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多様性を「生きる」。違いを「楽しむ」。アフリカ人と結婚した文化人類学者が、いま考えること。 鈴木裕之

第2回

人は何を愛するのか

2018.10.22更新

読了時間

文化人類学者であり、国士館大学教授の鈴木裕之先生による新連載が始まります。20年間にわたりアフリカ人の妻と日本で暮らす鈴木先生の日常は、私たちにとって異文化そのものです。しかしこの連載は、いわゆる「国際結婚エッセイ」ではありません。生活を通してナマの異文化を体現してきた血の通った言葉で、現代の「多様性」について読み解いていきます。
「目次」はこちら

予期せぬ反応

 「なぜ、私と結婚したの?」

 ある日、妻がそうたずねてきた。

 私は考えこんでしまった。なぜ?

 「んー、アフリカ人だからかな……」

 「えっ? アフリカ人だから?」

 どうやら答えがお気に召さぬようだ。

 「ミュージシャンだし……」

 「えっ? ミュージシャンだから?」

 声のトーンが上がった。危険信号である。

 「じゃあ、アフリカ人のミュージシャンだったら、誰でもよかったの?」

 そうきたか。もちろん、そんなつもりはない。アフリカ音楽の研究者である私は、ついつい自分の専門分野に引きつけて物事を表現してしまう。悪い癖だ。

 では、何と答えるべきであったか。もっと個別性に着目し、「君のその夢見るような瞳にやられたのさ」とか、「その黒くてスベスベする肌にずっと触れていたかったんだ」などと言うべきだったのか。でも後者の場合、「じゃあ、黒人なら誰でもよかったの」などとさらに突っ込まれそうである。

 まことに、愛の言葉はむずかしい。とりわけ、愛のささやきが苦手な我ら日本人男性にとっては。

恋に落ちる

 「自分」って何だろう?

 この世に唯一のかけがえのない存在。すくなくとも自分にとっては。だからその唯一性を誉められるとうれしくなる。

 先ほどの夫婦の会話。もし立場を逆転してみたら、どうなるだろう。

 「君はどうして僕と結婚したの?」「日本人だから」「それだけ」「大学の先生だし」

 たしかにこれはいただけない。あたかも、私自身ではなく、私の社会的属性と結婚したかのようではないか。妻が怒ったのも無理はない。

 「恋に落ちる」という表現があるが、これは英語でもフランス語でも、あるいは中国語でもインドネシア語でも(大学院の留学生に確かめてみました)おなじである。どうやら、かなりのレベルで人類全体に共有される言語表現のようである。ということは、人はみな異性にたいして(現代では、同性にたいして、とも付け加えるべきか)ある種共通の心理的反応を示すものであり、それがあまりにも強烈なゆえに、異なる文化の異なる言語で表現されたとき、結果的に同じような言い回しになってしまった、ということだろうか。

 ここで面白いのは、日本語だけは「恋」と「愛」を使いわけているとうことである。いきなり「愛に落ちる」ことはなく、淡くて、ほのかで、切ない、はじまりの段階をひとつのカテゴリーとして設けている。基本的に、言語カテゴリーの種類が豊富な分野ほど、その社会にとっては重要度が高い傾向にある。たとえばアフリカのある牧畜民は牛にたいして、その色と模様から細かい分類を設け、日本人は「ライス」にたいして、稲、米、ご飯、という名を使いわけている。恋と愛を使いわけるということは、日本人にとって男女の恋愛はそれだけ重要であったということだろうか? あるいは、愛のささやきが苦手であった分、文学的に繊細な表現が発達したのだろうか?

 それはさておき、恋に落ちるという状況は突然やってくる。だから「落ちる」のだ。それは理屈ではない。それでは、いったい何にたいして落ちるのか? それはおそらく、ある種の全体性にたいしてであり、分析はできないのではないだろうか。

踊る少女

 私が妻と出会ったのは、アビジャンの下町における祭りの場であった。かの地では結婚式などの祭礼は屋外でおこない、太鼓のリズムにあわせて女たちが激しく踊る。

 その日、私は現地の友人に連れられ、はじめてこの手の祭りを見に出かけた。激しい太鼓の音が空気を震わせる。会場の真ん中にはアリーナのような空間が設けられ、伝統衣装を身につけた女たちが次々と躍りでて、リズムにあわせて激しく踊る。

 ある少女が登場した瞬間、会場がドッとどよめいた。その娘がものすごい勢いで踊りだす。カミソリの歯のような鋭い動き、獲物を追い詰める肉食獣のような凄み、小さな体が巨人のように見える迫力のある舞。太鼓のリズムが激しさを増し、中央で踊る少女は天にまで駆け登ってしまいそうな勢い。みな総立ちで、その場が歓声の渦に包まれる。私はというと、生まれてはじめて見た異次元のダンスに、ただひとり呆然としていた。

