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「ブス」の自信の持ち方 山崎ナオコーラ

第27回

虚栄心とか美への欲望とか

2019.02.12更新

読了時間

現代は多様性の時代と言われます。しかし社会には、まだまだ画一的な一面が強くあるのではないでしょうか。この連載で取り上げるのは「ブス」。みなさんはこの言葉から何を感じますか? 山崎ナオコーラさんと一緒に、「ブス」をとりまく様々なモノゴトを考えていきます。
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 容姿に関する悩みを、女性の生来の欲望として処理しようとする社会の空気がある。

「クレオパトラは美しくなるために地の果てからこんなものを取り寄せた」だとか、「マリー・アントワネットは自分の美のためにこんなに金を使った」だとか、そういう逸話を紹介して、「女性が持つ美への欲望はすさまじい」といった結論で締める。そういう文章をよく見かける。

 また、整形を繰り返す女性の物語が巷に溢れているが、やはり「女性が持つ美への欲望はすさまじい」系の結論になっている。

 私は首を傾げる。女性にだけ生まれつきそんな欲望が備わっているなんてことがあるだろうか?
 私は医学に詳しくないので、ただの勘だが、そんな欲はないと思う。
 集団で生きる動物なので、「社会的に上位の存在を目指す」という欲はあるだろう。その流れで「社会で上位に行くための手段として美を身に付けたい」という考えになることはあるかもしれない。でも、純粋な「美への欲」というものはないと思う。少なくとも、私にはそういう欲が湧いてくる感じはない。
「美しくなりたい」ではなく、「社会的に上位の立場になりたい」「権力者になりたい」ということだと思う。
 同じことだ、というご指摘もあるかもしれない。しかし、私には言いたいことがある。何が言いたいかというと、「欲望に性差はない」ということだ。
 男性にも、「社会的に上位の立場になりたい」「権力者になりたい」という欲があるだろう。それと同じものを女性も持っているという、ただそれだけのことなのだ。

 男性にもそういう欲があり、「社会的に上位の立場になりたい」「権力者になりたい」という欲を満たすために、勉強をしたり、体を鍛えたり、ときには戦争しようとしたりすることも認められてきた。

 だが、なぜか、女性のみ、「社会的に上位の立場になりたい」「権力者になりたい」という欲を否定されがちだった。
 女性がおしゃれをすることや、美しく見せようとすること、自分を美しいと思うことを嫌悪する空気もあった。
 昔の海外文学を読んでいると、美しくなろうとする女性キャラクターへの戒めの文章がよく出てくる。作家自身が戒めないとしても、周囲のキャラクターが、「自分を美しく見せることにうつつを抜かしては駄目だよ」といった指導を行う。女性キャラクターの虚栄心を指摘するシーンがたくさんある。
『赤毛のアン』のアンが袖の膨らんだワンピースが着たいと言ってもマニラは着せない。『若草物語』のエイミーが鼻を高くするために洗濯ばさみで鼻をつまんで寝ることは「笑い」として描かれる。

 どうして女性たちが「自分を美しくしよう」と努力していたのか、と想像するに、昔は、社会の中で上位に登ったり、権力を持ったりしようとすると、男性よりもたくさんの障害があった。しかし、「美しさ」という切り札を持っている場合、それを有効活用できるシーンがあった。
 べつに、「美への欲求」という、個人が持つ、本来的な欲のために美しくなったのではなく、ゆがんだ社会の中で、なんとか登りつめようと思ったら、あるいは、登らないとして、ただ生きていこうと思うだけでも、「美しくなる」という方法しか昔は思いつかなかったのではないか。

 それを、生物学的な理由として捉えられてしまうのが、私は悔しい。
 性差を掲げて、「女性の場合は」とまとめられてしまうのは、納得がいかない。
 個人に理由を求めないで欲しい。
「美しくないと生きていけない」と女性に思わせるのは、社会の問題だ。

