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「ブス」の自信の持ち方 山崎ナオコーラ

第29回

「おじさん」という言葉

2019.03.11更新

読了時間

現代は多様性の時代と言われます。しかし社会には、まだまだ画一的な一面が強くあるのではないでしょうか。この連載で取り上げるのは「ブス」。みなさんはこの言葉から何を感じますか? 山崎ナオコーラさんと一緒に、「ブス」をとりまく様々なモノゴトを考えていきます。
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 今回は、懺悔から始めたい。

 私は無自覚に加害者になっていときがあった。
「加害者だった」という自覚を持つようになったのは最近だ。

 今、深く反省しているのは、小学校5、6年生のときの担任の先生を、友人との交換日記の中で、髪を薄く、中年太りしているように似顔絵を描いていたことだ。
 当時は、「自分は子どもで、相手は大人だから、私が何をしても相手が本気で怒ることなんてない」と思っていた。
「ブス」という言葉については、簡単に言ってはいけないことだ、と早くから知っていたと思う。特に、同世代や女性に対して使うのはタブーだという意識は小さい頃からあった。
 でも、「ハゲ」「デブ」「おじさん」といった言葉を、大人の男性に対して使う場合にも慎重にならなければならないという意識はあまり持っていなかった。
 言葉として「ハゲ」「デブ」を使うことはなくても、「髪が薄いのを気にしている」「お腹が出ている」といった表現は悪気なく使っていた。
 そして、「おじさん」という言葉については、繊細に扱わなくてはいけないなんてまったく思っていなかった。大人の男性を揶揄する言葉として、「おじさん」をどんどん使っていた。「相手が『おじさん』だったら、何を言ってもいい」ぐらいのことを思ってしまっていた気がする。「おじさん」は上の立場の人だし、「おじさん」は見た目を気にしていないし、「おじさん」は鈍感だし、「おじさん」は私を見下しているし……。

 10代、20代の頃は、「おじさん」に嫌悪感を抱いていた。
「なんとなく汚い」と思っていた記憶もある。
「思春期になると、潔癖になり、男性に嫌悪感を抱く」と脳にプログラミングされている、という感じの話はよく聞くから、そういうことだったのかもしれない。
 高校時代や大学時代、電車に乗車していて、席が空いても、「おじさん」の近くには座らなかった。満員電車で、「おじさん」の隣に立つしかないときは嫌でたまらなく、体を反らせたり、息を止めたりしていた。
 痴漢被害を避けたい、という思いもあったので、仕方のない面もあったかもしれない。ただ、「おじさん」のすべてが痴漢をするわけではないということは当時から認識していた。
 とにかく、私は、「おじさん」に対する偏見を持っていたということは認めざるを得ない。
 単純に、「おじさんはみんな汚い」と思っていた。
 どうして身だしなみに気をつけないのだろう。ほとんどの女性が、体を清潔にして、他人に不快感を与えないように気をつけているのに、「おじさん」は髪を洗っていないように見える人が結構いるし、くしゃみをするときに手で抑えなかったり、汚れた衣服をまとっていたり、周囲への気遣いに欠ける感じの人が多い、と感じていた。そして、女性が不潔だったら許さないだろうに、「おじさん」が不潔なのは許されていて、この社会はどうもおかしいと思った。

