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よみものどっとこむ

第10回

過剰なへりくだりは必要ない

2017.11.15更新

読了時間

【この連載は…】めまぐるしくトレンドが変化する現代。改めて自分に必要なものは何かを見つめなおしてみませんか? 本連載では、作家・書評家の印南敦史さんが、大きなことから小さなことまで、日々の生活で気になった事柄をテーマに「なにが大切で、なにが大切でないか」を考えていきます。

そのことを指摘しはじめると、正直なところキリがなくなってしまうことは目に見えているのです。ましてや僕自身、“それ”を本当に正しく使うことができているのか、少なからず不安があります。

いや、少なからずどころではありません。仕事柄、「“それ”を間違っちゃったらどうしよう?」ってなことは、常に考え続けているといっても過言ではありません。

ですから、あえてスルーしてしまったほうがいいのかもしれません。が、そんなことは絶対にできないのもまた事実。なぜって、僕にとってはとんでもなく重要な問題であるからです。

なにやら、のっけからめんどくさい空気が充満してますが、つまりそれは「言葉」の問題です。早い話が、日常生活を続けていくうえで、「それ、ちょっとおかしいんじゃないの?」と思わずにはいられない言語表現が多いということ。

なかでも特に気になって仕方がないのが、「過剰なへりくだり」です。コンビニでもファミレスでも、ここでもそこでもあそこでも、「それ、大げさすぎて言葉が破綻してるんじゃね?」と、思わずツッコミを入れたくなるような表現によく出会うじゃないですか。アレのことです。

とはいえ、気持ちはわからないでもないのです。おそらくは、「相手に失礼がないように」という思いが暴走してしまった結果として、そういうおかしなものが生まれてしまったのでしょうから。

ちなみに三省堂の新明解国語辞典で「へりくだる」を引いてみると、「「へる」は自分を低くする意・「謙遜する」の和語的表現」と書かれています。そして「謙遜」をみてみると、「自分を低い者として、相手に対して控えめな態度をとること」とあります。

つまり、極論ではありますが、この定義に基づくのなら「過剰なへりくだり」の根底にあるのは、「失礼なことを言ってしまうぐらいなら、過剰にへりくだっておいたほうがマシ」という発想だということになります。

たしかに、上から目線で偉そうに言われるよりは、へりくだってもらえたほうが、ちょっとばかり気分がいいということもあります。でも多くの場合、それらはとても不自然なのです。なかでも個人的にものすごく気になるのが、「〜させていただく」という表現です。

以前、ある若者から「責任を持ってやらさせていただきます!」というメールをもらい、思わずズッコケそうになってしまったことがあります。いや、その気持ちはうれしかったのです。彼ははとてもいいやつで、僕も人間としては絶対的な信頼を置いていますし。

ただ、この表現からは、「なんとか敬意を示さなければ!」という思いが伝わってきたのです。だから余計に切なく、親近感を覚えることにもなったのですが、あらぬ方向に転がって行ってしまったような印象があることも否定できなかったわけです。

いわゆる“二重敬語”が、より複雑に変形したオルタナティヴ・ヴァージョンとでもいうべきでしょうか? ソニック・ユースやボアダムズ、あるいはクール・キースの音楽みたいです(わかりにくい比喩を使わないように)。

まず「やらさせて」は間違いで、正解は「やらせて」。しかもそこに「いただきます」がつくと、さらになんだかよくわからなくなってしまいます。おそらくこういう場合は、簡潔に「責任を持って対応いたします」などで十分なのではないでしょうか?

そもそも、「~させていただく」自体が、どう考えても過剰です。テレビなどを見ていても芸能人が「~させていただきました」と発言する場面によく遭遇しますが、個人的にはそれを聞くたびに、「“~いたしました”でいいじゃん!」と、体じゅうが痒くなってきます。

「いや、そうおっしゃられましても……」と反論されそうですが、ちなみにそれは、「そうおっしゃいましても」か、もしくは「そう言われましても」です。話がそれちゃいましたが、たしかに日本語、特に敬語の使い方はとても難しいのです。

