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多様性を「生きる」。違いを「楽しむ」。アフリカ人と結婚した文化人類学者が、いま考えること。 鈴木裕之

第10回

多様性を漂う

2019.02.18更新

読了時間

文化人類学者であり、国士館大学教授の鈴木裕之先生による新連載が始まります。20年間にわたりアフリカ人の妻と日本で暮らす鈴木先生の日常は、私たちにとって異文化そのものです。しかしこの連載は、いわゆる「国際結婚エッセイ」ではありません。生活を通してナマの異文化を体現してきた血の通った言葉で、現代の「多様性」について読み解いていきます。
「目次」はこちら

漂いの愉しみ

 そのむかし、中国の国境の街にひとりの老人が住んでいた。

 ある日のこと、彼の馬が一頭、国境を越えて逃げていってしまった。

 「残念なことをしましたね」と慰める人々。

 すると彼は、「いや、いや、これが何かの幸運につながるかもしれません」と、妙にポジティブ思考。 

 しばらくすると、逃げた馬が駿馬を引き連れて帰ってきた。

 「たいした得をしましたね」と羨む人々。 

 すると彼は、「いや、いや、これが何かの不幸につながるかもしれません」と、今度はネガティブ思考。

 しばらくすると、その馬に乗った彼の息子が落馬し、足を骨折してしまった。

 「可哀相なことをしましたね」と心配する人々。

 すると彼は、「いや、いや、これが何かの幸運につながるかもしれません」と、ふたたびポジティブ思考。

 しばらくすると、隣国と戦争がはじまり、この街の若者はのきなみ徴兵されて、そのおおくは死傷したが、彼の息子は怪我のために徴兵されず、無事であった。

 まことに、人の幸不幸の変転は予測しがたいもの。

 目先の運命に一喜一憂していてはいけない。

 これは、「人間万事塞翁が馬」という有名な故事である。

 私はこの話が大好きだ。

 その運命論的な世界観はもちろんのこと、なんといってもこの老人の「漂う感性」のようなものに魅力を感じる。

 人生は予期せぬ出来事の連続だ。

 人はそれをコントロールしようとする。

 目標を立て、プランを練り、もしもの時のために保険も掛け、成果を吟味し、反省し、修正し……

 でも、じつは自分の力ではコントロールできないことの方がおおい。

 予期せぬ出来事があなたを襲う。

 それが幸福に結びつくのか、不幸をもたらすのか、わからない。

 でも、その波に逆らわず、むしろそのあいだを漂うことを楽しんでみる。

 すると思わぬ場所に流れつき、あたらしい風景を見せてくれる。

 そんな人生は、きっと愉しい。

多様性にいたる道

 現在、多様性を生きる人々も、きっとさまざまな道を通ってそこにたどり着いたに違いない。

 私がここで問題にしているのは、多様性をコンセプトとして語る人ではない。多様性を外から眺めながら、それを肯定、あるいは否定する人でもない。

 多様性の内側を現実に生きている人、多様性の渦に巻きこまれながら、アップアップしている人のことである。

 彼らは、彼女らは、いったいどうやって多様性ワールドにたどり着いたのだろう?

 ある者は、国際結婚で生まれたのかもしれない。

 ある者は、家族に障害者がいたのかもしれない。

 ある者は、自分が同性愛者であることに気づいたのかもしれない。

 すると、いやがうえにも世の中にはメインストリームが存在することに気づかざるをえなくなる。そして自分たちはその枠外にいる。

 スタンダードがあり、例外がある。これは数の問題か、それとも質の問題か。

 そんなことを心のなかで問うてみるものの、世の中がスタンダード仕様であることにかわりはない。

 だが、彼らは知っている。自分たちは異常ではないことを。世界は多様であり、自分たちは数あるヴァリエーションのひとつであるにすぎないことを。

 こんなふうに、ある意味、不可抗力で多様性の当事者になる人がいる一方で、まるで吸い寄せられるかのように多様性の側に近づいてゆく人もおおい。

 特別な環境で育ったわけではない。

 学校が国際化教育に力を入れていたわけでもない。

 劇的な体験をしたわけでもない。

 でも、なぜか、多様性に心惹かれる。

 こんな狭い世界に留まっていたくない。

 広い世界に心を開いてみたい。

 この止みがたい衝動をどうすることもできない。

 そんな人が、多様性ワールドにフラフラと引き寄せられてゆく。

 私も、そんなひとりであった。

インドからキンシャサへ

 ここで、僭越ながら私がアビジャンにまでいたる遍歴を話させてもらうので、しばし耳を傾けていただきたい。

 山梨の里山で、世界となんの関わりももたず普通に育った私は、普通に受験し、普通に東京の私立大学に入学した。

 その頃から、海外への見聞を広めたいという止みがたい衝動を覚えるようになった。

 おそらく、このような人は大勢いることだろう。

 高校を卒業し、若干大人になり、相対的に自由になったことで、ほんとうにやりたいことが目覚めはじめる。それを行動に移すかどうかは、衝動の強さに比例する。

 旅行、ボランティア、留学……行動の仕方は人さまざまだ。

 私の場合はインド旅行。まあ、勉強が嫌いな大学生にありがちな、よくあるパターンである。

 今はバックパッカーと呼ぶが、当時は貧乏旅行者と呼ばれていた。

 インドは、日本人貧乏旅行者であふれていた。ゆく先々の安宿で日本人旅行者と情報交換し、歓談し、ときに下手な英語で、これまた大勢いた白人旅行者と話し、インドの人々との交流を楽しんだりした。

