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よみものどっとこむ

第3回

電話は必要ない

2017.09.27更新

読了時間

【この連載は…】めまぐるしくトレンドが変化する現代。改めて自分に必要なものは何かを見つめなおしてみませんか? 本連載では、作家・書評家の印南敦史さんが、大きなことから小さなことまで、日々の生活で気になった事柄をテーマに「なにが大切で、なにが大切でないか」を考えていきます。

娘は小学6先生になってから、スマホをいじる機会が格段に増えました。子ども用のスマホなので機能も限られているのですが、どうやらLINEで友だちと意味もないやり取りをするのが楽しい様子。

あるとき、「どんなことをしてるの?」と見せてもらったのですが、驚くべきことにヘンなスタンプを順番にただひたすら送りあっているだけ。

ホントに意味ないじゃん!

つくづくアホだなぁと思いましたけれど、そんな「意味のないこと」が楽しいんですよね。気持ちはわかるわ。いつの時代だって同じです。

若い世代、特に思春期の子どもたちにとって、友だちと頻繁に(そして無意味に)連絡を取り合うことには、相応の意味があるわけです。意味がないことに意味があるといいかえてもよい。

その結果、調子に乗りすぎて度を越して、大人に叱られることもあるでしょう。けれど、いずれにせよ、大人の目からは無駄に見えるそういうことに、なにかの価値があるんでしょうね。かといってその価値がなにかを生み出すわけでもないでしょうけれど、それでもなんらかの意味がある。それは体験的にわかるから、個人的にはそれ自体を否定するつもりはないのです。

別にいい人ぶりたいわけじゃなくて。そもそもLINEは、僕もやってるわけだしなー(LINE自体はそれほどおもしろいとも思わないけど)。

しかしいずれにしても、そういう姿を見ていると、「時代の変化とともに連絡の手段も次々と変わっていくのだろうなぁ」と改めて実感せざるを得ません。

遠い昔にはパソコン通信があり、メールが浸透し、やがてmixiが支持され、そうかと思えばTwitterやFaceboookなどのSNSが台頭し、でも若い世代はLINEのほうが便利みたいで……という流れが現在につながってきたわけです。これから先は、また違った手段がお目見えするのでしょうしね。

それはそれで、至極当然のこと。だから嘆く必然性も感じないのだけれど、そうなってくると逆に、ちょっとばかり過去に懐かしさを感じたりもするのです。ネットもメールもなかった時代のことを。

特に思い出深いのは、10代だったころのこと。すなわち1970年代です。

「昔を懐かしがられてもなー」と思う方もいらっしゃるでしょうが、ひとつ重要なポイントがあります。つまり70年代でも現代と同じように男子は女子を好きになり、女子は男子からの連絡を待つということ。やっていることは、たいして変わらないのです。

違いがあるとすれば、いまと違って当時は連絡手段が著しく限られていたという事実。もちろん携帯なんかなかったし、固定電話でさえ、基本的には一家に一台しかなかったのですからね。

だから、好きな子に電話をするのもひと苦労だったわけです。しかも気持ち的には長電話をしたいのに、いつまでも電話を占領していると家族からディスられることになります。なにしろ一台しかないのですから。

で、電話越しに彼女といい雰囲気になっているときに限って、「こら、長いぞ!」とか「電話使うんだよ!」、「アンタ、いい加減にしなさいよ!」など、家族からの挑発的な言葉が飛び込んできたりするのです。

しかも敵はわざと受話器の近くで怒鳴ったりするものだから、状況を察した彼女の口から「あ、じゃあ……切るね。ごめんなさい」なんて言葉が出てきて、そこで会話が中断してしまったり。

「家電話の時代」を過ごした世代であれば、誰にも少なからずそんな経験があるのではないでしょうか? 長電話してたらお父さんから水をかけられたなんていう子もいたけど、そんなエピソードも含め、ちょっと甘酸っぱい記憶。青春の思い出の一端を、電話が担っていたといっても過言ではないわけです。

いま思うのは、「もしかしたらあのころは、めちゃめちゃ不便だったからよかったのではないか?」ということ。不便だからこそなんとかしようと思ったし、そこで失敗したりしたことが、いろんな意味での蓄積になっていったということ。そう考えていくと、便利であればあるほどいいというわけではない、という気がしないでもありません。

しかしそうはいっても現実的に、電話という通信手段は今後も確実に廃れていくことでしょう。誰が出るかわからない家の電話にドキドキしながらかけなくても、携帯にかければOK。それ以前に、LINEなどのSNSやメールを使ったほうが、気楽で穏やかに進むことも多いのですから。

だいいち固定電話であろうが携帯電話であろうが、電話で相手の声を確認し、その相手に対して伝えるべきことを伝えるという行為は、それだけで厄介でもあります。僕もそうだけれど、電話越しに人と話すとなると、少なからず緊張してしまうものですからね。ましてやコミュ障を自覚する人であれば、なおさら電話は避けたくなるものです。

それに、いまこれを書きながら思ったのですが、考えてみると僕はもうしばらく前から、家の電話が鳴っても出なくなりました。ほとんどが勧誘だから出るのは面倒だし、それでも連絡することが必要な人は、携帯のほうにかけてきてくれるわけだし。

だから実質的に、固定電話の存在価値の8割くらいはファックスだということになります。とはいってもファックス自体がもはやオワコンですし、こちらも大半が勧誘。

なぜか芸能事務所などへの連絡手段はいまだにファックスが主流で、電話で取材依頼をすると「詳細はファックスでお送りください。あ、メールではなくファックスで」などといわれることが少なくないのですが、それも時間の問題でしょうな。

つまり、どの角度からどう考えても、電話はもはや必要ないのです。

しかし、そう書いてはみたものの、「せめて公衆電話だけは残したほうがいいのではないか?」という思いも心のどこかにはあるのです。

数年前、13歳の女の子が下校途中に連れ去られ、何年も監禁された事件がありましたよね。あのとき、部屋から逃げでた女の子は、東中野駅の公衆電話から母親に助けの電話をかけたと聞いています。公衆電話があったからあの子は助かったわけです。

そう考えると、いくら電話のニーズが低くなったとはいえ、いざというときのライフラインとして公衆電話だけはなくしてはいけないのかもしれません。電話はもはや必要ないけれど、そこだけは話が別といいますか。

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著者

印南 敦史

作家、書評家、編集者。株式会社アンビエンス代表取締役。1962年東京生まれ。広告代理店勤務時代に音楽ライターとなり、音楽雑誌の編集長を経て独立。ウェブ媒体「ライフハッカー(日本版)」で書評欄を担当することになって以来、大量の本をすばやく読む方法を発見。以後、驚異的な読書量を実現する。著書に『遅読家のための読書術 情報洪水でも疲れない「フローリーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)ほか多数。

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