 社会人になってからは、会社の上司の行動に疑問を持つことも多かった。セクハラまがいの言動に驚くこともあった。

 作家になってからは、「自分はバッシングを受けている」ということを強く感じることになった。
 ネットで容姿の批判をされる、という低次元のものもある。
 だが、きちんとした場面でも私は厳しい言葉をたくさんもらった。新聞や文芸誌などの批評や書評の欄で、批評家や先輩作家から私はいろいろと批判された。著名な作家から「とんま」と言われたこともある。文芸批評家からの辛辣な言葉は山程もらった。作家や批評家のほとんどが、私よりも何十歳も上の男性だった。真面目な批評をしてくださっていたに違いないが、当時の私は、「おじさんは怖い」「若い女性、特に若くブスな女性は、おじさんからバカにされがちだ」と思ってしまうこともあった。
 また、文学賞の候補に挙げられて落選するということを何度も経験するうちに、どうも「女性の作家同士を比べて面白がる風潮が世間にある」と感じるようになった。要は、キャットファイトをさせられている。特に芥川賞は世間の関心が高いので、終わったあと、様々な人の声が聞こえてくる。まったく作風の違う女性の作家とは比較されるのに、作風が似ているように思われる男性の作家とは全然比較されない。そして、「私は同世代の作家の多くと友人関係を築いている。ライバルとは思っていない」という話をすると、否定される。なあなあになるな、と意見される。「おじさん」は女性の作家同士で殴り合いをして欲しいのだ、と思った。
 根も葉もない噂話を、本当の出来事かのように雑誌記事にされたこともあった。ナオコーラが文学賞のことで怒った、ナオコーラがこういうセリフを言っていた、大先輩の女性の作家に食ってかかった、などと、まったく口に出したことのないわけのわからないセリフを、聞いた人がいるという体で綴られている記事があった。賞のことで怒ったり意見したりする作家などいない。そんな暇はないし、そんなことをして自分になんのプラスになるのかまったくわからない。そもそも、私は現在でさえ、目上の作家と直接に話した経験をほとんど持っていないのだ。なぜこういうくだらない記事が出るのかというと、おじさんがキャットファイトを求めているからに違いない。「おじさん」は女性の作家同士でケンカして欲しがる。
 あと、「編集者に育ててもらえ」という言葉もよく耳にした。男性の作家も、「編集者に育ててもらえ」と言われるのだろうか? 私は、男性の作家は言われていないと想像する。「仕事をする若い女性に対し、『育ててあげる』という視線を送る」というのは、他の職場でもよく見かける光景だ。「おじさん」は若い女性を育てたがる。
 前回、文芸のシーンでは他の職場に比べて性差別は少ない、と書いたが、よくよく思い出すと、比較的少ないとしても、やっぱり性差別はあったと思う。
 別に書かなくてもいいことだが、飲みの場で、何十歳も上の大作家から体を触られたこともあった。

 とにかく、私は若い頃、「おじさん」全般が嫌いだった。憎んでいたくらいだったと思う。
 それが、30歳を超えてから、だんだんと薄まっていった。
 私は「おじさん」が嫌いだったから、若い頃に書いたエッセイや小説では、「おじさん」という言葉を結構使っている。
 全面的に「おじさん」を取り上げた小説もある。私は純文学シーンで活躍したかったので、それまでの私の小説が「毒が足りない」と批判されたことがあったり、他の作家の純文学小説を読むと「悪」を題材にしたものや人間の暗い部分に焦点が当てたものがあったりしたことを鑑みて、露悪的なものに挑戦したのだった。「おじさん」が若い女性に対して行なっていることを、若い女性側から同じことをやり返す、という内容だ。
 今、あの小説を思い返すと、偏見を助長する内容だったようにも思う。書き直したい気持ちも湧いてきてしまう。とはいえ、あれはあのときの一所懸命な思いだったし、時代背景もあるし、あのままでいいとは考えているのだが……。
 その書籍を担当してくださった編集者さんは、ものすごく人間としてできた方だった。こんな人もいるのか、と驚いた。年上の男性だったが、フラットに接してくれ、こちらの意思を丁寧に確認してくれて、小さな意見でも尊重してくれた。「おじさん」を表紙にしたい、と言うと、ご自身がモデルになってくださった。あんな人、この世に二人といないと思う。とにかく、人間としての器がものすごく大きい人だった。

 注意して周りを見ると、尊敬できる年上の男性は他にもたくさんいることに気がついた。そして、その方々も、いろいろな悩みやコンプレックスを抱えながら生きている普通の人間であることがわかってきた。
 年上の男性だからといって、「おじさん」という一種類にまとめ上げることはできない。多様な人がいる。

