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第36回

中途半端な善意は必要ない

2018.07.18更新

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【この連載は…】めまぐるしくトレンドが変化する現代。改めて自分に必要なものは何かを見つめなおしてみませんか? 本連載では、作家・書評家の印南敦史さんが、大きなことから小さなことまで、日々の生活で気になった事柄をテーマに「なにが大切で、なにが大切でないか」を考えていきます。

西日本を中心とした地域に大きな被害をもたらした豪雨の話題が、いなまおメディアを賑わせています。気になるのは被災者の生活ですが、なにしろ連日のこの暑さです。被災者の方々のつらさは、僕らの想像を超えるものだろうと思わずにはいられません。

被災地への義援金や支援金の受付も始まっていますし、間接的にでもなんとか協力したいところですね。

ところで個人的にはもうひとつ、初期の報道のなかに違和感、いや、抵抗感を拭えないものを見つけたことが気になっています。倉敷市が支援物資の受け入れを休止したというニュース。見ていない方もいらっしゃるかもしれませんので、念のため引用しておきます。

今回の豪雨で大きな被害を受けた岡山県倉敷市は、全国から食料や服などの支援物資の提供を受け付けていましたが、避難所などへの配送作業が滞っているとして、支援物資の受け入れを一時的に休止することにしました。
岡山県倉敷市では、全国の企業や市民から食料や服などの支援物資の提供が相次いでいます。

市では、提供を受けた物資を広い範囲が水につかった真備町箭田にある真備総合公園の体育館に集めていましたが、物資を置くスペースが足りないことや、仕分けする職員が足りないことなどから、避難所への配送作業が滞っているとして、10日から支援物資の受け入れを一時的に休止することを決めました。

倉敷市は「被災者のニーズと合っていない秋冬の衣服などの提供も多く、避難所のスペースを圧迫してしまっている。今後、必要とされている物資をしっかり届けるためにも休止に理解してほしい」と話しています。(2018年7月10日 16時52分 NHK NEWS WEBより引用)

この記事を目にしたときに蘇ってきたのは、かつて自分自身の身に降りかかった、とても嫌な出来事の記憶でした。

以前、第18回「『がんばってください』は必要ない」にも書きましたが、僕は高校2年生の秋に、生活に関するすべてを失いました。祖母の火の不始末で、家が全焼してしまったからです。

子どものころの写真など、どれだけお金をかけても買えないものも燃えてしまったわけですが、それ以上に衝撃的だったのは「いきなり住む場所がなくなった」という現実です。きのうまでは、今朝まではなんともなかったのに、そんなことが起きるんだ、って。

その日、僕はいつものように家を出て学校に行き、「授業だりー」とか思いながら席についていました。でも体調が悪いわけではないのに妙に落ち着かず、耐えられなくなったので3時間目が終わったところで早退しました。いま思えば、あれは虫の知らせだったわけです。

それはともかく早退してみたら、数時間前まで静かにあったはずの家が黒煙をもうもうと上げながら燃えていました。

その光景と、口を半開きにして眺めている野次馬の群れを目にしたら、「もう、これは仕方がないんだな」と妙に達観してしまいました。ともあれ、そのときから「即席ホームレス」になってしまったわけです。

幸い、近所の人が使っていない部屋を解放してくださったので、そこで暮らせることにはなりました。焼け残った荷物は、別の家に運び込まれました。

実は翌日から修学旅行に行く予定だったのですが、当然ながらそんなものに行けるはずがありません。予定を変更し、翌日からは荷物の整理やがれきの処理などに明け暮れることになったのでした。

そんな経験をしたので、東日本大震災が起きたとき、被災者の方々の苦労がわかる気がしました。もちろん震災と一軒の家の火事では規模が違いすぎるかもしれませんが、「住むところがなくなり、生活するために必要なものがなくなる」という意味においては共通していたからです。

だから今回の西日本豪雨に被害を受けられた方々の気持ちも、やはり理解できるのです。そして、だからこそ上記の報道には憤りを感じずにはいられなかったのです。

ちなみに僕の記憶を呼び覚ましたのは、「被災者のニーズと合っていない秋冬の衣服などの提供も多く、避難所のスペースを圧迫してしまっている」という部分でした。

こんな暑い時期に秋冬の衣服を送ってくる人の神経は理解できませんが、同じような経験を、あのとき僕はしたのです。だから、そういう無神経な人がいることにも納得できたわけです。

制服で学校から戻ったあの日、着るものがなくなった僕は親からお金を受け取り、おばちゃんがひとりで経営している近所の洋品店で服を買いました。お金が足りなかったわけでもないのになぜ、面識もないそんな店で買ったのか? 駅前まで行けば、もっといいものが買えたはずなのに。

簡単なことです。つまりは精神的に余裕がなかったのです。

そりゃー17歳ですから、少しでもいいものは着たかったに決まっています。が、そこまで頭が回らなかったというか、とりあえず、今日をしのぐことができればいいとしか思えなかったということ。だから時代遅れのブーツカットのジーパンと、無地のシャツを買ったんだったかな?

「大変だろうけど、これ、使って」

事情を説明したら、帰りがけにおばちゃんがハンカチをくれました。なんだか、妙に泣けてきたのを覚えています。

というわけで、着るものなんかに余裕を持てないまま、僕はずっと荷物の処理をしていました。ただでさえピリピリしているのに、神経を逆なでするようなことが起こったのは、それから数日後のある日のことでした。

ありがたいことに、続々と「支援物資」が届くのです。それ事態は感謝すべきことでした。しかし、あるとき大人がひとり入れそうな大きさのダンボールが届いたとき、僕のなかでなにかがプチッと切れました。

出てきたのは大量の衣料品でした。

すすけてヨレヨレのTシャツとか、田舎のヤクザでも着ないだろうというような時代遅れのシャツとか、変色した下着とか、そんなものばかり、ダンボール一杯分。

送ってくれた人は、「いいことをしよう」と思ったのでしょう。きっと、第33回「『いいことをしている』という意識は必要ない」で書いた「いいことさん」のしわざです。それはわかります。でも、聞きたいのです。

「果たしてあなたは、こういうシミだらけのTシャツや下着を身につけられますか?」って。

不謹慎だと言われそうですが、それは外野の立場からの意見です。それを贈られた人の気持ちを理解できていない人の意見です。

善意って、そういうものじゃないと思うんですよ。

「それを受け取った時、相手はどう感じるのか?」

そこまでイメージできない限り、中途半端なことをすべきではない。なぜならそれは実態のない、それどころか、もっと失礼な行為になってしまう行為だから。

もちろん善意は大切です。でも、善意を示そうという意思があるのなら、「自分が同じことをされたとしたら、どう感じるだろう?」ということを真剣に考えてから実行すべきです。

でないと、その行為は逆に、とても失礼なものになってしまう。

だからこそ、倉敷市で起こったことに憤りを感じたのです。自分の経験が軸になっているからこそ、中途半端な善意は必要ないと感じてしまうのです。

だって、同じ人間じゃないですか。

中途半端な善意は、人を傷つけます。


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著者

印南 敦史

作家、書評家、編集者。株式会社アンビエンス代表取締役。1962年東京生まれ。広告代理店勤務時代に音楽ライターとなり、音楽雑誌の編集長を経て独立。ウェブ媒体「ライフハッカー(日本版)」で書評欄を担当することになって以来、大量の本をすばやく読む方法を発見。以後、驚異的な読書量を実現する。著書に『遅読家のための読書術 情報洪水でも疲れない「フローリーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)ほか多数。新刊は『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)

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