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第33回

「いいことをしている」という意識は必要ない

2018.06.13更新

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【この連載は…】めまぐるしくトレンドが変化する現代。改めて自分に必要なものは何かを見つめなおしてみませんか? 本連載では、作家・書評家の印南敦史さんが、大きなことから小さなことまで、日々の生活で気になった事柄をテーマに「なにが大切で、なにが大切でないか」を考えていきます。
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前回は、「自己責任」という言葉についての考えを述べました。人が失敗しただけで「それは自己責任」と突っぱねる風潮が少なからずあるけれども、それはちょっと違うのではないかということです。

自己責任とは、誰かの非を責めるためにある言葉ではなく、むしろ自分に対して使うべき言葉なのではないかと思うからです。たとえば、「失敗しちゃったけど、これは自己責任だから自分でなんとかするよ」というように。

だいいち、なんでもかんでも「自己責任だから自分でなんとかしろ」と突っぱねるのもどうかと思うんですよね。無駄なことを考えず、やはり、手を差し伸べるべきときにはそうしたほうがいいのではないかということ。

困っている人がいたとしたら、自分にできることをしたほうがいいに決まっているからです。そうすれば、その人はなんらかの意味で「助けられる」ことになるでしょう。また、手を差し伸べた側も、「人を助けることができた」「役に立てた」という充実感のようなものを得ることができるかもしれません。

もちろん、充実感それ自体が目的ではありません。あくまで、それはあとからついてくるものです。しかしいずれにしても、人はそうやって(多くの場合は無意識のうちに)助けたり助けられたりしながら、関係性を維持していくものなのだろうと考えるわけです。

それは、いたって当たり前のことですよね。ただ、その“当たり前のこと”が、いつの間にか当たり前でなくなっているのも事実ではないでしょうか。だからこそ原点に立ち返り、助けたり、助けられたりするのも悪くないのではないかと思うのです。

とはいえ、「助けたり、助けられたり」はちょっとばかり厄介なことでもあります。前回はそのことに少しだけ触れて終わりましたが、つまり、そういうことは「さりげなく」する必要があるからです。

なぜなら「私はいいことをしている」というような自覚的な意識が紛れ込んでしまうと、それはとてもいやらしいものになってしまうから。

そして、これはあくまで個人的な感覚なのですけれども、おそらくは無意識のうちに「自分はいいことをしている」と感じ、そのことに満足している人は少なくないように感じます。

えーと、いちいち「そういうタイプ」などと書くとめんどうなので、ここでは彼らのことを「いいことさん」と呼ぶことにしましょう。

僕の周囲にも何人か思い当たる人がいるのですが、「いいことさん」には共通する部分があります。

まずはポーカーフェイスであること。もちろん感情を表に出さないことは悪いことではなく、それどころかコミュニケーションを円滑に進める可能性も充分にあります。でも「いいことさん」の場合、ちょっと違うのです。

感情を出さず、穏やかにニコニコしていて、もちろん困っている人がいたら手助けをして、場合によってはボランティアなどにも積極的だったりするのですが、「いいこと」をしている自分がいちばん正しいという意識が、心のどこかにあるのです。

本人でもないのに、なぜ断言できるかといえば、それが外側からでもはっきりわかるからです。そして「自分がいちばん正しい」からこそ、誰かから反対意見を言われたり、問題点を指摘されたとしても、曖昧な笑顔でやりすごすだけ。

でも、そういう態度って、特定の人を不快な気持ちにするものでもあります。ですから結局は、本人も気づかないうちに軋轢を生んでしまったりすることもあるわけです。

そして最大の問題は、上記したように「いいことさん」は「いいことをしている自分」が大好きだという点です。しかも本人のなかに、「これでいいのだろうか?」というような問題意識が生まれることはないと思います。なぜならそれは「いいこと」なのですから。