 私はだんだんと、「『おじさん』に対して自分が偏見を持っている」という自覚が芽生えてきた。
「おじさん」と、ひとくくりにして男性を呼んではいけない。男性の多様性を認識しなければならない。
 また、男性もひとりの弱い人間なのだということ、傷つけてはいけないということ、男性の意見も尊重しなければならないということを、少しずつ考えるようになった。

 10代20代の頃の生理的嫌悪感が30代に入ってからは消えた、という単純な理由もあった。痴漢に遭う年代でもなくなり、過剰な自己防衛を行う必要がなくなったということもあるだろう。
 そして、年齢を重ねると、良くも悪くも「潔癖さ」というものを失う。汚れたものに慣れてくる。
 若い頃は、身体的なことだけでなく、考え方や付き合い方などに対しても、私は潔癖なところがあった。「陰口は言うな」だとか、「嘘は言うな」だとか、「筋の通らないことはやるな」だとか、「おごられたくない」だとか、そういうことをすぐに主張していた。「正しいことを言えばいいわけじゃないんだよ」と大学時代の先輩から注意されたことがあったが、私は子ども時代にずっと人見知りだったせいか、大学に入って急に友人ができるようになってから、堰を切ったようように、本音ばかりをまっすぐに喋るようになり、そのせいで他の人とぶつかってしまうことがあった。新聞やテレビを見ていても、世の中の曖昧な線引きや、必要悪のようなものが許せず、特に「おじさん」の言動にはいろいろと「おかしい」と憤った。だが、30代になると、曖昧な会話や、ちょっとした間違い、悪い心が様々なシーンに混じっていることが、気にならなくなってきた。ずるいやり方や、わがままも、許容できる。スルー能力も上がった。他人に対して、許せることが増えてきた。

 それから、流産や出産などで、体の汚さに慣れた、ということもあった。それまで、私は大きな病気や怪我の経験がなかったため、体の部位を他人に見せることや、汚い部分を他人に触ってもらうことがなかった。血や汚物を自分で見ることもほとんどなかった。でも、流産や出産で免疫が付いた。赤ん坊の世話で汚物にさらに慣れた。血や汚物に抵抗がなくなって、身体的な潔癖さもなくなった気がする。
 それと、父の死も大きかった。父はガンで入院し、少しずつ衰弱した。病気が発覚したとき、私は父に対してきちんと向き合ってこなかった後悔が強く湧いたため、入院中は毎日看病しにいった。父は毎日少しずつ、できないことが増えていった。だから、私は少しずつ、父の世話の範囲を広げた。初めは、洗面器にお湯を汲むだけだったが、次第に父が弱り、顔を洗うのや髭を剃る工程の一部を担うようになり、やがては、顔を拭くのも、髭を剃るのも、全行程を私が行なった。歯磨きも入れ歯を洗うのもやった。手と足のマッサージをすると、「天国だよ」と父が喜ぶので、小学生時代以来触っていなかった父の手や足を触り、毎日マッサージした。看護助手さんが一週間置きに清拭をしてくれるのだが、それだけではどうしても間に合わないので、私も体を拭いた。入院していると、どんどん体が汚れてしまう。水を使わないシャンプーで、フケだらけだった頭も洗った。爪切りを持ち込み、爪切りもした。耳掻き棒と綿棒を持ち込み、耳掻きもした。
 父は「恥ずかしい」と感じていたと思う。でも、私は妙に嬉しかった。そして、汚いものに対する考え方が変わった。

 私はもう、男性のことを「おじさん」とひとくくりにすることをやめたい。
「ハゲ」も「デブ」も「汚い」も「臭い」も揶揄したくない。たとえ本人が自虐ネタとして笑いを求めていても、私はできるだけ、それ単体では笑わないようにしたいと思う。もし、それが、ひねったネタで、センスが爆発していて、ただの自虐じゃなかったら、笑うかもしれないけれども……。