 大学3年生の夏、インド旅行から帰ってきた私は、A型肝炎にかかった。重病である。

 大きな病院に1ヶ月間入院し、大学の授業にも出席できなかった私であるが(もともと、ほとんど出席していないが)、退院した私に幸運の女神が微笑んだ。

 大学では全学生が学生保険に加入しており、そのおかげで1ヶ月も入院していた私は20万円以上の保険金を手にすることができた。もちろん私は、入院費・治療費を払ってくれた親には内緒で全額着服し、またインドに行こうと画策した。だが病みあがりの身を心配してくれたお医者さんから「ふざけるな」と怒られたため、行き先をヨーロッパに変更し、翌年の2月にパリに向かった。

 パリを起点に2ヶ月間ほど鉄道でヨーロッパをまわろうと思っていたが、パリが気に入り、結局2ヶ月のあいだパリの安宿に逗留しつづけた。当時は地下鉄にたくさんの大道芸人やミュージシャンたちがいて、自由な雰囲気にあふれていた。

 このとき、おなじ安宿に泊まっていた日本人カメラマンと知りあい、その紹介で有名アフリカ人ミュージシャンと出会ったことが、私のアフリカへの第一歩となった。

 帰国後、大学で「アフリカ社会論」という講座を持っていた先生にアフリカにタダで行きたいと相談して勧められたのが、文化人類学者への道であった。なんでも、奨学金や研究費でアフリカに行けるとのこと。

 「僕はねえ、自分の金でアフリカに行ったことなど、ありませんよ」

 これしかない。

 なんとか付け焼き刃の勉強で大学院受験をクリアし、修士課程の学生になったものの、奨学金や研究費を獲得するにはそれなりの実績が必要である。仕方ないので借金をして、ザイール(現コンゴ民主共和国)の首都キンシャサに飛び、人生はじめてのフィールドワークをおこなったのである(この顛末は、本エッセイ第8回でくわしく紹介した)。

アビジャンへの誘い

 ザイールのリンガラ音楽にドップリつかっていた私に、ある日、外務省のアフリカ第一課というところから電話がかかってきた。

 それまで霞ヶ関の役所となんの関りあいも持ったことのない私は、一瞬ビビった。もしかして、キンシャサにいるときになにか悪いことをして、事情聴取でもされるのだろうか。

 だが、話はそれとはまったく逆であった。

 キンシャサからの帰国後、私は東京外国語大学のアジア・アフリカ言語文化研究所(略してA・A研、えーえーけん)の機関誌に「キンシャサの人と音楽」というエッセイを4ページほど書いた。それを読んだ課長さんが、興味を覚えて電話してきたのである。

 聞くと、アビジャンの日本大使館に、専門調査員というポストが新設されるという。

 大使館にはいわゆる外交官にほかに、他の省庁や企業などから出向してくる専門家、種々の雑務をおこなう派遣員、そして現地の政治・経済・文化などを調査する専門調査員がいる。

 専門調査員は、通例、大学院レベル以上の研究者から選ばれる。現在では大々的に公募されているが、当時はまだ発展途上のシステムで、外務省の関係部署が個別的に声をかけてリクルートすることもおおかったようである。

 「どこかに、アビジャンに行ってくれる適任者はいないものか……」

 そんなとき、偶然課長さんの眼に入ってきたのが、私のエッセイであった。

 ザイールもコートジボワールもおなじフランス語圏。この記事を書いた大学院生は、どうやら元気に働いてくれそうだ、と考えたようだ。

 じつはその直前、私は講談社の主催するアフリカ向けの奨学金に応募していた。これをゲットすれば2年間のフィールドワークが可能になるのだが、残念ながら落ちてしまった。

 だが、ある研究会の帰り、偶然にもその奨学金の審査員をしている偉い先生と地下鉄でふたりきりになる機会があった。その際、その大先生は親切にも、私が次点であったこと、その先生は私を推してくれたこと、来年応募すれば採用される手応えがあることなどを話してくれた。

 というわけで、キンシャサ行きを切望し、翌年の奨学金獲得への見通しも立っていた私は、外務省からの提案をお断りさせていただいた。だが先方は、もう一度プッシュしてきた。

 「おなじアフリカではないですか。フランス語の勉強にもなりますし。給料のほかに危険地域手当もあるから、けっこう金も貯まりますよ」

 「えっ、金が貯まる?」

 「2年の任期が終わる頃には、ウン百万も夢ではないでしょう」

 私は心の弱い人間である。目の前の利益に惑わされ、初心を貫徹することができない。

 アビジャン勤務を終わったあとでキンシャサに凱旋すればいいではないか。

 そう自分に言い聞かせた私は、翌年の4月にアビジャンの日本大使館のデスクに座っているのであった。

多様性への扉

 私の運命の地は、キンシャサではなくアビジャンであった。

 私の多様性感覚を鍛えてくれたのは、アビジャンであった。

 この街で人生の伴侶となる女性と出会った。

 この街でストリート文化と出会い、長期間にわたるフィールドワークをおこなった。このストリートこそ、私にとって人生最高の学校となってくれたのだが、それについては次回に譲ることにしよう。

