのケアも必要だ」「今後、同様の事件が起こらないように、対策を練らなければならない」と議論が深まり、実際に同様の事件が減るかもしれない。
 そのことを見越して、「被害者の顔写真を載せることが新聞の社会的使命だ」と新聞社は思ってるのかもしれない。

 しかし、その被害者の写真が、派手なファッションの、大人びた顔立ちの少女だったら、どうだろうか? 世間の反応は変わってくるのではないか? 
 これまで、日本でたくさんの事件が起きた。そして、被害者の写真が新聞に載り、その見た目やファッションが世間から叩かれる、ということが何度も起きた。
「派手な格好をしていたのなら、自分から誘っていたようなものだ」「ブランド好きなら、加害者から金をもらっていたのだろう」「水商売をしていたのなら、危険性を認識して自分で対策を立てておかなければならなかった」「美人薄命」「こういう系のファッションの子なら、犯罪に巻き込まれるのも仕方がない」といった、被害者バッシングが度々起こる。犯罪が被害者に起因していると考えることは絶対にしてはならないのに、ヴィジュアルが晒された途端、それをしてもいいような空気が世間に漂ってしまう。

 なぜ、顔があると物事がリアルに感じられるのか?
 それは、ヴィジュアルは想像力をかきたてるからだろう。「美人なら、こういう性格に違いない」「派手な服を着ている子は、生き方も派手なはずだ」「地味な顔の人は、おとなしい性格だ」「知り合いの○○に似ているから、同じような人に違いない」……。
 その多くは間違っている。想像に過ぎない。
 でも、人間が社会を築き上げることができたのは、想像力があるからだ。一説によると、ホモ・サピエンスが、ネアンデルタール人ら旧人と違うのは、知性ではなく、想像力らしい。ネアンデルタール人は知的で、言葉も道具も使っていた。ホモ・サピエンスは個人として頭が良かったからネアンデルタール人に勝ったのではなく、より大きい集団を作って社会を築き上げられたから勝った。社会を築くには、想像力が必要不可欠らしい。洞窟の壁に絵を描き、みんなで空想に浸った。宗教や物語など、目に見えないものを想像し合って、現実ではないものを共有できるから、社会ができ上がる。
 人間は想像をやめられない生き物だ。

 被害者の実像をみんなで完璧に理解することなんて不可能だ。写真は虚像だ。しかし、写真があると、みんなでその人を共有できたような錯覚が起こる。想像の産物だ。
 その錯覚のおかげで、集団の結束が高まり、犯罪の減少など、良いことも生まれる。
 だが、悪いことも生まれる。被害者の尊厳を奪うことや、遺族を傷つけることが、たくさん起こった。

 ホモ・サピエンスがネアンデルタール人と共に暮らしていた頃なら、たとえ誰かしら数人の尊厳を踏みにじったり傷つけたりしても、とりあえず集団の結束力が高まれば十分だったかもしれない。
 でも、あれから何万年も経った。
 今では、もっと成熟した社会を目指すことができる。
 弱者の幸せのための社会、差別を少なくする社会に向けて、もう一歩、動き出せるかもしれない。

 2016年に相模原障害者施設殺傷事件が起こったときは、被害者の顔がまったく報道されなかった。
 神奈川県立の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」で19人が元職員の男に殺された事件だ。
 これまでの日本では、殺人事件が起こると、被害者の顔写真と実名が新聞に掲載されてきた。しかし、このときは、被害者の顔も実名も公開されなかった。どうやら、神奈川県警の判断によるものらしい。
 私は、これに驚いた。「顔写真を報道するのは、新聞の社会的使命」ということで、ジャーナリズムにおいて揺るぎないものなのかと思っていた。警察なら、報道を止められるのか。警察は、そんなに権力を持っているのか。
 神奈川県警のコメントによると、「施設にはさまざまな障害を抱えた方が入所しており、被害者家族が公表しないでほしいとの思いを持っている」という理由で止めたらしい。新聞社も、この理由に納得したということだろう。
 被害者が障害のある人の場合のみ遺族の意向を汲み取るというのはなぜ? そして、障害者と健常者の線引きはどこに? 報道するかしないかのジャッジの基準が不透明でまったくわからない。なんなんだ、この社会は。
 これまで、被害者本人の尊厳を踏みにじっても、遺族が「写真を載せて欲しくない」と泣いて頼んでも、顔写真の報道を止めようとしなかった新聞。
 被写体の意向など汲む気は毛頭ない、写真は撮られた側の物ではなく、撮った側のものだ、と堂々としていた新聞。
 大きな事件が起こったら、被害者の顔を、本人からも遺族からも取り上げ、強制的に社会のものにする新聞。
 それなのに、警察に言われたら、簡単にやめるのか。

