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「ブス」の自信の持ち方 山崎ナオコーラ

第28回

強者の立場になってしまうこともあるという自覚

2019.02.25更新

読了時間

現代は多様性の時代と言われます。しかし社会には、まだまだ画一的な一面が強くあるのではないでしょうか。この連載で取り上げるのは「ブス」。みなさんはこの言葉から何を感じますか? 山崎ナオコーラさんと一緒に、「ブス」をとりまく様々なモノゴトを考えていきます。
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 今回も、「もしかしたら、またバッシングされるかな?」と危惧しているのだが、正直な思いを書こう。私は、「女性が弱者になるとは限らない」と考えている。

 こうやって「ブス」について書いていると、「男性に対して抗議の文章を書いてくれ」という期待を感じることがある。

 だが、私は男性に対して抗議をする気は毛頭ない。

 私が怒っているのは、「『ブス』とののしって、差別をしてくる人」に対してであり、男性に対してではない。
「『ブス』とののしって、差別をしてくる人」の性別は、男性のこともあるし、女性のこともある。
 男性という属性を持つ人のみんなが、女性を容姿で判断するわけではない。様々な男性がいる。ひとりでも「女性への容姿差別をしない男性」がいる限り、男性のことを「男性だ」という理由で責めたることをしてはいけないと思う。
 女性だって様々だ。「女性はみんなブス」というフレーズを女性が書いているのを見かけたことがあるのだが、私は「女性はみんなブス」とは到底思えない。別々の性質を持って生まれ、違う環境で育ち、いろいろな価値観を身につけ、それぞれの考え方を持っている。属性が女性だからといって、みんなが容姿を気にしているとは限らない。ブスを自認する人もいれば、美人を自認する人もおり、容姿などまったく気にしたことのない人もいる。
 また、男性、女性という区分けに馴染めない人もいる。

 人間を女性と男性の二通りに分けることにすんなり馴染める人が多いこと、そして、「男性は強者」「女性は弱者」と捉えている人が世間に多いことを私は感じる。

 そういった多数派の方は、私が「男性に対しても思いやりを持たなければならない」といった文章を書くと、「体制側におもねっている」と言って批判してくる。

「弱者である女性が、体制側に男性ばかりがいる嫌な社会で、自立していく姿」を物語に求める気持ちが、そういった物語の誕生から何百年も経っても消えないのだ。物語が発展しない。

 芸術は弱者のためにある、と私は思っている。
 私は、常に弱者のことを考えたい。
 弱者に寄り添いたい。
 だが、それは、「自分は常に弱者だ」という考え方とは違う。
「自分自身が弱者の立場になっているシーンも確かにある。でも、別のシーンでは自分は弱者ではない。強者になってしまうこともある。だから、慎重に行動して、弱者の立場に配慮しよう」という考え方をしたいと私は思う。
 年を重ねるうちに、女性でも、ブスでも、状況によっては強者になることがある、だから、パワハラなどに気をつけなくてはならない、と気がつくようになった。強者の自覚を持つことも大事だ。そうでなければ、不用意に人を傷つけてしまう。「今、この状況においては、自分は強者かもしれない。きつい言葉を使うと、自分が想像する以上に相手を傷つけるかもしれない。弱者である男性に配慮をしよう」と考える機会が増えた。

 以前、ヒロインに「自分は強者だ」と言わせる小説を書いたら、ある文学賞の選考委員から、「弱者の自覚を持ってこそ、書けるものがあるはずだ」といった批判を受けた。
 強者のヒロインが駄目人間になって転げ落ちる話は、「弱者の女性が、体制側に楯突いて、自立して、強くなる話」といった古い物語が好きな方々からすると、排除したいものなのだろう。
 強者の男性主人公が駄目人間になって転げ落ちる話なら歓迎されるに違いない。

