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よみものどっとこむ

第11回

「泣いていいマーク」は必要ない

2017.11.22更新

読了時間

【この連載は…】めまぐるしくトレンドが変化する現代。改めて自分に必要なものは何かを見つめなおしてみませんか? 本連載では、作家・書評家の印南敦史さんが、大きなことから小さなことまで、日々の生活で気になった事柄をテーマに「なにが大切で、なにが大切でないか」を考えていきます。

前から、ずっと気にかかっていたことがあります。いつまでたっても頭から離れないし、いつか書きたいとも思っていました。

そんな矢先、9月8日の夕刊に続き、11月6日の朝日新聞がオピニオン欄でそのことを特集していました。そこで今回は、その記事を引用しながら僕の見解を記してみたいと思います。

なんのことかって、「『泣いていい』マーク」があちこちで誕生しているという話。

電車の中とか飲食店で、赤ちゃんが泣き出すことがあります。そして、そんなとき、肩身の狭い思いをする親が多いようです。では、なぜ肩身が狭いのでしょうか? 簡単なことで、泣く赤ちゃんの声に対して不快感を表す人がいるからです。

そこで「泣いていい」ことを伝えるステッカーを制作し、それをお店や公共施設に貼ることで、お母さんと赤ちゃんの受け皿をつくろうという発想。

純粋に考えて、“いい話”であることは間違いありません。いうまでもなく、お母さんの立場を理解し、見守ってくれる人がいるということの証なのですから。でも、いいことなんだけれども、僕にはどうしても引っかかるものがあるのです。

それは、そんなものをわざわざつくらなければならない世の中のあり方です。そんなものをつくらなければならないのは、そんなものをつくらなければ受け入れてくれない(それでも受け入れてくれないかもしれない)人たちがいるということです。そこに、大きな疑問が残るし、とても悲しく、残念で、腹立たしいことだと感じるのです。

「マナーの問題」
「赤ちゃんを連れて電車に乗るなんて非常識」

多くの場合、このことが話題に上ると、「理解できない人たち」は上記のようなことを主張します。そう、「主張」するのです。と、あえて書いたのは、そういうタイプに「自分には主張する権利がある」と考えている人が多いように見えるからです。極論だということも認めますが。

もちろん主張すべき権利はあって、どうしても必要なことについては主張することも必要でしょう。しかし、そうはいっても「泣いている赤ちゃんとその親を非難する権利が私にはある」という態度って、どうかと思うわけです。僕の目には、どうも幼稚に見えてしまうのです。

ここは社会です。社会には、自分とは違う考え方の人たちもたくさん存在しています。僕の周囲にだって、気の合う人がいる一方、苦手な人や、考え方が噛み合わない相手もいます。けれど大人である以上、そういう人たちともうまくやって行く必要があるのではないでしょうか。

そりゃ疲れますけどね。でも、仕方ないじゃないですか。自分だけで生きてるわけじゃないんだから。

でも、そういう意味において、「理解できない人たち」はちょっと視野が狭い気がするのです。

たとえば、前述した朝日新聞の特集内にあった以下の意見がその典型です。

なぜ大人の都合で赤ちゃんをレストランに連れて行ったり、満員電車にベビーカーで乗るのですかと言いたい。子育てをしましたが、レストランに連れていくことは遠慮しましたよ。

【ツイッターでつぶやかれた感想】
(朝日新聞11月6日(月)「フォーラム」欄より引用)

あくまで個人的な見解なので、そのすべてをみなさんに強制する気は毛頭ありません。ただ、僕個人は、このポストにはいくつかの問題点があると感じました。

まずは、赤ちゃんをレストランに連れて行ったり、満員電車にベビーカーに乗ることが、必ずしも「大人の都合」であるとは限らないということ。

たとえば、ベビーカーに乗せた赤ちゃんを連れたお母さんが、周囲のことなどそっちのけで必要以上のスペースを占領したまま、ずっとスマホで誰かと大声で話していたとか、そういうことであれば話は別です。そんなときは、僕でも注意をすると思います。