 ちょっと憤りを覚えた。

 その後、報道機関と信頼関係を築いて実名を語り始めたこの事件の遺族もいるらしいので、遺族の中には、被害者の顔写真と実名の公開を望むようになった人もいたようだ。記者も様々で、取材の仕方もいろいろだったのだろう。また、事件直後の取材を拒む遺族はどんな事件でも多数派だが、時間と共に考えや行動がそれぞれ変わっていくのは自然なことだ。
 私としては、警察が判断するのではなく、ジャーナリストが信念とモラルを胸に取材者ひとりひとりの考えを汲み、顔写真は遺族の確認を取ってから時期を見て慎重に掲載するのが良いのではないか、と思う。

 ともかくも、警察も新聞社も遺族を慮り、良かれと思って先回りしたのはわかる。「遺族がどんな思いをするか」。でも、その想像力があるのだったら、障害者ではない被害者の顔写真が載ったときの遺族の気持ちも想像できるのではないか。障害のあるなしに関わらず、写真が新聞に載るというのは大変なことだ。美人でも、若い女性でも、新聞に顔写真が載ったら、遺族は激しく動揺する。

 写真は、誰のものなのだろう?
 顔は、誰のものだろう?

 私も、わからなくなってくる。

 顔写真は本人に確認を取ってから、本人が亡くなったあとならば本人に一番近い人に確認を取ってから、掲載を考える、というのは、そんなに難しいことなのか。

 2017年に、座間9遺体事件が起こったときは、被害者全員の顔写真が掲載された。
 座間市のアパートで、若い女性8人、男性1人の、計9人が、27歳の男に残虐な方法で殺された事件だ。
 SNSで自殺願望者を探して接触し、話を聞いてあげる優しい男を演じて遣り取りを長く交わしたあと、言葉巧みに誘い出し、家に連れ込み、恐ろしい方法で殺害した。被害者は「自殺願望者」と報道されたが、本当に自殺を望んでいたわけではなかった人がほとんどらしく、いわゆる「普通の若い人」だったみたいだ。遺族はどんな気持ちだろうか。
 犯人が逮捕されると、すぐに被害者の特定が行われ、顔写真と実名が公開された。しかし、この公開は遺族の気持ちに反するものだったらしい。
 15歳の娘さんが殺されたという遺族は、「今後とも本人及び家族の実名の報道、顔写真の公開、学校や友人、親族の職場等への取材も一切お断り致します」というコメントを報道機関に向けて出した。
 その他の遺族も、取材や写真公開をやめて欲しいという旨のコメントを発表した。
 だが、その後も顔写真や名前の公開は続き、取材も収まらなかった。

 なぜ、相模原障害者施設殺傷事件では顔写真が公開されず、座間9遺体事件では顔写真が公開され続けたのか。

 世間には、「どういう女の子が殺されるのか見てみたい」という欲望があったり、「若い女性というものは、見られる存在だ」「女の子は、周囲の人から見られたがっている。注目されたがっている」「女性に視線を向けるのが愛だ」という偏見があったりするのではないだろうか。
 私は新聞社に、「載せてあげている」という驕った空気も感じる。「かわいそうな女の子を報道してあげた」と新聞は思っていないか。

 昔の気質を持っている新聞社上層部の「障害者の遺族は隠れて生きていきたいだろうし、かわいそうだから、報道しない」「若い女性は他人に見られてこその存在だから、報道してあげる」という価値観が透けて見える気がする。
「障害者はかわいそうではない」「『見る性』と『見られる性』を作ってはいけない」という現代の常識がまだ行き届いていない感じがする。

 冒頭に「もし、自分の顔が新聞に載ったら、嬉しいですか、つらいですか?」という質問を書いた。

 50年前だったら、単純に「嬉しいです」とだけ答える人もたくさんいたかもしれない。

 でも、今は、「つらさの方が強いです」という答えが圧倒的だろう。
 たとえ、自分の仕事に関する紹介記事でも、記事の文章についてはとてもありがたく感じつつ、顔写真のみについてなら、「嬉しくないこともないが、つらい方が勝る」というのが、私も含め、多くの人の気持ちだと思う。

 理由は、インターネットだ。
 記事の多くが、紙だけでなくオンラインにも載る。
 昔だったら、荒い紙へ雑な印刷でぼんやりとした顔が掲載されるだけのことだった。そして、それも日にちが経ったら消え、世間から忘れ去られる。
 しかし、現代では、一度新聞に顔写真が載ったら、永遠に残る。
 その人の名前をインターネットで検索したら、新聞に載った顔写真がトップに出てくる。

 新聞社は、雰囲気などを重視しないカメラマンが多く、本人による事前チェックもないので、取材写真の場合、大概は、本人が気に入る写真ではない。
 スポーツ選手の場合、「スポーツをしている」という証拠写真なので、服がめくれ上がっていたり、表情が激しく歪んでいたりもする。
 そして、被害者の顔写真は、ほとんどが、遠い関係の人から提供された質の悪い写真だ。

 写真が新聞に載ると、本人と関係の薄い人たちが、インターネット上で、美醜のジャッジを下す。
 バッシングも起こるかもしれない。
 無関係な別のサイトへの転載もあるかもしれない。
 新聞写真が名前と共にインターネット上にずっと残ることに、本人のメリットは少ない。