 ブスの場合も同じだ。
「ブスと言われることに悩んでいる」と伝えると、「美への欲望が満たされないから悩んでいる」という意味に勝手に変換されてしまうことがよくある。「本当はきれいになりたいのに、なれないから悩んでいる」と。
 いや、そうではなく、いじめに悩んでいるのだ。
 いじめに悩んでいる子どもから、「みんなから『くさい』と言われるんです」と相談されたとき、「そうか、本当は、いい匂いになりたいという欲望を持っているんですね。いい匂いになりたいのに、くさいから悩んでいるんですね」とは受け取らないと思う。「『くさい』と言うのはいじめだ。みんなはひどい。いじめをやめるべきだ」と受け取るはずだ。その子をいい匂いに変化させることが解決ではなく、いじめをなくすことが解決だと思うはずだ。
 だが、ことブスの話になると、「みんなからブスと言われてつらくて……」と話すと、「じゃあ、美人になるにはどうしたらいいか考えましょう」「せめて性格美人を目指しましょう」「美人は得していて、ブスは損しているように思うんですね。でも、美人も大変なんですよ」と、個人を問題視されてしまう。
 これを言うと、みんなから嫌われてしまうかもしれないのだが、私は「ブス」の問題の多くは、個人に起因しておらず、社会のゆがみから起こっていると考えている。
 よく、犯罪者のことを、「社会にうらみを持っていた」といった紹介をしているが、それを見て、私は「自分もだ」と感じる。私が犯罪者になったら、「社会にうらみを持っていた」と紹介されるかもしれない(極力、犯罪は起こさなようにする)。
「ブスと言われた」という私の悩みは、決してコンプレックスではなく、社会へのうらみだ。劣等感に悩んでいるのではなく、社会がおかしいから悩んでいる。正直、自分が変わるよりも、社会を変えたい、と思っている。
「社会を変えたい」と言うと、怒る人が結構いる。「まず自分が変われ」と言ってくる。いや、まあ、自分も少しは変わった方がいいかもしれない。でも、少なくとも、容姿は変える必要はないと考えている。きれいな人との方が仕事付き合いがしやすい、ブスは迷惑、と思う人がいるかもしれない。だが、迷惑をかけているとしても私は自分の顔を変える気はない。迷惑をかけて何が悪い。社会で生きているんだ。迷惑をかけたりかけられたりしてやっていくんだろうが。また、内面をちょっと変える、視点をちょっと変える、という努力をするとしても、「ブスだからせめて性格美人になろう」なんてことは、死んでも思わない。なんで、ゆがんだ価値観の方へ自分が合わさなければならないんだ? 「性格美人」ってなんだよ、バカじゃねえのか。「性格の良い素敵な人」でいいじゃないか。なんで女性だからって、「性格美人」なんて言い方されなくちゃならないんだ。

 私は、美への欲求でも、虚栄心でもなく、いじめに悩んでいるんだ。社会を変えたいんだ。
 仕事を頑張りたいのに、社会に居場所がないから悩んでいる。
 美人と比べて損をしているなんて、そんなくだらないことは思わない。得だの損だのという低いレベルの話ではないのだ。悪口を言われたり、迫害されたりするから困っているのだ。
 おそらく、女性ではない人からすると、この社会が、女性がみんな「美しくなりたい」という欲望を生来的に持っていて、頑張って美しくなろうとしてくれているとしたら、生きやすさを感じるのだろう。また、ブスが性格美人を目指したり、ブスは損だから美人になりたいと願ったりする社会も、やはり生きやすいのだろう。だから、そういう仮定を社会に浸透させたくなってしまったのに違いない。
 でも、そんな社会、女性からしたら生きづらくて仕方ない。変化させるしかない。
 容姿に関係なく、性別にも関係なく、社会的に上位になることを目指せる社会、権力を持つことができる社会を作りたい。
 まあ、社会的に上位になることや、権力を持つことなんて、かなりくだらないけれども、そういう欲が人間にあるのなら、誰でもその欲を満たす努力をして構わないのではないか。
 そして、昔の女性は「美しさ」を武器にするしか思いつかなかっただろうが、今はたくさんの武器がある。美しくないままで女性が社会的に活躍できる時代になった。
 勝手に女性の欲望を定義するようなゆがみを直して、さらに社会を変えていきたい。

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著者

山崎ナオコーラ

1978年、福岡県生まれ。2004年、会社員をしながら執筆した『人のセックスを笑うな』(河出書房新社)で第41回文藝賞を受賞し、作家活動を始める。2017年、『美しい距離』(文藝春秋)で第23回島清恋愛文学賞受賞。小説に『ニキの屈辱』、『ネンレイズム/開かれた食器棚』(ともに河出書房新社)、『ボーイ ミーツ ガールの極端なもの』(イースト・プレス)、『偽姉妹』(中央公論新社)他多数。エッセイ集に『指先からソーダ』(河出文庫)、『かわいい夫』(夏葉社)、『母ではなくて、親になる』(河出書房新社)など。絵本に『かわいいおとうさん』(絵 ささめやゆき)(こぐま社)がある。モットーは、「フェミニンな男性を肯定したい」。目標は、「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」。

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