Facebook
Twitter
RSS

よみものどっとこむ

スポンサーリンク

第32回

自己責任は必要ない

2018.06.06更新

読了時間

【この連載は…】めまぐるしくトレンドが変化する現代。改めて自分に必要なものは何かを見つめなおしてみませんか? 本連載では、作家・書評家の印南敦史さんが、大きなことから小さなことまで、日々の生活で気になった事柄をテーマに「なにが大切で、なにが大切でないか」を考えていきます。

前々回に女性専用車両の問題を取り上げ、前回「ことなかれ主義」について考えてみたら、なんだか複雑な気分になってしまいました。「気がつけばいつの間にか、ギスギスした嫌な世の中になっちゃったんだなー」と感じずにはいられなかったからです。

女性専用車両にわざと乗り込んでことを荒立てるような人は、おそらく精神的に、もしかしたら金銭的にも、理由はさまざまでしょうが、いずれにしてもいろんな意味で余裕がないなのではないかと思います。

鉄道会社がそういう動きを、穏やかに見える表現でコーティングした「ことなかれ主義」でごまかそうとするのも、「面倒なことに関わるのは困るから」という余裕のなさの表れなのでしょう。

新宿駅で女性だけを狙って肩をぶつけて歩く男の動画がYouTubeにアップされていました。非常に不快でしたが、わざわざああいうことをしたがるのも、本人に余裕や自信がないからなのだろうと思います。あの男がカップルの女性を避けていたのは、まさに自信のなさの表れです(ダサいよね)。

そればかりか、いまや余裕のなさは、いろんなところで確認することができます。僕も先日、そういう場面に巻き込まれました。電車を降りようとしたらいきなり肩をドンと押されたので振り返ったら、怖い表情をした女の人がこちらを睨んでいたのです。もちろんなにもしていないし、その人がそこにいたことすら知らなかったのですが、なにかが彼女を誤解させたのでしょう。

そうでなくとも、満員電車には常に一触即発のピリピリした空気が流れています。タクシー運転手やコンビニの店員など、「立場的に手を出せない相手」を狙って嫌がらせをする人も増えているようです。もちろん昔もいたのでしょうが、ここ数年はそういう人がとても増えたような気がします。

しかしまぁ、もしかしたら僕だって、自分でも気づかないうちに人を不快にしているのかもしれないわけです。そう考えると偉そうなことは言えないのですが、それでも、「いつからこんな世の中になっちゃったのかなぁ」という思いは否めないのです。

昔はもう少し温かみがあった気がしますし、そもそも人がなにかをやらかしたときに「自己責任」などということが引き合いに出されることはなかった気がします。そしてこの言葉は、人の心を窮屈にしているとも思います。

自己責任については多くの人が考えを述べているので、いまさらどうこう言うことではないのかもしれません。しかしそれでも、この言葉が横行する世の中には違和感を覚えずにはいられないのです。

つい先日も、ある偉い方が「過労死は自己責任」などとバカげた発言をして炎上したらしいですね。こういう無責任なことを言いたがる人を生んでしまったのは、社会の責任なのかもしれません。

自己責任という言葉をよく聞くようになったのは、小泉政権が「聖域なき構造改革」を掲げたあたりからだったのではないでしょうか。もちろん異論もあるでしょうし、ここでは政治的な発言をしたいわけでもないのですが、個人的には皮膚感覚としてそんな印象を持っています。

また、その前後から一般化していった「成果主義」も、結果的には人と人との関係性を冷やすことになってしまったように感じます。たとえば労働意欲が高まるとか、成果主義にもそれなりのメリットはあるのかもしれません。しかし結果的には、「成果主義における敗者=自己責任のとれない人間」みたいなことになってしまったように思うのです。

そうそう、書きながら思い出しましたが、2004年に起きた「イラク日本人人質事件」で、人質になった3人の日本人があまりに無責任だったため、自己責任論が話題になったこともありましたね。

「国家に影響を及ぼすほど無責任なことをやらかし、それでいて助けられても態度は無礼。そんなやつらが殺されたとしても、そりゃー自己責任」だというわけです。

たしかにあの人たちの非常識な言動が、多くの人々を不快にさせたことはよくわかります。基本的には僕も同じ意見です。いや〜なものを感じましたし、彼らを擁護する気持ちは1%たりともありません。

