Facebook
Twitter
RSS

よみものどっとこむ

第12回

辞書はやっぱり必要だ

2017.11.29更新

読了時間

【この連載は…】めまぐるしくトレンドが変化する現代。改めて自分に必要なものは何かを見つめなおしてみませんか? 本連載では、作家・書評家の印南敦史さんが、大きなことから小さなことまで、日々の生活で気になった事柄をテーマに「なにが大切で、なにが大切でないか」を考えていきます。

「辞書を引かなくなってから、どのくらい経つんだろう?」

あるとき、ふと考えてみたのです。というより、いつの間にか引かなくなっていたという事実が、ずっと気にかかっていたと言ったほうが正しいかもしれません。

ってな話をわざわざ持ち出すまでもなく、同じように紙の辞書(以下、「辞書」と表記)を引かなくなってしまった方はきっと多いはずです。それは、いうまでもなくインターネットやSNSが普及したことの影響。わからない、あるいは知りたいと思う単語が出てきたとしたら、検索すればいいのですから当然の話です。ですから、もうすっかり検索する習慣が身についているという人も、決して少なくないことでしょう。

それって、純粋にいい習慣だなぁと感じることがあります。それだけの話です。なにしろ検索という手段がなかった時代には、ササッと調べる方法自体がなかったのですから。

いや、もちろん辞書を引けばいいのです。しかし実際問題として、いつも辞書を持ち歩くわけにもいきません(重たいからね)。しかもそれ以前の問題は、「そんな時代においても、すべての人が積極的に辞書を引いていたわけではなかった」ということです。

それどころか、「引かない人」のほうが多かったといっても過言ではないのかも……。そのころの時代の空気感を知っている立場からすると、なんとなくそんな気もします。

では、当時の「辞書を引かない人たち」は、知らない言葉が出てきたとき、どうしていたのでしょうか? これも推測の域を超えないのですけれど(でも間違いないだろうという確信めいたものもあるのですが)、おそらく「知らない状態」のまま、やり過ごしていたのではないかと思います。

「そりゃー、意味は知りたいよ。けどさ、わざわざ辞書を引くなんてめんどくさいじゃん」

きっと、根底にあったのはそんな想いです。疑問を抱えたまま、しかし辞書を引くこともなく時間を過ごしているうち、いつの間にかその疑問のことも忘れてしまう、というような感じ。身も蓋もない話ですが、現実的にそういう人は少なくなかったように思えてならないのです。

ただ、それはとても残念なことでもあります。辞書を引かないことによって、「知るチャンス」を失ってしまうわけですから。なんてことないようにも思えるかもしれませんけれど、「失われた疑問」が日常的に積み重なっていったとしたら(それは確実に積み重なっていくものです)、結果的に大きな損失になるはずです。

ところが検索という手段が誕生し、さらにはスマホが普及した結果、多くの人が辞書を引く必要なく、片手で知りたいことを調べられるようになりました。どう考えても、このメリットはとても大きい。

たとえば友だちや家族と話をしているとき、わからない単語や事柄が出てきたとしましょう。あるいは、誰かの発した言葉が本当に正しいのか、気になってしまうということもあるでしょう。浮かんだ疑問は少しでもはやく解決したいものですし、解決できないと話がそこから進まないというケースもあるはずです。

そんなとき、話を続けながら片手で検索できるのです。そして、数秒後には答えが見つかって解決できてしまうのです。やはり、それは画期的なことです。だからこそ、検索がもたらしてくれたものの大きさは否定するわけにいかないということ。

まず、それが大前提。しかし、それでも心のどこかに、ぼんやりとした違和感は残っていたのです。

たとえば検索窓に「辞書」と打ち込めば、小学館の「デジタル大辞泉」など、きちんとした辞書のデジタル版が出てくるのですから、情報の信憑性を疑う必要もありません。

でも、なにかが足りない。そこがずっと気にかかっていたので考えてみた結果、たどり着いたのは「質感」「充実感」「達成感」といった言葉でした。つまり、「辞書を引く」という行為、すなわちページをめくったりする動作なくして答えにたどり着いてしまうことに、漠然とした虚しさを感じていたことがわかったわけです。