いずれにしても一文にいくつもの敬語が入っていると、その数が増えるごとに下品になっていくように思えてなりません。「お召し上がりになって」などという表現もよく聞く気がしますが、敬語表現はシンプルに、「召し上がって」でいいはずです。

僕は言語学者ではありませんし、冒頭で触れたように自分の表現に絶対的な自信を持っているわけでもありません。ですから断定的なことを書ける立場ではないのですが、過剰なへりくだりが広まったことについては、言語学云々とは違う、どちらかといえば社会学に近い、時代との微妙な関係性があるようにも思えます。

これは僕の個人的な皮膚感覚でしかないのですが、1990年あたりから「やさしさ」「思いやり」についての解釈がおかしな方向に進みはじめたような気がするのです。そのころ僕は小さな広告代理店に勤めていたのですが、当時の上司が口にしたことがそれを象徴しています。ものすごく違和感があったので、いまでもはっきり覚えています。

「どうも、これからは時代がやさしくなっていくような気がするんだよね」

青山の夜景を横目で眺めつつ、彼はそう呟くのでした。それに対して僕が「……そうですかね」としか答えられなかったのは、その発想と言葉を、どこか軽く感じてしまったからです。うまく表現できないのですが、「やさしさ」というのはそんなに表層的な言葉で語れるものではないとしか思えなかったのです。

別に、自分のそんな思いを正当化したいわけではありません。でも事実、それから数年後にバブルが崩壊し、「やさしい空気」なんてものは一気に吹き飛びました。それどころか、当時から延々と続く不況は、人々を「やさしさ」とはまったく逆の方向に進ませています。もちろん、不況だけがそうさせているわけではないけれど。

いずれにせよ、そんな状況下で「やさしさ」や「相手を思いやる気持ち」がまたさらに表層的になり、それが結果的に「過剰なヘリくだり」につながっていったのではないかと考えているのです。

もしかしたら、「炎上」を避けたいという風潮も少なからず関係しているのかもしれません。穏やかにへりくだっていれば、炎上する可能性は減るわけですからね。ただ、それは二次的な理由であり、本質的な部分はまったく別のところにあるはずです。

炎上を避けるかどうかという以前に、「穏やかに生きよう」という思いが、ちょっと湾曲してしまったかのように見えてしまうのです。

穏やかに生きたいのであれば、考え方も行動も、あるいは食べるものも身につけるものも、ゆるやかにシンプルになっていくはずです。精神的な意味で余計なものを捨て去れば、それだけ人と対面する機会は増え、結果的に相手を思いやる気持ちも育っていくのではないかということ。

でも、そういう意味において、「過剰なへりくだり」は正反対です。まるで鎧のようです。過剰にへりくだることによってトラブルを避ける――異なる表現を用いるなら、飛んでくる矢をはねのけるために「過剰なへりくだり」という鎧を着込むようなものなのです。

でも、そんな重たいものを着ていたら、穏やかに、自然体でなんか生きられるはずがありません。だからこそ、いっそ脱ぎ捨ててしまえばいいのではないでしょうか? 人とのコミュニケーションに際しても、なるべくシンプルな言葉を使うことを心がけてみるべきなのではないでしょうか?

その結果として誤解が生まれたり、その誤解がもとで喧嘩になったりすることもあるかもしれません。でも、そうなったらそうなったで、いいじゃないですか。それはすなわち、きちんと相手と向き合って話し合い、誤解やすれ違いを解消するチャンスでもあるのですから。

つまり本当に大切なのは、そういう泥くさいやりとりだということ。少なくとも「過剰なへりくだり」は、なにも生み出さないどころか、気づかないうちに相手との間に溝をつくってしまうようにも思えます。

なかなか難しいことではあるのですけれど、ね。

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著者

印南 敦史

作家、書評家、編集者。株式会社アンビエンス代表取締役。1962年東京生まれ。広告代理店勤務時代に音楽ライターとなり、音楽雑誌の編集長を経て独立。ウェブ媒体「ライフハッカー(日本版)」で書評欄を担当することになって以来、大量の本をすばやく読む方法を発見。以後、驚異的な読書量を実現する。著書に『遅読家のための読書術 情報洪水でも疲れない「フローリーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)ほか多数。

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