でも、それがいちばん厄介でもあるのです。

たとえば前にも書いたことがありますが、僕は足が悪く、なかなかスムースに歩くことができません。だから「なんとかしたいものだなぁ」と思いながら生きているわけですが、そんななか、「いいことさん」の反応に悩まされることは少なくないのです。

僕のような人間にとって、いちばん精神的に楽なのは、「そのまま」でいてもらうことです。特に手を差し伸べてもらう必要はないし、心配してもらう必要もなく、むしろ、そうされると精神的なプレッシャーを感じてしまうのです。

だから、放っておいてもらったほうが気は楽だし、放っておいてもらえると逆に配慮を感じます。そういう人は、特別扱いされることの居心地の悪さを理解しているからこそ、放っておいてくれるわけです。だから、こちらも助かるのです。

ところが、「いいことさん」はそんなとき、ここぞとばかりに気を遣ってきます。もちろん、「相手が気を遣ってくれているんだから、そんな感じ方は不謹慎だ」という意見もあるかもしれません。

しかし、僕のような立場にある人間にとって、現実的にそれは「重たい」のです。

「大丈夫ですか?」と声をかけられたとしても、「大丈夫です」としか答えられないし、手伝ってもらえるようなことはないのです。自分で歩くしかないので、放っておいてほしいのです。

ひどいときには「かわいそう」などと言われることもあり、さすがにそんなことを言われると、「かわいそうなんて言われる筋合いはねーや!」という気持ちにもなってしまいます(黙ってますけど)。

素直じゃないかもしれないけれど、でも、それは純粋な気持ちです。そして、やはり「いいことさん」のそういう振る舞いには、どうしても神経を逆なでされてしまうのです。

なぜか? 簡単なことです。「いいことさん」にとっては「いいことをしている自分」が重要であり、相手は二の次だからです。反対意見もあるでしょうが、たくさんの「いいことさん」と接してきた経験があるからこそ、僕にはそう断言できます。

先にも触れたとおり、困っている人がいたら、手を差し伸べるべきでしょう。自分にできる範囲で、助けてあげればいいということ。

ただしそのとき、大切なことが2つあると思います。まず最初は、純粋に、相手の気持ちになってみること。もちろん相手の気持ちを完璧に判断するのは難しいことです。でも、自分にできる範囲で、「相手がなにを望んでいるのか」を感じ取り、そのうえで「するべきこと」をすればいいのです。できるのは小さなことかもしれませんが、それでいいのです。大小の問題ではないのですから。

そしてもうひとつは、前回にも触れましたが、「さりげなくする」こと。そして、「求めない」ことです。

さりげなくするからこそ、気持ちは相手に伝わるものです。でも、「いいことさん」の多くは(すべてがそうだとは言いませんけれど)立ち回りが過剰です。それは、自分でも気づかないうちに精神的な見返りを期待しているからであるように、僕の目には見えます。

だから、言いたいのです。

「いいこと」をすることにはとても価値があります。それが、コミュニケーションを円滑にすることも大いに考えられます。

しかし、「いいこと」自体が目的になってしまうと、とたんに話がおかしくなってきます。目的化したとたんに、それは特別なものになってしまうからです。

それは本来、さりげなくカーディガンを羽織るような感覚でするべきものだと思うのです。まったく特別なことではなく、過度に意識したり、見せたりする必要はないのです。

そこを履き違えてしまうと、いろいろ不都合が生じてくるような気がしてなりません。だから、「いいことをしている」という意識はなるべく捨てるべきだと僕は感じます。

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著者

印南 敦史

作家、書評家、編集者。株式会社アンビエンス代表取締役。1962年東京生まれ。広告代理店勤務時代に音楽ライターとなり、音楽雑誌の編集長を経て独立。ウェブ媒体「ライフハッカー(日本版)」で書評欄を担当することになって以来、大量の本をすばやく読む方法を発見。以後、驚異的な読書量を実現する。著書に『遅読家のための読書術 情報洪水でも疲れない「フローリーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)ほか多数。新刊は『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)

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