 他にも、「こういうことを言うと、どうも歓迎されないな」「期待を裏切られたという顔をされるな」という話が私にはある。

 たとえば、私は、母や父から、「大人になったら、結婚した方がいいよ」だとか、「将来、お母さんになるのだから」といったことを一言も言われたことがない。親は私が子どもの頃から、「女の子らしい仕草を」だとか、「女の子なんだから優しく」だとかといった注意をまったくしなかったし、妙齢になってからも、結婚や子どもの話を全然しなかった。30歳くらいのとき、私の方から「結婚したいから、お見合いできないか?」と相談したら、母は「そんな当てはないし、結婚なんてしなくていいんじゃないの?」と笑った。その後、自分で結婚相手を決めて家に連れていったとき、親は相手の学歴や収入などは一切気にしなかった(夫は高卒で、収入の低い職業に就いているので、「何か言われるのではないか」と勝手に予想し、事前に夫の人柄の良さや仕事の素晴らしさを語るつもりで理論武装していたのだが、父は最初から何も気にしておらず、まったく質問しないで、会った途端に、「おめでとう。よろしく」と夫に握手を求めた)。母も父も、とっくに自立していた私に対して、なんの心配も抱いていなかったのだ。
 こういう話は、受けが悪い。
 おそらく、「親というものは『結婚しろ』とか『出産しろ』とかいくつになってもプレッシャーをかけてくるけれど、自分の人生は自分で決めて、女性だからといって小さくならず、強く生きたいよね」という話を期待されているのだと思う。
 だが、私は親にプレッシャーをかけられていないし、普通にしているだけで自分らしく強くなってしまう。その中で自然に感じたことを書きたいのだが、それを書くと、「体制側におもねっている」「女性の味方ではない」とバッシングを受ける。

 また、子どもが生まれたあと、子育てについての文章を素直に書こうとすると、「想像していたよりは大変でなかった」と綴ることになる。高齢出産だったため、周囲の人たちから「子育ての大変さ」をたくさん聞いており、事前にかなり覚悟していたこと、そして、たまたま、よく寝る子が生まれたこと、夫が育児や家事が好きだったこと、わりと調整しやすい職種に就いていることなどが重なって、「思っていたよりは大変ではなく、楽しくてたまらない」という状況になった。
 だが、「子育ての大変さを男性に教えて欲しい」「育児がどんなにつらいか、男性にわからせて欲しい」という要望を持つ読者の期待は裏切ることになる。

 それから、私が今いる職場は、性別による差別が比較的少ない職場であるような気がする。今いる職場といっても、私はフリーランスなので会社のことではなく、仕事まわりの環境のことなのだが、作家仲間や、編集者、出版関係の人、書店関係の人などは、おそらく、性別によって仕事を分けられたり、仕事相手から態度を変えられたりすることが、ないわけではないが、他の職場に比べたら少ない方ではないか。
 私が昔いた職場では、社員の扱われ方が、性別によってまったく違った。私は作家になる前と、なったあとの数年、会社員をしていたことがある。転職しているので、二つの会社の経験があり、一つ目の会社で性別で分けられることはあまりなかったのだが、二つ目の会社は古い体質のところで、性別によって仕事内容が分けられた。女性は事務だった。そして、給湯室の掃除が女性社員にだけ割り振られていた。また、男性は年配の人が多く、女性は若い人ばかりだった。こういう職場の場合、女性が陰で男性社員の悪口を言っても、決してひどい行動にならず、むしろ正義のようになりがちだ。そして、ここぞというシーンで、女性社員が男性社員に対して日頃の鬱憤をぶちまけ、過激な表現で男性社員批判をしたとしたら、決して非難の的にはされず、むしろ「かっこいい」となると思う。
 だが、今の職場だったらどうだろう。
 たとえば、女性の作家が男性の編集者に対して日頃の鬱憤をぶちまけ、過激な表現で男性の編集者批判をしたとしたら、パワハラになり、非難の的になるだろう。
 また、女性の作家が男性の作家に強い口調で意見したら、男性の作家が萎縮してしまうだろう(特に、私が知る同世代の男性の作家は優しいので気をつけたい)。
 そして、陰口はひたすらかっこ悪い。
(当たり前だが、これは性別が逆だったら行って良いとか悪いとかいう話ではない。本来、性別がどうあれ、過激な言葉で相手を批判することは決してかっこいいことではないのだ。ただ、時代や環境によって弱者が固定されている場合、弱者が強者に対して行うことはたとえ過激でも大概かっこ良くなるため、男性側からは許されないが女性側からのきつい言動は許される、ということがまかり通ることがある。でも、これからの時代は、「誰に対しても優しく接する」ということが主流になっていくだろう)。