しかし、だからといって「それで死んでも自己責任」と言ってしまうのもどうかと思うのです。フーテンの寅さんじゃないけれど、「それを言っちゃあおしまいよ」ってな感じ。

そういうことを言い出したらきりがないし、少なくとも彼らのしたことを追求するにあたって、追求する側は(たとえ彼らのバカさ加減に辟易していたとしても)あえて冷静に、知的になる必要があるように思うのです。

でないと結論を出すことはできないし、なんの解決にもならないからです。そこで自己責任という言葉を使って叩いたとしても、感情論と大して変わらない気がします。

それに、あのあたりから、そして東日本大震災を経てさらに、自己責任という言葉の意味が変化していったような気がしないでもないのです。そして、ここがとても重要なポイントだという気もしています。

誰かが自分のせいで失敗した → 自己責任

ここまでであれば、なんとなく理解はできます。「自分のせいで」失敗したのであれば、たしかにそれは自己責任だと言えるのかもしれないから。必ずしもそれがスマートな解釈だと思えるわけでもありませんが、そう捉えることは不可能ではないということ。けれど、いまの時代は違う解釈がまかり通っているような気もするのです。

誰かが失敗した → 自己責任

というように。

自分のせいで失敗したのならともかく、どんな失敗をしたとしても、理由を問われるより前に、「失敗」というだけですべてが自己責任になってしまうのだとしたら、さすがにそれは違います。そんなことを言いはじめたら、社会はさらにギスギスしていくばかりです。

いわば「自己責任」という言葉は、意味を履き違えると公開処刑のための武器になってしまうということ。

しかも多くの人が少なからず、心のなかで公開処刑を望んでもいる(多くの人はそんな意識に気づいていないのでしょうが)。だから結果的に、その武器が振りかざされることになるわけです。

そのことについて考えていった結果、ひとつのことに気づきました。自己責任とは、人からその有無を責められるようなものではなく、自分で自覚するものなのではないかということ。

「お前がコケたのは自己責任だよ」と言ってしまえば、それは相手を否定する口実になります。しかし本来なら失敗した本人が、「慰めてくれるのはありがたいけど、今回の失敗は俺の自己責任だよ」というように、“自分ごと”として使うべきものなのではないだろうかという考え方です。

もしかしたら的外れで、間違っているのかもしれません。けれど、これは大切なことだとも思っています。なぜなら、人から言われたのであればそこには不快感が生まれる可能性がありますが、自分ごととしてこの言葉を使った場合、それは反省でしかなく、「だったら二度と失敗しないようにしよう」という前向きな考え方ができるようになるはずだから。

そういう意味でも、「自己責任」は特定の誰かを指してではなく、反省するときなど、本人が自分に対して使うべきなのではないかと思うのです。少なくともそうすれば、公開処刑のような嫌な空気が生まれることは回避できるのではないでしょうか?

そうでなくとも、「自己責任だから自分でなんとかしやがれ」ではなく、困っている人には手を差し伸べたほうが気持ちはいいはずです。こういうことを書くと「偽善だ」などと言いたがる人も出てくるでしょうが、そうではないと僕には断言できます。

なぜなら過去に、人から手を差し伸べてもらったことで、精神的に楽になった=助けられた経験が何度もあるからです。

ただし重要なのは、それをさりげなくすること。「私はいいことをしている」というような意識が介在すると、その行動は一瞬にしてうさんくさいものになってしまうわけです。


  1. 0
  2. 1
  3. 2
  4. 31
  5. 32

スポンサーリンク

シェア

Share

著者

印南 敦史

作家、書評家、編集者。株式会社アンビエンス代表取締役。1962年東京生まれ。広告代理店勤務時代に音楽ライターとなり、音楽雑誌の編集長を経て独立。ウェブ媒体「ライフハッカー(日本版)」で書評欄を担当することになって以来、大量の本をすばやく読む方法を発見。以後、驚異的な読書量を実現する。著書に『遅読家のための読書術 情報洪水でも疲れない「フローリーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)ほか多数。新刊は『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)

矢印