それは、僕がものを書く仕事をしているからでもあるでしょう。ものを書いているにもかかわらず、考えてみればもうしばらく、辞書を引くことがなくなっていたのです。だから、「それは、プロとしてどうなのか?」という疑問が目の前に立ちはだかったということ。

しかも、そう思い至って気づいたのですが、数年前にはたまに手に取っていたはずだった数冊の辞書も、いつの間にかどこかへ消えていました。あれ、どこにやっちゃったのかなぁ?

でも、一度そのことに気づいてしまうと、もう気になってたまりません。

もちろんプロなのですから、辞書がなくても文章は書けます。知りたいことがあったら、ネットを利用すればいいのですし。

とはいえ、「プロだからこそ」、辞書を利用することを忘れるべきではないのではないか? そんな気持ちが頭から離れなかったこともまた事実なのです。プロとして果たすべきことを果たしていないような中途半端さが、そこにはあるような気がして。

そこで数年前、改めて辞書を買ってみることにしました。

ここまで書いてきたようなことは単なる考えすぎかもしれないし、そもそも時代と逆行している可能性もあるでしょう。けれども、そのことについて明確な答えを出すためには、昔のように辞書を引いてみる必要があると思ったからです。

購入したのは、岩波書店の「広辞苑」と、三省堂の「新明解国語辞典」。いうまでもなく、前者は辞書の王道。そして後者は、言葉に対する解釈や用例に独特の個性があることで有名な辞書。タイプの異なるこの2種があれば、「なんとかなる」のではないかと判断したわけです。

ひさしぶりに手にしてみた辞書は、手のひらにずっしりとした重みを伝えてきました。いや、新明解はともかく、広辞苑の重さにいたっては「ずっしり」どころの騒ぎではありません。やたらとかさばるし、手がかかりすぎる子どもといった印象です。

しかし、その子どもはとても賢いのです。どんなことでも教えてくれるし、活字を追っていると、しっかり頭に入ってくるような気がします。おかしな表現かもしれないけれど、辞書とやりとりをしているような印象を与えてくれます。

それはイメージに過ぎないのかもしれないけれど、でも、ネットで表層的に確認するのとでは明らかに充足感が異なります。

さらにいえば、決してめくりやすいとはいえない紙の質感、あるいは紙やインクの匂いも、懐かしい記憶を掘り起こしてくれます。そう、ページをめくるたびに、誰でも間違いなく経験している、小中学校のころの「辞書体験」が蘇ってくるのです。

そうなると、辞書を引くという行為がどんどん楽しくなってきます。そしてまた、「そういえば子どものころは、辞書を引くこと自体が楽しくて、いろんな言葉を調べたよなぁ」と懐かしい気持ちに包まれたり。

ひさしぶりにそんなことを体験した結果、ひとつの確信にたどり着くことができました。どれだけ検索が進化しようとも、辞書はやっぱり必要だということ。つまり今回は、「必要ない」ものの話ではなく、考え、そして体験してみた結果、「やっぱり辞書は必要だ」ということがわかったというお話なのです。

「辞書を引く楽しみ」が知的好奇心を呼び起こし、それが明確な知識として頭のどこかに刻まれるということです。

ちなみに先ほど、「検索に虚しさを感じるのは、僕がものを書く仕事をしていからだろう」と書きました。しかし本音を言うと、(辞書をまた引いてみた結果として)それは違うと断言できます。

もの書きであろうがなかろうが、わかりやすくいえば、子どものころに辞書を引いたことのある人であれば、また辞書を引いてみることでなにかを感じるはずだからです。

もちろん、検索するなという意味ではありません。僕だって検索と辞書を使い分けていますし、どちらも利用すればいいのです。そうすることで、1+1=2だったものが、それ以上になる可能性があると考えればいいわけです。

そこで、こんな時代だからこそ、あえて辞書を引いてみることを強くお勧めしたいと思います。たとえば、そのおもしろさを手っ取り早く理解したいのであれば、まずはスマホで検索してみて、同じ言葉を辞書で調べてみてはいかがでしょうか?

