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それはきっと必要ない 曇った思考がクリアになる”絞り込む”技術 印南敦

第44回

オンライン新聞は必要なのだが……

2018.09.19更新

読了時間

めまぐるしくトレンドが変化する現代。改めて自分に必要なものは何かを見つめなおしてみませんか? 本連載では、作家・書評家の印南敦史さんが、大きなことから小さなことまで、日々の生活で気になった事柄をテーマに「なにが大切で、なにが大切でないか」を考えていきます。
「目次」はこちら

以前、「新聞は必要だ」というテーマを取り上げたことがあります。

・紙の新聞(以下、新聞と表記)の購読者数が減り、部数も激減している
・「ニュースなんかスマホでチェックできるじゃん」という人が増えている
・たしかに「速さ」では、新聞はウェブメディアに勝てない
・しかし新聞には、ウェブにはない強みがある
・たとえば、「経験」「企画力」「ノウハウ」「編集力」
・それらは、ネットニュースのヘッドラインだけでは伝わらない説得力を生む
・また新聞には、ネット上で公開されない情報も多数掲載されている
・よってページをめくっていると、予想外の記事と出会うことができる

簡単にまとめると、あのとき主張したかったのはこのようなことです。気持ちはいまも変わりません。時代がどうであれ、部数が減っていようとも、それでも新聞は読んだほうがいいからです。

もちろん、読んだからすぐになにかが手に入るというわけではありません。しかし「毎日、新聞を読む」という行動の蓄積は、長期的にみて必ず効果をもたらすものなのです。いや、「効果」なんて表現したら、即物的に聞こえてしまうかもしれないな。

要するに、新聞を読む習慣をつければ、いろいろな「ストック」が得られるということ。たとえば理解力だったり、情報の選択力だったり、フラットな判断力だったり。

だからいまでも、新聞は読むべきだと考えているわけです。

ただし、このことに関する前回の記事から半年を経て、ちょっと考え方に変化が生まれてもきました。いや、「やっぱ新聞なんか読む必要ないよー」ってことが言いたいわけではなく、もっと本質的な、そして非常に深刻な問題。

まずお断りしておきたいのは、オンライン新聞は「あっていい」ということです。なーんて書くと、「前に言ってたことと違うじゃん。矛盾してる」と思われるかもしれません。しかし、そうではないのです。

表現が難しいのですが、僕はオンライン新聞を頭ごなしに否定したいわけではないのです。だいいち、もしも僕ひとりが全面的に否定してみせたとしても、決してどうにかなるものではありませんし。

それが時代の流れである以上、肯定し、受け入れるのが最適の手段だということ。紙の新聞はあったほうがいいと思いますけれども、それとこれとは話が別です。

現代を生きる僕たちは、時代の変化としてのオンライン新聞を受け入れるべきだと考えるのです。その昔、瓦版が新聞に進化していったときと同じように。いわば、これは正常な進化なのです。

ですから、「オンラインで新聞を読んでいる人が90%で、紙の新聞を読んでいる人はわずか10%」なんていう時代が訪れるのは、そうそう先の話ではないかもしれません。あと数年もすれば、それが現実になっている可能性は大いにあります。

なぜって、メディアは変遷していくものだからです。そう考えれば、オンライン新聞が「普通」になっていくことは健全なことであるわけです。

ただし、現時点ではそこに「健全でない」部分があります。僕は、そこを危惧しているのです。

オンライン新聞が主流になるというのなら、それはそれでけっこうなことです。しかしそれは、健全性が保たれていた場合に限っての話です。そうでなければ、その存在自体がアンバランスなものになるから。

そして、その問題に焦点を当てた場合、直視すべき重要な問題点は「現在」にあります。現時点で、アンバランスであることの弊害がはっきりと出てきているからです。

以前にも書いたとおり、各新聞にはそれぞれ「色」があります。たとえば主要5新聞についていえば、朝日と毎日はリベラル、産経と読売が保守、日経がそれらの中間よりもやや保守寄りというような感じ。

しかし色があるならば、各媒体は自身の色が伝わりやすいようになんらかの策をとるべきです。そうでないと、読者に対して自社媒体の正確なイメージを伝えることはできないからです。