 そして、世にたまにいる、自分が男性だからという理由で女性に対して尊大な態度をとってしまう人、いわゆる「女性蔑視」をしてしまう人は、ある意味では被害者なのではないか、と考えるようにもなった。
 おそらく、その男性は個人で「女性を蔑視しよう」と考え始めたのではない。親からの育てられ方、学校での教育、育った環境、触れた文化、様々なものから、性別というものの扱い方を習得し、その結果、偏った考え方を身につけざるを得なかった。そして、親だって、教師だって、さらに上の世代の教育を受け、環境や文化によって、その考え方、つまり「差別すること」を身につけることになった。

 このような差別がある社会で、どのように対応していけばよいのか?

 もちろん、特定の人から嫌がらせを受けたり、何かを言われたりされたりした場合は、その個人に対して、怒ったり、意見をぶつけたり、第三者に伝えて問題の解決を図ったりしなければならない。きちんと訴えることも必要だ。

 しかし、「自分が受けた特定の被害を具体的に解決したい」という場合ではなくて、「様々な事柄を総括して、きちんと考え事をしたい」「社会全体から、性差別をなくしたい」という場合は、「おじさん」という十把一絡げにする言葉で男性を糾弾することは、あまり意味がないような気がする。
 おそらく、敵は男性ではない。

 重要なのは、男性に意見を言うことではなくて、社会を変えることではないだろうか。

 大人になった私たちは、自分で社会を作っている。
 仕事をし、会話をし、買物をし、絵を見たり音楽を聴いたり本を読んだりして文化を作っている。

 私自身も年齢を重ね、学生時代の男友だちも「おじさん」、仕事仲間や家族などの同世代も「おじさん」ということになりつつある。そうすると、「おじさん」と呼ばれる人の気持ちが想像しやすくなった。
 大人の男性も、心を持っている。
 傷つくときは傷つく。
 また、中にはジェンダーに問題意識を持っている人もいる。
 社会から求められる「男らしさ」に戸惑っている人もいる。男らしい振る舞いが得意でない人は、生きづらさを感じている。魅力的な人なのに、「男らしいかどうか?」という視点では及第点にならないため、自信が持てない、という人もいる。男性だって、枠にはめられて、苦しんでいる。
 それから、女性の生きづらさについて、深く学ぼうとする人もいる。
 もちろん、そういったことに無頓着な人ももちろんいる。でも、中には、こちらが意見を伝えたり、「こういうことをされると傷つくよ」と言ったりすると、変化をしてくれる人もいる。だから、男性に対して、「敵だ」と対峙するより、「一緒に文化を変えていこう」と接する方が実りがあるように思えるのだ。

 女性だって、「女性は駄目だ」「女性は変わらなければならない」と糾弾されたら聞く耳を持たない。おそらく、男性も、「男性は駄目だ」「男性は変わらなければならない」という話は聞いてくれない。「今の文化って、どう思う?」と一緒に考える仲間として声をかけた方が、変わってくれるのではないだろうか?

 これから私は、新しい文化を作れると思う。

 敵は、男性ではなく、文化だ。

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著者

山崎ナオコーラ

1978年、福岡県生まれ。2004年、会社員をしながら執筆した『人のセックスを笑うな』(河出書房新社)で第41回文藝賞を受賞し、作家活動を始める。2017年、『美しい距離』(文藝春秋)で第23回島清恋愛文学賞受賞。小説に『ニキの屈辱』、『ネンレイズム/開かれた食器棚』(ともに河出書房新社)、『ボーイ ミーツ ガールの極端なもの』(イースト・プレス)、『偽姉妹』(中央公論新社)他多数。エッセイ集に『指先からソーダ』(河出文庫)、『かわいい夫』(夏葉社)、『母ではなくて、親になる』(河出書房新社)など。絵本に『かわいいおとうさん』(絵 ささめやゆき)(こぐま社)がある。モットーは、「フェミニンな男性を肯定したい」。目標は、「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」。

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