 私より十歳、二十歳上ぐらいの世代の女性の作家や女性の編集者の方が、男性の作家や男性の編集者に向かって、きつい冗談や、厳しい意見を言うのを、何度か聞いたことがある。男性が女性にきついことを言い返すことはあまりない。でも、女性は結構言う。そういった先輩女性は、女性に対しては優しいのに、なぜか、男性相手のときは、かなりトゲのあるジョークや角のある言葉をぶつける。
 それで、ちょっと想像してみたのだが、おそらく、数十年前は「男性が強者」「女性が弱者」というのが絶対的で、ひっくり返ることがほとんどなかったのではないか。だから、きついことをいっても許されたし、逆に、「女性はきついことを言うぐらいの気概がないと、仕事をうまくこなすことができない」という空気もあったのではないか。

 でも、現代は複雑で、性別だけでなく、いろいろな要素で、強者や弱者が作られる。
 経済力や、発言力、どのような仕事をしているか、理屈のこね方、なんとなくの雰囲気、様々な理由で、強者と弱者が生まれる。嫌でも女性が強者の側に立ち、男性と接しなければならないシーンもある。

 作家をしていて、「これ、パワハラになるんじゃないかな」と反省することが何度かあった。相手がかなり年上の男性の編集者でも、ものすごく丁寧に接してくれる。だから、意見を言うと、強く響きすぎてしまうことがよくある。「私のような雑魚作家の意見なんてスルーされるだろう」「10歳以上も年上の人だから、私が強い口調で言っても傷つかないだろう」と思っても、想像以上に強く伝わってしまう。マンガ家さんの場合は編集者に上から喋られることも多いらしいが、文芸、特に純文学シーンでは、「クリエイターは尊敬しよう」と考える雰囲気が編集者の間にあり、新人の作家でも、上から喋られることはまずなく、むしろ意見を尊重される。

 また、家庭でも、私と夫には経済力の差が結構あり、私の方が理屈のこね方がうまく、社会的な視点もあり、なんとなく態度がでかい、といった要素があるせいか、私としては夫に対して意見しているつもりはないのに、なぜか夫が私の考えに合わせてくる、ということがよく起こる(ちなみに、夫の方が私より一歳年上なので、年齢は関係していない)。
 映画を観て、夫の感想を聞いたあと、「私はそれとはちょっと違う感想を持ったけれど……」と自分の感想話すと、「そっちだ」となぜか夫が感想を合わせてこようとする。「それぞれ違うね」でいいのに、なぜ合わせてくるのか。私が何かプレッシャーを与えてしまっているのだろうか。
 旅行や引っ越しなんかでも、大きなお金を出すのが私ということも影響してか、それぞれの意見の真ん中あたり、とならず、私の意見が通り過ぎてしまうことがよくあった。経済力のある方に選択の権利があるというのは本当に嫌な社会だ。私は反省した。自分の意見を言う前に、夫に配慮しなければならない。夫には持病もある。私と夫の場合、夫の方が弱者の立場になりやすいのかもしれない。夫が意見を言いやすい空気を作り、耳を傾けなければならない。