 今回、私がアビジャンにたどり着くまでの話にお付きあい願ったが、こう思いかえして感じるのは、次から次へと扉が開いていったということだ。

 インドに行って病気になったが、思わぬ保険金が手に入った。

 その金でパリに行ったら、アフリカ人ミュージシャンと出会った。

 彼のいるアフリカにタダで行こうとしたら、文化人類学に出会った。

 人類学者になるために大学院に入り、キンシャサでフィールドワークをおこなった。

 それをもとに計画書を提出した奨学金応募は惜しくもダメだったが、そのかわりエッセイが外務省の目にとまり、それまでまったく考えたこともなかったアビジャンへの扉が開かれた。

 まさに、人間万事塞翁が馬、である。

 前の出来事と次の出来事との間にはなんの作為もない。

 なんの意図もない。

 ただ偶然が重なっていった。

 だが、扉を開けるごとに世界が広くなり、多様性度がアップしてゆく。

 その扉に導かれながら、ごく普通の環境で育ったごく普通の人間が、多様性の波に巻きこまれていった。 

 もしかしたら、この世には多様性へと通ずる扉があちこちに配置されているのではないだろうか。

 その扉に気づくかどうか、気づいても開けるかどうか、開けても飛びこむかどうか……それは人それぞれであり、またおなじ人でも、その時の心理状態や環境に左右されるのだろう。

 私の場合は、インド旅行をはじめてから5、6年のあいだに次から次へと扉が開き、私を運命の地、アビジャンへと導いてくれた。

漂う感性

 私にとって、多様性は「漂う感性」と結びついている。

 それは、なにかあいまいで捉えがたいもの。

 自分が心を開けば、多様性も扉を開いてくれる。

 そこには作用・反作用の原理がある。

 自己を開けば、世界も開かれる。

 自己を閉ざせば、世界もその扉を閉ざす。

 この「世界」の本性が多様性なのではないだろうか。

 それはマニュアル化できないなにか、カタログ化できないなにか、管理することができないなにか。人はそのなかを漂いながら、その一端に触れることしかできない。

 インドからキンシャサへ、キンシャサからアビジャンへ、すこしずつ、世界が広がっていったような気がする。そしてそのたびに、多様性の密度も上がっていったように感じる。

 よくわからないけど、なんとなく感じる。全体像は見えないけど、たしかに実感する。人は、そんな状況を受けいれるしかない。

 それは仕分けや分類を志向する、キッチリとした感性の対極にあるものだ。

 私の多様性に対するアチチュードはこのようなものであるから、「保守/リベラル」とか、「移民/外国人労働者」とか、世界を分類してその組み合わせについて語るような政策的能力は持ちあわせていない。

 そんな見取り図的説明を聞いたとたん、私の心は冷めてしまう。リアルな熱気から離れてゆく、そんな気がしてしまうのだ。

扉の向こうに

 世界を政治的に運営してゆくには、人々を分類し、統治してゆかねばならない。そしてさまざまなカテゴリーのあいだで権利のバランスをとりながら、富を分配してゆかねばならない。だから、あんたみたいに漂っている暇はない。

 そんなことはわかっている。

 でも、多様性を政治的目的達成のための口実や経済的オペレーションの道具として把握するのではなく、人間性の追求として捉える者は、このような目的論の罠にはまってはいけない。

 じっくりと時間をかけ、自由な精神をもって漂っていれば、扉の向こう側であなただけの多様性が待っているにちがいない。

 多様性とは、こうした個別的な体験を包含する生きた総体であり、学者や政治家がそれを言葉の世界に押しこめようとした瞬間、するりと身をかわして逃げてしまう、そんな自由な「なにか」である。 

「目次」はこちら

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著者

鈴木 裕之

慶應義塾大学出身。国士舘大学教授。文化人類学者。専門はアフリカ音楽。著書に『ストリートの歌―現代アフリカの若者文化』(世界思想社/2000年/渋沢・クローデル賞現代フランス・エッセイ賞受賞)、『恋する文化人類学者』(世界思想社/2015年)ほか多数。1989年~1994年まで4年間、コートジボワールの大都市アビジャンでフィールドワークを実施。その際にひとりのアフリカ人女性と知り合う。約7年間の恋人期間を経て1996年に現地にて結婚。彼女が有名な歌手になっていたことで結婚式は注目され、現地の複数の新聞・雑誌でとりあげられた。2015年、この結婚の顛末を題材にした文化人類学の入門書『恋する文化人類学者』を出版。朝日新聞、週刊新潮、ダ・ヴィンチなどの書評、TBSラジオ、文化放送などのラジオ番組でとりあげられ、大学入試問題にも採用された。

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