しかしベビーカーとともに電車に乗ってくるお母さんは多くの場合、とても気を使っているように見えます。それは当然のことだと思います。

本人だって、「ベビーカーと一緒に乗る権利がある」などと思っているはずがないからです。それどころか、申し訳ないと感じている確率が非常に高いと思います。だからこそ、そんなお母さんの気持ちをくんであげるのが、その周囲にいる大人のすべきことであるはず。

もうひとつ、この投稿者の発言で気になったのは「子育てをしましたが」という部分です。もしもそうなのであれば、なぜ「子育てをしている」人の気持ちが理解できないのか? そのあたりがよくわからないのです。

そこには、「私はこうだった」という狭い視野しかないように思います。極端な言い方をすれば、それは「私にできたこと」ができない人を、「なんでできないの?」と、一方的に否定していることにもなるでしょう。

でも実際のところ世の中は、この投稿者のように優秀な人ばかりが生きているわけではありません。考え方を簡潔に伝えられる人もいれば、自己表現がうまくない人もいるし、事情もそれぞれ違います。つまり「私」を基準に語れるものではないわけで、そこに矛盾を感じるのです。

そして最大の問題は、この人が「自分にも赤ちゃんだったことがある」という事実を忘れているか、あるいは棚に上げている点です。

よく言われることですが、赤ちゃんは泣くのが仕事です。だとしたら、それを温かく見守るのが大人の役割です。

個人的には、赤ちゃんの泣き声って少しもうるさく感じないし、むしろ(困っているお母さんには悪いけど)幸せな気分になってくるしなぁ……などと主張すると、「子どもが嫌いな人間だっているんだ!」という意見が出ても当然で、だからこそ難しいのですけれど。

しかし、それでも大人として、カリカリしない余裕は持ちたいものです。決して、子ども嫌いの人に喧嘩を売りたいわけではなく。

それはともかくとしても、僕はこうも思うのです。たとえ他人の子であろうとも、大人が泣いている赤ちゃんに温かい眼差しを投げかけることができるのは、潜在意識のどこかに「かつては自分も同じだった」という思いが残っているからなのではないかと。

もちろん、これだって単なる推測ですよ。でも、実際のところ、人間(他の動物も)ってそういうものじゃないかと思うんですよね。

人間、生きていれば、規則どおりにしたくてもできないことはいくらだってあります。「したくない」ことと、「したくてもできない」こととの差は大きく、しかも実際のところ「したくてもできない」ことのほうが多いのではないでしょうか? だから、そんな相手のことを思いやって生きて行くのが、社会人としての僕たちの役割なのではないでしょうか?

まして、百歩譲って親にも悪い面があったとしても、もうひとりの対象は「赤ちゃん」ですぜ。まだ自分でなにもできない(そう、泣くことだけしかできないわけです)赤ちゃん相手に怒りを露わにするって、ちょっとおかしくないでしょうかね? 僕には、そうとしか思えないのですが。

もちろん、この問題についてはさまざまな異論があることでしょう。ですからここに書いてきた考え方を一方的に押しつける気もありません。

しかしそれでも、僕はもうちょっと穏やかに生きたほうがいいのではないかと思えてならないのです。

だから、やはりこれは主張したい気がするんだよなぁ。「赤ちゃんが泣くのは当然なんだから、『泣いていいマーク』なんて必要ない」って。そんなものが必要になる世の中がおかしいんだって。

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著者

印南 敦史

作家、書評家、編集者。株式会社アンビエンス代表取締役。1962年東京生まれ。広告代理店勤務時代に音楽ライターとなり、音楽雑誌の編集長を経て独立。ウェブ媒体「ライフハッカー(日本版)」で書評欄を担当することになって以来、大量の本をすばやく読む方法を発見。以後、驚異的な読書量を実現する。著書に『遅読家のための読書術 情報洪水でも疲れない「フローリーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)ほか多数。

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