 これらは私の場合の話だ。
「仕事の話」「家庭の話」だからといって、あなたの職場の人間関係や、あなたの夫婦関係と置き換えて考えてもらうわけにはいかない。
 同じ「妻と夫」という名前で語られる関係でも、関係性は別々だ。

 ただ、想像はできる。
 性犯罪に遭った人が男性全般に対してどうしても恐怖心を覚えてしまう、という感覚は、想像できる。
 親から性別を理由に生き方を押し付けられた人や、性差別のある職場で働いている人、性役割に関する考えが合わない夫との生活にストレスを抱える人が、「男性に敵意を覚える」「男性に怒りを抱く」「男性に理解を求めたい」という感覚を持つことも、なんとなく想像できる。
 そして、そうではない、私みたいな人間もいるのだということも、想像してもらえたらありがたい。同じ性別だからといって、似た環境にいるとは限らない。考え方も価値観も違う。みんなが別々だ。それぞれが自分の思うことを素直に発言していいのではないか。
 私が、私の環境の中で考えた「男性を敵視しない」「男性を慮る」「性別にあまりこだわりたくない」ということは、素直に書いていいことだと思う。他の人からは「体制に迎合している」と見えるとしても、自分としてはまったくそう思わないし、自分は決して体制側の人間ではないと感じる。私は女性の味方ではないが、弱者の味方だ。

 苦しい場所にいる女性を慮りたい、寄り添いたい、と私も思う。
 ただ、他の多くの作家や、他の職業の人が、その仕事を私よりも的確に行なっている事実もある。
 私には、私のやるべき仕事が他にあるかもしれない、とも思う。

 みんなは、「女性の地位を上げたい」と活動してきたのだろうに、実際に女性の地位の低さを比較的あまり経験せずに育った私のような者が生まれると、その言葉に耳をふさぎたがるのはなぜなのだろうか?
 女性だって経験の有無に関係なく寄り添う側になれるし、他の仕事だってできるのに、「私も被害者です」という言葉のみを女性に求めるのはなぜなのか?
 この先の時代、女性の地位の低さをあまり意識しないで大人になり、「私が加害者になるかもしれないから注意しよう」という人だって増えるだろうに、「私も被害者です」という言葉のみを女性にずっと求め続けるのか? 「書き手が女性だ」と、性別でカテゴライズするのではなく、いろいろな人の様々な考えを聞こう、という社会にはならないのか?

 私の場合は、「女性の地位の低さ」ではなく、「性差を強調する社会」に苦しんできた。
 私は、私のやるべき仕事をメインに書き続けていきたいと思う。

 そういうわけで、私は、「女性は常に弱者なのだから、男性に対して強く意見を言って良い」という考え方に疑問を覚える。「男性が弱者かもしれないから、慮った方が良い」と思う。
 そして、人間を女性と男性という二種類に分けることをなるべく避けたいとも思っているので、「ブス差別をするのは男性に多いから、男性批判をするべき」なんて考えたくない。
 女性と男性、弱者と強者は、絶対的なものではなく流動的なものだ、ということを肝に銘じておきたい。

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著者

山崎ナオコーラ

1978年、福岡県生まれ。2004年、会社員をしながら執筆した『人のセックスを笑うな』(河出書房新社)で第41回文藝賞を受賞し、作家活動を始める。2017年、『美しい距離』(文藝春秋)で第23回島清恋愛文学賞受賞。小説に『ニキの屈辱』、『ネンレイズム/開かれた食器棚』(ともに河出書房新社)、『ボーイ ミーツ ガールの極端なもの』(イースト・プレス)、『偽姉妹』(中央公論新社)他多数。エッセイ集に『指先からソーダ』(河出文庫)、『かわいい夫』(夏葉社)、『母ではなくて、親になる』(河出書房新社)など。絵本に『かわいいおとうさん』(絵 ささめやゆき)(こぐま社)がある。モットーは、「フェミニンな男性を肯定したい」。目標は、「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」。

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