 その時、たしかに私は恋に落ちていた。この、踊る少女にたいして。

 その後、私は彼女の名前を知り、好みや、癖や、踊っていないときの表情、つまり個性を知り、家族関係や、親族の広がりや、民族の伝統、つまり社会的属性を知っていったのである。

 ここで最初の質問に立ち戻ってみよう。

 「なぜ、私と結婚したの?」

 正解は、あの時、恋に落ちたからである。では、何にたいして恋したのか? その質問に正確に答えることは不可能である。その後、彼女の個性と属性を知りながら、恋は「育った」のであるが、「落ちた」瞬間には、彼女の名前さえ知らなかったのだ。その穴の場所や形状や深さを知らなくても、人は落ちる時には落ちるものなのだ。

社会的属性と個人

 「生」とは本来、「全体的」なものなのだろう。恋するとき、人はこの「全体性」に反応しているのではないだろうか。でも実際には、人は全体的に生きることはできない。

 社会のなかで他者と関わりあいながら生きるとき、人はその部分に位置づけられ、特定の文化を身につけ、限られた環境のなかで自我を形成してゆく。父、母、息子、娘、と家族関係に縛られ、先生、生徒、PTA、と教育システムに組みこまれ、会社員、公務員、フリーター、と職業の序列を形成し、さらに民族、国民といった大きな集団の一員に数えられている。気がつけば、こうした多数の社会的属性にがんじがらめにされ、それらの属性を通してしかその人を表現できないようになってしまう。だから私は冒頭の彼女の質問にたいし、「アフリカ人」とか「ミュージシャン」といった言葉で答えてしまったのだ。

 私と彼女とでは、その社会的属性はまったく異なっている。男と女(これは性別か)、アジア人とアフリカ人、黄色人種(こんな言い方をまだするのだろうか)と黒人、高学歴と無学歴、大学教授とミュージシャン、百姓の子孫と名門グリオ(伝統的語り部)の末裔……恋に落ちる瞬間はそんなものはすべて吹っ飛んでいるのであるが、その後、つきあう段階になると、これらすべてが重くのしかかってくる。彼女と私とでは、民族も、文化も、考え方も異なり、ふたりのあいだには乗りこえなければならないハードルが無数に存在する。まるで、陸上部のシゴキである。

起源はひとつ

 ここでいきなり、私は人類の歴史に思いをはせてみる。このテーマは私の大好物で、化石などから人類の歴史を考察する形質人類学や、DNAの解析を通して人類の進化を探る分子生物学の本を、暇を見つけては乱読している。

 それらによると、人類はアフリカにおいて、オランウータン、ゴリラ、チンパンジーと同じ祖先から進化したが、今から約500万年前(700万年前など諸説ある)にチンパンジーと枝分かれし、直立二足歩行をして人類への進化の道を歩みだした。その後、さまざまな段階を経て、約20万年前にホモ・サピエンス、つまりわれわれ人類が誕生し、8万~5万年ほど前にアフリカから世界に広がっていった、という。人類はゆく先々で異なる自然環境に適応し、暑いところではメラニン色素が増えて黒人となり、逆に寒いところでは白人となり、髪の毛も、瞳の色も、体つきもさまざまに発達し、各地で固有の言語を話し、異なる文化を形成し、民族なるものが形づくられてきた。これが現時点でもっとも科学的な信ぴょう性が高いとされる説である。

 であるならば、私と妻は、もともとはおなじアフリカに居住するホモ・サピエンスであったということになる。おそらく、おたがいの祖先は肌の色や骨格も似ていて、おなじ言葉をしゃべっていたのかもしれない。もしかして、恋に落ちた時に感じた「全体性」は、この時代の遠い記憶であったのだろうか。それが5万年以上の時を経て、姿かたちは変わり、言葉も文化も異なり、今では「人種も民族も異なる」と社会的に評価されるまでになってしまった。どこかでつながりを感じながら、あきらかに異なる属性に引き裂かれている。

 たとえば民族について考えてみると、地球上にはさまざまな民族が存在し、ときに平和に共存し、ときにいがみあって血を流す。妻は西アフリカに広く居住する「マンデ」と呼ばれる民族で、13世紀に成立したマリ帝国の系譜をひく誇り高き民である。いっぽう私は日本列島に居住する「日本人」で、単一民族的状況があまりにも長くつづいたため、自分たちが民族であるという自覚さえ失っている集団の一員である。

 まあ、日本人の民族性についての議論はおいておくとして、私と彼女はあきらかに民族的特性を異にし、言語も文化も考え方も非常に異なっている。私が文化の違いを客観的に眺める目を持つ文化人類学者だからいいようなものの、でなければこれは困難以外のなにものでもない。起源はひとつだというのに、いったいなぜこんなことになってしまったのだろうか。

神の定めた民族

 先ほどは科学の話をしたので、今度は宗教の話をさせていただこう。
 以下は、コーランからの一節である。

 「人々よ、われらはおまえたちを男性と女性から創り、おまえたちを種族や部族となした。 おまえたちが互いに知り合うためである。」(49-13)(中田考(監修)『日亜対訳 クルアーン』作品社/2014)