調べる言葉が同じものである以上、当然のことながら意味は重複するはずです。しかし辞書に目を通してみれば、“それ以上”のなにかをつかむことができるはずです。

と、ここまで書いて、ちょっと実験をしてみました。まず、スマホでグーグルを開き、「ヒップホップ」と検索。トップにはWikipediaの長ったらしい解説が出てきました。Wikiはネットの百科事典なんですから当然ですが、リンクをクリックしてまで読む気に離れませんでした。

次に出てきたのは、「はじめてのヒップホップダンス」とかいうYouTube動画。で、その次に「2016年ヒップホップの名曲30選! これが日本語ラップの最前線」という記事がヒットしました。

僕としてもちょっと意外だったのですが、「ヒップホップとはなにか?」という疑問にはなかなかたどり着けなかったわけです。

では、辞書はどうでしょうか? 「辞書にヒップホップなんか載ってるわけないじゃーん!」と思います? では、まず新しい言葉に敏感な新明解で引いてみましょう。

ヒップホップ[hip-hop]一九八〇年代にニューヨークの黒人の若者たちが生み出した音楽・絵画・ダンスなど一連の文化。ラップミュージック・ブレーク ダンス・落書きアートなど。

「ブレイク・ダンス」ではなく「ブレーク ダンス」、「グラフィティ・アート」ではなく「落書きアート」というあたりがご愛嬌ですが、いい線行ってるのではないでしょうか? 少なくとも「ヒップホップとはなにか?」という疑問はしっかり解消できます。

ただ、そこは新明解だから。さすがに広辞苑にヒップホップなんか載ってるはずがないよね……と思いきや、「ヒップ[hip]」のなかに組み込まれていました。

—ホップ【~hop】一九八〇年代前半のニューヨークでアフリカ系の若者の間から生まれた、新しい感覚の音楽・踊り・服装などを中心とする文化。

新明解よりはシンプルですが、これも「ヒップホップとはなにか?」に対する答えとしては申し分ありません。それに、たったこれだけのことでも、ものすごく楽しみがいがあります。

参考までにデジタル大辞泉で引いてみたら、

1970年代前半ごろから、ニューヨークの路上で始まった、音楽・ダンス・ファッションを中心とする黒人文化。建造物の壁や地下鉄の落書き(グラフィティアート)、アクロバットのようなブレークダンス、音楽面ではラップやスクラッチなど、貧しい若者たちがお金を使わずに楽しめる娯楽を生み出した。

と書かれていました。うーむ、さらにわかりやすいですなあ。「グラフィティアート」「ブレークダンス」「ラップ」「スクラッチ」にはリンクが貼ってあるし、たしかに便利です。

ただ、やはり「調べる」という肉体性が伴っていないぶん、圧倒的に足りないなにかがあるのです。「そんなの屁理屈だよ」と感じるのであれば、ぜひ紙の辞書を引いてみてください。多少なりとも、気づくことがあると思うので。

シェア

Share

著者

印南 敦史

作家、書評家、編集者。株式会社アンビエンス代表取締役。1962年東京生まれ。広告代理店勤務時代に音楽ライターとなり、音楽雑誌の編集長を経て独立。ウェブ媒体「ライフハッカー(日本版)」で書評欄を担当することになって以来、大量の本をすばやく読む方法を発見。以後、驚異的な読書量を実現する。著書に『遅読家のための読書術 情報洪水でも疲れない「フローリーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)ほか多数。

矢印