いっぽう我々は、フラットに与えられた情報をフラットな状態で受け取り、比較し、そこから自分の価値観を形成する必要があります。そして、そこから導き出された答えを参考にしながら、自分の価値観に見合った媒体を選ぶべきなのです。

「僕はリベラルだから朝日を読む」とか、「保守こそ真実だから読売を選ぶ」とか。

当然のことながら、どれを選ぶかは各人の価値観や判断基準によります。たとえば僕はリベラルな人間ですが、だからといって右寄りの人を否定しようとも思いません。

それはその人の考えであり、僕のそれとは違うというだけのこと。否定する権利は僕にないし、僕の思想を否定される筋合いもありません。すなわち、いろんな意見があってこそ社会だということです。

だとすれば求められるのは、それぞれの考え方や主張に見合った新聞を、すべての人がフラットに読める環境です。

「まだ知識のない人」は、そういう恵まれた環境のなかから、自分に近い考え方を見つけるべきだからです。

ところが、そこに大問題があるのです。

スマホやパソコンからインターネットにアクセスすれば、僕たちは各社が発信するニュースを即座に確認することができます。しかし問題は、それらが新聞全体のうちの一部にすぎないということです。

「すべて」ではないのです。各社は、自分たちが抱える情報の一部を提供しているにすぎないのです。

そんななか、産經新聞“だけが”、無料で無制限に読める環境にあります。

もし、朝日、毎日、読売、産経、日経の各紙をすべて同じ条件で読めるのであったとしたら、読者はそれらのなかから、自分により近い考え方を見つけ出すことができるでしょう。それが、“健全な”状態です。

しかし産經新聞しか読めないのであれば、大きな問題が生じてしまいます。というより、もうすでに生じてしまっています。

つまり、ひとつひとつの新聞に主張があるということを知らない人にとっては、無料でいつでも読める「産經新聞=新聞」ということになってしまうわけです。

彼らをばかにしているわけではありません。でも新聞に関する情報を持たない人であるなら、そういう思考に進んでいくのは当たり前のこと。それ自体が“健全”だということになってしまいます。

そして、それを読んだ人が政治的なことをあまり知らなかったとしたら、「なるほど、そうなのか」と、「産經新聞に書かれたこと=新聞に書かれていたこと」「産經新聞=新聞」という思考になってしまっても無理はありません。

鶏は鳥ですが、すべての鳥が鶏だというわけではありません。
同じことが起きているのです。

でも、それは非常に恐ろしいことです。

産經新聞以外の新聞が保身に走ることによって、「いろいろな媒体があり、いろいろな考え方がある」という“あるべき姿”が見えなくなるのです。

行政書士をしている従兄弟から「客観的に見て、右寄りの若い人は確実に増えている」という話を聞き、妙に納得したことがあります。いや、だからといって、すべてを産經新聞のせいにする気はありません。

しかしそれでも、「新聞は無料で読めるもの」と考えている若い子たちが政治的論争に巻き込まれたとき、「だって新聞に書いてありましたから!」と、ネットで読んだ産經新聞だけを拠りどころにして反論する可能性は多いにあるわけです。

もしも僕が彼らだったとしたら、同じようにそうしていたのではないかという気もします。

でも、それではいけない。なぜって、フラットではないから。客観性が欠如しているから。

だから産經以外の媒体は、早急になんらかの策を考えるべきです。

繰り返しになりますが、僕は産經新聞をディスるためにこれを書いているわけではありません。好きか嫌いかと問われれば嫌いですが、それはこの話題とは関係のない感情論。むしろ、ここでディスるべきは産經以外の全新聞です。

ともあれそんな理由があるからこそ、「ネット新聞はあるべきだけれど、フラットな状態をつくることが最優先されるべき」だと強く思うのです。

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著者

印南 敦史

作家、書評家、編集者。株式会社アンビエンス代表取締役。1962年東京生まれ。広告代理店勤務時代に音楽ライターとなり、音楽雑誌の編集長を経て独立。ウェブ媒体「ライフハッカー(日本版)」で書評欄を担当することになって以来、大量の本をすばやく読む方法を発見。以後、驚異的な読書量を実現する。著書に『遅読家のための読書術 情報洪水でも疲れない「フローリーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)ほか多数。新刊は『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)

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