 じつは私はイスラム教徒である。イスラム教徒の女性はイスラム教徒の男性としか結婚できないという決まりがある。妻はイスラム教徒なので、1996年の結婚を機に改宗し、それ以来酒は飲まず、豚は食べず、1日5回のお祈りと年に30日の断食については、日本では生活習慣が異なるため(言い訳?)、できうる範囲で実行している。

 さて、コーランは神が預言者ムハンマドにくだした啓示を集めた聖典であり、神の言葉そのものが綴られていると考えられている。日本人はこういう話が苦手なので、その信ぴょう性云々の話はおいておくが、他の聖典とおなじく、信仰を離れたレベルで読んでもすばらしいメッセージが数多く書かれている。

 上の引用文は、私のお気に入りのうちのひとつである。

 イスラム教はユダヤ教、キリスト教とおなじ系列の一神教。唯一の神がすべてを創造した。ちなみに「われら」とは1人称複数ではなく、原語のアラビア語における最大限の敬意を込めての1人称単数的使用法だそうである。

 神はまず男女の結合から人を創った。一神教では最初の男はアダム、女はイヴ(あるいはエヴァ)である。その子孫が増えて、さまざまな種族や部族に分かれていった。私は原語のアラビア語を理解しないので、この文章における「種族」「部族」というカテゴリーを正確に把握することができないが、フランス語訳をみると種族はnation、部族はtribu(英語のtribeに相当)と訳されている。前者は民族として、後者は大規模な民族のサブ・グループ、あるいは小規模な民族といったニュアンスでとらえてもよさそうである。

 一神教では人類の起源はひとつなのに、さまざまな民族的なる集団に分かれていった。何のために? それは自分たちの優位を主張して、他を蔑み、排斥するためではない。「おまえたちが互いに知り合うため」、つまり相互に理解するためであると、創造神が明確に表明しているのだ。

 神は人を創り、知性を与え、自由意思を与えた。そして人のアビリティを試すかのようにさまざまな困難を与え、人がその試練に耐えられるかどうかを観察しているようだ。民族による違いも神から与えられた試練であり、人がその多様性を前にして何をなすのかを見ておられる。神が望むのは、驕慢でもなく、憎悪でもない。相互理解の心である。

多様性の向こうにあるもの

 世間では、科学的、宗教的、世俗的(エッセイ的)言説は別のものであり、それぞれ分離してとり扱わねばならないという。本当だろうか? たしかに、方法論的には正しいであろう。それぞれ別の体系として分離しなければ、論が立たなくなってしまう。だが人間の「生」は「論」でも「体系」でもない。それらすべてを含んだ「全体」である。であるから、私のエッセイでは、個人的な体験と、科学的な知見と、宗教的な認識を、ごちゃ混ぜに使わせていただく。以後、ご了承願いたい。

 「なぜ、私と結婚したの?」という妻の問いからはじまった今回のエッセイ。
 その答えは、あの時、恋に落ちたから、である。その時の心の動きは、多様性の向こうにある、もっと原初的なものである。

 起源をおなじくする人類は、長い時を経て、さまざまに異なる集団へと枝分かれしていった。その文化的違いが、身体的特徴の相違が、今日の多様性を形づくっている。

 そしてその相違は、相互理解という作業をおこなうための仕掛けである。多様性そのものは、ある者にとっては美しく、別の者にとっては望ましくないものかもしれない。他者を受け容れるという作業は面倒くさく、苦痛を伴うものである。だが、それを乗り越えた先に、それまで見えなかった風景が現れるはずだ。

 であるならば、あたかもスポーツを楽しむかのように、多様性という「競技」に参加し、違いを楽しみ、その先にあるゴールを目指そうではないか。きっとそこには、人が愛すべきものがあるはずだから。

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著者

鈴木 裕之

慶應義塾大学出身。国士舘大学教授。文化人類学者。専門はアフリカ音楽。著書に『ストリートの歌―現代アフリカの若者文化』(世界思想社/2000年/渋沢・クローデル賞現代フランス・エッセイ賞受賞)、『恋する文化人類学者』(世界思想社/2015年)ほか多数。1989年~1994年まで4年間、コートジボワールの大都市アビジャンでフィールドワークを実施。その際にひとりのアフリカ人女性と知り合う。約7年間の恋人期間を経て1996年に現地にて結婚。彼女が有名な歌手になっていたことで結婚式は注目され、現地の複数の新聞・雑誌でとりあげられた。2015年、この結婚の顛末を題材にした文化人類学の入門書『恋する文化人類学者』を出版。朝日新聞、週刊新潮、ダ・ヴィンチなどの書評、TBSラジオ、文化放送などのラジオ番組でとりあげられ、大学入試問題にも採用された。

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