「顔写真が新聞に載るのは、つらいものだ」ということは、現代の若い人たちの共通認識になりつつあると思う。
 特に、犯罪被害者の顔写真公開の是非については、最近、あちらこちらで議論されている。

 大きな事件が起きて、被害者の顔写真が新聞に掲載されると、「遺族がかわいそう」という声がSNSに溢れる。

 だが、「遺族はかわいそう」と遺族という存在をひとつにくくるのも良くないだろう。
 犯罪被害者の遺族は、様々だ。それぞれ感じ方も考え方も違う。
 事件から数年後などに、「事件を風化させないために娘の顔写真を出したい」「この子が生きていたのだという証を残したい」「このような犯罪が二度と起こらないよう、抑止力にしたい」といったコメントと共に、子どもの写真を公開する遺族もいる。写真を新聞に載せることには良い面もある。遺族はそれを信じて、一歩踏み出す。でも、公開するときには怖さもあるに違いない。そして、実際に公開したあと、嫌な思いをすることもきっとある。「嫌な気持ちもあるけれども、社会のために、子どもの写真を提供しよう」という勇気ある行動なのだと思う。

 やはり、事件直後の報道では、遺族から顔写真が提供されるのは稀なようだ。

 事件のすぐあとの報道で、卒業アルバムの写真や、プリクラの写真、かなり写りの悪い写真、大勢で撮った写真の一部を拡大した写真など、本人が生きていれば「良い写真」「他人に見せたい」「新聞に載せたい」とは思わないであろう写真が「被害者の顔写真」として使われているのをよく見かける。
 そういう写真しか新聞社が手に入れられなかったということは、本人の身近な人たち、つまり家族や親友は、報道機関に顔写真を渡すことを拒んだ、ということではないだろうか? 家族や親友なら、もっと写真を持っているはずで、たとえ嫌々でも、新聞社に写真を渡すときは、被害者本人が「良い写真」と思うような写真を選んで渡すに違いない。
 ただのクラスメイト、遠い関係の知人、近所の顔見知り、一度遊んだだけの友人、といった遠い関係の人にしか報道機関が接触できていないから、いまいちな写真しか入手できていないのだ。
 卒業アルバムの写真は変な顔に写りがちだというのは世界中のみんなが思っていることであり、「卒アルの顔写真が新聞に転載されたよ、わーい」と喜ぶ人などまずいない。プリクラの写真は、友だち同士の遊びとして撮るもので、目を大きく変えたり、ふざけて文字を入れたりして楽しむのは若者として当然で、だが、社会的なシーンでも同じようにふざけたい、親や親戚にも見せたい、などとは思っていないのも当たり前だ。それなのに、それをそのまま報道するのは、被害者や遺族に配慮が足りないのではないか?
 最近は、本人のツイッターやフェイスブックなど、SNSからの引用も見かける。本人がすでに亡くなっている場合は、おそらく誰からの許可も得ずに転載していると思われる。インターネット上のものは世界に向けて発信されたものなのだから転載は自由だ、と捉えているのかもしれないが、本人は「ツイッターという媒体で見られる」ことを想定してアップしているわけで、他人が編集して見え方を変化させ、別の媒体に無断で載せるというのは、モラルに反するのではないか。「ツイッターだから、このノリ」「この流れからきた、この感じ」という写真を、切り取られて新聞に転載されることを良しとする人は少ない。

 写真ぐらい気にするな、顔なんて小さなことだ、という意見もあるかもしれない。「男だったら気にしないけれど、女性は自分の顔を良く見せたがるからなあ。女性には配慮が必要なんだなあ。はっはっは」と済ませたがる人もいるだろう。違う。良く見せたいのではない。
 本人の美意識の問題ではないのだ。見栄の話などしていない。
 尊厳の話をしている。
 社会の問題だ。個人の問題ではない。
 写真の印象で、どの程度のバッシングが起こるかが決まるのだ。
 現代では、インターネット上で尊厳を激しく踏みにじられることがあるので、新聞という大きな力を持つ媒体に関わっている人は、「写真を載せたら、このあと、この人はインターネット上で大きな二次被害を受ける」というところまで想像してもいいのではないか?

「目次」はこちら

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著者

山崎ナオコーラ

1978年、福岡県生まれ。2004年、会社員をしながら執筆した『人のセックスを笑うな』(河出書房新社)で第41回文藝賞を受賞し、作家活動を始める。2017年、『美しい距離』(文藝春秋)で第23回島清恋愛文学賞受賞。小説に『ニキの屈辱』、『ネンレイズム/開かれた食器棚』(ともに河出書房新社)、『ボーイ ミーツ ガールの極端なもの』(イースト・プレス)、『偽姉妹』(中央公論新社)他多数。エッセイ集に『指先からソーダ』(河出文庫)、『かわいい夫』(夏葉社)、『母ではなくて、親になる』(河出書房新社)など。絵本に『かわいいおとうさん』(絵 ささめやゆき)(こぐま社)がある。モットーは、「フェミニンな男性を肯定したい」。目標は、「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」。

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